「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年11月17日

パリ同時多発テロから1年、最愛の妻を殺された人は、「悲嘆は私とともにある。私はそれを望んでいる」と語る。

今週日曜日は、「あの日」から1年の日だった。

1年前の11月13日。金曜日の夜を楽しむパリの普通の人々を、イスイス団の戦闘員たちが襲った。日本時間では14日の朝、早い時間帯だった。Twitterでタイムラグが極小に抑えられた形で流れてくる140字以内の断片的な情報から、それが「(ほぼ)同時多発」で複数個所を攻撃するという形での暴力だと気づくには、少し時間がかかった。その前、例えばカナダのオタワでの銃撃事件の際、パニクった人々の間での伝言ゲームで、ありもしない「ショッピングセンターでの銃撃」が発生するなどしていたので(オーストラリアのシドニーでの事件のときも見られた現象だが)、パリでも同じようなことになっているのだろうと身構えたのだ。実際には、流れてきた「攻撃」情報の一部は正確で、一部は勘違いだった。私の場合は、最初に目にしたのがパリ中心部での「銃撃」の情報だったので、郊外の「爆発」の報告で少々混乱してしまった。逆に、郊外での「爆発」を先に聞いて、2005年のバンリュー暴動のような事態を即座に思いついたという人の話も聞いたことがある。いずれにせよ、その日、パリという西欧社会の中心的な都市は、それ自体が標的とされ、高度に組織化された戦闘員によって攻撃された。

それだけでも十分に衝撃的なことだっただろう。フランスの情報当局や警察はいろいろとぐだぐだで、通り抜けられる網の目はいくらでもある、なんて話を聞いてた人でも、「まさかこんなことが行なわれるとは」と思わずにはいられないような攻撃だった。だが、個人的に私に口もきけなくなるほどの衝撃を与えたのは、その標的として、大バコのライヴハウスが選定されていた、ということだった。

日本語の報道記事では「コンサート会場」と言われたが、「コンサート会場」という言葉からは、座席のある施設が想起される。東京で言えば渋谷公会堂やNHKホールのような施設だ。一方で、2015年11月13日にテロリストによって襲撃されたパリの施設、Le Bataclanは、東京で言えばStudio CoastやLiquidroomのような位置づけだろう。元は19世紀の劇場で歴史のある施設だが、現在は音楽のライヴ会場で、出演するのは名前のあるロックバンド、特に「オルタナ」系が多い(NINも1994年のTDSのツアーでこの会場を使っている)。襲撃されたときにステージに立っていたのは、米国のオルタナ系ロックバンドのEagles of Death Metal(EODM: 「デスメタル界のイーグルス」というふざけた名前で、別に意味はないし、やってる音楽も「デスメタル」ではない)だった。

EODMのライヴが襲撃されたこと、EODMのライヴを見に行っている人たちが攻撃対象とされたことは、「衝撃」という言葉では語り尽くせないものがあった。私は個人的にはEODMは特に好きではない。何曲かは知っているが、アルバムは聞いたことないし曲を買ったこともなく、ライヴも見たことはない。それでも、そういう「系統」の音楽はよく聞いているし、EODMのライヴを見に行くような人とは、いろいろと音楽的趣味も合う部分が多いだろう。イスイス団のカラシニコフが向けられたあの人々は、たぶんある程度は「私のような誰か」であり、それ以上に濃厚に、「私の友人のような誰か」だ。

私は私が殺されることは別にかまわない。しかし、私の大切な友人があのような暴力の標的とされることは、耐え難い。その友人に守りたい、守らねばならない人々がいるとなればなおさらだ。EODMはそういう、「守らねばならない人々」がいる年齢層のオルタナ系のロック好きが見に行くようなバンドだ。

エレーヌはそのひとりだった。

エレーヌのことを、私は事件後に、彼女の夫が書いた文章で知った。

「君たちに憎しみという贈り物はあげない」――。パリ同時多発テロで妻を亡くした仏人ジャーナリストのアントワーヌ・レリスさん(34)が、テロリストに向けてつづったフェイスブック上の文章に、共感が広がっている。

