「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2018年05月21日

ハリー&メーガンの結婚式: We must discover loveというシンプルで力強いメッセージ

英王室には特段の興味はないが、「英国の儀式」類を見るのが好きなので、ハリー&メーガンの結婚式もネット中継で見ていた。式の日取りが告知されて以降の、まさに「フィーバー」としか言いようのない熱狂的な報道は、「政治家は式に招待されない」というこっち系の話題を除いては見出しを見るくらいしかしていなかったので、詳しいことは知らなかったが、それでも式がウィンザーで行われることとか、メーガンさんのお父さんが式に出るの出ないので話が二転三転していたこととかは(最終的には「健康上の理由で断念」ということになり、花嫁の手を取って祭壇に向かう「花嫁の父」役は、新郎の父であるチャールズ皇太子がつとめることになった、ということも含めて)把握できていた。

というか、今回のロイヤル・ウェディングに関する英国の報道は、本当に「熱狂的」としか言えないレベルで、普段から「王室大好き」をアピールしまくっている大衆紙の報道には基本的に接していなくても、正直、うんざりするレベルで騒ぎが展開されていた。きっとネット時代、英国のメディアにとっては、(国外からも)大変に多くのクリック数、view数が見込める貴重な「コンテンツ」なのだろう。どのくらいの大騒ぎだったかというと、伝統的に共和主義(王政廃止論)の新聞であるガーディアンが、特設コーナーを作っていたほど……というか、ガーディアンはウィル&ケイトのときに共和主義の魂を売り渡して熱狂して旗をぱたつかせるようになったので、今さら驚きもしないか。

しかし今回のガーディアンはウィル&ケイトのとき(+その翌年の女王のダイヤモンド・ジュビリーのとき)より、さらにひどかった。申し訳程度に共和主義者/王政廃止論者(Republicという団体)の記事は出ていたが、ほぼずっと熱狂しっぱなしだった。式が終わった翌日になってもまだ熱狂しっぱなしで、トップページの特設コーナーには「こんなに記事いらんだろ」というくらいたくさんの記事が並んでいる……どころか、クリックしようと思ってポインターを合わせると、新婚カップルの上にガーディアンのロゴの入った紙吹雪が舞うようになっている! (・_・)



と、まあそんな感じで私は東京で呆れて、こんな顔→ (^^;) をしているのだが、今回の式が予想に違わず、というより予想をはるかに凌いでぶっとばすレベルで、すごくおもしろかったことは事実である。英王室があれをやったというインパクトは、でかい。マーティン・マクギネスと女王が握手したとか、女王のウィンザー城での宴にマーティン・マクギネスが招待されたとか、チャールズ皇太子がジェリー・アダムズと握手したとかいったことに匹敵しそうなくらいのインパクトを、私の中に残した。「それ、やっちゃうんだ……王室が!」的な。

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2018年05月09日

「ずっと一緒にいようねと言ったのに」という歌で、アイルランドがユーロヴィジョンに勝ち残る。

何年ぶりだろうか。毎年恒例、広域欧州+αの国別対抗歌合戦ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト (#Eurovison) のセミ・ファイナル(と呼ばれる予選ラウンド)を、アイルランド(以下「あたしのアイルランド」)が勝ち抜けて、5月12日(日本時間では13日未明あたり)に行われるグランド・ファイナルにコマを進めた。

今年のあたしのアイルランドの代表はRyan O'Shaughnessyというアコギ1本持って歌うシンガー・ソングライターで、曲はTogether. 歌詞はこちら(折りたたまれているのをクリックで表示させてください)。



※なお、Ryan O'Shaughnessyには「ライアン・オショーネシー」というカタカナが当てられているし、そう聞こえる場合もあるのだが、本人の発音(リンク先冒頭)ではghを発音していて「オショーフネシー」というように聞こえる。この辺はアイルランド島の中でも地域差などがあるのかもしれない。

「何年ぶりだろうか」と思って検索すると、すぐにIreland in the Eurovision Song Contestというページが見つかるのが、英語圏の情報の分厚さである。前回、あたしのアイルランドがグランド・ファイナルに進んだのは2013年、Ryan Dolanという歌手の "Only Love Survives" という曲だ(曲名自体がものすごいユーロヴィジョン的)。



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2018年05月05日

バスク武装組織ETAの解体(北アイルランド和平関係者が式典に出席)

バスクのETAが解体したということを、5月4日に日本語圏のニュースで知った。英語圏では月初には既に伝えられていたようだが、私は気づかなかった。英語圏の報道は相変わらずトランプがどうのこうのというゴシップめいた記事満載で(今月に入ってからは、大統領選前に「トランプはすっごい最高に健康、めっちゃ健康すげぇ」みたいな医師の診断書が出ていたが、それはトランプ自身が口述筆記させたものだった、新たに弁護士になったルディ・ジュリアーニが、ストーミー・ダニエルズへの口止め料についてトランプの説明と矛盾することを言っているとかいうので大騒ぎ。今日もまたNRAの集まりで「ロンドンはナイフ殺人がすごいですよ、まるで戦場」とか言ってるっていうのでトップニュース。ばかばかしい)、いきおい、ニュースチェックが雑になってしまう。さらに、こういうどうでもいいゴシップ(に見えるけど、トランプの方針の一部……「常にニュースになっていること」自体が目的だから)に、天変地異系ニュースなどに比べれば緊急性は劣るがニュースとしては比較的重要なトピックが、埋もれるか流されるかしているので、「報道機関のサイトのトップページを見て、その日のニュースをチェックする」というやり方では見落としが多くなってしまって困る。かといってTwitterではどうしてもアメリカのユーザーが多いから話題も「アメリカ」寄りになりすぎて、実際には「米国内では重大なニュースなのかもしれないけど、うーん……」というものを「普遍的重大ニュース」と誤認してしまうこともあり、いろいろと悩ましい。

ともあれ、ETAである。

テロ組織「バスク祖国と自由」解体宣言 800人超殺害
パリ=疋田多揚2018年5月4日21時25分
https://www.asahi.com/articles/ASL545GVQL54UHBI01M.html
 半世紀にわたりスペイン・バスク地方の分離独立を主張してテロを重ねてきた武装組織「バスク祖国と自由」(ETA)が3日、組織を完全に解体したという「最終声明」を出した。

 ……

 ETAは、スペイン北部からフランス南部に広がるバスク地方の独立を求める組織。1959年に結成され、68年からテロを始めた。政治家や警官、市民ら800人超の命を奪ったテロ組織だが、近年は当局による摘発強化で弱体化が進み、11年には武装闘争の最終的な停止を宣言。先月には地元紙に、これまでのテロの犠牲者に謝罪する声明を寄せ、解体は間近とみられていた。


50年も武装活動を行ってきたETAによる死者数が「800人超」というのを「案外少ない」と感じてしまうのは、昨今の所謂イスラム過激派の異様な殺戮が当たり前になってしまったせいではなく、北アイルランド紛争の約30年間にIRA (PIRA) が1705人も殺害していることと、無意識に比較してしまうからだ(ちなみにロイヤリスト側は諸組織合計して1027人を殺している。英当局と警察は、UDRも入れて361人)。当事者にとっては、そんなことはどうでもいいことで、私のような完全な部外者が「少ない」という馬鹿げた感想を漏らすことも、耐え難いことだろう。

