「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2017年03月07日

アイルランド、テュアムで埋められていた子供たちは新たに見つかったんじゃない。約3年前の指摘を政府がようやく事実と認めたのだ。

2014年6月、私は何に関心を持っていただろう。イスイス団の西洋に対する残虐な敵意の垂れ流し祭りが始まる2ヶ月前で、自分の関心の非常に大きな部分がイスイス団に向けられたあとのことは覚えているが、その前のことは思い出せなくなってしまった。Twitterのログを見返しても雑多すぎて、イマイチはっきりとしない。そのときに私が関心を向けていたことは確かにあるのだが、その後に起きたあまりにも大きな、あまりにも衝撃的なことに吹き飛ばされて、それらは自分の中で流れを作っておらず、ただ「断片」となり、確かに記録として存在はしていてもあとからたどることは難しくなってしまった。

それでも、2017年3月3日、北アイルランド自治議会選挙の開票実況をゲラゲラ笑いながらTwitterで追っていたときに(選挙についてのブログはこのあとで書きます。まだ笑えるから困る)、アイルランド共和国から流れてきたニュースに出てくるその地名には、聞き覚えがあった。ゴールウェイ州だよな、とも思った。決して馴染み深い地名ではないのに。

実際、2014年6月7日、自分は下記のようにTwitterに投稿していたのだ。

tuambabies-june2014.png


自分の書きぶりからわかるが、このとき、このニュースを伝えるセンセーショナルな文言を、非常に多く見たのだろう。そういう中で、何とか「冷静な」ものを見ようとしていたことがうかがえる(「正常性バイアス」ってやつだろう)。そして私はアイリッシュ・タイムズは(特に宗教がらみのことではアイリッシュ・インディペンデントなどに比べて)信頼できるメディアだと思っていたし(今でもそう思っている)、そこにあるバイアスに気づいていなかったのだろう。

そう、2014年6月の私のバイアスに、2017年3月の私は気づかされている。

さっきから、「何のことだ」と思われているかもしれない。このことだ。

アイルランド、カトリック教会が運営していた児童施設の跡地から、大量の子供の遺体が見つかった。
https://matome.naver.jp/odai/2148855831728187001

2017年3月3日、北アイルランドのリストの画面と、ベルファスト・テレグラフやBBC Northern Irelandの開票速報の画面を開いて、ウィキペディアの選挙区ごとのページを見て前回の選挙のことなども確認しながら、北アイルランドの人々の「うはー」とか「うひょう」という声が響く中、単なる数字を見てゲラゲラ笑っていたときに、北アイルランドのリストに "Tuam" という地名を含むツイートがいくつも流れてきていた。

そのときは、選挙のことで頭がいっぱいだったし、「聞き覚えのある地名だ」と思いはしたものの、2014年のことはすぐには思い出せなかった。

ちょうど開票結果が出ない時間帯にさしかかっていて北アイルランドから特に進捗が入ってこなくなっていて、私は別のタブを開いてTuamの検索結果を表示させ、その中からいくつかRTをした。ほかにも、重要そうなツイートをブックマークし(Twitterの機能としては "like" ボタンを押した)、北アイルランドの選挙の開票結果がなかなか出てこない間に、「NAVERまとめ」にログインして、それらのツイートを記録し始めた。大臣の記者会見の実況ツイートやジャーナリストのまとまったツイートは、そのアカウントのツイートをある程度まとめて記録するという形でメモった。左目で北アイルランドの選挙速報をチェックしながら、右目でテュアムのことを「まとめ」ていたわけだ。こういう具合にリアルタイムで「マルチタスク」するには、ツイートの埋め込み用のコードを表示させてエディタにコピペし、ブログに投稿するよう整理していたのでは到底間に合わない。そして、そういう場合に非常に使い勝手がよいのが「NAVERまとめ」だ(個別のツイートに「コメント」をつけることができるので、対訳をつけたり訳注を入れたりすることが容易にできるし、単にツイートだけでなくGetty Imagesやロイターの報道写真も入れることができる、など。Togetterと違って編集作業は画面遷移なく非常に楽にできるし、本文を読みもせず、「コメント欄」とやらに何かを書くことだけが目的という連中を引き寄せることもない)。……などということをいちいち書かねばならないという強迫観念に、今の私はとらわれている(「インターネット・モブ」は、怖いからね。「叩く」「燃やす」といった行為を娯楽として楽しむ人々が、実数としてはどのくらいなのかわからないが、ネットでは相当数いて、相当な存在感を発揮しているわけで)。

