以下で述べているのは、厚生労働省のサイトにアップされた「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議: 新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言(2020年3月19日)」 で用いられている用語についてである。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000610566.pdf
本稿は最初にアップしたとき、事態のリアルタイム性を重視して「何があったか(何を見たか)を時系列でたどる」形式で書いたので、問題の用語の初出である上記文書へのリンクが記述の中に埋もれてしまっていたので、改めて上に掲示しておく次第である。また、これを加えた際に、ついでに本文に少し追記を加えた。内容は変えていない。より大きな追記はまたこのあとでおこなう予定である。
追記は以上。以下、アップロード時の文章。
3月17日(日本時間では18日早朝)のアイルランドでの首相の素晴らしいスピーチの余韻も冷めやらぬ中、今度は日本で、3月19日の夜、政府の専門家会議が新型コロナウイルス感染症について検討した結果を、記者会見で広く一般に伝える、ということが行われた。ネットで生中継されていたので私も何となくつけていたが、アイルランドに「言葉の力」をこれでもか、これでもかと見せられたあとで、日本では標準的なものではあるが、言葉に全然力のない、間延びした物言いを聞き続けているのは、正直、非常につらかった。それでもそこで語られていることは重要なことで、ちゃんと聞いておかないと……と思ってはいたのだが、英文法の本を読みながら聞いていて(全然ちゃんと聞いてない)、途中でトイレに行きたくなって、ついでにお茶を入れるなどしていたので、結局、ろくに聞かずに終わってしまった。
しばらく経ってから、会見の内容をまとめた記事がそろそろ出ているのではないかとYahoo! Japanのトップページを見てみると、Twitterで話題になっている語句を表示する「リアルタイム検索で話題のキーワード」の欄に、「オーバーシュート」という語が出ていた。この語と一緒に「つぶやかれているワード」から専門家会議の会見での言葉だということはすぐにわかった。私にはなじみのない言葉だが、会見で出てきていたか。どういう文脈で出てきてたんだっけ?
リアルタイム検索を見ると、「アウトブレイク、パンデミック、クラスター、などなど、カタカナ語ばかりでいやになる」という主旨の発言が並んでいた。「キャプテン翼か」みたいな発言もいっぱいあった(「それはオーバーヘッドシュートだろう」と突っ込むべし)。そういう中に、私が自民党の国会議員だと認識できる名前の方(どなただったかは覚えてない)が「オーバーシュート(爆発的感染拡大)」と記載しているツイートがあった。この記述は「オーバーシュートという専門用語があって、それは『爆発的感染拡大』という意味だ」ということを含意する記述である。(3月23日追記: あとから調べてみれば、この言葉は「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」による「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言(2020年3月19日)」で用いられていて、専門家会議の人たちによる記者会見でも当然口にされていたのであったが、リアルタイム検索の画面を見ていたときの私は、まだそこまでたどり着いていなかった。)
「オーバーシュート」ってovershootでしょ。「飛行機が着陸地点を通り越して飛んでいく(そして、場合によっては本来の着地点とは外れたところに着陸してしまう)」ことに使う語だが、「爆発的感染拡大」なんていう語義あったっけ? ……というのが最初の反応。
次にすることは、とりあえずネットで簡易的に辞書を引くことだ。はい、コリンズ:
https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/overshoot
オクスフォード:
https://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/english/overshoot?q=overshoot
どちらもだいたい同じ。「自分が止まろうとしていた地点よりも遠くに行ってしまうこと」(先述の飛行機の例)、また「最初に考えていたよりも多くのお金を使ってしまうこと」。もう少しかみ砕いて考えると、「何かを物理的に飛び越してしまうこと」(overした状態にまでshootする)と、その意味を比喩的に展開して「何かを超過すること」。どちらも動詞だが、名詞としての用法もある。
