いわゆる「欧米」圏の外での出来事について、「欧米」が批判するなり非難するなりする場合、「欧米が欧米の価値観を押し付けようとして騒いでいるだけだ」ということにしてしまえば、静かであってほしい界隈は静かになる、というのがある。(ここで私が曖昧にぼやーっと書いている理由は察していただきたい。)
私が鮮明に記憶している例は、ずーっと前、10年以上前ではないかと思うが、中央アジアやイエメンでの若年女子と、中年・老年男性の強制結婚という「習慣」について、「人権上の問題であると言う者は、『普遍的人権』という『欧米』の価値観を押し付けようとしているだけだ」という反発があったこと。あと、インドの「ブライド・バーニング」についても、パキスタンの「名誉殺人」についても、スーダンやコンゴでの「性奴隷」についても、そのような「これはこの土地の習慣だ」論を見たことがある。(それらはたまたま被害者と位置づけられる側が女性で、フェミニズム方面での指摘が盛んだったのだが、被害者は女性とは限らない。例えば性暴力は男性にも向けられている。)
実際、イスイス団が特にヤジディの女性たちにめちゃくちゃひどいことをしまくりながら世界的規模で蛮行を先導/煽動したことで、全世界が「暴力反対」みたいなムードに傾いていなかったら、たぶん今でもこのような人権侵害について「この土地のやり方」云々が主張され、それが受け入れられていたのではないかと思う。その意味でも、
今年のノーベル平和賞で性暴力に対する活動をしてきたヤジディの活動家、ナディア・ムラドさんと、とコンゴ(DRC)の医師、ドニ・ムクウェゲさんが受賞者となったことには大きな意義があると思うが、それですら、「ノーベル賞なんて欧米の云々」という発言を生じさせるだけの界隈もあるだろう。
そもそもその「欧米」とは厳密に何なのか、ということはひとまず措いておこう。通例、日本語で「欧米」といえば英語のthe Westのことなので、そう考えておく。
そのthe Westに対する反感、というかthe Westを敵視する主義主張のことを、Occidentalism(オクシデンタリズム)という。下記引用の (i) の意味。
Occidentalism refers to and identifies representations of the Western world (the Occident) in two ways:
(i) as dehumanizing stereotypes of the Western world ...
(ii) as ideological representations of the West ...
https://en.wikipedia.org/wiki/Occidentalism
※引用に際して読みやすくなるよう書式に手を加えた。
2006年と少し前の本だが、イアン・ブルマの本が新書になっている(アヴィシャイ・マルガリートとの共著)。
反西洋思想 (新潮新書)オクシデンタリズムは「欧米」の中に生じることもある。例えば、昨今の新自由主義社会での格差拡大などを身近に見て「西洋的な価値基準が絶対的に善というわけではない」と考えるところから、自分が属し、根ざしている社会そのものに疑問を抱くということがある。非常に大雑把にいえば、そういったベースの上では、「西洋でないもの」は「とりあえず無条件で受け入れるべきもの」となるし、「西洋的なもの」は「とりあえず否定すべきもの」となる。G7のような場についての報道で、日本の首相は(西洋の首相ではないということだけで)とりあえず無条件で肯定的な光のもとに置かれる、という状況は確実に存在する。たとえトランプとマブダチであることをアピールしまくっているような人物であっても、トランプが厳しく批判されている場面で「中立の人物」として解説される、といったことが実際にある(今年のG7サミットでのメルケルとトランプの写真についてるキャプションで見た。どのメディアで見たのかを忘れてしまったので、ソースが今探し出せないのだが……)。
マーティン・スコセッシの映画『沈黙』は、私が見た限り英語圏の一般メディアでは「よくわからないけど仏教を貶めてない?」という方向で不評だったのだが、それは「日本」という「非西洋」の残虐性がそのままむき出しに描かれていたためだったようだ。英語圏の人たちは、研究者やよほどのオタクでもない限り、日本にキリスト教徒迫害の史実があることなど知らないから、あの映画が「仏教批判」に見えるのだろう。そしてもちろん、「スコセッシの宗教臭い映画」を「見る価値なし」と一蹴する彼ら・彼女らは、あの映画が日本人作家である遠藤周作の小説をほとんどそのまんま映像化したものであることを知らない。
沈黙 -サイレンス-(字幕版)『沈黙』を「仏教批判映画」と位置づけた彼ら・彼女らの中にあるのは、「自分がよく知らないもの」に対する遠慮というか、ある意味での思慮深さと寛容だろう。そしてそういう思慮深さと寛容は、「僕は関係ないけど、あの人たちにも思想の自由・発言の権利はあると思うよ」「その発言の内容が変ならそれに対する批判が出てくるし、その発言はまともに受け取られることはないはずだ」といった形で、
所謂「イスラム過激派」に場を与えたことは事実だ。少なくとも、(アメリカではどうか知らないが)イギリスではそうだった。
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