「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2018年11月01日

ハロウィーンの日、本場アイルランドについて、今熱い「ボーダー(境界線)」について、改めてまとめてみる

ハロウィーンの日、本場、デリー(アイルランド)/ロンドンデリー(北アイルランド・英国)の毎年恒例のパレードは今年もネットで中継されるようだ。本場のパレードがどういうものか、見たい人は、チェックしておいていただきたい。ごく最近になってハロウィーンというものが入ってきた日本では「仮装してバカ騒ぎができる日」という変な受容がされているが、元々は死者が帰ってくるというケルト(キリスト教以前)の「お盆」のような日だ。仮装するのは、そのときに一緒にやってくる悪霊をびっくりさせて追っ払うためだそうだ。

今年、2018年は1993年から25年(四半世紀)の節目の年だが、1993年の10月といえば、北アイルランド紛争で最も血なまぐさく陰惨な「暴力の連鎖」が起きている。あとから見ればそれが「最終盤」だったのだが、当時、暴力の真っ只中にいた人たちは、それが「最終盤」だとは思っていなかっただろう。

その1993年の「暴力の連鎖」については、5年前(20周年のとき)にまとめてある。

20年前の1993年10月、シャンキル・ロードからグレイスティールへ、暴力は連鎖した。
https://matome.naver.jp/odai/2138320196046648301

そして25年経過した2018年、北アイルランド紛争とは直接関係のないことで、また、北アイルランドが前景化している。いや、正確には「北アイルランドが」ではなく「アイルランド島にあるあのボーダー(境界線)が」と言うべきだろう。

その「ボーダー(境界線)」は、日本語では「国境」と呼び習わされているが、あれを「国の境」と呼ぶことができるかどうかはとてもデリケートな問題で、私個人は「国境」とは呼びたくない。その理由は、しばらく前(「パレスチナ国」が、名目だけであるかもしれないが、できる前)のイスラエルとパレスチナの間のボーダーを「国境」と呼ぶことはできないことの理由(パレスチナが「国」ではないから)とは、似ているようで違う。アイルランドはさほど大きくない1つの島であり、1つの島が1つの国であるのが当然だという考えに、私が寄っているからだ。

その「1つの島が1つの国」の考え方をするのが、20世紀以降のアイリッシュ・ナショナリズムである。彼らは「アイルランドの統一」、つまり「統一アイルランドの実現」を望んでいる。IRA(を含むリパブリカン)の政治的暴力の大義はそれであった(彼らが求めていたのは「北アイルランドの独立」ではない、ということは、何度も書いているとおりである)。

周知の通り、アイルランドは、1921年のアングロ・アイリッシュ条約で「南」の26州と「北」の6州に分断された。両者の間に引かれたのが、2018年の今問題になっている「ボーダー(境界線)」だ。

アイルランドは古くから、アルスター、マンスター、レンスター、コノハトの4つの地域に分かれていたが、1921年に確定された現在の「ボーダー」はそれに従っているわけではない。アルスターのうち、一番北にあるドニゴールと、南に近いキャヴァン、モナハンの3州は切り離され、「南」の一部ということにされた。その理由は、「北」はプロテスタントが数的優位に立っていなければならなかったことにある。「プロテスタントの住民たちが望んで、カトリックのアイルランドではなくプロテスタントの英国の一部として留まることになった」という形式が、絶対に揺らいではならなかったのだ。

「アイルランド問題」は20世紀のものだが、その実、本質的には19世紀の植民地主義の積み残しだ。そして英国は「好き勝手に境界線を引くこと」について、間違ったことだとか問題だとかいった見方は全然していなかった。彼らの思う「合理的」な境界線を、現地を無視して引くことに、何も問題は感じていなかった(最もわかりやすい例としては中東を見よ)。「アルスター」の歴史は英国の恣意的な境界線によって一貫性を断ち切られ、「北」の6州と「南」の3州に分けられて、さらに「アイルランド」全体が「北」の6州と「南」の26州に分けられた。そして「南」は、「アイルランド自由国 the Irish Free State」となり、「アイルランド共和国 the Republic of Ireland」となった。

そのままだったら、「アイルランド共和国」は「南の26州から成る国家」で確定されていただろう。しかし現実にはそうはならなかった。アイルランド(南)には常に、「1つの島で1つの国家」という理念があった。ざっくり説明すれば、26州から成る「アイルランド共和国」は仮のもので、いつかは「アイルランド国」として32州から成る国家になるのだ――という理念だ。アイルランドの憲法(アイルランド共和国の憲法、と言うと不正確になるのだが、実質的にはアイルランド共和国の憲法と考えておいてよい)は、そのために、「アイルランドは36州から成る」ということを明文化していた。「1つの島が1つの国」という形式を明文化していたのでる。

一方の英国は、明文化された憲法というものを持たない、とてもややこしい存在である。

1990年代、「北アイルランド紛争」が武装勢力の武装活動停止という大きなモメンタムを得て交渉交渉また交渉の日々の末に「和平合意」という形で終わったとき、当事者は北アイルランドの各武装勢力と各政党と、英国政府と、アイルランド(アイルランド共和国)政府で、それぞれが譲歩した。

北アイルランドの武装勢力は活動停止と武装解除という譲歩を行なった(武装解除すべき勢力が武装解除し終わったのは11年後だったが)。政党は武装勢力の代弁者である政党にも政治の場を与えることに同意した(この同意をしなかった政党がDUPである)。

英国政府は「北アイルランドは絶対に何があろうともずっと英国の一部」という立場をさらに少し緩め、「そのうちにそういう風向きになったら、実際にアイルランド島に住んでる人たちで投票をして、帰属を決めていい」というスタンスを明示的に取るようになった(英国が譲った部分がとても小さいということに留意)。

そしてアイルランド(アイルランド共和国)は、憲法から「アイルランドは36州から成る」という条文を削除した(憲法修正。レファレンダムで支持を得て決定された)。

これが1998年の和平合意、すなわち「ベルファスト合意」もしくは「グッドフライデー合意」である(英語圏の報道などでは「グッドフライデー合意」の呼称が一般的で、略称はGFAである)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Good_Friday_Agreement

そしてこの合意の結果、「北アイルランド」は将来的にはどうなるのか、結論できていない、ということになった。

The agreement acknowledged:

- that the majority of the people of Northern Ireland wished to remain a part of the United Kingdom;
- that a substantial section of the people of Northern Ireland, and the majority of the people of the island of Ireland, wished to bring about a united Ireland.

Both of these views were acknowledged as being legitimate. For the first time, the Irish government accepted in a binding international agreement that Northern Ireland was part of the United Kingdom. The Irish Constitution was also amended to implicitly recognise Northern Ireland as part of the United Kingdom's sovereign territory, conditional upon the consent for a united Ireland from majorities of the people in both jurisdictions on the island. On the other hand, the language of the agreement reflects a switch in the United Kingdom's statutory emphasis from one for the union to one for a united Ireland. The agreement thus left the issue of future sovereignty over Northern Ireland open-ended.

https://en.wikipedia.org/wiki/Good_Friday_Agreement#Status_of_Northern_Ireland


この点の理解が、日本語圏では十分でないようで、「あー、あのー、ちょっとそれは……」という記述に遭遇することは、珍しくない。

以下、書きかけ。

とりあえず、いい本あるから読んでちょー。見て楽しく、読んで勉強になるすばらしい1冊:

図説 アイルランドの歴史 (ふくろうの本)
図説 アイルランドの歴史 (ふくろうの本)



※この記事は

2018年11月01日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 00:50 | northern ireland/basic | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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