だが、バスクの和平プロセスには、一足先に和平プロセスを開始した北アイルランドの当事者たちが深く関わってきたのであり、ここで北アイルランドと比較してしまうことは「無関係なものを持ち込んでいる」と非難されるべきことでもない。というか、和平プロセス以前にいわゆる「武装闘争」の時代から、IRAとETA(およびそれぞれの政治組織)は強く結びついてきた(「共闘」の関係にあった)。

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2018年04月11日

20年前、北アイルランド和平プロセスが始まった(グッドフライデー合意の署名から20年)〜当時の日本の報道は

昨日、2018年4月10日に、北アイルランド紛争を終わらせた和平合意(グッドフライデー合意こと、ベルファスト合意: 以下、GFA)が、20歳のお誕生日を迎えた。

今から20年前の1998年4月10日、米国のジョージ・ミッチェル上院議員(元)が仕切り、英国のトニー・ブレア首相とアイルランド共和国のバーティー・アハーン首相が調整を行うなどして持たれていた北アイルランドの複数政党・政治団体間交渉の場で、合意文書が署名された(元々の期限は9日だったが、それを突破して翌日にずれ込んだ)。

「複数政党間交渉」といっても、この合意のベースに反対していた極端な人たちは関わっていない。彼らは交渉の場の外で「合意反対」のデモを行っていた……その強硬な反対派が、2003年以降北アイルランド自治議会・政府で第一党となり、2007年以降は別の合意をベースにして、GFAが決めていた権限分譲(パワー・シェアリング)の自治政府に参加してきたが、2017年にその自治政府が崩れて自治議会の再選挙が行われたあとは、GFAが決めていたアイルランド語の公用語化に対する抵抗を理由・口実として自治議会・政府の再起動を阻み、一方で、Brexitに向けて議会の意思統一を図るためという愚かな判断でばかげた総選挙をした結果、英国会下院での単独過半数を失った保守党が、議会運営に必要な数を確保するために非公式な(事実上の)パートナーとしているDUPである。(一文が長い。)

ともあれ、「GFAの20歳のお誕生日」を記念して、北アイルランドではいろいろな主催者がいろいろなイベントを行った。中でも目玉となったのが、ベルファストのクイーンズ大学が主催した、交渉と和平の当事者たちによるパネルディスカッションである。招待客オンリーのイベントだったが、イベント会場から何人かのジャーナリストや学者がライヴ・ツイートし、また冒頭のジョージ・ミッチェルによる基調講演と、ビル・クリントン、トニー・ブレア、バーティー・アハーンの当時の米英アイルランド3カ国首脳を迎えて行われた第3部(進行はミッチェル上院議員)はクイーンズ大学がFacebookの機能を使って生でネット配信していたので(アーカイヴもされているから、いつでも再生可能)、私もここ東京の自宅で生で見ることができた。それらのライヴ・ツイートや私のメモを中心に、2018年4月10日の北アイルランドのことを、Chirpstoryを使って記録してある(#GFA20 のハッシュタグは、このイベントに限らずもっと一般的な「GFA20周年」についての発言でも用いられていたので、それらも少し入っている)。このイベントについても何か書ければよいのだが、あいにくその時間が取れないかもしれない。書けたらまた改めて書きたい。

さて、私は私なりにGFAの20年を祝うために、1998年当時に日本の新聞が北アイルランド和平をどう伝えていたかを確認してみようと思い立った。とはいえ、入念な準備ができていわけではなく、何とか時間が取れた10日当日にダッシュで図書館に行って1998年4月の新聞縮刷版を書庫から持ってきてもらい、10日付(現地では9日の動き)から12日付の一面や国際面をざーっと見る程度のことしかできなかった。行った先の図書館に縮刷版があったのが、朝日新聞と毎日新聞と日本経済新聞だけで、讀賣新聞のはまだ確認できていない(讀賣縮刷版を所蔵している図書館に行くことがあれば、見てこようと思う)。

以下、それら当時の記事を見ていこう。

gfa20-april1998.jpg

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2018年03月25日

骨折生活のディテール (2) 〜8週を過ぎてかなり回復

12月に骨折したあとの「右手が使えない」状態での日常生活について、1月の末に書いた記事の続きを書いておこうと思っていたが、なかなかその時間が取れずにいた。今もほかにすべきことは山盛りなのだが(例えばケンブリッジ・アナリティカに関する3月17日以降のガーディアンの怒涛の報道についてのページは、アップデートが全然追いついていない。今もまた新展開があって、さらに次のスクープが来てる。ことは「FBのデータが持ち出された」だけではない)、とりあえずケガからの回復の過程について書いておこう。腕を骨折した人はこんなふうなんだ、ということで、自分が骨折していなくても想像力を働かせるための材料としていただければと思う。実際、想像以上に細かい部分で不自由になるということは、1月の末に書いた通りだ。

なお、その記事が、あたかも受傷直後から炊事用のゴム手袋を使えていたかのように読めてしまうかもしれないのだが、受傷直後は右手は痛くて何もできない。手首に負荷をかけるようなさわり方もできない感じで、きつきつのゴム手袋はもちろん、ふつうの防寒用の手袋でさえつけられなかった。ゆるゆるのもふもふ素材の指なし手袋というか手首ウォーマーならなんとかなったので、厳寒期は右手はそういうのを着けてしのいでいた。左手は防寒用の手袋をしていたが、右手が使えないので大変だった。装着するほうは左手だけでなんとかなっても(正確には、椅子に腰掛けて手袋に手を突っ込んで、手首のゴムのところをひざなどに当てておいて、手袋の中に手をぎゅっと押し込む感じ)、外すのは片手ではできず、うちら世代なら必ず通じる「片平なぎさ方式」を使わざるをえなかった。気分は復讐に燃える悲運のピアニストである。

そんな日々も遠くなり、現在は右手の機能は、受傷前の(体感で)6割くらいまでは回復してきた。

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2018年03月19日

「怒り」か「退屈」か――イラクから来た爆弾犯(ロンドン、パーソンズ・グリーン爆弾事件)

ロンドン、パーソンズ・グリーンの地下鉄爆破テロで起訴された18歳の男に、先週、「殺人未遂で有罪」とする判決がくだされた(被告が何年獄中で過ごすことになるのかは、まだわからない)。

「パーソンズ・グリーンの地下鉄爆破テロ」と言っても、通じないかもしれない。写真を見れば思い出すという人もいるかもしれないので、まずはGetty Imagesの写真。

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この事件で、今回有罪となった男が地下鉄車両内に持ち込んだ爆発物は部分的にしか爆発せず死者が出なかった。だから「テロテロテロテロ」と騒ぐことが大好きなメディアも観客(そう、「観客」)も大して注目しなかった(それは幸いなことではある)。被害らしい被害の詳しい報道はないと思うが、それでも大火傷を負った人がいることはBBCなどでも報じられている。

報道がどうたらということは、まあ、今はどうでもいい。二次的なことだ。

事件が起きたのは今からほぼぴったり半年前の2017年9月15日のことだった。金曜朝の通勤時間帯に、ロンドン地下鉄ディストリクト・ラインの列車内に持ち込まれていたスーパーの買い物袋が、列車がパーソンズ・グリーン駅に到着したところで突然火を噴いた。列車内に炎の玉が飛び、何人かに火傷を負わせたが、爆発としての威力は小さく、2005年7月7日のような事態は避けられた。同駅はロンドン市街部の少し外側にあり、周辺は基本的に住宅地というか何の「標的」もない地域で、そのタイミングでの爆発(発火)が犯人の意図通りかどうかはわからないと事件発生直後から伝えられていた。当日のことは、「NAVERまとめ」を利用して記録してある