「爆発的感染拡大」をもう少しヒラな感じ(文脈から切り離して一般化した感じ)にして、「何かが急激に増えること」と《翻訳》してみたところで、コリンズにもオクスフォードにも(さくっと確認できる範囲では)その語義は見られないということになる。
きっと辞書が貧弱なんだ。大辞典には載っているはず……と、2時間ドラマで凶器として使われそうなでかい辞書を取り出そうとしたが、だるかったのでやめた(3月23日追記: コリンズ・コウビルドにもオックゥフォードにも載っていないような語義なら、一般向けに使うべきではないか、「和製英語」的な何かでしかないということだし)。その前にウィキペディア(英語版)だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Overshoot
ここからテキストだけコピペすると(ハイパーリンクはコピーしない):
Overshoot may refer to:
- Overshoot (population), when a population exceeds the environment's carrying capacity
- (書籍のタイトルなので略)
- Overshoot (signal), when a signal exceeds its steady state value
- Overshoot (microwave communication), unintended reception of microwave signals
- Overshoot (migration), when migratory birds end up further than intended
- Overshoot (typography) the degree to which a letter dips below the baseline, or exceeds the cap height
- Overshoot (combat aviation), a key concept in basic fighter maneuvers (BFM)
- In economics, the overshooting model for the volatility of exchange rates
というわけで、「何かが急激に増えること」は、あえていえば最後の "the volatility of exchange rates" に関する用語。株式や証券の相場に関する用語だ。
「爆発的感染拡大」とは、何か違くない?
でも実際の英語ではそういう転用が見られるのかもしれない。ということでGoogle検索を試したり、米語コーパスで調べてみたりしたのだが、やはり、「爆発的感染拡大」の意味でovershootの動詞・名詞が使われている例は見当たらない。エボラ出血熱やら豚インフルエンザやらMERSやらSARSやらの深刻な伝染病、あるいは家畜の伝染病の口蹄疫やら何やら、はたまたワクチン反対の陰謀論者のおかげで復活してきたという麻疹など、「爆発的感染拡大」が語られる事案はたくさんあるのだから、「爆発的感染拡大が生じた今回の新型コロナウイルスが出てきたのは最近すぎて、コーパスが扱えていないから、検索結果に出ないのだ」と考えるのもおかしい。WHO(世界保健機関)の用語集にもovershootは見当たらない。
と、リアルタイム検索を見ると、PubMedをチェックした方のツイートがあった。(そうだ、こういうときはPubMedだ。)
「オーバーシュート(爆発的感染拡大)」って、あまり海外メディアの新型コロナウイルス関係の記事では聞き慣れない言葉やし、PubMedをあたっても、そのような意味合いでは使われてないようなんやが…https://t.co/qDV9Sp0sdJ
— 西中島ラモーンズ若 (@sowhatdosickie) March 19, 2020
何と、PubMedにも出ていないと。。。と見てみると、なるほど、見当たらない。
「オーバーシュート」なる用語はなじみがないのだが、PubMedでも見あたらないのか…… 確かに、 "Overshoot during phenotypic switching of cancer cell populations." みたいな用法で使われているのはあるが、「爆発的感染拡大」の意味のは見当たらない。1/n https://t.co/OkNN6TrlA1
— nofrills/共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) March 19, 2020
