「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2018年10月28日

「本物は言うことが違うよね」って、「本物」が「戦場が流動的」とか「最強のなんとか」とか言うか、タコ。(ある「デマ」の記録)

安田純平さん解放・帰国のニュースがあって、「ああ、よかった」と胸をなでおろしているときに、またぞろ、ネット上で拡散されているとてつもなく雑な「デマ」のことを知った。

その「デマ」をぱっと見て、「出典を確認するような検証ならネットロアさんが腕をふるってくれそうだが、これはid:hagexさんがこんなふうにつっこみながらまとめてくれるんじゃないかな」と思って、1秒もしないうちにああそうだ、あの人もういないんだ、あの人、私たちから奪われたんだということに思い至った。殺害されるっていうのはこういうことなんだよね。理不尽な暴力が原因で、あの人が新たにものを書くことは二度とないし、あの人が「ネット上のデマ」を見て分析し、ツッコミを入れることも二度とない。

その「デマ」は、安田さんの解放というタイミングで広めている連中には明らかに政治的な思惑があると思われ、つまり英語のrumourを含め「不確か・不正確な情報」を何でもかんでも「デマ」と呼ぶ日常の日本語のおかしな用語法による「デマ」ではなく、定義どおりの「デマ(デマゴギー)」だ。(関係ないけど、かっこつけて「デマ」を「デマ」という省略形を使わずに言おうとして「デマゴーグ」と言ってる人に案外よく遭遇する。著書のあるような人でも混同しているようだが、「デマゴギー」と「デマゴーグ」は、「プロパガンダ」と「プロパガンディスト」くらい、「ギター」と「ギタリスト」くらい、「キャベツ」と「キャベツ農家」くらい意味が違うので注意されたい。)

この「デマ」は、わりと早い段階で「デマである(根拠がない)」と指摘され、報道機関でもその旨報道されているが(HuffPo, 共同通信東スポなど)、2万数千回もリツイートされているそうだし、ネット上にウヨウヨしている「話題になったことをまとめるサイト」や個人ブログ、個人のFacebookなどの投稿を含めれば、「デマ」を「デマ」と指摘する報道が追いつかないくらいに広まっているだろうし、それに、それこそid:hagexさんがずっと問題視していたような、「これはデマかもしれないけど、でも、言ってることは結局は正論/いい話だからいいじゃん?」的なヌルい受容のされ方もしているだろう。そういう場合、「発言主とされている人がこんな発言はしていないにしても、言ってることは妥当」などとして、根拠のない発言が一人歩きする可能性も低くない。つまり私は頭痛がして頭が痛い。特に「反日」「国に迷惑をかけるな」とカキコしたくてウズウズしている人々(いわゆる「ネトウヨ」)の間では、これが「戦場取材の鉄則」として既成事実化されるに違いない。私はやたらと「この道はいつか来た道」と言ってみせるというパターンには鼻白む思いをしている系だが、それでもこれは明確に「この道はいつか来た道」だ(あの四字熟語の大合唱が起きたのは14年半前のことだから、知らない人、忘れている人もいるかもしれないが)。実際、東スポの記事でスマイリーキクチさんが「渡部さんご本人も否定しているし、フェイクニュースだと伝えられているのに、今もこのデマを事実と捉えて拡散している人達がいる。感情に流されて自身の非を受容しない。デマを見抜けない人より、デマを認めない人が危険なんだ」と述べていることが紹介されている。

その「デマ」は「○○氏が語った戦場取材の掟」というものだ。実在するフォトジャーナリスト(ユニークな話し方と温厚な人柄が受け、一時テレビにひっぱりだこで、しかも一般的にかなり好かれていた)の名を挙げたうえで、全8か条が箇条書きにされているのだが、そのいずれもが雑としか言いようがない。「何ですか、これは」と反応するよりないというか、「戦場が流動的なところには行かない」というのは、ええと、そこは岸田今日子が住んでる砂丘か何かなんですか。「国外の難民キャンプとかを中心に取材する」の「とか」って何ですか。あたしの素の文じゃあるまいし。だれか文章校正しろよ。