ParsonsGreen1.jpgディストリクト・ラインは19世紀に開業した古い路線で、「ロンドン地下鉄」ではあるけれど厳密には「チューブ」ではない(でも地下鉄全体の通称がtubeだからそのように呼ばれている)。密閉空間ではなく上が空いているか、あるいは完全に地上を走っている。また、駅は都心部ならば開業時より拡張されたり建物が建て替えられたりしているかもしれないが、パーソンズ・グリーンのような都心から外れたところの駅は往時の駅舎がそのまま使われている。つまり、駅が(今の基準でみれば)とても小さく、出入り口の間口が狭い(写真参照。出典はWikipedia)。そのため、爆発があった列車を下りて退避した人々が一度に狭い出入り口に押し寄せたことで、群集事故のような状態が生じた。それはおそらく、爆破を試みた犯人は意図していなかったことだろう。それでも誰も死ななかったことは、実に、不幸中の幸いだった。

同年5月23日のマンチェスター・アリーナ爆弾事件のショックもまだ残っている中で、首都ロンドンの地下鉄で発生した爆弾事件は、幸いにも爆発物が不発だったため、被害という点では衝撃は少なかったかもしれない。しかし、事件直後に警察が容疑者関係先として非常線を張って調べたのが、「移民街」や「都心の民泊施設」などではなく、ロンドン近郊の「閑静な住宅街」だったことは、場が静まり返るような衝撃を与えていたように見えた。より詳しく言えば、その「閑静な住宅街」に暮らす篤志家の高齢のご夫婦が受け入れている難民の子が、容疑者だったのだ。

英国外に脱出しようとしていたところをドーヴァーで逮捕され、起訴されたその容疑者が、この3月半ばに「殺人未遂」で有罪判決を受けたアハメド・ハッサン(18歳)だ。イラク人で2年前に親を失った子供の難民として英国に来た。英国では教育を受け、成績優秀で表彰もされていたという。

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2018年03月16日

訃報: スティーヴン・ホーキング博士

スティーヴン・ホーキング博士が亡くなったことについて、特に何かを書ける素養を私は持ちあわせていないが、楽しくお茶をふいて……いや、真顔でお送りすべきだろうということは強く思うので、そういうのをちょっとメモっておきたい。

ホーキング博士は天才物理学者だそうだが、物理の素養がない私には何がどう「天才」なのか、実はわからない。信頼できそうな人たち&機関がみんな「ホーキング博士は天才物理学者」と言っているのでそれが前提になっている。個人的には、ALSという残酷な病で身体を動かす能力を奪われながら、テクノロジーを駆使し、思考を言語としてアウトプットできるのだということを示してくださった方というインパクトが何より鮮烈だ。そして、見た目では止まっているように見えても、人の中は、ものすごくたくさんのことが高速で動いているんだということについても……同じ病で早く亡くなったトニー・ジャット先生が、最後の何ヶ月かの日々の一部(ALSで自由を奪われた人の日常)をガーディアンを通じて公開していたが、それについて「ホーキング博士と同じ」ということで自分も理解がいったし、ジャット先生を知らない人にもわかってもらいやすかった。ホーキング博士が積極的にメディアなど公の場に出て発言していたことの意義は、その発言内容の意義とは別に、ある。それもとても大きな意義が。

そういった活動の一環、というか、英国外のうちらが「しまった、この人、イギリス人だった」と思ってしまうようなユーモア感覚を示す場として、ホーキング博士はTVのコメディにゲストとして出演したことがある。

英国では毎年春に、Comic Reliefというイベントが行われる。日本でいえば「24時間テレビ」のようなチャリティの風物詩で、お笑いの人を中心に、芸能界とメディア全体が赤い鼻をつけて盛り上がる。そのイベントの2015年のとき、BBCの連続コメディ番組Little Britainの「車椅子の人を介助するルー」のネタで、ホーキング博士が「介助される側」として出演した。ただし、そこはもちろん、ただ「介助される側」で終わりはしない。すごい展開を見せるクリップは必見である。英語わかんなくてもたぶん話はわかる。


LO RES - Comic Relief 2015 - Little Britain with Stephen Hawking from daffylondon on Vimeo.



そしてこの2年後、2017年(昨年)のがこちら。





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2018年02月17日

フロリダ州の高校銃撃事件容疑者が白人至上主義団体に所属していたという事実は、確認できていない(活動家のホラにAPが釣られた模様)

APが釣られるとさすがに影響がものすごく大きいようなので、取り急ぎ、メモ程度のことを書いておく。結論だけ先に書くと、「フロリダの高校銃撃犯が、現地の極右団体に所属していたという話は、団体を率いる活動家のフカシで、でたらめ」ということだ。ニコラス・クルスが白人至上主義団体にいたという事実は確認されていない。(そういう思想を持っていたことは否定されていない。ただ、団体への所属という事実はないと思われる。)

以下、詳細。

2月14日、バレンタインデーの米国からのニュースは、米国らしく血まみれだった。メリーランド州フォート・ミードにあるNSA本部ではゲートのところで銃撃・発砲があったと伝えられた。3人が負傷しており1人が逮捕されたという話で、ゲートの脇の不思議な位置に、フロントグラスに銃弾の痕が見て取れる車があって、捜査当局者がお仕事中という空からの写真・映像が配信されてきたが、それはそれっきり沙汰止みとなっていた(たぶん、何があったか明らかにされることなく、忘却されるだけだろう)。死者が出たというニュースは見ていない。

そのNSAのニュースの続報に何となく注意を向けていたときに流れてきたのが、「米フロリダ州の学校で銃撃事件が発生」というヘッドラインだった。

アメリカの学校で銃撃事件が発生したというヘッドラインを見ても、私はいちいち反応しない――そのくらいしょっちゅう起きているし、サンディフック小学校でのあのめちゃくちゃな銃撃事件のあとでも特に何も変わらなかったんだから、アメリカ合衆国はあの問題に対処できない(対処できるシステムを備えていない)としか考えられないし、そう結論してしまっているからだ(服部君、ごめんなさい)。BBC Newsのトップでも発生を報じていたが、「またか」的なことでもニュースバリューはあるしね……。

しかし、今回フロリダ州のパークランドという名の町で起きた学校銃撃事件の詳細が流れてきたときには、さすがに目がさめた。「死者少なくとも15人」という速報(元のTweetの時刻は日本時間で15日の朝7時50分、R/Tの時刻は朝8時過ぎ)などだ。そのときにはもう初報から何時間も経過していて、Twitterはすでに人々の「声」で埋まっていた。そのいくつかはR/Tしたし、Twilogで(元のツイートが削除などされない限りは)いつでも閲覧できるのでそちらをご確認いただきたい(中には、「バレンタインデーですね。大切なあの人に銃を贈りましょう」という販売店の宣伝ツイートをNRAがR/Tしていたが、高校銃撃事件発生でR/Tを取り消した」という報告などもある)。ここではこの事件そのものについて書くことは目的ではない。