以下、自分のツイートの文面コピペ(ツイートのエンベッドがめんどくさいので文面コピペ)。
https://www.english-corpora.org/coca/ 米語コーパスでovershootを検索すると、動詞として用いられている例や名詞でも「(物理的に何かを)飛び越すこと」は別として「超過」の意味の名詞では、population overshootはあるが……うーん。
あと、overshootの語義は、各種辞書の他 see: https://en.wikipedia.org/wiki/Overshoot
PubMedならぬ一般の文章ではvirusでは範囲が広すぎると思ったので「covid-19 overshoot」をキーワードにしてGoogle検索してみた。英語と日本語が混在した検索では日本語圏だけ「爆発的感染拡大」で、英語圏では「グラフを突き抜けてますね」みたいなのはあることはあるけど……微妙。

グラフを見るときに突出しているところを「ここ、オーバーシュートしてますね」みたいに言うことがあるのかもしれないけれど、少なくとも、英語報道記事でovershootという単語は見かけない。ちなみにBBCの検索結果: https://www.bbc.co.uk/search?q=overshoot

「病院のキャパを超える」といったことを言う場合は、報道ではoverwhelmが用いられてるはず。こんな感じ:
Spike in cases threatens to overwhelm hospitals
https://www.eagletribune.com/news/merrimack_valley/spike-in-cases-threatens-to-overwhelm-hospitals/article_8a0142e6-e7b4-5832-951f-20b8af59bd3e.html
「感染例の急増が、病院をoverwhelmするおそれ」
というわけで、3月19日の夜の会見で政府専門家会議の人が使った「オーバーシュート」という語に「爆発的感染拡大」という意味があるかどうか(それを意味する専門用語として確立されているかどうか)は、どう控え目に言っても、「そういう意味で使われているというエビデンスがない」ということになる。もちろん、Google検索やBBCの検索に出ないからといって「そのような用例は存在しない」とはいえない。しかし確認ができない以上「ある」とも言えない。ましてやそのようなはっきりしない(エビデンスを確認できない)語が、専門家会議の記者会見のような広く一般に情報を共有するための場で使われるべき用語として適格であるかどうかは、おおいに疑問である。専門家同士の話ならそれでよいのだろうが、一般人相手にはどうなのか。
うちら翻訳者は、「エビデンス」がなければほぼ何もできない。「何も足さない、何も引かない。サントリー山崎」で、原文のまま形だけ日本語にしてことばの置き換えをすることもできなくはないが、それではルー語になってしまい、日本語訳という仕事をしたことはにならない。目の前にある英語の単語、例えば "positive" をどのような日本語にすることができるかは、日本語でのエビデンスと照らし合わせて判断するのだ。
例えば、「ウイルス検査でpositiveの結果だった」なら「陽性」だし、「positiveなこたえ」だったら「肯定的な」だ。「positiveな数」は数学で「正数」だし、「positiveな姿勢」なら「前向きな」である。こういった訳語の選択・確定は、すべてエビデンスに基づいている。うちらにとって欠かせない存在である辞書が、そのエビデンスの集積体である。私が「ウイルス検査で陽性の結果だった」と訳出した個所は、表現の違いはあるかもしれないが、他の人が訳しても同じ意味になるはずだ。一方で、私が「ウイルス検査で前向きな結果を得た」などと訳したら他の人から誤訳だと指摘されるだろうし、「ウイルス検査で青色の結果を得た」などとしたら、いったい何をどう見たらそういうことになるのかと問い詰められるだろう。既にそこにある語に、好き勝手に意味をつけることはできないのである。
その英単語がそういう《意味》であること、その《意味》を表すために日本語ではこのような語を用いることになっているということは、極めて科学的に実証できる事実であり、辞書を参照することによって、誰もが検証することができる。その上で訳語を工夫したり表現を練り上げたりすることはあるが、基本的な部分は辞書で確認できる通りなのが原則だ(もちろん、慣用句や気持ちを表す表現はその限りではないが)。ことばというものは、そのような相互理解、理解の共有の上に成り立つ。ことばというものは、そのような信頼のないところでは機能しない。その上でこそ意味をなし、人に必要な情報を伝え、人にメッセージを伝え、人の心を動かす。そういうものだ。
