「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年02月04日

コナー・クルーズ・オブライエンについてのメモ

12月にまったく関係のないトピックについて書いたときに言及しただけでそのままになっていて、ずっと気になっていた名前を、まさかこんなコンテクストで見ようとは。

はてなブックマークで知った「信天翁の熟睡」さんのエントリ:
2009年2月1日 (日)
村上春樹のエルサレム賞受賞 アーサー・ミラーの場合を見る
http://ahoudori.tea-nifty.com/blog/2009/02/post-95a5.html

※私自身は村上春樹は読まない(読めない、というべきか)ので、彼の受賞については触れない。

ここで「信天翁の熟睡」さんは、2005年にアーサー・ミラーがエルサレム賞を受賞したときの英語での報道について丁寧に調べてエントリを書いておられる。

その中に次のような記述があり:
ニューヨークタイムズは、「エルサレム賞」についてはほぼ毎回受賞者決定時に報道しているにも関わらず、またグレアムグリーンの受賞については、授賞式でグリーンがそれに相応しいかという抗議があったと話が読書欄とはいえ出ていますが3、ミラーの受賞インタビューに関する記事は見つかりませんでした。


この「3」が脚注になっていて、そこに:
ニューヨークタイムズの記事(リンク

とあるので、リンク先のNYTの記事を見ると(閲覧は要登録):
At the award presentation tonight, by invitation only, Conor Cruse O'Brien, editor in chief of The Observer of London, told a select audience of publishers, writers and government officials, that he had questions about how Mr. Greene fit the prescription for the prize.

コナー・クルーズ・オブライエン! クルーザー!
http://en.wikipedia.org/wiki/Conor_Cruise_O%27Brien

コナー・クルーズ・オブライエンはアイルランド人である。そして、91年のその生涯を通して、一言で説明できないほど活動分野が広かった人であり、紆余曲折というか、「ええ、そんなところまで行っちゃうの」的なことがあった人だ。(正直、略歴を読むだけでも息切れ。)

オブライエンが亡くなったのは、2008年12月18日だった。私はその訃報に際し、いくつかの記事を読んで、12月19日20日、それから22日にブクマしてあるのだけれど、オブライエンについて元々知っていたことが非常に少なく(反IRAだということだけは把握していた)、そのときは何をどう読もうと何かを書けるほどには頭に入ってこないという感じで、また、同じころに大きな訃報が重なっていたこともあって(ウォーターゲイト事件の「ディープスロート」とか、1980年ハンストのショーン・マッケンナとか、1週間ほど後にはハロルド・ピンター)、オブライエンについては「もう少しいろいろと把握してから」と思っているうちに、ガザ攻撃が始まって、結局そのままになっていた。

でも名前を見かけたから、少し書こうと思う。少し無理をして。

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2008年03月11日

デイヴィッド・トリンブル (David Trimble)

週末にデイヴィッド・トリンブルが関係する記事が複数出ていた。グッドフライデー合意10周年の何かかと思ったが、そうではなく、北アイルランド政治に関する記事だった。北アイルランドの政治の文脈ではすでに第一線を退いているトリンブルが集中的に新聞記事の見出しに出ることは珍しいと思う。

トピックは2つ。ひとつはイアン・ペイズリーの辞意表明をめぐるもの。ベルファスト・テレグラフ:
Trimble puts the boot into Paisley
Saturday, March 08, 2008
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article3497986.ece

もうひとつはヒラリー・クリントンが北アイルランド和平に果たした役割について。とりあえず、デイリー・テレグラフ:
Nobel winner: Hillary Clinton's 'silly' Irish peace claims
By Toby Harnden in Washington
Last Updated: 9:30am GMT 08/03/2008
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2008/03/08/wuspols108.xml

デイヴィッド・トリンブルは1944年生まれ。現在は英上院議員(一代貴族)だが、この間までUUP (Ulster Unionist Party) の党首で、2002年まではNI自治政府のファーストミニスターだった。出身は法律畑(バリスターの資格あり、クイーンズ大で商法・財産法の学部長だったこともある)。1974年のロイヤリスト武装組織が指示した(<事実上)ストライキでは法律顧問としてかかわった。政治との関わりは、1970年代に5年間だけ存在したthe Vanguard Progressive Unionist Party(これがまた、語順違いで同じ政党を表したりとややこしい)でのこと。つまり元々はアルスター・ヴァンガードで、ごりごりのユニオニスト、というかナショナリストとのパワー・シェアリングに反対、共和国との関係強化に反対、という立場だった。ただしその主義・主張はそのときどきによって多少変わり、VPUPがナショナリストのSDLPとのパワー・シェアリングをめぐって割れたときには、パワー・シェアリング支持の立場をとっている。

