「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年09月16日

「個人」として、「戦争にさよなら」するために……映画『クワイ河に虹をかけた男』

タイの首都バンコクの高架鉄道(ほんの数年前のデモのときに駅が閉鎖されたりしてTwitterで現地のデモ参加者が様子を報告していたことを思い出す)を、DAIKINというアルファベットが書かれた列車が走っている。大阪に本社のあるエアコンで有名なあの企業のラッピング広告だろう。

非都市部にある、私の目から見れば「掘っ立て小屋」と呼んでしまうような、おそらく電気も通っていない家。曾祖母が暮らしていた家のように広い土間の空間があり、居室空間は人が腰掛けたときの高さで作られた床の上。高齢となった男性が一人暮らすその居室空間の片隅に、NISSINという、非常に見慣れたロゴが印刷された段ボール箱が置かれているのをカメラはとらえている。薄暗い場所にぽかっと浮かぶ赤い企業ロゴ。日本企業のロゴ。

その家に暮らす男性は、元労務者だ。日本語での「労務者」は、日常の語彙ではあまり使わないが、「肉体労働者」の意味だ。しかしこの男性は――つまり「ロームシャ」として現地の言葉の語彙にも入っていることばで言う「労務者」は、第二次世界大戦中、日本軍の占領下で肉体労働に狩り出された人々のことだ。英語では "forced labourer" と表す。このような "forced" を「強制」と訳すと、所謂「厳しいご意見を頂戴」することになりかねない昨今だが、ともあれ、日本語ウィキペディアの「労務者」のページを見て、私は今、どうしたらいいのかわからないという気持ちにもやもやと包まれて、画面を見ている。これは「曖昧さ回避のページ」であり、「事典のエントリー」ではない。ここには「これは、かつては差別的なニュアンスで使われていたが、今は使われない用語である」と一般的な語義があり、「華人労務者」のエントリーへのリンクがあり、「労務者(映画)」へのリンクがある。しかし、肝心の、(「華人」以外の))「労務者」(第二次大戦中に「労務者」として狩り出された占領下の人々)について何かを調べようと思ったら、英語版ウィキペディアのRomushaのエントリーを見なければならない。



今、この文章を打ち込んでいるキーボードの横には、今日見てきた映画のパンフレットを開いている。映画を見ながらノートにとっていたメモの、めちゃくちゃな文字(暗い中で、手元を見ずにペンだけ走らせているので、自分で書いたとはいえ解読が大変である)に目をやる。カギカッコつきで、こういう言葉を書き付けている。

「こういうことを我々は平気でしてるわけ。後始末もしないで」


この言葉の主は、永瀬隆さん。英語話者。日本陸軍の通訳者として、「労務者」として連れてこられた東南アジアの人々と同じ場所にいたことがある日本人。

そして、日本軍の元で死ぬまで働かされ、集団で埋められた「労務者」を弔うということをしてきた日本人。

苛酷な環境を生き延び、戦後は「元労務者」となった人々と、個人と個人としてつながり続けた日本人。

語るべきこと、公にすべきことを持ち、そのために何十年間も活動してきたひとりの日本人。

今日見てきたのは、ドキュメンタリー映画、『クワイ河に虹をかけた男』である。監督は、KSB瀬戸内海放送の満田(みつだ)康弘さん。満田さんは、テレビのドキュメンタリーとして永瀬隆さんの活動を取材するようになってから20年以上にわたり撮りためてきた映像と、そして無数の言葉から、119分の映画を作った。





上映館は、東京では1箇所だけ、「ポレポレ東中野」(JR総武線、都営地下鉄大江戸線。営団地下鉄の落合からも歩ける距離)で、8月27日〜9月16日の予定で、1日に1度の上映だった。が、この作品は新聞各紙でも取り上げられ、多くの人が訪れた結果、「満員御礼」の札止めとなる日も出て、10月からも時間帯を変えて追加で上映されることになった。