だから、聞き慣れない新語や四字熟語が出てきたときは、警戒しなければならない。少なくとも「これは何なのか」と問わなければならない。そうしなければ私たちはことばを使うことはできない。ことばに使われてしまう。もっと言えば、ことばを作る者たちに使われてしまう。
そのことを追求し続けた書き手がジョージ・オーウェルだ。彼の怜悧なエッセイは、読んだことがない人は読むといい。もちろん『1984年』などの小説も。

あなたと原爆 オーウェル評論集 (古典新訳文庫) - ジョージ・オーウェル, 秋元 孝文

オーウェル評論集 (岩波文庫 赤 262-1) - ジョージ・オーウェル, 小野寺 健, George Orwell, 小野寺 健
![一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫) - ジョージ・オーウェル, 高橋和久](https://m.media-amazon.com/images/I/41ZAgdWin2L._SL160_.jpg)
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫) - ジョージ・オーウェル, 高橋和久
閑話休題。「オーバーシュート」なることばについて。
「もういいから、専門家会議はヨコモジ使うより、最初っから英語で説明してほしい。その英語を翻訳者が日本語にしたほうが用語の統一が取れるんじゃないか」と私は皮肉を込めてツイートした。実際、用語の統一は私たちが一番神経を使うところだ。広く人々に情報を伝えるためには、用語は重要だ。
用語の統一は理解・共有されるべきことの統一。情報伝達(コミュニケーション)として最も基礎的で大事なところ。そういうところで、こういう局面で、「オーバーシュート」という新しい言葉を持ち出してくる専門家会議と、その言葉をあたかもずっと知っていたかのようにふるまう政治家。若者のハッタリならそれでもいい。しかし国のリーダー層がそれというのは、絶望させてくれるよね。
専門家会議の専門家は、イタリアで起きていることを「オーバーシュート」と呼んでいるようだが、italy overshootでGoogle検索しても今回の新型コロナウイルスについての話は出てこない。検索結果2ページ目まで環境保護運動か経済についての用例ばかりだ。3ページ目で飛行機のオーバーランのニュース等が出てくるが。(下記、画像はクリックでまともに読めるよう表示されます。)

この様子からは、仮に「オーバーシュート」が「爆発的感染拡大」の意味で使われているとしても、それは極めて限定的な範囲でのことと考えられる。仮に使われているとしても、報道機関のスタイルガイド(用語集)に載っていないくらいに限定的なのだ。
さらに問題はこれ↓だ。私は新聞にはもっと多くを期待しているのだが。
爆発的拡大「オーバーシュート」警戒 都市部の増加踏まえ、政府専門家会議が新見解 https://t.co/F825GH2wtx 毎日新聞、見出しはカギカッコでくくっているが本文は "……どこかの地域を発端として爆発的な感染拡大(オーバーシュート)を伴う大規模流行につながりかねない」とする新たな提言" と記載
— nofrills/共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) March 19, 2020
毎日新聞のこの記述のスタイルでは「爆発的な感染拡大」のことを専門用語で「オーバーシュート」というのだ、という意味になってしまう。大丈夫なのか? 英語圏ではOvershootを「爆発的な感染拡大」の意味で使っている用例は、見当たらない。(「グラフ上の突出した山」の意味などの用例はある)。
— nofrills/共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) March 19, 2020
※毎日新聞のこの記述にはもうひとつ問題がある。厚生労働省のサイトにアップされた「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議: 新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言(2020年3月19日)」 では、「オーバーシュート(爆発的患者急増)」と何度も記載されている。「爆発的な感染拡大」ではない。同じ言い換えがNHKの報道でも確認できる(→archive)。