そして北アイルランドの選挙の結果が出て、テュアムの件でのニュースが最初に流れてきてから24時間くらいしたときの私のツイート。3月4日(土)の夜だ。このときには「アイルランドで大量の遺体が発見された」という "ニュース" は、日本語でも報じられていた(Google Newsで見出しだけ見た。記事の中身は私は読んでない。英語だけで十分だ)。






5日(日)には、日本語圏でもかなりの関心を集めていることに気づいた。その夜、Tuamの件の「まとめ」を完成させようとNAVERにログインすると、マグダレン洗濯所(マグダレン修道院、マグダレン避難所)についてのページの閲覧数が爆増していた。








そして、例によって予想以上に時間がかかったが、第一段階としてアップしたのが下記の時点だ。







ヴェトナム戦争で報道カメラマンとして活動した岡村昭彦が「アイルランドにはすべてがある」と言ったのは、「英国の圧制を受け、抑圧され弾圧されてきたのもアイルランド人なら、ヴェトナム戦争をやってるのもアイルランド人(ジョン・F・ケネディ大統領)」という《流れ》を意識したことが発端にあった。最終的にはアイルランドに住み、(やはり「アイルランド人」の活動であった)ホスピス運動に行き着いた岡村は、ぐるぐると渦を巻くようにアイルランドから流れていってアイルランドに流れて帰り着くような人間の精神の営みを見ていたんじゃないかと思う。これについては、まだ私には書くことができない(書けるほど、十分に咀嚼できていない)。けれど確実なのは、その「すべて」には、「抑圧されてきた人々が、抑圧者になるということ」が含まれているということだ。(それを非常にたくみに物語の一要素として取り入れていたのが、ケン・ローチの映画、Jimmy's Hall――すいません、原題がすばらしすぎて、邦題がどうしても覚えられない。「野」がなんたら、「英雄」がなんたら……――である。)

ともあれ、そうして最初に「NAVERまとめ」のページをアップしたときには、この「まとめ」は5ページで終わっていた。
https://matome.naver.jp/odai/2148855831728187001?page=5

↑このページ↑で「ところで#TuamBabiesのハッシュタグはいつ作られたのか(いつから話題になっていたのか)」という見出しから下は、(最後の最後にあるSee alsoのセクションを除いて)いったんアップしたあとに付け足した部分だ。






↑このツイート↑には、下記の画像を添付してある。ブログでは画像をもっと大きく表示させられるので、ここでは別にしておくが、こういう画像だ。

tuambabies-hashtag2014.png


上記「まとめ」の5ページ目以降は、こうしてさかのぼってみた「古いツイート」を集めた部分だ。

それをたどり直すことで、「カトリック教会の管理下にあった子供の遺体が大量に地下に遺棄されている」と指摘した人々がどんな目にあわされたか、少しは追体験ができる。

実に、ひどいものだ。

そしてうんざりさせられるのが、これが2014年のことで、2009年のライアン報告書(カトリック教会による児童の性虐待に関する報告書)の5年後であり、2013年のマグダレン洗濯所での人権侵害についての政府の謝罪の後でもある、という事実だ。

アイルランドにおいて、教会は既に影響力を失い、「存亡の危機」に立たされているような状態だ。そうした巨大組織が、組織防衛のために動くというのは、別に驚くようなことではないかもしれない。

そして、「子供たちが埋められている」ことを指摘した人々は、いわれのない中傷にさらされたのだ。

2014年に。21世紀に。

※まだ書き足す。

※この記事は

2017年03月07日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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