だから、これはおそらく「ネタ」なのだろうと思うし、そうである場合「ネタにマジレス」の状態になると思うが、それでも、こんなん、ほっといちゃいかんのだろうなと思うし、同時にとてつもなく頭に来るじゃん。

HuffPoから:
これが書かれたツイートは10月25日20時現在、2万3000回以上リツイートされている。

特に、その掟で注目されていたのは「捕まるやつはその時点でジャーナリスト失格」という項目。

Twitterでは一般ユーザーから「これこそ本物だ」「至言」「やはり超一流のジャーナリスト」といった礼賛の声のほか、この文言をもとに安田さんについて「ジャーナリスト失格だ」というツイートが盛り上がっていた。

https://www.huffingtonpost.jp/2018/10/25/senjo-watanabe-yasuda_a_23571198/


Okay. 「捕まるやつは失格」なら、ジェイムズ・フォーリー(アメリカ、フリーランス)、スティーヴン・ソトロフ(アメリカ/イスラエル、フリーランス)、後藤健二(日本、フリーランス)は「失格」か。ハビエル・エスピノサ(スペイン、エル・ムンド紙)や、ニコラ・エナン(フランス、フリーランス)は「失格」か。今年9月18日付けで川上泰徳さんが書いているシリアで拘束されたスペイン人ジャーナリストはどうだ。

シリアの外に出よう。カダフィ政権が存続していたときにカダフィ側に捕らえられたガイス・アブドゥル=アハド(イラク、ガーディアン)アンソニー・シャディド 、タイラー・ヒックスら(アメリカ、NYT)は「失格」か。ビルマ(ミャンマー)でロヒンギャに対する暴力を突っ込んで取材していて資料入手をめぐり逮捕・起訴され、現在獄中にあるワ・ロンとチョー・ソウ・ウー(ミャンマー、ロイター)はどうだ。現代だけでは足らないのなら、レバノン内戦までさかのぼろうか?

……というのがほんの1秒ほどの間に頭の中でぷしゅっとはじける。こんな雑な「デマ」、流した奴も流した奴だが(元のツイートは削除済みとのこと)、拡散している連中はもっとひどい。誰がどう見たって「ネタ」だろ、「日本で売られているツナ缶の中身はイルカ肉」レベルの(またあたしも、古いの思い出したね……)。

というわけで以下、どんどん怒りが深まっていくのをご覧ください。





念のため、↑これは軍隊のエンベッド取材のときなら該当するのではないかと思います。なお、取材でのエンベッド対象は軍(正規軍)だけとは限りません(シリア内戦ではBBCがFSAにエンベッドして、頭の上を弾丸が飛んでるような状況で映像レポートしてた)。でもフォーリーさんとかソトロフさんとか後藤さんとかエスピノサさんとかエナンさんとか安田さんは軍隊/武装勢力にエンベッド取材してたわけじゃないっすよね。






↑ここで言及してるロイターのゴラン・トマシェヴィッチは、元米軍人(アフガン、イラク経験者)なんかも「あたまがおかしい」と言うようなフォトグラファー。90年代バルカンを自分の国のこととして経験した人。




↑これさ、Likeが12件なんだけど、リンクのクリックは10件なんだよね、Twitterのstatsによると。Twitterのstatsの正確性がどのくらいのものかはわからないけど、10件のうち1件は私なので(確認のため)、多分多くて9件。リンク先を読みもせずにLikeしてるのは、ブックマーク代わりなのかな。私もよくやるけど。

ってここでもリンクしておくだけでは絶対にクリックなんかされないからコピペしておく。本文部分全部ね。今読むと訳文手直ししたいところはあるけど、当時の急ぎの訳文そのままで(句点置換だけした)。
'He's just sleeping, I kept telling myself'
Tuesday September 14, 2004
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,1303827,00.html