NHKの記事に埋め込まれている映像ではアナウンサーがずっとしゃべっていて専門家会議の人たちのことばが一切聞こえないのだが、The Pageによる会見文字起こしによると、専門家会議の尾身氏が「今回われわれが最も重要だと思っていることは、本感染症は気が付かないうちに市中に、まちの中に感染が広がり、ある日突然、爆発的に患者が急増する、いわゆるオーバーシュートですね、ある日突然、爆発的に患者が急増するオーバーシュートが起こり得るということだと思います」と述べている(太字は引用者による)。リンク先のページの次のページなどでも、「オーバーシュート」は同様に「爆発的な患者急増」と言い換えられている。しかし、報道では「爆発的な感染拡大」だ。「患者急増」ではわかりづらいから「感染拡大」とした……とは考えられない。なぜなら「患者急増」は十分にわかりやすいからだ。なぜこのような言葉の置き換えが行われているのか、専門家会議のメッセージの同一性と、ひょっとしたら一貫性が損なわれているのか、私はおおいに疑問に思う。どういうことなのか、説明がほしい。
※ちなみに同じことを伝える朝日新聞の記事は、「オーバーシュート」という用語を使わず、「患者の爆発的な増加」と表している。これは評価できる判断だ。
さて、こういったことをツイートしていたら、翻訳者の大先輩で「理系」のバックグラウンドをお持ちの高橋さきのさんから、「『クラスター』が19世紀公衆衛生学でのごく普通の『感染者集団』以上の意味がないのと同様、『オーバーシュート』も曲線が複数回ビュンビュン乱高下する際の高い方にビュンと振れるという相場用語を借用してきたということかと」というリプライをいただいた。公衆衛生についてもお詳しい方である。
日本には、公衆衛生の専門家がほとんどいないのではないでしょうか。前面に出ておられる先生方を見ても、社会政策側のこともデフォで理解しておられる方は、限りなくゼロに近い? (そういう人は選ばれないわけでもあり。) それ以外は自称専門家にすぎません。
— Sakino Takahashi (@sakinotk) March 19, 2020
日本の公衆衛生分野は、広がりのある分野としては、2回、実質的につぶれているのですよ。一度目は大正デモクラシーの弾圧から戦争への時期。二度目は高度経済成長が本格化するあたり。←一時期、労働現場と結核について追っかけていたので。
— Sakino Takahashi (@sakinotk) March 19, 2020
数日前の高橋さんのツイートより:
この機会に、石原修『衛生学上ヨリ見タル女工の現況』1914(T3)をぜひ。今風に言えば、結核のSuper Spreading Environmentとしての紡績工場、製糸工場、帰された先の農村などを調査したもの。この調査は工場法の施行に大きな意味を持つことになりました。国会図書館で読めます。https://t.co/4plB0J9Jun pic.twitter.com/UiSM5owLGJ
— Sakino Takahashi (@sakinotk) March 16, 2020
高橋さんと私とは、「ことばの扱い」に対する危機感を共有している。特に自治体のサイトなどで多用されている「多言語化」と称する機械翻訳導入についての危機感は、かなりのものがある。あれは完全に「ことばの軽視」であり、その軽視は人命にかかわる。その話はまた別の機会に書きたいのだが、今回のこの「オーバーシュート」という単語の選択について私が抱いていた違和感は、高橋さんとのやり取りの中で少しはっきりしてきた。つまり、over-という英語の接頭辞は「意図せず、予想外にも、ついうっかりと」のニュアンスがある (oversleep, etc)。あるいは「制御不能」のニュアンス (overrun etc)。誰も責任を負いそうにない感じなのだ。高橋さんいわく、生物分野で使うときも、overshootという語は、基本、「あっ超えちゃった」なのだという。
もちろん、この未知のウイルスの大流行そのものに責任を負える人などどこにもいない。でも、それを語るためにわざわざ選ばれた語が、なぜこんなに軽薄なのか? 他のことばがあるだろう。カタカナであれ、漢字であれ。
普段から、この国、つまり日本語圏の指導者層は、「断腸の思い」だの「苦渋の決断」だの「藁をもすがる思いで」だの、情緒的な方面ではいくらでも大げさで重々しい言葉を持ち出してくるくせに、本当に深刻で真剣にならねばならないことについてはことばをとことん軽視する。日本語圏のそういった言語はとてつもなく乏しいと私は感じている。
ここでジョージ・オーウェルの引用などを入れたらかっこよいし、かっこよい以前に私はそうしたいのだが、そんなことをやり始めたらいつまでたっても書き終わらないので断腸の思いで先に行く。腸をずるずるひきずりながら。
専門家会議には、株屋さんがおられるのかしら。「オーバーシュート」の意味を知りたければ、証券会社の用語集へGo!