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2018年02月12日

ジェリー・アダムズがシン・フェイン党首を退いた。

3か月近く前に、「2ヶ月以上前に告知され、『ついに』と思ったことではあるが」と書き始めているので、都合、6か月近くの猶予というか待機時間があったのだが、それでもやはり、またしても、「ついに」という感覚に包まれている。

この件に関心・興味がある人で、このニュースに接して「ついに」という感覚を覚えない人はいないだろう(あるいは、昔は関心を向けていたが最近は見ていなかったという人は、「まだやってたのか」と思うかもしれないが)。

一応、淡々と記録しておくという目的では、「Naverまとめ」を利用して、現地報道機関のフィードや記事を書いた人などのフィードを一覧できるようにしてある。特に3ページ以降は基本的に「リンク集」で、ツイート内に入っているURLから記事を確認していただくことが目的である。私のフィルターバブル内からさらに厳選してあるので、アイリッシュ・タイムズとBBCニュース北アイルランド、ベルファスト・テレグラフが中心だ。(アイリッシュ・インディペンデントとかRTEとかベルファストのニューズレターはほとんど入っていない。)

ジェリー・アダムズが、シン・フェイン党首の座を退く。
https://matome.naver.jp/odai/2151825107742330101


アダムズが引退したのは、臨時党大会で正式に次の党首がメアリ・ルー・マクドナルド(2009年から副党首としてニュースにもよく出てきたダブリン出身の政治家)に決まった2018年2月10日(土)で、日本時間ではちょうど日付が11日になったころ(現地では午後3時ごろ)にメアリ・ルーの演説が始まった。全文は党のサイトで読めるようになっている。(アダムズはフロアにはいたが、発言はなかった。)

メアリ・ルー・マクドナルドの演説は、要するに「これまでの路線を継続していく」という確認で、何かがドラスティックに変わるわけではないということを強く印象付けるものだった。だが、少なくとも見た目は大きく変わる。アイリッシュ・リパブリカンは元々、1910年代の独立運動のころから女性が前に出ていたし、今更「女性党首」で驚くような人は誰もいないだろうが、35年近くも「ジェリー・アダムズの党」だったシン・フェインが、アダムズの娘くらいの年齢の女性政治家が率いる党になるという変化は、「慣れるまでに時間がかかる」ような性質の変化かもしれない。個人的にはこれで、何となく漠然と「アイルランド」を認識してて「アイルランドの政党といえばジェリー・アダムズのシン・フェイン党」と思っているような人が、Brexit関連のニュースなどに際して、最も重要な与党(の中心)FGの発言や、最大野党FFの発言にはまったく関心を示さないのに、正直政治的意思決定という点では外野にすぎないSFの発言には「ほう!」的に反応してみせる、とかいうばかげたことが減ってくるんじゃないかなと思う。

で、NAVERのページを作るときに、メアリ・ルーとアダムズの写真を(NAVERでライセンス取ってるから自由に使えるようになってる)Gettyの報道写真で探して使ったのだけど、そのうちの一枚のこの写真は、これまで見たことがなくてちょっと見入ってしまったものだ。

写真が撮影されたのは2017年3月23日。場所はデリー。マーティン・マクギネスの埋葬のときのものだ。教会でのミサはオンラインで中継されていて見ていたのだが、棺が教会を出たところで中継が終わってしまったので、墓地での埋葬までは生では見ておらず、そこでアダムズが何を語ったかはあとから報道で知った。だから、墓地に設営された演台に上ったアダムズが口を開くまでの様子は知らなかったのだ(ということに、今更気づいた)。

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2018年01月29日

骨折生活のディテール

kght01.jpg2018年初めて見た夢は、「うーん、うーん、どうして今日はこんなに荷物が重いんだろう」という夢だった。「うーん、うーん、重い……」と右手を見下ろしたときに目に入ったのは、ギプスをあてて包帯でぐるぐる巻きにしてある自分の右腕だった。

何とわかりやすい。(・_・)

……と思って、そのときはもう一度寝た。だがその後も何度か「荷物が重いという夢」を見ることになった。今どきのギプスは、昔の石膏製とは違ってグラスファイバー製で軽いと説明されはするが、日がな一日装着していればやはり重い。しかも何日もの間ずっと着けているわけで、そのころには骨折にともなう炎症の痛みなのか、腕を同じ形にしているため、およびギプスの重さを支えているための筋肉痛なのか、何が何なのかわからなくなっていた。

受傷後1ヶ月を経過して、そういう「うなされる」ような状態もおさまってきたし、ギプスも取れた(最初は「お風呂に入るとき以外は着けていてください」だったのが、しばらくして回復が順調であることが確認された段階で「家の中にいるときは外して、日常動作の中で肘の曲げ伸ばしをしてください」となり、その次にはギプスなしで日常生活を送るようにと指示された←今ココ)。まだ手首の回転はしてはいけないし――人間の体の構造上、肘の関節内の骨折で、手首の回転ができなくなる――、肘に力が加わるような動作はできない(ずっしりくる荷物は持てないし、手をついて体重をかけるようなことは絶対にだめ)が、理学療法を受け、教えられたストレッチやマッサージをしていくうちに、徐々に関節の稼動域が回復しつつある。それでもまだ、90度くらいしか曲がらないので、「右肘を曲げて右手で右肩を触る」というような動作はできないし、右手で食事もほとんどできない。それでも、先週までは大きな(長い)フォーク&スプーンを使っても左手でしか食事できなかったのが、今週は(子供みたいな持ち方をして肘を高く持ち上げねばならないとはいえ)右手でも何とか食事できるようになったし、右手で鼻の頭を触るという動作もできるようになった(約1ヶ月ぶりに右手をそえて鼻をかめたときには「おお」と思った)。顔の角度を工夫しさえすれば、パウダーとブラシで眉毛も右手で描ける(既に、眉毛くらいは左手で書けるようになっているのだが)。当面の目標は右手でお箸を使い(もう1ヶ月以上、お箸で食事していない)、アイラインが引けるようになることだが、そこに到達するにはまだまだ時間がかかるだろう。

そう、前方不注意の自転車に思い切り衝突されて転ばされただけで、こんなにも長期にわたり、こんなにも不自由な生活を強いられる。

以下はそのディテールの記録である。単に「片手が使えない」というだけでは想像のつかないようなディテールだ。単に「一時的に片手(それも利き腕)が使えない状態になった」といっても、抽象的に何となく想像してみるのと、実際にそれを体験してみるのとでは全然違うというか、想像が及ばないところが生活動作の細部のあちこちにある。そういったことを記録しておこうと思う。

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2018年01月17日

【訃報】ドロレス・オリオーダン(ザ・クランベリーズ)――そしてZombieという曲

15日(日本時間では16日早朝)、各メディアでその「急死」が報じられた。最新の報道では「疑わしい死ではない(事件性はない)」と報じられているが、死因などはまだ明らかになっていない。何よりもまだ、身体が暖かいような段階で、そのようなことは取り沙汰/詮索すべきことでもない。一般人にとって重要なのは、彼女は死んでしまったという事実だけだ。彼女のあの声は二度と発せられることがない。