日曜の早朝の電話で、それは始まった。「ハイファ・ストリートで大きな煙の柱が立ってる」。まだ目が覚めきっていない状態で私はジーンズを履き、こんな早朝にしでかしてくれる反乱者たちに罵りの言葉をつぶやいた。もしこのままベッドに戻ったら、と私は思った。私が現場に到着するまでには終わっているだろう。駐車場でふと、フラックジャケットを車に乗せてないことに気付いたが、おそらくはただのIED(improvised explosive device:爆発する仕掛けをしたもの)がハンヴィーの下に置かれていた程度だろうと考え、どうせすぐに家に帰ってくることになるのだからいいや、と思った。

ハイファ・ストリートへ向かう途中、私はどうかすべて終わっていますように、あるいは米軍が一帯を封鎖していますように、と祈る気持ちだった。私はまだナジャフのショックから立ち直っていないのだ。

ハイファ・ストリートはサダム・フセインによって1980年代早くに建設された。バグダードを近代的にする計画の一環だった。長く幅の広い大通りで、両側にソヴィエト風の高層建築が並んでいる。それがカーテンの役割をして、バグダードで最も貧しく最もタフな人々の暮らす小さな路地の入り組んだ辺りを見えなくしている。これらの人々の多くは、スンニ・トライアングルのど真ん中の出身だ。

現地に到着すると、数百人の子どもや若者が煙のほうに向かっていた。「急げよ、もう燃え始めてから随分経ってるぞ!」と誰かが叫んだ。私はカメラをつかんで走り始めた。

50メートルほどのところまできたところで、2〜3回爆発音が聞こえた。最初の煙の柱がまだ立っているところと道路を挟んだ地点で、また土ぼこりが巻き起こっていた。人々が波になって私の方に走り始めた。オレンジ色のオーバーオールを着た男性が、人々が走っている中を、通りを掃除していた。上空を飛ぶ数台のヘリが向きを変えた。私は道から少しひっこんだところにある商店の前庭に飛びこんだ。私を含め10人くらいが前庭の壁に隠れた。「あれはサウンド・ボム(sound bomb)だな」と、私のすぐそばに顔のある男性が言った。

数秒後、人々が金切り声をあげ、叫んでいるのが聞こえた――何かがあったに違いない。私は壁に身を隠しながら、音のした方に向かった。2人の報道機関の写真家が反対方向に走っていった。目と目を交わした。

前方20メートルのところに、米軍のブラッドレー装甲車両が見えた。中から火柱を立てる巨大なモンスターだ。それはぽつんと立っていた。ドアは開いていたが燃えていた。私は足を止め、何枚か写真を撮って、たくさんの人がいる方へと道路を渡った。何人かは道路に倒れていた。他の人たちは倒れた人々の周りに立っていた。ヘリの音はまだしていた。だが、かなり遠ざかっていた。

どうにも落ち着かなかった。通りのど真ん中に身をさらしていた。だが多くの市民たちが私の周りにいた。10人ほどが5人の怪我人の周りをぐるりと囲んでいた。みな金切り声を上げ、うめいていた。ひとりの男性が怪我人のひとりを見て、頭と胸を叩いた。「まさかお前か? 弟か?」彼は怪我人の方に手を伸ばそうとはしなかった。ただ立って、血に染まった弟さんの顔を見つめていた。

ひとりの男性がぽつんと座っていた。血まみれだった。彼は辺りを見まわして、その光景に驚いていた。彼のTシャツは破れ、背中から血が流れていた。2人の男性が意識のない少年をひきずっていた。少年は片方の脚の下半分を失っていた。切断された脚の下、道路の上に、血とクリーム状の液体がたまっていた。少年のもう片方の脚にはひどい裂傷があった。

2〜3分、私はそこに立って写真を撮影していた。そのとき、ヘリが戻ってくる音がした。みなが走り始めた。私はあれらの怪我人たちに何が起きているのかを見るために振り返ることはしなかった。私たちはみな、同じ場所に向かって走っていた。フェンスへ、建物へ、タバコの売店として使われているプレハブのコンクリートの立方体へと。