1978年にthe Vanguard Progressive Unionist Partyが解党してUUPに合流したことでUUP入りし、1990年の英下院補選で下院議員に。1995年、ポータダウンでのオレンジ・マーチの騒動のときにイアン・ペイズリー(DUP)と手に手を取ってマーチに参加し、その後、多くの人たちの予想を覆す形でUUPの党首に選ばれる。つまり、「対ナショナリスト強硬派」として支持されたのだろう。

1994年のIRAの停戦(と1996年の停戦破棄と97年の再停戦)で始まった「和平合意への道」の初期段階では、トリンブルは「合意に反対」の立場であったが、その後「和平」支持の立場で党内をまとめ、1998年のベルファスト合意(グッドフライデー合意:GFA)の成立に大きく貢献したとして同年のノーベル平和賞をSDLPのジョン・ヒュームとともに受賞した。

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2008年02月18日

【訃報】ブレンダン・ヒューズ(1980年IRAハンスト時のリーダー)

ブレンダン・ヒューズが59歳で亡くなった。ヒューズは2000年ごろから「武装闘争に反対、グッド・フライデー合意体制に反対」の立場を鮮明にしてきた元IRA闘士にして、1980年のハンストのリーダーだ。

Former hunger striker Hughes dies
Last Updated: Sunday, 17 February 2008, 09:42 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7249225.stm

Former IRA hunger striker Hughes dies
Last Updated: 17/02/2008 14:48
http://www.ireland.com/newspaper/breaking/2008/0217/breaking12.html

RIP Brendan Hughes
Saturday February 16, 2008 22:39
http://www.indymedia.ie/article/86287

Brendan Hughes Dies.
http://www.politics.ie/viewtopic.php?t=31864

BBC記事にあるジェリー・アダムズの「お悔やみのことば」よりも、indymedia.ieやpolitics.ieに投稿されている一般の人々のことばを読んだ方が、この人がどういう「存在」だったかがはっきりとわかるだろう。

ブレンダン・ヒューズは、1980年10月、北アイルランドのメイズ刑務所(ロング・ケッシュ)で、「政治犯」としての待遇(一般犯罪者と同じ「囚人服」ではなく私私服の着用)を求めて、リパブリカン(Provisional IRAとINLA)が行なったハンガーストライキ(第一次ハンスト)のときの、メイズのIRAの司令官(Officer Commanding: OC)だった。

第一次ハンストは、サッチャー政権側からの条件提示があったことと、ハンガーストライカーのひとりが昏睡状態に陥ったことで、53日目に打ち切られた。その打ち切りの判断をしたのもヒューズだった。(なお、このときの政権側からの「条件提示」は相手のことば尻を取ったような形で一見相手の要求を飲んだかのように思わせるものだった。)

後にヒューズはこのハンストの経験を次のように回想している。
You lose the fat first. Then your muscles start to go and your mind eats off the muscles, the glucose in your muscles and you can feel yourself going. You can actually smell yourself rotting away. That was one of the most memorable things for me: the smell, the smell of almost death from your own body... Your body starts to eat itself. I mean that's basically what happens during the hunger strike, until the point where there's no fat left, no muscles left, your body then starts to eat off your brain. And that's when your senses start to go. Your eyesight goes, your hearing goes, all your senses start to go when the body starts to eat off the brain.