— Sakino Takahashi (@sakinotk) March 19, 2020
(英英辞典や、英和辞典や、生物学の教科書や、WHOやCDCや……そういうところを探しても、違った意味しか載っていなかったり、そもそも使われていなかったり?)
会議の議事録を見てみたいもの。まさかとは思いますけど、「どなたかがこの用語を持ち出す→全員が昔から知ってたようにふるまう」なんてことになってたりしませんよね。それとも議事録はとっていなかったり、なかったりすることになるのかしら。
— Sakino Takahashi (@sakinotk) March 19, 2020
別スレでのやりとりで出てきたovershootの語感ですが、理系だと、英文ウィキペのOvershoot (signal)の項目を見るのがよいかも(類例は生物学辞典にもあります)。各分野の典型的なグラフも出ていますが、今回の事態に使う用語としては、不適切感しかなく……(=いずれも原義のovershootの語感内。)
— Sakino Takahashi (@sakinotk) March 20, 2020
なんていうのかな、工学的な「制御」が可能な(はず)の系で、「あぁぁ超えたぁ」的なイメージで、もろに、overshootの原義《英英辞典に載ってる語釈ということ)の範囲内。そもそも技術用語というのはそういうものですから。…今回は(カーブの形状はともかく)そういう事態ではないわけで。
— Sakino Takahashi (@sakinotk) March 20, 2020
違和感をおぼえているのは高橋さんと私だけではない。Twitter検索するとたとえば:
急激に増えることを「オーバーシュート」と表現すると、すごくもやもやする、制御工学習った勢。
— Kumagai, M (@kumarobo) March 19, 2020
そうなんですよ。最速制御では許容値範囲値内で故意的にオーバーシュート使いますからね。
— 赤木 裕@埋蔵文化財調査室 (@bootnet1) March 20, 2020
そして、私はTVを見ない(TV受像機がない)環境にいるので「お昼のニュース」の類は見ていないのだが、下記のようなツイートもある。
ニュースでオーバーシュートオーバーシュート言っててブーストかよって感じ
— 中野板金商会 (@PLEO_evolution) March 20, 2020
やはり「新奇なカタカナ語をぶっこんできたな」という印象だ。新しい語をぶっこんでくるのは、情報操作の王道だ(それは必ずしも悪いことではない。その語が与えられたところで、その現象が新たに認識されるということもある)。
となれば、「オーバーシュート」という耳慣れないカタカナ語を持ち込んだことの意図、真意は何かを問うていかねばなるまい。
私もオーバーシュート、初耳でした。メディアの方では、発表側が使った言葉をそのまま使っているでしょうし。
— 手を洗う♪ぶみにゃんご (@bumicchu) March 20, 2020
厚労省の発表資料に、11回も使われていました。
— 手を洗う♪ぶみにゃんご (@bumicchu) March 20, 2020
パンデミックなどの表現では、これから国内で「爆発的に増える」と表せなかったのではと感じました。グラフの説明の箇所で使われています。今回の会議で、そういう説明をしようとなったのでは。漢字でいいのに。https://t.co/krdzelUMuN
気象と感染症は万国共通用語でないとまずいはずでもあります。カタカナでも、いろいろ候補はありえたはずですが。
— Sakino Takahashi (@sakinotk) March 20, 2020
一応、基本的に、感染症は下記3つの用語を使うんですよね。
英:endemic エンデミック(地域流行)
特定の人々や特定の地域において、「regularly (ある程度の割合、ポツポツと)」見られる状態。地域的に狭い範囲に限定され、患者数も比較的少なく、拡大のスピードも比較的遅い状態。「流行」以前の段階。風土病もエンデミックの一種にあたる。
英:epidemic エピデミック(流行)
特定のコミュニティ内で、特定の一時期、感染症が広がること。特に突発的に規模が拡大し集団で発生することを「アウトブレイク(outbreak)」と呼ぶ。
英:pandemic パンデミック(汎発流行)
(さらに流行の規模が大きくなり)国中や世界中で、感染症が流行すること。世界流行、世界的流行とも。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF#%E6%A6%82%E8%AA%AC
"突発的に規模が拡大し集団で発生することを「アウトブレイク(outbreak)」と呼ぶ" わけで、それと「オーバーシュート」の違いは何か、という疑問は、当然出てくる。ちなみに今回の専門家会議の「提言」のPDFには「アウトブレイク」の語はない。
どういうことなのか、それなりに関心を持って注意していきたいと思う。
……と、こういうことを書いていたら、朝日新聞記者の梅原季哉さんから下記をご教示いただいた(多謝)。