立方体の端にたどり着いたとき、2度の爆発音を聞いた。熱い空気が私の顔に吹きつけるのを感じ、頭の上で何かが燃えているのを感じた。私は立方体まで這って進み、その陰に隠れた。幅2メートルほどのスペースに、全部で6人がひしめき合っていた。血がカメラに滴り始めたが、考えられることといえば、どうすればレンズを汚さずにすむかということだけだった。私の隣にいた40代の男性は泣いていた。彼は怪我はしていなかった。ただ泣いていた。私は恐くなり、ただ壁に体を押しつけたくなった。ヘリは頭上を旋回していた。私は、やつらは俺たちを直接撃ってきているんだと気付いた。透明人間になりたかった。誰か他の人々の下に隠れたかった。

ヘリが少し遠くに離れると、ここにいた人々のうちの2人が近くの建物へと走っていった。私はその場に留まった。そこには若い男性がひとりいた。おそらく20代になったところだろう、革のブーツを履き、トラックスーツを着ていた。彼は地面に座っていた。両脚を投げ出していたが、彼の膝は外側に向かって不自然に折れ曲がっていた。彼は(道路の)角に目を凝らしたが、彼の座っている土の上へと血が流れていた。私は彼の写真を撮り始めた。彼は私を見て、そして頭の向きを変えて通りの方を見た。まるで何かを探しているかのように。彼の目はしっかりと開かれ、じっと見続けていた。

通りでは怪我人が放置されていた。顔が血まみれになった若い男性が、土ぼこりのもうもうと立つ中に座っていたが、顔を下に倒れこんだ。

立方体の後ろでは、また別の2人がいたが、彼らは知り合いだった。

「最近どう?」私の近くにいたほうの男性が訊いた。彼は立方体の壁によりかかって、携帯電話を取りだそうとしていた。

「よくはないね」と相手が言った。青いTシャツを着た若い男性だ。フェンスによりかかっている。彼は腕を組んでいたが、腕の肉が一部こそげ落ちていて、骨がのぞいていた。

「車を出してここまで来てくれないか、怪我をしているんだ」と青のTシャツの男性の友達が携帯電話に向かって言っていた。

一方、膝が曲がってしまった男性は、かすかな音を立てているだけだった。私はあまりに恐くて、その男性に触れたくなかった。私は自分自身にこの人は大丈夫だ、叫び声を上げていないじゃないか、と言い聞かせ続けていた。

電話を持った男性を助けることにした。彼は叫び声を上げていた。私は彼の着ていたTシャツを割いて、頭の裂傷をしばりつけるようにと言った。だが私は恐かった。何かをしたかったのだけれど、できなかった。私は昔習った応急処置法を思い出そうとした。けれども現にやっていることといえば、シャッターを切ることだけだった。

膝の曲がった男性の方に向き直った。彼の頭は歩道の縁石に乗っていた。目は開いていたが、あのかすかな音を立てているだけだった。私は彼に声をかけ始めた。「心配するな、大丈夫、大丈夫だからな。」彼の後ろから私は通りの真ん中を見た。そこには5人の怪我人がまだ倒れていた。そのうちの3人はお互いにほとんど重なり合っていた。そして白いディシュダーシャを着た少年が、数メートル離れて倒れていた。

重なり合っていた3人のうちの1人が頭を上げ、周囲を見まわした。通りに誰もいないのに驚いた表情をしていた。それから彼は前方にいる少年を見、後ろを見て、また地平線に目をやった。それから彼はゆっくりと頭を地面へと動かし始め、そして腕の上に頭を乗せ、何か目に映るものに向かって両手を伸ばした。これはさっき胸を叩いていた人だった。弟さんを助けようとしていた人だった。彼は助けたかったのだが、誰も助けなかった。この人はそこで、私の目の前で、死んでいこうとしている。時間など存在しなくなっていた。通りは誰もおらず静まりかえっていて、そこに倒れている人々はみな死につつあった。彼はずるりと地面に倒れ、5分後には地面にべったりと横たわっていた。