時間の融通が利く方はぜひ、東中野に足を運んでいただきたいと思う。平日で18時開始だと勤めがある人はなかなか難しいだろうが、その場合は土日にぜひ(約100席の小さな映画館で完全自由席・整理番号制なので、上映開始時刻ぎりぎりだと入れないかもしれない)。約120分、めっちゃ中身の濃い作品から(一体何冊の本を読み、日本人もタイ人もオーストラリア人も英国人も含め何人に取材し、何人をどのくらいの時間をかけてインタビューしたのだろう!)、既にこの世にない人々の確たるメッセージを受け取るために。

なお、満田監督と永瀬さん(倉敷の人である)の地元である岡山では既に劇場公開は終わっているが、東京以外にも、各地でこれから公開される。監督やゲストのトークなども企画されている。公式サイトから、都市名・劇場名と日程だけコピペすると:
神奈川県横浜市 横浜シネマリン
2016.9.17(土)〜9.30(金)

愛知県名古屋市 名古屋シネマテーク
2016.10.1(土)〜10.14(金)

香川県高松市 ホール・ソレイユ
2016.11.19(土)〜11.25(金)

※以下「11月以降公開」:
大阪府大阪市 第七藝術劇場
兵庫県神戸市 神戸アートビレッジセンター
広島県広島市 横川シネマ
福岡県福岡市 KBCシネマ

鹿児島県
12月以降公開


さて、映画そのものについて書こうとしてこの文章を書き始めたのだが、公式サイトやチラシに書かれていること以外は、どこをどう書いても「ネタバレ」になりそうだ。

この映画、ドキュメンタリーだけど、まだ見ていない人のために「ネタバレ」をしないよう気を使ってしまうような映画なのだ。映画を見ながら「ああ、そういうことだったのか」と何度思ったことか。

なので、映画そのものについて書くのは、今はやめる。(あ、「笑いどころは『ねこの名前』だよ」くらいは書いてもいいだろう。)映画を見る人、ひとりひとりが個人として「ああ、そういうことだったのか」と思いながら、永瀬さんのメッセージを聞くという体験をするための映画だ。

そういえばこの映画、「メッセージ」という言葉は使われていなかったなと思う。では私は何を「メッセージ」という言葉に「翻訳」しているのか……それを確認するために、もう一度見る機会を持ちたい。

(それでも私は私で書きとめておきたいこと、今、言葉にしておきたいこと、つまり自分でinterpretし、その結果を出力しておきたいことがあるので、それはそれで別項に書くと思う。たとえば、「数」では数えられなくなって「量」と言い表す規模で「大量の遺体が埋められていたのが発見された」ということから何より思い出されるのはボスニア内戦、特にスレブレニツァの虐殺だったり、現在進行形のイラクでのイスイス団によるイラク兵の殺戮だったりする、ということ。ところでアサド軍は殺戮しても埋めないよね。隠す気がないんだよね。ていうか見せしめだよね)

ところで映画上映時のトーク・イベントだが、これも語る人それぞれに語るべきことがあり、大変に意義深いので、時間が合う人はぜひ。明日17日(土)の横浜での上映後は「POW(戦争捕虜)研究会」の笹本妙子さん、田村佳子さんのトークが予定されているが、今日16日(金)の東中野では、その「POW研究会」の内海愛子さん(恵泉女学園大学名誉教授)が登壇された……いや、壇上に椅子が用意されたのだが、「恥ずかしいから」とおっしゃって、壇の下でマイクを持って30分ほどお話しされた。




内海さんについては、9月4日(日)に満田監督とトークをなさった(満員御礼のためこの上映は私は見られず!)小菅信子さん(山梨学院大教授)が次のようにツイートしておられた。






