「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2020年01月27日

【訃報】シェイマス・マロン

シェイマス・マロンは、1998年グッドフライデー合意 (GFA) のときの写真で一番目立っている人たちの中にはいないが、GFAによって、それまでの自治議会(パーラメント)に代わって設立された自治議会(アセンブリー)で、主導的な立場に立った政治家である。このとき、北アイルランドにおいて初めてアイリッシュ・ナショナリストが政治に参加したのだが、ユニオニスト最大政党だったUUPのデイヴィッド・トリンブルがファースト・ミニスターになり、ナショナリスト最大政党だっがSDLPのマロンが副ファースト・ミニスターになった。

SDLPは党首はジョン・ヒュームだったが、党首と副ファースト・ミニスターは別の人がやるという方針をとり、ヒュームの右腕的な存在だったマロンが副ファースト・ミニスターになった。

この自治議会(アセンブリー)はほんとにいろいろと大変で、最終的には2002年の「スパイ疑惑」(IRAが議会内にスパイを送り込んでいるという疑惑。その事実はなかったことが後に判明した)でサスペンドされてポシャってしまったのだが、そうなる前もいろいろと大変で、ユニオニストは「IRAの武装解除」を強硬に要求し、シン・フェインは例によってのらりくらりとしていて(ロンドン滞在中に山場だったので毎日ニュースでジェリー・アダムズを見ていた時期があったのだが、ひどかった)、SDLP(シン・フェインと同じナショナリストではあるが、シン・フェインとは犬猿の仲である)は結局「北アイルランドの政治」というめちゃくちゃ厄介なものを扱いきれなかった感があった。SDLPは非暴力主義でカトリックのミドルクラスを支持基盤としていたが、GFA直後の数年で、北アイルランドでは「やっぱコワモテじゃないとこの土地はどうにもならんのでは?」というムードが固まって、実際、2003年の選挙では両陣営のコワモテ(DUPとシン・フェイン)がそれぞれの側の第一党となった。SDLPはそれ以降、ずっと退潮傾向にあった。(それが逆向きになってきたかというのがこないだ、2019年12月の選挙だったが、あれはまたあれで単に「強硬派vs穏健派」の物語で語るわけにはいかないと私は思う。)

こんなことを書いてたらまた書き終わらないので先に行くが、ともあれ、マロンはヒュームとともに、2001年に、SDLPのリーダーシップから退いた。2003年の選挙では立候補せず、そのまま政界を引退した。

そして、まあ今なら、北アイルランドでも、引退した政治家が何か発言したのがニュース記事になるくらい注目されるということもあり得るのだろうが、2000年代っていうのはIRAなど武装組織がまだ終わってなかった時期で、最大の関心事は「IRA(やUDAやUVF)の武装解除」で、それを語る人々の発言は注目されたが、SDLPの発言で注目されていたのは、現役の党首(マーク・ダーカン)らの発言だけだったと記憶している。シェイマス・マロンは、その時期の北アイルランド報道を熱心に見ていた私にとっては、「過去の人」だった。

そういう認識を、訃報があってから、改めている。

マロンの訃報が流れたあとに、北アイルランドとアイルランドの政治リーダーたちやジャーナリストがマロンについてどう述べていたかは、ざっくりと日本語にしながら、記録してまとめておいた。下記で一覧できる。
https://threadreaderapp.com/thread/1220809609125851137.html

そして、何人ものジャーナリストが言及していたマロンの自伝(2019年5月刊)を私は今さらだが購入し(出てたことすら知らなかったのだが)、読んでいる。Amazon Kindleで900円程度、楽天KOBOなら700円足らずだ。まだ最終章しか読めていないが(訃報があってから言及されていたのが最終章なのでそこをまず読んでいる)、北アイルランドに関心がある人は読むべき本だと思う。

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シェイマス・マロンは徹底的に暴力に反対していた。誰が行使する暴力であれ、反対していた。だから北アイルランド警察にも英軍にも反対し、IRAなど武装勢力にも反対していた。

それは本当に徹底的なもので、90年代に北アイルランドを根本的に変化させたシン・フェインのメインストリーム化(メインストリームの政治が、シン・フェインを相手にするようになったこと)には反対していて、ジョン・ヒュームがジェリー・アダムズと話をしたときには激怒して、盟友ヒュームとの関係が悪くなったほどだったという。

同時に、GFA→アセンブリー設立という流れの中で実現した北アイルランド警察の改組(RUCからPSNIへの改組)は、マロンがいなかったら実現していなかったと言われている。英国お得意の「取り決めはするが、あとは無視する」的な形で警察改組案が骨抜きにされなかったのは、マロンがいたからだという。

そういうことを評して、「北アイルランド和平をもたらしたGFAのアーキテクト(設計者)はジョン・ヒュームだが、それを現実に建設したビルダーはシェイマス・マロンだ」といった言葉も、訃報があったあとに多く流れていた。

ジョン・ヒュームは引退してからほとんど何も発言していないが、それは病気のためだ。ヒュームが何かを発言するのは現在では書面に限られ、夫人のパットさんとの連名で出されている。マロンの訃報を受けて出されたステートメントもそうだった。

一方、マロンは政治家であることをやめる前に、一線を退くヒュームの後を受けてSDLPの党首となることもできたが、そうしなかった。当時は高齢を理由としていたようだが(そして実際に、後を受けたのはかなり年下のマーク・ダーカンだった)、実は夫人のオーラさんが要介護となっていて、彼女を介護するために政治家をやめたのだそうだ。そのオーラさんも2016年に他界していた。マロンは最近までイベントで発言するなどしていたようだが、体力的には厳しかったようだ。

こうやって、北アイルランド公民権運動・北アイルランド紛争・和平交渉・和平プロセスが、「歴史」になっていく。

2014年3月、RTEの政治ドキュメンタリー番組の予告編:



※この記事は

2020年01月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 09:36 | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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