私は身をかがめて、彼らのいる方へと動いた。彼らはまるで、誰もいない通りの真ん中で抱き合って眠っている人々のようだった。私はディシュダーシャを着た少年の写真を撮影しに行った。眠っているだけだ、私は自分にそう言い聞かせた。起こしたくはないからな。脚を切断された少年もそこにいた。さっき彼を引っ張っていた人たちに置いて行かれたのだ。米軍の戦車はまだ燃えていた。

子どもたちがまた通りに出てきた。死者や負傷者を興味深げに見つめている。そのとき誰かが「ヘリだ!」と叫んだ。私たちは走った。向きを変えると、2機の小型ヘリが見えた。黒く邪悪なヘリ。恐怖にかられ、私はシェルターに走って戻り、そこでまた大きな爆発音を2度耳にした。通りの突き当たりでは、オレンジ色のオーバーオールの男性がまだ道路掃除をしていた。

膝の曲がった男性はもう意識がなかった。顔はべったりと縁石に乗せられていた。子どもたちがやってきて「死んでるよ」と言った。私は彼らに向かって叫んだ。「何てことを言うんだ!まだ生きてるじゃないか!恐がらせるな。」私はその人に大丈夫ですかと声をかけた。しかし彼は答えなかった。

私たちは膝の曲がった人、携帯電話の人、青いVネックのTシャツの人を子どもたちが構うままにしておいた。彼らはみなもう意識がなくなっていた。私たちは彼らをそこで置き去りにして死なせた。私は誰かを運ぼうとすらしなかった。単に自分の身かわいさで走って逃げた。私はビルの入り口にたどり着いた。そのとき私の腕を誰かがつかんで中に入れた。「怪我人がいるんだ。写真を撮れ。世界にアメリカのデモクラシーを見せてやれ」とその人は言った。真っ暗な中、廊下にひとりの男性が横たわっていて、誰かが包帯を巻いていた。

他の人たちが私に、このビルにはもうひとりジャーナリストがいるといった。彼らは地下へと続く階段に私を連れていった。地下にはロイターのカメラマンがいた。ぽっちゃり型の陽気な人だ。頭の横にカメラをかかえて横たわっていた。彼は叫び声はあげていなかったが、目には痛そうな表情が浮かんでいた。

ロイターに電話をするために彼の名前を思い出そうとしてみたができなかった。彼は友人だ。私たちは何ヶ月も一緒に仕事をしてきた。どの記者会見でも彼の姿を見た。なのにどうしても名前が思い出せない。

そうしているうちに救急車が到着した。私は通りに駆け出した。他の人たちも隠れていた場所から出てきた。みな負傷した市民を救急車に運ぼうとしていた。

「だめです、こちらの方は亡くなってます」と運転手が言う。「どなたか他の方を。」

救急車は怪我人を乗せて去り、私たちは解散した。心の中でこう考えていた――米国は救急車は撃たないだろうが、私たちには撃ってくるだろう。こういう場面は何度か繰り返された。救急車の音を耳にするたびに通りに出て、そして救急車が行ってしまうとまた隠れるのだ。

昨日、オフィスで仕事をしていたら、私の写真を見ていたもうひとりのフォトグラファーが叫び声を上げた。「きみが写真を撮影したときにはアルアラビヤのジャーナリストは生きていたんだね!」

「アルアラビヤのジャーナリストは見かけてないけど。」

彼はVネックのTシャツの人の写真を指差した。これが彼だったのだ。彼は死んだ。私と一緒に小さなスペースに隠れていた人たちは全員死んだ。






ここで、最近Gの発言が何かないかなと彼のTwitterを見に行ったけど(ガーディアンの記事は8月が最後。元から、半年に1本くらいしか記事を書かない。そのペースで調査&報道してる)、最新のツイートは今年3月、北アイルランド紛争に関連するニュースのフィードだった。

