「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2017年06月28日

「ヒルズバラの悲劇」、警察の現場責任者ら6人が起訴される。

256px-Hillsborough_anniversary.JPG"Justice for the 96"――「死んだ96人のために正義を」。そのスローガンを掲げて25年以上も闘ってきた人々が、最後の最後に落胆させられるということにはならなかった。きっと求めていたすべてではないだろう。けれども、よかったと思う。

2017年6月28日、英国の検察当局が、先に "unlawful killing" と結論されていた「ヒルズバラ(ヒルズボロ)の悲劇」について、事故発生時の警察の現場責任者や、事後、証言を歪めた警察(サウス・ヨークシャー警察)の弁護士など6人を起訴することを発表した(リンク先にその声明の映像あり)。

「ヒルズバラの悲劇」について、またその後リヴァプールの人々が何のためにどう闘わざるをえなくなったかについては、ざっくりとだが、以前書いたものがある。1989年4月15日、リヴァプールFC対ノッティンガム・フォレストのサッカーの試合を大勢のファンが観戦中のスタジアムで、キャパを超えたテラス席(今は廃止された立見席)で群集事故が発生し、96人もの犠牲者が出た。当時警察はこの事故について「フーリガンが暴れたことが原因」とし、The Sunをはじめとするタブロイド各紙も「フーリガン大暴れ」を事実として伝えた。しかしそれは、すべてがまったくのでっち上げだった。それが客観的に立証されるまで、20年以上の歳月と、途方もない努力・労力を要した。最終的に真相究明がなったのは、事件のことをリアルタイムで知っているマージーサイド出身のアンディー・バーナム議員(労働党・現在はグレーター・マンチェスター市長。ちなみに彼自身はLFCではなくエヴァトンの熱狂的サポ)を筆頭に国会の場で行なわれた取り組みの成果だった。

その後行なわれたインクェストで、「悲劇」で亡くなった96人について "unlawful killing" という結論が出されたのが、2016年4月。それから1年と2ヶ月あまり、人々はこれが何らかの "justice" に結びつくのかどうかという、最終的な決定を待っていた。それが明らかになったのが今日、2017年6月28日で、その決定内容は「6人の起訴」というものだった(個人の起訴であり、検察当局は警察を含めどの組織も組織としては起訴しないことを決定した)。

以下、リンク集的に、その記録。

なお、これをもって正式に法廷沙汰となったので、陪審団に影響を与えそうなことは一切、公に発言することができなくなる(法廷侮辱罪に問われうる)。家の中や友達との集まりで話すのはかまわないようなことでも、TwitterやFB、ブログなどネットに書けばアウトになりうる。そのため、もろもろ注意が必要とされるということも強調されている。詳細はLiverpool Echoの記事を参照。



まず、BBC Newsの様子。全体のトップページではベネズエラ情勢がトップニュースで、「ヒルズバラの悲劇」については画像なしの「そのほかの主要ニュース」のところに入っている。

bbcnews28june2017-min.png


一方、BBC NewsのUKのコーナーでは、もちろん「ヒルズバラの悲劇」がトップだ。

bbcnews28june2017b-min.png


この日は、英国会下院において、6月8日の総選挙後、初めてとなる党首討論が行なわれた。グレンフェル・タワーの火災と公共住宅の高層建築の安全性に関する質疑が一番大きなトピックとなったようだが(当然のことだ)、「ヒルズバラの悲劇」も言及されている。テリーザ・メイはサッカーなんか興味はないかもしれないが、ジェレミー・コービンはアーセナルFCのかなり熱いサポだ(地元)。1989年、労働党の中でも特に保守党に挑戦的な議員たちのひとりだったコービンは、今日のこの検察の決定を、熱い思いで受け止めたことだろう。

※以下作成中。https://twitter.com/nofrills でRTしたものを貼りこんでいく。

まずは党首討論のライヴ・ツイートや映像など。ヒルズバラの悲劇とは関係のないトピックについてのツイートも入れておく(そうすることで全体が見えると思うので)。保守党はこの期に及んでまだ「労働党は反ユダヤ主義だ」と印象付ける作戦を捨てていないらしく(はて、2015年にエド・ミリバンド前党首のお父さんについてめちゃくちゃな言いがかりをつけてたのはどの陣営でしたっけね)、保守党議員に対する反ユダヤ主義的な言葉による攻撃について「やっているのはコービン支持者」などと議場で口走っているらしい。

















続いて、リヴァプールの地元紙、Liverpool Echoのフィードをまとめて。必要事項を確認するためのリンク集としてみていただければと思う。






















最後、もろもろ報道のフィードなど。

















Ch4のアレックス・トムソン記者がフィードしているのは、96人が亡くなったスタジアムの写真。この日、トムソン記者はこの件の担当記者としてニュース番組で報道していた。そのフィード。








下記のルー・ブルックスさんは「ヒルズバラの悲劇」で弟さんを亡くされた方。真相究明運動の担い手のひとりだ。








これで終わったわけではない。まだこれから裁判がある。起訴されたのは有力者たちだ。きっと「優秀な」弁護士がつくだろう。ご遺族はまださらにつらい思いをするかもしれない。しかし、You'll never walk alone だ。

「ヒルズバラの悲劇」のJusticeキャンペーンは、北アイルランドで英軍に殺された人々や、英当局の把握の上で行なわれた(ロイヤリストの)テロで殺された人々も、熱心に見守ってきた。ヒルズバラのキャンペーンは、英国内の一警察(サウス・ヨークシャー警察)がなした不正義を追及してきたが、北アイルランドの場合は、追及する相手はより広範でより複雑で、より根が深いし、より強く守られている――「国家安全保障」というカテゴリーに入るようなことだ。現在、ストーモントの議会が停止しているのは、ユニオニストの側がナショナリストに対し一歩も譲るものかというNo surrenderの姿勢を崩していないことが大きな原因のひとつだが、ユニオニストがそのような態度を取るのは、現在の北アイルランド検察のトップが元々リパブリカン(IRA)の弁護士で(そのことはかつてTwitterで書いた)、紛争中に人を殺した英軍兵士を起訴しようとしていることが響いている。オレンジの側も緑の側も、双方が態度を硬化させているのだ。

ナショナリストの側にしてみれば、英国政府や英国のマスコミの激しい抵抗にあいながら「このままうやむやにさせてなるものか」という思いと、「時間切れになる前に」という焦りが重なっているわけで(1972年はもう45年も前で、当時25歳だった人が70歳になっているのだ)、今日のこの「警官たちが起訴される」というニュースは、たいへんに大きく響いているだろう。

ロイヤリストに暗殺されたパット・フィヌケン弁護士の在籍していた法律事務所の人たち(父と同じ法律家の道を歩んでいるジョン・フィヌケン弁護士も加わっている)が運営している「パット・フィヌケン・センター」のTLは、こうなっている。

jft96pfctw.png






※この記事は

2017年06月28日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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