パリ在住のレリスさんは、13日夜にコンサートホール「ルバタクラン」で起きたテロで妻エレンさん(35)を失った。文章は妻の遺体と対面した直後に書いた。19日現在、フェイスブック上で20万回以上共有され、「あなたの言葉は武力よりも強い」などと多くのメッセージが寄せられている。

レリスさんは17日、仏ラジオに「文章は、幼い息子を思って書いた。息子には、憎しみを抱かず世界に目を見開いて生きていってほしいから」と語った。

http://www.asahi.com/articles/DA3S12076838.html


アントワーヌ・レリスさんがFacebookにアップした文章、"Vous n'aurez pas ma haine" は、2015年11月、ネット上の日本語圏が「なぜパリばかり騒ぐのか」などということで騒然としていた(そのわりに、同時期に起きていたレバノンでの爆弾テロへの関心が特に高まったような気はしないんだけどね :-P)ときに、世界のいろいろな言語に翻訳され、大変に多くの人々に感銘を与えていた。日本語圏には、ドミニク・チェンさんの翻訳で入ってきていた。

「金曜の夜、あなたたちは私にとってかけがえのない存在であり、人生の最愛の人である、私の息子の母親の命を奪ったが、あなたたちは私の憎しみを得ることはできない。あなたたちが誰なのかは知らないし、知りたくもないが、あなたちの魂が死んでいることはわかる。あなたたちが盲信的にその名の下に殺戮を行っている神が、人間をその姿に似せて作ったのだとしたら、私の妻の体の中の銃弾のひとつひとつが彼の心の傷となるだろう。

だから、私はあなたたちに憎しみという贈り物をしない。もっともあなたたちはそのことを望んだのだろうが、憎しみに対して怒りで応えることは、今のあなたたちを作り上げた無知に屈することを意味する。あなたたちは私が恐怖におののき、同じ街に住む人々に疑いの目を向け、安全のために自由を差し出すことを望んでいるのだろう。あなたたちの負けだ。何度やっても同じだ。

私は今朝、彼女に会った。ようやく、何日も幾夜も待った後に。彼女はその金曜の夜に家を出た時と同じように美しかった。12年以上も前に狂うように恋に落ちた時と同じように美しかった。もちろん、私は悲しみに打ちひしがれている。あなたたちのこの小さな勝利は認めるが、それも長くは続かない。彼女はこれからも毎日私たちと一緒にいるし、私たちはあなたたちが永遠に入ることのできない自由な魂の楽園で再会するだろう。

私と息子はたった二人になったが、それでも世界の全ての軍隊よりも強い。それに私はこれ以上、あなたたちに費やす時間はない。そろそろ昼寝から起きてくるメルヴィルのところに行かないといけない。彼はまだ17ヶ月で、これからいつものようにおやつを食べて、いつものように一緒に遊びに行く。この小さな男の子はこれからの一生の間、自らが幸せで自由でいることによって、あなたたちに立ち向かうだろう。なぜなら、そう、あなたたちは彼の憎しみを得ることもできないからだ。」


翻訳者のチェンさんは、「パリに若い時分住んでいたフランス人として、そして僕自身も小さな女の子の父親として、先週金曜の夜の惨劇で奥さんを亡くされたレリスさんによるこの短いテキストの力に深く感動し、そしてそれ以上に、とても勇気づけられました。ここには民主主義的と呼ばれる全ての現代社会にとっての希望の種があるように感じます。日本の友人たちにも読んでもらいたく、日本語に翻訳しました」と述べている。レリスさんの原文を、あるいはチェンさんの訳文を回覧した人々も、バックグラウンドはいろいろあるにせよ、思いは同じだろう。私もそうだった。つまり「民主主義社会にとっての希望の種」をここに見て、あまりにひどい出来事が起きているときに、その「希望」を多くの人に知ってもらいたい(シェアしたい)という気持ち。同じようなことは、2011年夏にノルウェーでアンネシュ・ブレイヴィクというひとりの男が何十人も殺した事件のあとの裁判で、裁判所からBBC記者など英語圏のジャーナリストによって英語で伝えられる「被害者や遺族のインタビュー」(カメラの前のノルウェーの人々は英語で応じていた)にも感じた。こういうのこそが、ヒューマニティ(人間らしさ)の最も濃密な形での現れだと思った。