Gはバグダードの人で、サラーム・パックスの友人(ラエド・ジャラールと同じくバグダード大学建築学部の学生だった)。宗教的な背景は今は語っていないので私も書かないが、2004年ファルージャの取材のときに、当時既にファルージャに入り込んでいた「外国人戦士」たちとのやり取りで語られていたので、興味がある人は探してみてほしい。その後、イラクもまた「宗派対立」がひどくなり、スンニ派の男性がシーア派の男性名を偽名として使ったりするようになった(スンニ派とわかると過激派とのつながりを疑われ、身柄拘束・拷問が待っているかもしれないから)。Gは故郷の町がそんなふうになるのを(建築家ではなく)ジャーナリストとして体験した。その彼が北アイルランド紛争という「宗派対立」に、こういうふうに関心を寄せているわけだ。

どう、反応できると。



さて、ここまでの原稿の骨格だけ作った段階で、問題の「デマ」について検索してみたら、Togetterで複数の「まとめ」が作成されているのが見つかった。2件だけ見てみた。

1件はこれ。「デマ」の拡散の部分がなく、それに対する指摘・ツッコミから始まり、「フェイク確定」から「元ツイの削除とツイ主の謝罪」というように、流れがわかるようにまとめられている。

本当に渡部陽一さんは「捕まるやつはその時点でジャーナリスト失格」と言ったのか?→やはりフェイクだった
https://togetter.com/li/1280957


こちらに入っているクロダオサフネさんのツイートによると、この「デマ」の元は、悪名高い(が最近は名前を見ることもなくなった)Spotlightというバイラル・メディアの記事と考えられるそうだが、Spotlightの記事は「6つの掟」で、8か条ある「デマ」とは構成が違うし、内容もかなり違っている。Spotlightのほうは:
1. 引く勇気を持つ
2. 事前の準備に8割の力を注ぐ
3. 戦争に巻き込まれている被害者と共に生活をする
4. 現地の人へのリスペクトを忘れない
5. ガイド、運転手、ボディーガードを必ず雇う
6. 絶対に一人で行動しない


Spotlightの記事全体をざーっと読んだけど、「世界最強の軍隊の自走砲部隊」だの「ゲリラが蔓延る地域」だの「紛争国の中には基本的に入らない」だの「その地域最強の奴をボディガードに雇う」だのといったことは出てこない。

というか「デマ」の8か条のほうは、2ちゃん臭が強すぎて鼻をつままずにはいられないほどだ。Togetterのページによると、元ツイの主は「ツイートした画像の引用元がどこかという質問ですが、既に『検索して同内容が複数ある中から見栄えのいいものをキャプ』以上の特定ができません。2015年当時の2chソースのまとめページです」と言っている(だからコピペするときやキャプ画像をとるときは元のURLを控えておけとあれほど……)。また、「ヘラクレスの妄言」さんによると、「殺害された後藤健二さんを揶揄するために少なくとも2015年時に2chで用いられていたコピペ」だという(これも一次情報に近いソースが示されていない)。2ちゃんのコピペである場合、初出を調べるのはそう難しくないだろうけど、面倒だしそんな時間かけてられないのであたしはやらない。誰かよろしくね(って漠然と他人に頼ったときに、トラックバックがあると通知兼万人への告知ができて便利だったよね)。

もう1本見たTogetterはこれ。

バズった渡部陽一さんの「戦場取材の掟」ツイートは「フェイク」と本人が否定。元ツイ削除&投稿者謝罪。元ネタはパイラルメディアの勝手なまとめだった模様。
https://togetter.com/li/1281010
※「パイラル」ではなく「バイラル」です。Virusのように広まるのでViral.

