『言論の自由』が危機的な状況だと「騒ぐ」ことはあまりにありふれていて、ほとんど誰も関心を払わないのではないかと思うが、「今どき、『言論の自由』などと言っているのは、『言論の自由』という名目で言いたい放題やっている "ネオナチ" だけだ」などと言われている場合、それは『言論の自由(フリースピーチ)』という《用語》とそれが表すものにとって、本当に危機的なことである。何しろ、『言論の自由』というcivil rights, civil libertiesの最重要概念を言い表す言葉を使っただけで「"ネオナチ" 認定」される/されうる/されかねないのだから。
私自身、何年も前にインターネット上の日本語圏で、そういう「"ネオナチ" 認定」めいたことをされるという体験を実際にしているのだが、その当事者から「言及禁止」を申し渡されているので(「引用」をするなというのですらなく、「言及」をするなと言われている)、それについて個別具体的に言及することはしない。法的拘束力があるような指示ではないので、言及ができないわけではないが、しない。面倒なことになったらいやだからだ。個人ではそんなリスクは取れない。(ここに書いていることが虚偽ではないことを示すためにリンクなり何なりを示したいのだが、この文脈とは
まったく関係のないところに生じた事由により、それを書いた場を「非公開」にしたので、参照先を示すことができないということをおゆるしいただきたい。)
「ネオナチ(や極右)が『言論の自由』を主張し、言いたいことを言っている」のは事実だ。それについては私は「問題である」という立場から何度も書いてきているし、『言論の自由』の無限適用みたいなのはおかしいと考えている。
それでも、言うまでもないことだが『言論の自由』は社会の根幹(のひとつ)だし、原則的に(大原則として)誰についても拒否できないものだというのが私の考えだ。さすがに
ACLUにはついていけないと思うことはあるが、「ネオナチ(や極右)を含む万人に『言論の自由』はある」というACLUの理念を、信奉はしている。それは「事実の記述」というより、掲げておくべき理念、理想の状態である。
「"ネオナチ" が『言論の自由』を主張している」というのは、単なる事実の指摘だ。しかしながら、その事実の指摘の記述は、時として「『言論の自由』などと言う奴(『言論の自由』という用語を使う奴)は、"ネオナチ" だ」という《偽》のロジックの記述にすりかえられる。単に「すりかえられうる」のではなく、実際に「すりかえられる」。
「犯罪者の99%がパンを食べたことがある」という記述が、「パンを食べた者は99%犯罪者になる」を意味しないということは誰にでもわかるだろう。「"ネオナチ" が『言論の自由』と言っている」という記述が「『言論の自由』を言うのは "ネオナチ" だ」を意味しないのも、同じことだ。
しかし、どうやら(少なくとも日本語圏の一部では)「『言論の自由』を言うのは "ネオナチ" だ」という《偽》のロジックが「定説」化しているか、しつつあるように見受けられる。ほっとくと、「日本には美しい四季がある」が「美しい四季があるのは日本だけ」論になったように、「『言論の自由』を言うのは "ネオナチ" だけ」論として堂々と通るようになるかもしれない。そしてそれは、極めて深刻に、危機的なことだ。
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