私はレリスさんの言葉を、"Who gives a f***?" という意思表示と受け取った。テロリストに向けて、「お前らのために割いてやるような感情は、当方は持ち合わせていない」という意思表示。

実際そうなのだ。イスイス団の連中のことなどどうでもいい。注目されればされるだけ連中は喜ぶのだから、注目などしないほうがいい。

……というわけにいかないのがイスイス団だった。まずはその暴力の苛烈さに、人々は彼らのことを語らずにはいられなかった。そして、彼らが「西欧社会で育ってきた、いわゆる "ホーム・グロウン・テロリスト" である」という事実が、彼らひとりひとりのバックグラウンドについて語ることを促した。「ベルギーのブリュッセルでバーを経営していた青年が、なぜイスラム主義のテロリストになったのか」といったことだ。そして、「この先、どうなるのか」という不安。社会の中に広まる「イスラム」への恐怖感と警戒感。

何をとっても、とにかく、人はそれを話さずにはいられないという要素ばかりだった。アンネシュ・ブレイヴィクの犯行などは、イスイス団のパリ襲撃犯よりよほどエクストリームなのだが(1人であれほどの人数を殺した。しかもウトヤ島では被害者一人ひとり、顔を見て、目を見て、そして撃ち抜いたのだ)、ある程度のところまで行くと、「特殊な例」として関心が続かなくなるようだった。イスイス団のパリ襲撃犯は、それとは違っていた。メディアも、やはりこの「ネタ」は「売れる」のだろう、たっぷり取り上げていた。そして何より、パリ襲撃は11月13日の夜だけでは終わらず、その数日後のサンドニでの容疑者との銃撃戦(アバウド死亡)などにも続いていた。ニュースは絶え間なかったのだ。

日本語圏について言えば、イスイス団には日本人は2人も殺されていて(10年以上前の、イスイス団の前身組織から数えれば、3人である)、そのうちのひとりは後藤健二さんという偉大なジャーナリストだ。彼という窓を奪われたことは、日本語圏の我々にとっては非常に大きなことである。

私個人にとっては、イスイス団の「処刑人」がロンドナーであることで目が離せなくなっていた。イスイス団そのものは、どちらかというとどうでもよかった。パキスタンのLeTにさほど関心を抱けないのと同じく、イスイス団自体は私には関心の対象外だ(IRAとは違う)。しかしそこに、私にとって常に関心の対象であった英国から戦闘員が集まっていること、そして何より、私が記事を読んでいたジャーナリストたち(フォーリーさん、後藤さん)を、あんなふうに残忍な形で殺してさらし者にした人物のこと……2015年11月13日は、彼、「ジハーディ・ジョン」(モハメド・エムワジ)がラッカで爆殺されたと思われるというニュースがトップニュースになっていた。そして寝て起きたタイミングで、パリから大変なニュースが入ってきたのだ。







そういう中で、イスイス団について "Who gives a f***?" という気持ちを抱いてはいても、それを示すことは、私はできていなかったと思う。関心などなくても事実は把握しなければならないし、そのためにTwitterに書くなどしたことが、ひょっとしたら誰かをイスイス団の方向に向かわせてしまったのではないかと思うこともあったし、今でもそう思っている。それでも、私自身は一貫して "Who gives a f***?" だった。日本語圏で「あれはひとつの解だ」などと寝ぼけた発言を見れば、「アフォなんでつか(意訳)」という反応は少しはしていたと思う。しかし、それでは "Who gives a f***?" という態度には見えなかっただろう。

バタクラン劇場で最愛の妻を殺されたアントワーヌは、それを明確に言語化している。論理性に裏打ちされた彼の怜悧な言葉は、感情に駆り立てられて当然なときに出ているからこそ。よりいっそうの凄みを帯びる。テロリストに対し、「お前らがどんな人間かに関心はない。お前らの主義主張などどうでもいい。俺には離乳食を食べさせてやらないとならない幼い子供がいる」と現実を突きつけてやるだけの力を、「怒りをぶちまける」のではなく理性的な言葉で発散している。そのありように、「人間らしさ」の極致を見て、人々は感銘を受ける。