ドロレス・オリオーダン (Dolores O'Riordan). 1971年9月生まれ。まだわずか46歳だった。

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1990年代、「グランジ」がメインストリームの音楽になり、あのガサついた音に対抗するかのように「ブリットポップ」がもてはやされ、スウェーデンのポップが流行し、ほか非ロック系ポップソングがラジオや商店のBGM(有線放送)で流れてきていた時期に、日本では「アイルランド音楽」が大きく注目されたことがあった。それもザ・ダブリナーズとかザ・ポーグスとかではなく、女性が歌うものだ。エンヤのCDは売れまくり、雑誌には大きな広告が出ていて、街のあちこちに大きな看板が出ていた。「おしゃれ」さや「癒し系」を演出したい店は店内でエンヤのCDをかけていたし、CMでも使われていたから、エンヤの信じがたいほど透明な声は、文字通り毎日耳にしていた。シネイド・オコーナー(当時の表記ではシンニード・オコーナー)の顔と名前が一致しない人は「リアルタイムの洋楽」に関心のない人に限られていただろう。ドロレス・オリオーダンが「紅一点のヴォーカル」だったバンド、ザ・クランベリーズもそういう中でヒットした。当時、いろいろとロック〜フォーク系の女性ヴォーカルものが売れていたから(スザンヌ・ヴェガとかマジー・スターとか)、そういう流れもあったかもしれない。

ザ・クランベリーズのファーストに入っていたDreamsという曲は、「生茶」というペットボトルのお茶のCMに使われたから、聞き覚えのある人は多いだろう。(確か松嶋奈々子だったと思うので、90年代というより00年代に近いほうだろうか……今調べてみたら発売は2000年だそうだ。)



そしてこの声。一度聞いたら忘れられないようなこの声の持ち主が、2018年1月15日に、レコーディングのために訪れていたロンドンのホテルで、まだ46歳という年齢で、死んでしまったのだ。

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2017年12月31日

前方不注意の自転車に激突され、骨折した……いや、骨折させられた。

「おい」と思った次の瞬間には衝撃を受けていた。その衝撃を受けた瞬間、「ハンドルを離さないと、自転車ともつれて、よけいひどいことになるな」と思ったことははっきり覚えている。私はそうしたのだろうか。そうしたのだろう。実際、そうしていたから、肩も頭も無事なんだろう。

幸い、自転車は壊れなかった。相手の自転車と絡み合って外せなくなるようなこともなかった。っていうか倒れたのはこちらだけ。つまり一方的に倒されたのだ。相手は側の構造物の壁に自分の自転車をもたせかけ、無傷で立ってたのだから。

Twitterですでに書いているが、「来週はもう仕事納めですね」ってときになってから、自転車で事故にあった。双方自転車だ。こちらは基本スピードなど出ないタイプのミニベロ車(折り畳みを街乗りで使っている)、相手は、私は自転車には特に詳しくないので特定はできないが、ロードバイクだかクロスバイクだか、とにかくスピードが出る種類の自転車で、「あさひ」などのショップでよく見かけるブランドのもの。それが、猛スピードで真横から突っ込んできた。といっても「交差点での事故」ではない。当方は道路(歩行者と自転車が通れるようになっている公道)を減速して左側走行中で、相手は商業施設の自転車置き場からその道路に出るための細い通路を、スピードを出して、道路手前で一時停止もせず、つっこんできた(そもそもその通路は、自転車に乗って走行すべき通路ではないのだが)。

負傷して通院し、処方箋を出してもらって湿布薬や痛み止めを受け取りに行く薬局で、薬剤師さんが「どうしたんですか」と声をかけてくれるので、「あの施設の横の自転車置き場からの通路を爆走してきた自転車に衝突されたんですよ」、「えー、こわい。あそこ、歩行者もいっぱいいるじゃないですか」、「ですよねー。それに通路は自転車乗車禁止ですけど、それでも乗ってくるのがいるし、それも猛スピードで、前方確認してない」、「ながらスマホとか、今多いですもんねー」、「一瞬だったんでそこまでは確認できなかったんですけど、そうかも」などと話す。事故現場はここの最寄り駅近くではないのだが、日常の足として自転車を使う人なら十分に毎日の行動範囲に入るし、施設名を挙げて「あの横」というと、「あー、あそこ、やばいっすよね」的な「ヒヤリ・ハット」なエピソードが出てくる。

路面にたたきつけられてしばらく息もできず、痛みに固まって、ただ「路面、冷たい……」ということしかわからない状態で、身を起こすことなど当然できずにいた私に、「すみません」の一言もなく、カジュアルな「だいじょうぶかい」という言葉を何度かかけ、倒れて起き上がれずにいる人間に手を差し出してとっとと起こそう(あちらにしてみれば「助け起こそうとした」つもりかもしれないが)とした相手、スピードを出して自転車に乗って移動すべきでないところを猛スピードで突進してきた相手は、30歳くらいと思われる男だった。自転車はクロスバイクなのかロードバイクなのかは私にはわからなかったがママチャリではなくそういう系で、前かごなどはついておらず、荷物を運ぶような用途ではなく乗るためだけに使われていることは明白で、つまり、そんな自転車で、歩行者と共有している道路を、そんなスピードで走ってんの、といわずにはいられないようなもの。しかも奴が走ってきたのは「道路」ですらない。駐輪場から道路に出るまでに使う「通路」だ。「自転車は押して歩きましょう」と注意喚起されているような通路。

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2017年12月17日

《記憶》と《記録》。反共作戦のためラオスに介入したCIAの一員だった父親の真実を、ジャーナリストとなった息子が知るとき

BBC Newsのサイトでこんな記事を読んだ。

大学に進む前の夏のことだ。古いボルボに乗って、父と私はドライブに出かけた。父と私だけというのは、それまでなかったことだ。シートベルトを着用し、車を発進させた。砂利道には砂埃が舞った。

信号待ちで停車中、「ピーター、そろそろお父さんたちの仕事のことを伝えておこうと思う」と父はハンドルを指でこつこつと叩きながら言った。信号が青になり、車は大通りに出た。

「スパイなんだ」

父は真顔で冗談を言う人だった。しかし、いつもの冗談にしては非常にわざとらしいし、それに面白くも何ともない。日常の買い物をするショッピングセンターと電柱がひしめき合っているような郊外地の街を抜けながら、父は私に、もう40年近く、密かにCIAの仕事をしてきたのだと語った。

父はなーんちゃってと言うわけでもなく、沈黙が重苦しくなってきて、ああ、これは冗談じゃないんだ、と私は思った。

「母さんは知ってるの」と私は尋ねた。

「ああ、母さんか。母さんも、同じ仕事だ」と父は言った。

(親がCIAの秘密工作員だったというと)人からよく「おかしいなと思ったことは何もなかったんですか」と訊かれる。なかったですね。兄弟たちも私も、何も疑わしいと思わなかった。

両親は国務省で書類仕事にいそしむ役人なのだと思っていたが、実際のところ、仕事の内容がどういうものかはよく知らなかった。だいたい、成長過程にある子供にとって親がやってることといえば、耐え難いほど凡庸なことに決まっている。実はそうではないのだということに気づくには、もう少し大人になる必要がある。

1960年代、米軍兵士たちがC-130からベトナムの地に降り立っていたころ、CIAはラオスで極秘戦争を戦っていた。冷戦の最盛期で、CIAは私の父と工作員の一団を、ラオスの高地に住むモン族 (Hmong) に武器を与え訓練を施すために、送り込んだ。その目的は共産主義勢力パテート・ラーオと北ベトナムとの戦いだ。