内海さんのトークの内容は、できる範囲でメモを取ってきたので、それをこの下に。メモがベースなので、一部、意味がわかりづらいところもあるが、ご容赦いただきたい。

内海さんは1980年代以降、永瀬隆さんを直接ご存知だという。1980年代といえば(私は何も知らないアホな子供だったころだが)、日本企業が「海外進出」をどんどん行なっていたころだ(それにともない、現地女性に対する性的搾取も)。賠償をテコにした急激な日本企業の進出は東南アジアで反発を買った。田中角栄の歴訪時、各地で暴動が起きた。日本人は戦争(「あの戦争」)の《被害者》だと自分たちのことを考えてきた。しかし実は、そうではなかった。そのことをこれらの暴動で知らされた、と内海さんは語る。

内海さんのお話には出てこなかったが、この時代の英国への日本企業の進出はすさまじく、私が話したことがある英国人には「ハウス・オヴ・ノムラ」と聞くと穏やかではいられないという人もいた(金融業界の人の息子)。そのころ、後に「唯一握手できる日本人」である永瀬さんと「和解」を果たしたジャック・カプランさんや、エリック・ローマックスさんたちは、何を思っていただろう。ニュースで日本企業が話題になると聞こえないふりをしていたりしたのではないかと察するが。

1970年代後半、内海さんはインドネシアで日本語を教える仕事についた。そのとき「何しに来たんだ」、「大東亜共栄圏を再建しに来たのか」と言われた。日本国内では歌う者もいなかった軍歌を、インドネシアの人々が歌っていた。そして、元陸軍憲兵隊通訳で、既にタイに慰霊の旅を重ねていた永瀬さんと知り合い、「ロームシャ」(「労働力」として強制徴用され、故郷から引き離された人々)について初めて知らされた。

「ロームシャ(労務者)」は、今でもなお、何人が犠牲になったのかはわからない。53000人動員された中の13000人が死んでしまうほどだった。内海さんたちは活動の中で、《加害者》と《被害者》が直接対面するセミナーを行なったりした。どんなことが言われるかわからないという、緊迫した場だった。

※以下、執筆中

この映画の監督、満田康弘さんは、この映画にまとめられた永井さんへの取材のことを1冊の本にまとめてもおられる。映画館で販売されていたが、映画が終わったあとのロビーがものすごい人の多さで押し出されるように出てきてしまったので、買えなかった。 (;_;) 上映前にパンフと一緒に買っておくべきだったが、書店・オンライン書店で入手可能だし、楽天Koboなら電子書籍もある(Amazon Kindleには入ってないみたい。他の電子書籍プラットフォームでも見つかるかも)。




内海愛子さんのトークで言及されたジョン・ダワーの『容赦なき戦争』も、つい先日(8月下旬)に電子書籍化されていることに気づいた。




紙の本は下記:

容赦なき戦争 [ ジョン・W.ダワー ]
価格:1728円(税込、送料無料) (2016/9/16時点)

商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。お買い物される際には、必ず商品ページの情報を確認いただきますようお願いいたします。また商品ページが削除された場合は、「最新の情報が表示できませんでした」と表示されます。



永瀬さんのご葬儀にメッセージを寄せた元英軍捕虜、エリック・ローマクスさんの手記は、The Railway Manとして映画化され(ただしフィクションの部分がとても多い)、日本でも『レイルウェイ 運命の旅路』とのタイトルで公開された。映画はソフトも出ているし、オンラインのレンタル(Amazonや楽天SHOWTIME)でも扱いがある。「和解」の年齢の2人を演じるのはコリン・ファースと真田広之(小柄で華奢な永瀬さんとはずいぶん印象が違う)。現在入手できる手記(角川文庫)の表紙はこの2人と、エリック・ローマクスさんと結婚したパトリシアさんを演じたニコール・キッドマンがフィーチャーされ、話題のハッシュタグ、#女性映画が日本に来ると……みたいになっているが、映画化前に出ていた元々の版(映画化時点で品切れだったが)はこんな表紙ではなかったという。

エリック・ローマクスさんの手記は下記から。

※紙の本。

レイルウェイ運命の旅路 [ エリック・ローマクス ]
価格:777円(税込、送料無料) (2016/9/16時点)

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※電子書籍。



riverkwai_nagase_pole2.jpg

※この記事は

2016年09月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:31 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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