上述のFBのポストが世界的に大反響となったアントワーヌは、その前後のことも綴った文章をまとめて1冊の本を出した。事件のことを知ってから、妻のエレーヌを捜し求めて駆けずり回り、遺体安置所で死亡を確認し、そして10日後に埋葬するまでのことが、はっきりとした言葉で綴られている。事件から1年後に読んで、私はここでまた深い感銘を受けている。(本を閉じたときに目に入る水彩の青もまたよい。)

4591150909※Amazon:
ぼくは君たちを憎まないことにした

アントワーヌ・レリス 土居佳代子
ポプラ社 2016-06-20

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2213701296Vous n'aurez pas ma haine
Antoine Leiris
Fayard 2016-03-30

by G-Tools


改めてすごいと思うのは、著者の「言葉」とのかかわり方だ。

著者のアントワーヌはジャーナリスト。言葉を使って何かを書き表すことのプロだ。その彼は、言語道断の非道で最愛の人を奪われたあとも「言葉を失う」ことなく、現実の中に身を置いている。この本がすごいのは、そのこと自体も書かれているということだ。

エレーヌの遺体と対面するためにモルグに向かう日の朝のことを、彼はこう書いている。

11月16日、9時30分

(息子の)メルヴィルは保育園へ行った。この月曜日の朝、パリ15区のカフェに立ち寄った人々は、夢を破られたような、くすんだ顔色をしている。…(略)…今日は月曜日。人々は金曜日のことしか話さない。

…(略)…

午前中、ぼくはエレーヌに会いに、遺体安置所へ行くことになっている。すぐ隣では、テレビを見過ぎたのか、疲れた目をした40代半ばから50歳くらいの男性2人が、ぼくが聞きたくないことを話していた。…(略)…

聞かないように姿勢を変えても、言葉の端々がエスプレッソ・マシーンの湯気を通り抜けて聞こえてくる。

「……あの人たちの死が無駄になってはならない……」

有益な死というものがあるのだろうか?

…(略)…ぼくに起こったこと、それは彼女がいなくなってしまった、という事実だった。

――アントワーヌ・レリス(土居佳代子訳)「ぼくは君たちを憎まないことにした」、2016年、ポプラ社、pp. 38-41















モルグには警官やモルグ職員のほかに、「心のケア」の担当者もいる。それについてのアントワーヌの言葉のリアルさときたら、どうだろう。

彼らはぼくの不幸を取り上げて、そこにお決まりの薬を塗り、ゆがめて、詩情も美しさもない無味乾燥のものにして返すつもりなのだろう。

――同、p. 46


彼に必要なのは「カウンセリング」などではなく、「喪の仕事」である。

そしてその「喪の仕事」と同時に、幼い息子メルヴィルに事実をどう伝えるかということもやらねばならないし、メルヴィルの世話もしなければならない。葬儀をどうするかといった現実的な問題で、エレーヌの家族と話をしなければならない。妻を悲劇的な形で失ったことで悲嘆に暮れたり、加害者に対する怒りに身を任せたりするだけではいられない。そういうなかで、アントワーヌは極めて冷静なように見える。その表面上の冷静を保ちながら、彼は実は言葉を失っていた。

自分に何が起こったのかもわからないうちに、喪服に身を包んだ弔問客の列ができ始めていた。

「葬儀屋にいかないとね。よかったら手伝うよ」

言葉が出てこない。

金曜日の夜から、ぼくはほとんど話すことができなくなっていた。3つ以上の単語を話すだけで疲れてしまう。いくつかの言葉をつなぎ合わせて考えを伝えるなんて、思うだけで憔悴した。考えることができなかった。

さっきまで頭の中には会えないままの彼女がいた。ぼくが守ってあげなければならなかった彼女だけが。あとは頭の中でぶんぶんと何かが鳴っていた。…(略)…でも、安置室でエレーヌに会ってからは、ぶんぶんという音は弱まり始め、言葉が出てくるようになった。

…(略)…

さあ、行こう。メルヴィルを迎えに行かないと。

何かが始まったのは、保育園へと向かう車の中だった。運転していた義理の兄は、ぼくが脚で車の床を激しく打ちつけるのに気づいて、安心させようとした。「間に合うから、心配しなくてもいいよ」

