「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2018年12月31日

【訃報】サイモン・リケッツ(ジャーナリストにして、Twitter landの良心)

30日、尊敬していた書き手が亡くなったとのニュースがあった。そのニュースの重さを消化しながら、その書き手のブログをまとめて読んだ。「また訃報を聞いてからようやく、その人の成し遂げたこと・遺したものに接するというナンセンスなことをしているな」と思いつつ――その書き手はガーディアンのジャーナリストで、Twitterでの発言も活発だったから、個人的なブログまでは私は読んでいなかった。ジャーナリストなど文章を書き、言葉で生きてきた人の訃報があれば、半ば反射的にいつもしているように彼の(「彼の」というどこかパーソナルな響きのする日本語を使うことに、私はここで違和感を覚えているが、台所できれいにすべきものを重曹やらクエン酸やらにつけている合間の時間に、言葉を精査することは不可能だ)Twitterアカウントを見てみようとしたが、彼のアカウントはきれいさっぱり消えていた。Googleのキャッシュは残っているのでキャプチャを取った

最後のツイートは12月23日。訃報の1週間前だが、時差があるから正確に「1週間前」なのかどうかはわからない。彼のTwitterは大人気だったから(最後のGoogleのキャッシュでは、フォロワー数は49.4kとなっている)、Twitter上での人々の発言には彼のアカウント名への言及が少しはありそうなものだが(訃報の場合、多くの人がリプライを殺到させないように配慮するのか、あるいはほかのマナーのためか、@をつけてのアカウントへのメンションは少なくなるのが通例。でも少しは@での言及があるものだ)、訃報を受けてTwitterでなされる数々の発言には、彼のアカウント名が入ったものはまるで見当たらなかった。最後の投稿から訃報までの1週間ほどの間に、本人がアカウントを消したのだろうか。英国伝統のウィットとユーモアと深い洞察を凝縮し、人間というものについてのかなしみという土台の上に盛り付けたようなあれらの言葉の数々が見られなくなることは、大きな損失だ――広く一般の人々にとって、それ以上に私にとって。

こんなことなら、全部保存しておくのだった。彼の死はいわば「予告された死」であった(末期がんで先が長くないということを、彼は明らかにしていた)。しかし「遺された言葉」の集積体、いわゆる「跡地」になると思われていた場所が消えてしまうことなど、誰が想像していただろう。そう思ってみても、あとの祭りだ。

それを噛み締めながら、彼が消さずに残していったブログを読んだのだ――人々に、Twitterで満足させずにブログを読ませるために、Twitterアカウントを消したのかもしれない。そこには140字/280字の英文には不可能な、饒舌ともいえるストーリーテリングがある。

その中に、こんな言葉があった。
I want everyone to have those same choices I do. I want everyone to be able to live with the freedom that I have. It really is the most simple and basic equality.


「これだ」と思った。何が「これだ」と思ったのかはよくわからない。私の中に出てきた言葉が「これだ」だった。

何が「これ」なのか。「これ」は何なのか――この書き手が一貫して持ち続けていたヒューマニティ。

そのエントリ全体を日本語にしようとしてみたが、とても難しかった。私の調子がよくない。読めばわかるし、深く打たれもする。だがそれを自分で、自分の母語で表現しようとすると「言葉が下りてこない」という感覚。だから満足はいかないが、一応、こんなふうだというものを下に貼り付けておく。(これはもちろん、Twitter上の日本語圏で有名な弁護士がわめき立てていたような「無断翻訳」だが、故人は許してくれるだろう。故人のパートナーに翻訳許可を求めることも物理的にはできるが、そんなつまらないことで彼女の個人的な喪失の悲しみの時間を邪魔することは、非人道的ですらあるから、私はやらない。)

両親にカムアウトした日のことを僕は覚えている。晴天に恵まれた土曜の午後だった。キッチンで両親を前に座り、僕は深く息を吸い込んで、その言葉を何とか口にすることができた。

「僕、ストレートなんだ」。藪から棒な僕の言葉に、両親は小さく驚きの声をあげ、僕を抱きしめると、それでもお前を大切に思う気持ちに変わりはないからねと言葉を尽くして語りかけ、そして僕らは3人とも、涙ぐんだ。父は笑顔を浮かべ、僕を抱きしめた。「もうずっと前から知ってたよ。お前からそれを話せるようになってくれて、嬉しいよ」

両親がそれを完全に受け入れるには少々時間がかかった。困難な時もなかったわけじゃない。ディナーパーティやいろいろとお付き合いの場では口にできることではなかったが、しぐさでははっきりしていたわけで、公然の秘密だった。隣人たちは礼儀正しい質問をした。