CIAがモン族を強化していたのか、それともモン族を雇用していたのかははっきりとは判断しがたい。事態が過去となった今では、双方ともが、彼らのためになるよう協力していたのだと考えているようだ。

しかし、CIAの人々の多くは、モン族のレジスタンスは敗北するに決まっていると認識していた。ウシアブの群れが水牛を倒そうとするようなものだと。ベトナム戦争が終わったあと、CIAは突然ラオスから撤退し、それによりモン族の人々は、数千人単位で、ひょっとしたら数万人単位で脱出せざるを得なくなった。

これが、父にとって、中央情報局(CIA)での最初のミッションだった。

My father fought the CIA's secret war in Laos
http://www.bbc.com/news/world-us-canada-42314701
(英→日、拙訳)


2人きりのドライブで息子のピーターに事実を告げた数年後、父親のアランは他界した。死の床で彼は息子に向かい、ラオスでやったことを誇りに思っていると告げた。

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2017年12月16日

「はいはい陰謀論陰謀論」では終わらなくなったこの世界に――映画『 #否定と肯定 (Denial)』

ほぼ満席の映画館。大きなスクリーンに靴の山が映し出される。展示室の、ガラスの向こうの、くちゃくちゃになった古い汚い靴の山。この靴を履いていた人たちは、ほとんど口にすることもできないようなむごたらしい殺され方をした。アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所。スクリーンの中でその「聖地」を訪れている人々の目的は「巡礼」ではない。「実証」だ。しかしそれは否応なしに感情を揺さぶる。祈りの歌が口をついて出る。雪が舞い落ちるなか、デボラ・リップシュタットは祈りを声に出している。学者が、歴史学者が祈っている。

映画Denialを見てきた。邦題は『否定と肯定』。映画を見る前は、原題にない「と肯定」に「正直、それどうなの」と思っていた。議論にならないことを議論にする(何かを「否定」してみせることで、「何かを『肯定』している人々」を現前させ、それを「論敵」とする)のが連中の手口。Denialという原題の映画に、「否定論」の隆盛っぷりが、それこそ議論の余地もないほどになっている日本語圏で、原題にはない「と肯定」を付け加えて公開することで、連中の手口に乗ってしまっている(もっとはっきり言えば加担している)のではないか、と思ったのだ。が、映画を見て私は納得した(納得しない人もいると思う)。とても密度の高い、テンポの速いシーンで、セリフを聞くことでいっぱいいっぱいになってしまったのだが(字幕を追ってもいっぱいいっぱいになっていたと思う)、「と肯定」については、映画の中でリップシュタットと弁護団との議論のシーンで語られていた。確かにそれは、リップシュタットと彼女の弁護団があのばかばかしい、なおかつ戦いづらい裁判を、英国の法廷という戦いづらい場で戦う上で、必要とされた議論だった(何よりこの映画は「法廷ドラマ」だ)。

そしてそれは、映画館入り口脇に貼られていたポスターが言うような「ナチスによる大量虐殺は、真実か虚構か」という議論ではなかった。話をそこに持っていくこと――話をすりかえることが、否定論者(歴史修正主義者)の目的だ。

denial-poster.jpg

「大量虐殺(ホロコースト)は真実か、それとも虚構か」という《ことば》を現実世界に持ち込んでリアルなものにしようとするということを、彼らdenialists(否定論者たち)はやってきたし(映画冒頭で示されている通り)、今でもやっている。その二項対立自体が「虚構」である、というのがまっとうな態度だし、リップシュタットのような学者はそういう態度を当然取っているのだが(つまり否定論者のことは最初から相手にしていない。完全に無視する)、否定論者たちは、無視されること自体を「私たちは正しいということを示すもの」として喧伝し、そして多くの賛同者・支持者を獲得する。このあたりは、各種陰謀論やホメオパシーを含む疑似科学の論者がとる論法と同じパターンだ。

彼ら(映画の中では「ダヴィデとゴリアテ」の「ダヴィデ」に自分をなぞらえているデイヴィッド・アーヴィングひとりだけだが、アーヴィングの発言はツンデル、ロイヒターという否定論者の発言とつながっている。詳細はウィキペディア日本語版の「ロイヒター・レポート」の項を参照。何を見ても「日本は、日本は」と言わなければ気がすまない人はホロコースト否定論の原稿が掲載されたあとで廃刊された「マルコポーロ」に絡んで石田勇治先生が述べていることがウィキペディア日本語版に引用されているのでそれを参照すれば、ある程度気が済むと思う)が、なぜ「ガス室」に異様なこだわりを見せるのか、私は正確には知らない。ガス室があろうとなかろうと(←「なかった」と言っているわけでも、「なかった」という言い分をまっとうなものとして受け取っているわけでもない。念のため)、食事も乏しく伝染病が蔓延する劣悪な環境の中、強制労働に従事させられた人々が――それも当時の概念での「人種」や「思想信条」によりゲシュタポに逮捕されて連行されてきた人々が――何百万人という単位で命を奪われ、焼かれてきたのだ。「ガス室」だけを問題とするのは、ちょっと不適切なアナロジーかもしれないが、シリア内戦において政権側が自国民の上に使ったクラスター爆弾や樽爆弾のことを問わずに化学兵器だけ問題にするようなこと、広島・長崎に投下された原爆だけを問題とし、東京・大阪・名古屋はもちろん日本各地の大都市・都市に雨あられと投下された焼夷弾はスルーするようなことだ。つまり、お笑いのツッコミ的に言えば「そこかい!」、「否定するのなら、否定すべきはそれだけじゃないだろ」ということ。しかし、どうやら彼らにとって「ガス室」の《物語性》は、何か特別なものだ。彼らの考え方では、世界を思うがままにしようとする闇の勢力は、「ガス室などというとんでもない物語(フィクション、神話)」を真実として人々に信じさせることによって、人々を「思考停止」に追いやり、自身の支配を確実にしようとしている、ということになっているようだ。(そしてそのような情報操作にやられず、真相に気づいている自分たちはすごい、という《信念》もそういうところから生まれる。)

いや、そればかりではない。その「ガス室神話」を打ち砕くことによって、より大きな何かを成し遂げることができるという突破口的な存在なのだ。そこが崩せれば、すべてが崩せる、というようなシンボル。

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2017年11月27日

あるパニックと、パニック煽動報道(2017年11月24日のロンドン)

金曜日の夕方のロンドンで、それは「起きている」とTwitterでは伝えられていた。

Twitter上で、街で何かが「起きている」と伝えられている場合(そしてそれが現在進行中である場合)、何が起きているのかはさらにTwitterで調べる(というか、Twitterを見てみる)ことが当たり前になっている。1人しか言っていなければ、その人の違いか、いたずらか、意図的に流す虚偽(日本語でいう「デマ」)か何かだろう。しかし同じ内容の報告をしている人が複数いたら実際に起きているのだろう――という目安が、Twitter利用者には既にそなわっている。だから金曜日の夕方のロンドンについても、いつもと同じようにして、「確認」をした。何人もが、何かが「起きている」ことを伝えていた。

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これらを確認し、私は次のように書いて投稿した。

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2017年11月19日

シン・フェイン党首、ジェリー・アダムズの引退

2ヶ月以上前に告知され、「ついに」と思ったことではあるが、実際にそれがニュースとなって流れてくると、改めて「ついに」と思う(人間は繰り返しの生物だとこういうときに思う)。なるべく使いたくないと思う程度に陳腐な表現だが、「ひとつの時代の終わり (the end of an era)」だ。

11月18日(土)、ダブリンで開催されていたシン・フェインの年次党大会(Ard Fheis)をしめくくる党首スピーチで、ジェリー・アダムズは1983年に党首に選ばれてからこれまでの34年間を振り返り、そしてこう述べた。
We have also recast Sinn Féin into an effective all-Ireland republican party, with clear policy and political objectives, and the means to achieve them through democratic and peaceful forms of struggle where none existed before.