こんにちは。私も昨夜会見を視聴しながら違和感を覚えたので探したところ、IndependentのライブブログでChief medical officer for Englandがwhat's called overshoot where more people get infected than you would need if it were to run at a lower peakと話した例がありました。(続く)
— 梅原季哉 Toshiya UMEHARA (@tosume) March 20, 2020
(承前)こちらのライブブログ→https://t.co/UoMCKlSFNE
— 梅原季哉 Toshiya UMEHARA (@tosume) March 20, 2020
です。単独のURLが生成されないので探しにくいですが、19日13時51分のSamuel Osborne記者によるエントリーです。ご参考まで。
ご教示いただいたリンク先のインディlive blog記事には確かに次のようにある。(Chris Whitty という名前を見ると「あー、またあなたか」と思ってしまうのだが、テクストはテクストとして読む。)色を付けた部分に注目だ。
People can die 'directly and indirectly,' chief medical officer says
Chief medical officer for England Professor Chris Whitty said people can die directly and indirectly during an epidemic.
He said: "People die in these epidemics... for two reasons.
"They die directly of the infection, unavoidably, best medical care, sadly this is still going to happen for some people.
"But also they can die because the health service they are in is overwhelmed and therefore there's an indirect death because there's a difference between what could happen with health and what we were able to provide in this situation."
On reducing the peak of the infection, he added: "It has an additional advantage, if you let an epidemic run its full course you get what's called overshoot where more people get infected than you would need if it were to run at a lower peak.
"Actually by lowering the peak you reduce the overall number of people who will get the infection."
"what's called overshoot where more people get infected than you would need". これは、what's called (= what they call) を使って、聞き手には了解されていない「用語」としてovershootを使ってますね。「いわゆるオーバーシュートの状況になります、必要な(=やむを得ない)以上の数の人々が感染する状況です」といった意味(直訳なので不格好な訳文なのはご容赦)。
記者も、ウィティ氏が口にしたままを書き起こしているだけで、用語の検討はしていないと思う。
インディペンデント紙のサイト内検索でovershootを検索してみても、飛行機の着陸のことと、経済(特に予算超過)のことと、環境保護運動(「地球を上から (over) 撮る (shoot)」日というのを人々がイベントとしてやっている)のこと、鉄道のオーバーランのニュースくらいしか出てこない。
この用語については、引き続き、関心を持ってチェックしていきたいと思う。
ミラン・クンデラの小説にちなんだ「〇〇の耐えがたい軽さ」という言い方自体が耐えがたいほど軽くていやなのだが(小説は20代で読んで、すごい衝撃を受けた)、この件ではそれを使わずにはいられない気分だ。つまり、「専門家が使う、一般人にはなじみのない、よくわからない用語の耐えがたい軽さ」と。本稿のURLはそういう意味である。
※この記事は
2020年03月20日
にアップロードしました。
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