特にここに書き出したい要素はない。「やっぱりフェイクか」という人々にもいろんな色合いがあることが確認できるのはよいと思う。

一方であんなばかげた作文を信じた人々は、全員ではないだろうが、こういうふうだそうだ。共同通信記事より。
……「戦場取材の掟」は以前からネット上に出回っていたデマだったが、ここまで爆発的に拡散されたことはなく、(渡部さんの所属事務所に)メディアからの問い合わせがあったのもこれが初めて。

……

コピーされた「戦場取材の掟」は、別のアカウントや個人ホームページへの転載などを通じて、現在も「本物は言うことが違うよね」などの文言とともにネット上に多数残っている。賛意を述べていた一部のユーザーは、ツイートがデマと確定した後も「自己責任と言われるのは仕方ない」などと安田さんを非難するツイートを繰り返している。
https://this.kiji.is/428422621429761121?c=39546741839462401


まさに、id:hagexの鮮やかなまとめが期待される展開だね。まとめの結論はこうだ。

誰しも「間違ったことを発言したり、それを信じたり」することはある。重要なのは、間違いを知った時に「素直に事実を認めて、謝ること・訂正できる」ことだ。
しかし、「いい事だったら嘘なら嘘でも構わない」というのは、開き直りでしかない。

http://hagex.hatenadiary.jp/entry/20120202/p5




あたしが北アイルランドまで突っ走っていってる一方で、黒井さんが淡々と1本だけ草生やしてて笑った。


実際、「日本語が変だということに気付け」っていうレベルなんすけどね。

10歩譲って、「戦況が流動的」という日本語を知らない小学生が「ぼくのかんがえたさいきょうのせんじょうじゃーなりすと」をまとめたんなら、まあ、わかる。そんな小学生が私の目の前にいたら、小一時間説教&講義&「来週までにこれ読んでこい」って後藤さんの本渡すけど。

ダイヤモンドより平和がほしい―子ども兵士・ムリアの告白
ダイヤモンドより平和がほしい―子ども兵士・ムリアの告白

ルワンダの祈り―内戦を生きのびた家族の物語
ルワンダの祈り―内戦を生きのびた家族の物語

もしも学校に行けたら―アフガニスタンの少女・マリアムの物語
もしも学校に行けたら―アフガニスタンの少女・マリアムの物語

小学生じゃなくて中学生以上だったら、山本美香さんのこの本も。

ぼくの村は戦場だった。
ぼくの村は戦場だった。














21世紀になるまでは、日本もこんなんじゃなかったと思う。今は(特に2004年のイラクでの「人質」事件以降は)「日本=安全、海外=危険」のカルトじみたトンデモの二分法が濃厚にただよって、社会全体を覆っている。何もないときは何も言われないが、何かあったら「そんな危険なところに行くから」と言われるのだ(その「自己責任」論からは、わかりやすいことに、自衛隊は除外されている)。だから「危険」とされるところに行く人が前もって「はいはい、自己責任ですよ、自己責任」とやけくそじみたことを言いおいて出発するということにもなる(実際にはそんなパーソナルな独り言より、「自国民の保護」のほうが上位に位置する)。

何しろ、「アメリカは銃があるし、外国はテロがあってこわいので、行きたいと思いません」と大真面目に言う若者もいるのが21世紀だ(パーソナルなことなのでソースは示せないが、実際に遭遇したケースを元にしている)。1980年代に「国際化」に浮かれ踊らされた世代のひとりとしては、当時の自分に「21世紀には世の中こうなってる」っていう主旨でこんなことを言っても絶対に信じなかっただろうと思う。自分だけでなく、周りの人たちも。



本稿で参照したid:hagexさんのブログで取り上げられている「Facebookで拡散しているデタラメ」は飛行機内で人種主義者の隣に座った黒人と、客室乗務員のやり取りと乗務員の機転についてのものだが、つい先日、これとそっくりなことがバルセロナからロンドンに向かう飛行機の中で起きた。ただし実際に起きたことの結末は、FBで拡散するような「感動する話」にはなりえないようなもので、絶望と嫌悪感以外何も残さない。何しろ舞台となったのは守銭奴エアーの飛行機だから、ファーストクラスなるファンシィなものは存在しないし(笑)。






※この記事は

2018年10月28日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 07:00 | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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