Republicanism has never been stronger. This is our time. We will grow even stronger in the future. But leadership means knowing when it is time for change. That time is now.

I will not be standing for the Dáil in the next election.

Neither will my friend and comrade Martin Ferris. I want to thank Martin, Marie and their clann for years of service to the Republic.

This is also my last Ard Fheis as Uachtarán Shinn Féin*.

I will ask the incoming Ard Chomhairle to agree a date in 2018 for a special Ard Fheis to elect our next Uachtarán.

http://www.sinnfein.ie/contents/47265
*Uachtarán Shinn Féin = 「シン・フェインのリーダー(党首)」の意味


※テキストは↑の党のサイトにあるが、アダムズのスピーチは音声で聞きたいという方には党が配信したビデオがFBにある。YouTubeのほうには現時点では、細かく区切られていない2時間ほどのビデオがアップされている。アダムズのスピーチの部分を頭出ししたのが下記。



1983年といえば日本は中曽根内閣(第一次)だ。今、世界的に大注目のジンバブエのロバート・ムガベが大統領になった(というか自身を大統領にした)のが1987年。アダムズはその前から、シン・フェインのトップをやってきたわけだ。冷静に考えれば気が遠くなるようなことだが、あまりにも「シン・フェインといえばこの人」という存在になりすぎているし、正直、シン・フェインを率いるのがジェリー・アダムズでなくなるなどということは想像の範囲外だという人もいるかもしれない。しかし時間は流れるわけで、現在69歳のアダムズは今年を最後に、党代表の座を退き、この何年後かに予定されているアイルランド共和国議会(下院)の選挙にも立候補しない。なお、一緒に引退することが公表されたマーティン・フェリスはアダムズより4歳ほど若いが、非常に端的に言えば、北アイルランド紛争期の「IRAの大物」だ(詳細はリンク先、ウィキペディア参照)。

このことが――そして、今年3月にマーティン・マクギネスが亡くなったことが――意味するのは、「リパブリカン・ムーヴメントにおけるIRA (Provisional IRA) の時代の終わり」だ。アダムズは、本人とその取り巻きだけが認めていないのだが、IRAの最高幹部(のひとり)だった。アダムズとは、それぞれが結婚した相手よりも長い付き合いだった故マーティン・マクギネスについては今更何かを説明するまでもない。そして、2002年にアイルランド共和国で国会議員となったIRAの闘士、マーティン・フェリスの引退。北アイルランドでもこれから、現在政治家になっている「IRAの闘士たち」の引退が続くことだろう。

アダムズの引退の意味については、下記に貼り付けるガーディアンの記事(ヘンリー・マクドナルド)が詳しく、なおかつわかりやすい。アダムズは党首の座を退いても影響力は維持していくと見られており、それはアイルランド(特に北アイルランド)流に読み解くとすれば、1年後も He hasn't gone away, you know! ということになっているという意味だろう。

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2017年11月14日

北アイルランドの「夢」が終わった日

#DareToDream (Dare to dream) という標語を掲げてワールドカップ(ロシア大会)予選のプレーオフまで勝ち進んできたサッカー北アイルランド代表の「夢」が終わった。

daredtodream.png

FIFA(フランス系)と、FA(イングランド)および「英国」を構成するイングランド以外の3つのネイションのサッカー協会との間にある確執というか溝というかそういうものについての《物語》ないし《神話》もあり、北アイルランド代表がプレーオフで当たった相手が、FIFAの本部が置かれているスイス(ブラッター前会長もインファンティーノ現会長もスイス人……後者はイタリアとの二重国籍)だという時点である程度はシニカルな見方がされていたのかもしれないが、私が見ている範囲では、少なくともファーストレッグの試合が終わるまでは、そういうのには気づかなかった。Twitter上で見る北アイルランドのサポさんたちは、いつものごとく「わぁい(お歌歌ってぴょんこぴょんこ)」な感じで明るく楽しくしていた。「ポジティヴなヴァイブを送ります」ってやつだ。

しかし11月9日にベルファストで行われたファーストレッグの試合以降は、空気感が固くなったように感じられた。主審(ちなみにルーマニア人)の意味のわからない判定によってスイスにPKが与えられ、このPKが決勝点となってホームの北アイルランドは0-1で負けを喫したのだ。

結局、このPKによって得たスイスのアウェイ・ゴールが、プレイオフ全体の結果を決めた。12日にスイスのバーゼルで行われたセカンドレッグの試合で、北アイルランドは得点を挙げることができず、試合は0-0のドローで終了。結果、スイスがワールドカップ本大会出場権を手にすることとなった。

この日は英国圏では戦没者追悼の日曜日(リメンブランス・サンデー)で、追悼のシンボルである(というより、ここ2年ほどの間に明確に「愛国心のシンボル」となり「掲げない奴は愛国心がない」という踏み絵のような存在になってきているが)赤いポピーの花輪をささげる儀式が、北アイルランドのサポさんたちが試合のために赴いたバーゼルでも行われていた(映像の最後に注目。これがリハーサルを重ねて行われている儀式ではないことがわかるだろう)。

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2017年11月08日

【「140字」時代の終わり】Twitterの文字数が増えた。

英語圏でTwitterが報道機関の人々の関心を本格的に引いたのは、2009年のイランの動乱のときだった。以来、ユーザーの数も幅も増やしつつ、Twitterはいろいろと機能を追加してきた。2009年夏はRetweetも正式な機能としては備わっていなくて(いわゆる「公式RT」ができるようになる前)、イランの動乱に関する「拡散希望 (plz RT)」のツイートは、手動で全文コピーして、"RT @username:" を冒頭に付け加えて送信していた。URLの自動短縮も備わっておらず、URLの文字数がすべてTwitterの投稿可能な140字にカウントされてしまっていたので、URLを添えて何かを書くということはあまり現実的ではなく、そうしたい人は別個URL短縮サービスを使ってコピペして投稿していた(そのURL短縮機能を内蔵していたのが、現在ではTwitter社に買収されたスタンドアローンのソフトウェア、Tweetdeckだった。Tweetdeckが突出してユーザー数が多かったのは、そういったユーザビリティに関する部分での補助的機能が充実していたからだった)。

それが本当に遠い昔のことのように感じられるようになった。

 ツイッターは11月8日、Twitterのツイートの制限文字数を拡大すると発表しました。

 同社は9月27日から、1つのツイートの制限文字数を、現在の140文字から280文字に拡大するテストを開始していました……。テストは利用者の中から5%のユーザーを対象に、およそ4週間から6週間かけて実施されました。