大意:
まず脂肪が落ちる。それから筋肉が落ち始める。精神活動が筋肉を食う。筋肉内のブドウ糖が頭に回される。そして自分が死ぬということが感じられる。実際に、自分の身体が朽ちていくのがにおいでわかる。最も強く記憶に残っていることのひとつが、そのにおいだ。自分の身体から立ち上る、死とすれすれのにおい。自分の身体が自分の身体を食い始める。ハンストをすればそういうことになる。脂肪が完全になくなり、筋肉もすっかり落ちてしまうと、それからは身体が頭脳を食うようになる。そうなると知覚が失われてくる。目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、五感が失われる。

-- Brendan Hughes, 'Dying for Ireland', Insight, UTV, 27 February 2001 (from Justin O'Brien, "Killing Finucane", Gill and Macmillan, Dublin, 2005, p.39)


ヒューズが指揮した第一次ハンストから半年ほど後、ボビー・サンズが指揮官となって第二次ハンストが開始され(ヒューズは第二次ハンストに強く反対していた)、サンズを含む10人が獄中で餓死した。

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2007年01月14日

ガスティ・スペンス

8日に亡くなったデイヴィッド・アーヴァイン(PUP党首)にとって「メンター」的存在で、葬儀参列者として名前が挙がっていた「ガスティ(ガッツィー)・スペンス」ことオーガスタス・スペンスは、現在73歳になる。今から30〜40年ほど前、彼はロイヤリスト武装組織UVF(Ulster Volunteer Force)の指導者だった。

以下、CAINのサイトなどを参考に。
http://cain.ulst.ac.uk/othelem/people/biography/speople.htm#spence

スペンスは1933年生まれ。学歴をつけぬまま単純労働の仕事に就き、1957年に英陸軍に入る。1961年に健康状態が原因で除隊となり、1965年にUVFが復活したときにUVFに入り、パラミリタリー活動に手をそめる。(UVFは1910年代に始まり、20世紀半ばには一時途絶えていた。ちなみにオーガスタスの父親はオリジナルのUVFのメンバーであった。)

1966年にカトリックのバーテンダーを殺害したとの容疑で逮捕・起訴され、本人は容疑を否認していたが有罪判決を受けて終身刑を宣告され、メイズ(ロング・ケッシュ)刑務所に送られる。メイズではUVFの司令官となったが、1977年に考え方が劇的に変化し、和解を呼びかけ、政治目的での暴力を「非生産的である」として完全に否定するようになる。1978年にムショ内司令官を辞め、1984年12月に仮釈放。

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2006年11月02日

Michael Stone(マイケル・ストーン)

None Shall Divide UsNone Shall Divide Us
Michael Stone


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上記の本は、マイケル・ストーン(表紙の写真の男性)という人物の手記である。漫画にしたらスーパー・マリオみたいになりそうな容貌だが(実際、スーパーマリオみたいな顔で壁画に描かれていたらしい)、北アイルランドの暗殺屋。
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Stone_%28loyalist_paramilitary%29

1955年、ベルファスト東部のプロテスタントの労働者階級の家庭で生まれたストーンは、ちょうど10代後半に自分の住んでいる地域で「プロテスタントとカトリックの分断」が進むのを見た。また、「カトリックの連中が襲撃してくる」のから近隣を「守る」ためのプロテスタントの青年団のようなものを組織した。そこでの活動がロイヤリスト武装組織UDAの幹部の目に留まり、組織にスカウトされた。

組織に入るためのテストは、空き倉庫で、さっきまで仲良く遊んでいた犬を撃ち殺すというものだった。ストーンと一緒に行った数人の青年たちは誰もそれができなかったが、ストーンは、葛藤はあったにせよ、その試験にパスした。そして組織で訓練を重ね、狙撃手としての腕を磨いた。そしてUDAの暗殺部隊で、組織が選んだ「合法的標的(legitimate target)」、つまりリパブリカン武装組織IRAのメンバーとされる人々の暗殺を行なった。

(「IRAのメンバーとされる」という場合、少なくともUDAとしては「〜とされる」は「〜である」の意味だが、実際にはストーンが殺した人はIRAではなかったようだ。IRAが「同志」を葬るときには軍隊式の形式を整えて葬儀を行なうのだが、ストーンに殺された人の葬儀はIRAの葬儀ではなかったとのこと。)

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2006年05月05日

Bobby Sands

ボビー・サンズ。1954年3月9日、北アイルランド東部Newtownabbeyにて生まれる。1981年5月5日、2ヶ月あまりのハンストの末、メイズ(ロング・ケッシュ)刑務所で餓死。享年27。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bobby_Sands

25年目の命日にWikipediaを見たら、vandalismが発生していた。

bs-wiki.png【続きを読む】
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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