遅刻しそうになってイライラしていたのではなかった。ぼくの中で言葉が動き始め、リズムを要求していたのだ。一つずつ、あるいはぜんぶ一かたまりになって。…(略)…

――同、pp. 57-59


そして、メルヴィルを連れてアントワーヌは帰宅する。

帰宅、メルヴィルの昼ごはん。おむつの交換。パジャマを着せて昼寝させる。そしてパソコン。その間も言葉が次々とぼくの元に届く。向こうからやってくる。考えられた言葉、吟味された言葉が、ぼくから呼び出さなくても、やってくる。言葉が勝手に押しかけてくるので、ぼくの方ではそれを採用するしかない。

――同、p. 61


こうして形を得たのが、「ぼくは君たちを憎まないことにした」というあの「手紙」だ。日本語版の書籍では、pp. 63-66に訳出されている。



この本はそのあと、p. 144まで続いている。エレーヌの埋葬(メルヴィルは、幼すぎたので、埋葬には立ち会えなかった)と、メルヴィルを連れての墓参まで。その間の容赦ない日常は、最愛の人があのように奪われたことでさえも、アントワーヌにとっての「世界の終わり」を意味しないということを突きつける。電気メーターの検針。いろいろと気を使ってくれる保育園の友達のお母さんたち。そしてメルヴィル。

アントワーヌは、19日にエレーヌと一緒にバタクランに行っていた友人のN(13日の事件後に、エレーヌと連絡がつかないアントワーヌが連絡を取ろうと試みたこともこの本には書かれている)と再会した。このくだりも、圧巻である。

そして20日、事件から1週間後。言葉によって描写されるアントワーヌの「喪の仕事」は、壮絶である。彼は、彼に話しかける他者たちを観察する。それによって最愛の彼女を喪った自分を確認するかのように。"Ça va? -- Oui, ça va!"

ぼくは上辺をつくろっている。誰かの手を取り、ボール紙でできた街を案内して安心させる。それが、ぼくが提供する映画の背景だ。その街では、道路は清潔で、住民は平和的、暮らしは可能な限りの正常さで営まれている。けれど本当は、建物には正面の壁しかなく、住民はエキストラ、そして見かけの正常さの後ろには何もない、もはや何もない。あるのはおそらく胸を締め付けるような不安感だけだ。みんあんがほかの映画の方へ行ってしまったらどうなるのだろう? ぼく1人が打ち捨てられた背景の中に残されたら、どうなるのだろう?

「あなたに起こったことについて、本当に心からお悔やみ申し上げます。頑張ってくださいね……」

これに対して、ぼくには返事の用意がない。…(略)…

――同、pp. 95-96


言葉はアントワーヌの世界を描写し、同時にそれを崩壊させる。

ここにおいては、本来、何事も「語りえない」であろう。そういうときに言葉がリズムを求める奔流となって内側からあふれてくるのは、第一には人間だからだ。その言葉があのFB投稿のように理路整然としていたのは、アントワーヌが言葉を使い慣れている職業人(ジャーナリスト)だからかもしれない。

その彼が書いてネットにアップしたあの言葉。それは送信した瞬間に、彼のものではなくなっていた。

考える間がなかったし、書いた文章を見直したいとも思わなかった。…(略)…ぼくは「投稿する」のボタンを押した。それはコピーされ、貼り付けられ、あちこちに広まっていった。ぼくの言葉はもう、ぼくのものではなくなった。

――同、p. 62


16日にアップしたこの文章は、世界中を駆け巡った。アントワーヌのもとには反響が寄せられた。22日、彼はこう書いている。自宅の郵便受けに届いた郵便物についてだ。

…(略)…ここしばらくは、請求書の代わりに手紙がたくさん届くようになっていた。

最初の封筒を開けてみる。階段を上りながら、中に入っていたカードを読むと、それは、はるばるアメリカから届けられた親切な言葉だった。…(略)…

郵便物を今のテーブルの上に広げる。その中の一通の封筒の色が気になった。褪せたような白が、過去からタイムスリップしてきたみたいだ。便箋にはレターヘッドがついている。その人はフィリップというなだった。ライティングデスクに向かっている白髪交じりの紳士の姿が浮かんだ。すぐ、彼の言葉に引き込まれる。ぼくの「手紙」を読んでこれを書いてくれたのだ。それは美しい手紙だった。ぼくは、気持ちのいい場所で、丸くなって温まっている心地がした。そして、手紙の最後には、署名のようにして次の言葉があった。「不幸に見舞われたのはあなたなのに、私たちに勇気をくれたのはあなただ」