 テストの結果、「Twitterのスピードとシンプルさを保ちながら、より表現できるようにすること」が達成されたため、制限文字数の拡大に踏み切ったとのこと。

 なお、日本語、中国語、韓国語は引き続き制限文字数が140文字のままです。……

--- Twitter文字数拡大へ 日本は対象外
http://ascii.jp/elem/000/001/583/1583033/


このニュースを見たとき、私は「英語と日本語が混在しているときはどうなるんだろう」と思った。私のツイートの大半は、英語圏の報道機関のサイトのTweet thisボタンを使って記事見出しとURLを取得し、文字数に余裕がある範囲で日本語のメモを書き添えるというスタイルだ。なので、140字のままだと今回の変更の恩恵は全く受けられないということになるのだが、もし280字にしてくれているのならとても嬉しい。英語の見出しで文字数を食いすぎてしまって日本語ではほとんど何も書けないということが頻発しているのだ。

というわけで、8日の昼間に使ってみながらキャプチャでメモを取っていた。昼間は投稿している時間がなかったものを今(同日23時過ぎ)、アップしているのが本エントリである。

今回の変更に伴い、Twitterのウェブ版では投稿画面での文字数確認方法が変わった。まず、これまで入力欄の右下、Tweetボタンの隣に表示されていた文字数が消えている。

twittermojisuu-min.png

まさか何の指標もなくえぐるように打つべし、打つべしということになるのだろうかと一抹の不安を覚えつつ適当な文字列を入力していくと、入力欄の右隅(これまで絵文字のアイコンが表示されていたところ……絵文字は右の上の角に引っ越した)に円形の文字数インディケーターが表示されている。

twittermojisuu2-min.png

このインディケーターが、文字の入力にともなって変化していく。

twittermojisuu3-min.png



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2017年10月29日

英国からシリアに行ってイスイス団に加わったと思われる白人青年がクルド人地域で起訴されたが、英国政府は本音としては「殺害」方針支持に傾いていることだろう

「ジハーディ・ジャック」が起訴されたという報道が、10月28日、メディアに出ている

「ジハーディ・ジャック」と呼ばれているのはジャック・レッツという名の英国人の青年だ。現在21歳の彼は、まだティーンエイジャーだったころ、2014年にヨルダン経由でシリアのイスイス団支配地域に入った。「Aレベル」取得を断念して(「Aレベル」は日本の制度でいうとおおむね「高卒の資格」と「センター試験」を兼ね備えたものなので、「高校を中退」のような感じ)英国を発った彼は、「何が起きているのか、この目で見たかったからシリアに行った」ということを述べているようだが、実際のところはそうではなくイスイス団に加わるためにシリアに行ったのだろうという疑いがある。彼の「起訴」はその疑いについてのものである。

さて、その裁判だが、彼の出身地である英国で行われるわけではない。シリアで行われる。しかし「シリア」といってもダマスカスの中央政府の統治下ではない。北部のクルド人支配域だ。

シリア北部のクルド人支配域は、今もなお公式にはシリアの一部(つまりダマスカスの統治下)であるのかもしれないが、実態としては「自治区・自治領」になっている(英語では "de facto autonomous region" ということになる)。なぜそうなったかを簡単に振り返っておくと、だいたいこういう感じ――2011年2月から3月にかけてシリアで民主化要求運動(拷問の廃止など人権運動を中心としていた点では、エジプトの「革命」の過程とよく似ていた)が起こり、政権側がそれを武力で鎮圧したことで「平和的な改革要求」という道が閉ざされ、シリアは「内戦」の状況に陥った。アサド政権の軍や民兵と、反政権の諸勢力(民主化要求運動からイスラム主義まで幅広い政治・思想的バックグラウンドを有していたが「アサド政権反対」という点で英語圏報道では一様に "rebels" と称されていた諸勢力)が戦闘を重ね、非戦闘員が暮らす市街地に政権側が空から攻撃を行なってクラスター爆弾や即製の「たる爆弾」を投下して多大な犠牲者を出し、さらにはいわゆる「アルカイダ系」のサラフィー・ジハード主義の集団が「シリアの政治」という枠組みを超えた「イスラムの国を作る」とかいう主張を掲げて民主化要求運動が主導した「革命」に便乗し、さらにそれを乗っ取る形で我が物顔をするようになるという、シリアの内戦化・内戦の激化の過程で、アサド政権があまり注意を払っていそうになかったのが北部のクルド人の多い地域だった。比較的早い段階からこの地域の動向に注目していた英語圏のジャーナリストを私はTwitterでフォローしていたのだが、そういう人でもない限りは、大手メディアや国連のような機関の中の人たちを含めて大半は、「シリア情勢」といえば「アサド政権は(も、エジプトのムバラク政権やリビアのカダフィ政権のように)崩壊するのか」ということ、および「アルカイダ(後にイスイス団となった集団も含む)にどう対処すべきか」と「アサド政権の非人道行為・戦争犯罪行為にどう対処すべきか」ということに意識が向いていた。BBCのような国際メディアの人も、ワシントンDCのシンクタンクの人も、北部のクルド情勢についてはあまり注目していなかったのだ。そういう状況下、2013年11月に「シリア北部民主連邦 (the Democratic Federation of Northern Syria: DFNS)」(通称Rojava)の設立が宣言された。英語版ウィキペディアにマップがあるのだが、DRNSは、シリアとトルコの国境線に沿った地域を、地中海に面した西部のごくわずかな部分を除いてだーーっと支配下に置いている(マップでオレンジ色になっているアレッポ県北部はどうなんすかね)。このRojavaについて説明することはここでの本題ではない。詳細は2017年7月に勝又郁子さんが書かれた詳しい記事が、シノドスに出ているのでそれをご参照いただきたい(が、「バランス」という点では別の視点からの記事も参照する必要があると思う。例えば「アラブ人への差別」についてなど、一方のスポークスマンの発言だけで事実を決め込まない程度に慎重を期す必要があることは多い)。

さて、2014年に英国からヨルダン経由でシリアに入った英国人青年、「ジハーディ・ジャック」ことジャック・レッツが2017年10月に起訴されたのは、このRojava (DFNS) でのことだ。そのことを報じるBBC記事には次のようにある。

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2017年10月18日

イスイス団が、勝手に「首都」としていた都市ラッカから、放逐された。

湯川さん、後藤さん、終わりましたよ。おふたりが他の人質と一緒に拘束されていた都市、イスイス団が勝手に「首都」としてきたラッカから、イスイス団がほぼ放逐されました。米軍の作戦担当スポークスマンによると、まだ完全に一掃されたわけではなく、残党がまだ少し市内に残っているようですが(完全にいなくなったという確認が取れていない)、米国が支援するクルド人などによる部隊、SDFがラッカでの戦闘の終了を宣言しました。正式な制圧宣言もほどなく出されるようです。

Raqqa: IS 'capital' falls to US-backed Syrian forces
http://www.bbc.com/news/world-middle-east-41646802

A US-backed alliance of Syrian Kurdish and Arab fighters says it has taken full control of so-called Islamic State's one-time "capital" of Raqqa.

Syrian Democratic Forces (SDF) spokesman Talal Sello said the fighting was over after a five-month assault.

Clearing operations were now under way to uncover any jihadist sleeper cells and remove landmines, he added.

An official statement declaring victory in the city and the end of three years of IS rule is expected to be made soon.


bbcnews17oct2017-min.png

以下、Twitterのログの貼り付け。Seesaaで提供されている簡易的な埋め込み機能を使うので、ちょっと読みづらい部分もあると思うが、ご容赦いただきたい。
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posted by nofrills at 00:49 | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む