そういう非常に大きな目立った出来事を経て、「人間の盾」という言葉はニュースでよく見るものになったが、その意味合いというか「色」は(少なくとも英語圏で伝えられている事柄に関する限り)、「卑劣な独裁者やテロ組織が、自分たちの身を守るために、無辜の一般市民を自分たちの前に立たせるもの」という方向に傾いていき、ほどなく、民間人の標的に攻撃を加えた者たちがその攻撃を正当化する際の言い訳として通用するものとなっていった。「確かにわれわれは民家を攻撃した。しかし、その建物の陰から武装勢力が攻撃をしかけてきたので反撃しただけだ。武装勢力は卑劣にも、民家と中にいる一般市民を『人間の盾』として利用したのだ。亡くなった市民は気の毒だが、責められるべきは彼らを殺したわれわれではなく、彼らを殺させる状況を作った卑劣な武装勢力である」というストーリーは、今さら腹を立てるのもばかばかしいくらい、既に陳腐化している。
この異常性は、それについて発言すると「反米め!」などと殴りかかってこられるという地べたのリアリズムによって、より異常になっている。「人を殺すな、ましてや民間人を殺すな」と言うことが「反米」などの政治性で解釈されるというこれは、いったい何なのだろう。
……ということを、私は「人間の盾」という言葉を見るたびにもやもやと、0.5秒くらいの間に思うのだが、その「人間の盾」について、どうも状況が変わりつつあるのではないかということを、もはや「戦争」と呼ばれさえしないバラク・オバマの「テロとの戦い ver 2.0」に関連するニュースの中で、ときどき感じることがある。
つまりそれはもう、「無視されることが前提」になりつつあるのではないかと。(そして、それが本当に「もう」なのかどうか、私にはわからない。1945年3月、なぜ東京の下町はあれほどに燃やし尽くされたのか。)
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