遠くから見ていると、最悪の事態を行き抜いた人が英雄のように思えてしまう。でも、ぼくは自分がそうでないことを知っている。不幸に襲われた、ただそれだけだ。不幸はぼくの意見なんか聞かなかった。ぼくにその用意ができているかどうかなんて、気にかけなかった。不幸がエレーヌを迎えに来て、ぼくは彼女なしで目を覚ますことになってしまった。あれ以来、ぼくは自分がどこへ行くのか、どうやって行くのかがわからなくなった。だから、ぼくをあまり当てにしてはいけない。ぼくは、この手紙を書いたフィリップのことを思った。ぼくに手紙をくれたすべての人のことを思った。彼らに言いたい、ぼくは自分の言葉についていけない。たとえその言葉はぼくのものだったとしても、その言葉通りのぼくであり続けられるかどうかはわからない。あっという間にくじけてしまうかもしれない。

突然、ぼくは怖くなる。人が期待しているような存在ではないことが怖くなる。ぼくにはまだ意気地なしでいる権利があるだろうか? 怒ってもいいだろうか? …(略)…

――同、pp. 108-110


この率直さの中に、私は「人間らしさ (humanity)」を見る。それを見つけて喜んでいる読者がここにいる。そうすることは、私がアントワーヌ・レリスを消費しているに過ぎないのかもしれない。エンターテイメント小説を読むように。

1年後の今年秋、アントワーヌ・レリスはBBCの取材に答えている。「悲嘆は私とともにある。そして私はそう望んでいる (Grief is my companion. And I want to keep it with me)」



あの日、あの時、ステージに立っていたEODMは、Twitterを見ると、精力的にツアーを行なっているようだ。ヴォーカリストのジェシーは事件後しばらくして行なわれたアメリカでのインタビューで事件当時のことを語ったあと、言っちゃ悪いけど「トンデモ」さんに成り果てているのだが(バタクラン劇場の内部の者がテロリストの手引きをしたと彼は信じているのだが、その根拠は何もない)、そのようなわけのわからない不確かさに飲み込まれず、バンドが活動していることは彼らの「強さ」ゆえだと思う。

2015年秋にリリースしたアルバムで、EODMはDuran Duranの "Save a Prayer" をカバーしていて(※ただしレコーディングでEODMの核となっているジョッシュは、ライヴのEODMには参加していないので、ライヴではもっと音はペラッペラである):


2016年10月にはジョン・テイラー王子(異論は認めない)とEODMのベースの人とのツーショットがツイートされている。(2015年もUKのテレビで共演してたりもする。映像探せばあるよ。)



Save a Prayerの歌詞は、かなりミもフタもない「一夜限りの関係」についてのものだというが、サビの部分は文脈を変えて(&ほぼ「慣用句」化しているフレーズを字義通りに)読むことで広がりを持つ。
Don't say a prayer for me now,
Save it 'til the morning after
No, don't say a prayer for me now,
Save it 'til the morning after
Save it 'til the morning after
Save it 'til the morning after
Save it 'til the morning after
Save it 'til the morning after




それと、ここまでの話とは関係なくこの件:





過去記事:
2015年11月14日
今朝、東京で起きだした私は、ネットにつないでいきなり、いやなニュースを見ることになった。パリ、同時多発テロ
http://nofrills.seesaa.net/article/429601622.html

2015年11月16日
「ことば」の余地などない、この現実の中にそっと投げ込まれた1枚の絵について
http://nofrills.seesaa.net/article/429739696.html

2015年11月17日
'Pray for Paris' と 'Meme pas peur' とピース・シンボル、そしてSave a Prayer
http://nofrills.seesaa.net/article/429821090.html

2015年11月19日
「なぜパリのことは大ニュースになるのか」論 (1): 今のTwitterは情報戦がすごいということと、プロパガンダについて。
http://nofrills.seesaa.net/article/429906512.html