学校では簡単にいかないこともあった。子供というものは容赦がない。口の前に手を当ててこそこそと話をする者がいた。忍び笑いをする者もいた。悪口を言われるくらいなら別に何とでもなったが、一番こたえたのは、僕のものまねをされることだった。学校の子たちに知られるようなことは僕はしていないのに。ただ家に帰って、枕に顔をうずめたものだ。

初めて女の子と手をつないだとき。初めて女の子にキスをしたとき。そういうのが大きな意味を持った。負けるもんか、僕は何も間違ったことはしていない、という気分になった。僕はこういう人間なんだ。誹謗中傷クソくらえだ。僕は誇りを感じていた。

そして、大人になるにつれ、結婚という話題が口にのぼるようになった。最初は穏やかで、笑顔のうちに。しかしやがて、トーンは暗くなった。僕はほんとにこういうことをやるのだろうか? おじいちゃん、おばあちゃんはどう反応するだろう? 職場の人たちに知らせることになるのだろうか? 結婚式には職場の人を招待するのだろうか?


ばかばかしいでしょう、こんなシナリオ。僕のセクシュアリティがこんな苦悩を、困難を、そして怒りさえも引き起こすだなんて考えるだけでもばかばかしい。

けれども実際にはそういうばかばかしいことが起きているわけです。世界中のゲイの人たちにとっては。そしてLGBTのコミュニティは、来る日も来る日も、毎日こういう類のばかばかしいことに対処している。

僕自身はストレートです。僕が誰かを愛したところで、誰ひとり眉をひそめることはありません。いつでも好きなときに結婚もできます(実際には結婚はしていないけど、そうしようと思えばそう選択できるわけです)。異性について自分が感じていることについて理由を説明する必要などまったくないし、ましてそれを否定することなど全然ない。

僕は、僕に与えられている選択肢を、すべての人々にも持ってもらいたいと思っています。すべての人々が、僕の持っている自由を手に生きていけるようになってほしい。実際、これが最も単純で基本的な平等というものです。

今日(訳注: 2015年5月22日)は、アイルランドにとって、上に書いたようなばかばかしい要素を取り除くチャンスです。世界的に今、少しずつ、構成する要素1つずつ、取り除かれつつあります。もっと速く行われるべきかもしれないし、もっと包括的に行なわれるべきかもしれない。もっと深い部分で進められて然るべきかもしれない。けれど、そういうものが取り除かれていることは事実です。

アイルランドよ、今日その1つを取り除いてください。今日はあなたたちの番です。

May 22nd, 2015

--- Simon Rickettes, "On you go, Ireland"
https://simonnricketts.tumblr.com/post/119594331142/on-you-go-ireland


これは、アイルランド共和国で「婚姻の平等」(所謂「同性結婚の合法化」)が実現することになるレファレンダムの日にアップされたサイモン・リケッツのブログの全文(のへっぽこ訳)である。上述した「平等」についての言葉は、こういう文脈で発されている。

そしてこの文脈は、私の知る限り、英語圏では広く共有されている。それに対峙するものとして、同性間の関係を歓迎することを拒むベルファストのケーキ屋の事例のような「思想の自由」というものがあるのだが、そこまで書いている時間的な余裕は残念ながらない。

サイモン・リケッツという人は、こういう人だった。その言葉に、日々、ブラウザやアプリの画面を見るだけで接することができていたことは、とても幸せなことだった。

サイモン・リケッツはインスタグラムは消さずに逝ったようで、ネットで彼の名前を検索するとインスタのページが出てくる。そこに並んでいるのは、陽光あふれるイタリアやスペインをパートナーと一緒に旅行したときの写真だ。彼が写っているものは見当たらず、旅行先の風景(地中海の青さたるや!)や人々、パートナーのアンドレアさんの写真で、つまり彼という人間を見せるためのインスタグラムではなく、彼の見たものの記録(の一部)だ。Flickrのほうがしっくり来る感じ。見てみたい方は検索を。

以下、Twitterより。みんなが読んでいるBanging Outのリンク先(リケッツのブログ)はぜひ読んでいただきたい。































他者の苦痛へのまなざし
他者の苦痛へのまなざし



最近、Twitterでも訃報とそこで発された人々の言葉の記録ばかりになってしまっていますが、単に立て込んでいるためです。他に書くべきこともあり、それはこのあと、書くつもり。

※この記事は

2018年12月31日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 13:30 | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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