北アイルランド紛争は、2度にわたってノーベル平和賞受賞者を出した。1度目は1970年代の平和(暴力停止)を求める運動、「ピース・ピープル」を始めた市民2人。2度目が1998年のベルファスト合意(グッドフライデー合意)を実現させた政治家2人。どちらも、北アイルランドの2つのコミュニティ(「プロテスタント」と「カトリック」、「オレンジ」と「緑」)から1人ずつだ。
その「北アイルランドの4人のノーベル平和賞受賞者」の1人が、ジョン・ヒュームである。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Hume
1937年1月、デリーに生まれたヒュームは、1960年代の「公民権運動」の中心的な活動家で、1971年に当時の北アイルランド自治政府がナショナリストの若者を主な対象とした「インターンメント」(無期限勾留、強制収容)を開始すると、それに抗議するハンガーストライキに加わった。現在も「資料写真」としてよくメディアに登場する当時の写真で、デリーの公民権運動のデモで放水車の水を浴びて兵士に連行されるヒュームの姿を記録したものがある(キャプチャ via
kwout)。
1972年1月30日の、のちに「血の日曜日(ブラディ・サンデー)」事件と呼ばれるようになった英軍による非武装のデモ隊への発砲事件が起きた公民権運動のデモには、ヒューム自身は参加を見合わせていたが、
2002年1月、事件の真相究明を行なうインクワイアリで当時のことを証言し、事件の1週間前に英軍が非常に暴力的な態度でデモ隊に対峙していたと語っている。1979年以降、英国政府の対決的な姿勢とシン・フェ……IRAのますます過激化する手法で北アイルランド紛争が「解決し得ない」と言われていた時代を、ジョン・ヒュームは当時のナショナリスト最大政党、SDLPの党首として体験した。
非常に暴力的な状況の真っ只中に身を置きながら、IRAのわかりやすい「フィジカル・フォース(物理的な力、武力)至上主義」とはまるで逆の「非暴力主義」を貫いたヒュームは(それは簡単なことではなかったし、きれいごとでもなかっただろう)、
1990年代、the Hume-Adams process と呼ばれる「シン・フェイン(IRA)との対話のプロセス」を、多くの反対の声にも関わらず推進した。これは最終的に、1994年のIRAの停戦という大きな成果に結実する。
Sunday Bloody Sundayで "But I won't heed the battle call" と歌ったU2のボノは、1998年5月、グッドフライデー合意についてのレファレンダムを前に「合意賛成」を訴えるベルファストでのAshとの合同コンサートで、SDLP党首として和平への道のりを先導したヒュームと、和平に賛成するという大きな決断をしたユニオニスト政党UUPのデイヴィッド・トリンブル党首を
ステージに上げて称賛した。
以後、「和平プロセス」においてシン・フェインのあんな人やこんな人が「和平/平和の人 man of peace」と持ち上げられるようになるのだが、真の意味での「man of peace」はジョン・ヒュームである。彼はその功績で、
2010年に「最も偉大なアイルランド人」に選ばれている。
ヒュームは2004年に政治から引退してからは公の場に現れることも減っている。2013年にデリーがCity of Cultureとして大掛かりなイベントを連続して行なったときも、客席に姿を見せたことはあっても、スピーチなどはしていなかったと思う。2014年8月に、ともに「和平」への困難な道を切り開いた
アイルランド共和国のアルバート・レノルズ元首相の国葬に参列したときも、ほかの参列者(マーティン・マクギネス、ジョン・メイジャーなど)と言葉を交わすなどしている場面は、
ネット中継されていた映像では見ることができなかった。というか、ずいぶん体調が悪そうに見えた。より正確に言うなら、「かつての彼の影」に見えた。
誰が見ても、それは明らかだっただろう。
この11月22日、下記のような記事がBBCに出ている。
John Hume: Former SDLP leader has 'severe difficulties' in dementia struggle, wife says
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-politics-34894724【続きを読む】