「なぜパリのことは大ニュースになるのか」論 (2): では、シリアの人たちの声を、聞こうとした人は、いるのだろうか。
http://nofrills.seesaa.net/article/429914312.html

2015年11月20日
「私たちは憎悪することを拒否します」……同時多発テロのあおりでパリでの日程がつぶれたU2が、ベルファストで「平和」「犠牲者」の物語を共有する。
http://nofrills.seesaa.net/article/429952933.html

テロリズムと暴力の中で少年時代を送ったベルファストのバンドが、パリでのライヴをキャンセルしなかった理由。「普通」にしていることの価値。
http://nofrills.seesaa.net/article/429967190.html

2015年11月21日
「なぜパリのことは大ニュースになるのか」論 (2・続): ラッカより。「爆撃が続く30分間は、ISISは逃げることで頭がいっぱいになり、私たちは自由になる」
http://nofrills.seesaa.net/article/430022716.html

2015年11月22日
Twitterは「情報戦」の戦場。「アノニマス」、「テロ情報」といったわかりやすい記号に振り回されないように
http://nofrills.seesaa.net/article/430077084.html

2015年11月23日
今行なわれている「サイバー戦」は、「アノニマス対ISIS」とかいう単純なものではない。
http://nofrills.seesaa.net/article/430138383.html

2015年11月27日
「We are one. わたしたちは、ひとつである」
http://nofrills.seesaa.net/article/430344966.html

2015年11月28日
また見せかけの「反戦」が(シリアで「病院を爆撃」しているのは、誰か。知らないはずがないのに)
http://nofrills.seesaa.net/article/430411577.html

2015年11月29日
「音楽は人生であり、歌は希望や癒しに結びついている」
http://nofrills.seesaa.net/article/430449534.html

「アート」の力。プロパガンダの画像に、言葉を添えることで別の文脈を与えるという形での。
http://nofrills.seesaa.net/article/430458261.html



事件から1年、バタクランはStingのライヴで再開された。BBCのニック・ガーネット記者が「あれから1年のパリ」を詳しく報告していた。




















バタクラン再開の日、周辺は厳戒態勢。



公演のチケットのほとんどは、昨年ここで亡くなった人の親族や、ここにいて生還した人々に割り当てられていた。だが、ここに足を運ぶことがつらすぎて、チケットは親戚に譲ったと記者にメールをしてきた人もいた。その人は子供をここで殺されている。






バタクランの中。欧州の都市によくある大きめのライヴハウス。







「とても奇妙な空気だ。バタクランはペンキを塗り直し、内装も変えてあるが、今もまだ1年前のあの恐怖が生々しい」






スティング夫人のトゥルーディ・スタイラーがシャーロット・ランプリング(パリ在住だよね)をハグ。




スティングが登場し、フランス語での挨拶の後、1分間の黙祷。








歌詞: http://www.sting.com/discography/lyrics/lyric/song/139












歌詞: http://www.sting.com/discography/lyrics/lyric/song/672
これはスティングが、ジム・フォーリーのドキュメンタリーのために作った曲。
https://www.jamesfoleyfoundation.org/jim-the-james-foley-story/
http://shark1053.com/sting-explains-the-song-he-wrote-for-the-james-foley-documentary-video/







2015年11月13日、EODMの物販をやってて事件に巻きこまれ殺された英国人、ニック・アレクサンダーさんのガールフレンド。










バタクランとは別に、銃撃が行なわれたカフェ。






翌朝。



11区の区役所。





バタクランで殺された人々を記念するプレート。






事件直後に祈りの場となったレピュブリック広場。(アルバニアの旗……犠牲者の中にアルバニア人やコソヴォの人がいたのだろう。)



運河で灯篭流し。






カリヨン・カフェ。本当に、なぜこんなところが襲撃されたのだろう。バックパッカーや学生の地域だ。今写真を見ても、信じがたい。
















一方ロンドンでは、物販担当のアレクサンダーさんを追悼し、彼と仕事をしたアーティストたちによる追悼ライヴが行なわれた。EODMも参加している。




※この記事は

2016年11月17日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