「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2018年08月26日

「新しくなったアイルランドへようこそ」(教皇のアイルランド訪問)

実に、約40年ぶりのことである。そしてその約40年ぶりの賓客を迎える側の政治トップ(首相)はゲイ男性であり、閣僚にはかつて修道女だった人と結婚し、彼女の最期を看取ったゲイ女性もいる。40年前、彼ら・彼女らはカムアウトすることもできなかっただろう(アイルランド独立前に制定された19世紀の英国の法律の下で、男性間の関係は違法だった。社会的に、女性同士のそれは存在しないものと扱われていた)。

この変化の大きさには、今まで何度息を呑んだかわからないが、今また息を呑む。人口460万人程度の小さな国は、何らかの権威による上意下達の指示によってではなく、投票を通じて示された人々の意思で、一気に変わったのだ。変化の道のりは決して平坦なものではなく、いろいろと、醜い言葉が叫ばれるなどもしたが、変化はもたらされたのだ。



前回、アイルランドの地をカトリック教会のトップ(教皇。日本のマスコミ様用語では「法王」)が訪問したのは1979年。北アイルランドでは「カトリック系住民」(マスコミ様用語)と「プロテスタント住民」(同)の対立が武力紛争として日常を覆うようになって久しく、「一にも二にも反カトリック」という思想を過激な言動に乗せて社会に拡散し続ける原理主義者(根本主義者、プロテスタント過激派)、イアン・ペイズリーが、欧州共同体(後のEU)に懐疑的な欧州議会議員として議場でわめきたてていたころだ。
Paisley opposed the European Economic Community (EEC), but stood for election to the European Parliament to give a platform to his views and those of his supporters. In June 1979, in the first election to the European Parliament, Paisley won one of the three Northern Ireland seats. He topped the poll, with 29.8% of the first preference votes. On 17 July, Paisley interrupted the opening proceedings of the European Parliament to protest that the Union Jack outside the building was flying upside down. Louise Weiss, who presided over the Parliament, dealt with the interruption swiftly and later said of it that she was used to dealing with "recalcitrant youngsters". On 18 July, Paisley tried to interrupt Jack Lynch−then Irish Prime Minister and President of the European Council−as he was making a speech in the Parliament. Paisley was shouted down by other MEPs.

https://en.wikipedia.org/wiki/Ian_Paisley#Election_to_European_Parliament


それから39年。

その間に北アイルランド紛争は終結し、イアン・ペイズリーは「カトリック」のマーティン・マクギネスと2トップで北アイルランド自治政府を率い、TVの子供番組でおなじみのコメディアン2人組にちなんで「チャックル・ブラザーズ」と呼ばれた。そして2019年の現在では、ペイズリーもマクギネスも既にこの世になく、つい先日はチャックル・ブラザーズの1人も他界した。今の大学生は紛争を記憶していないし、高校生は紛争が終わったあとに生まれている。

アイルランド共和国ではカトリック教会運営施設における子供や女性たちに対する身体的・精神的・性的虐待の実態(実相)が明るみに出て、それに関する包括的な調査が政府によって進められ、報告書としてまとめられ、首相の謝罪が行われるなどした(首相が国民に対して謝罪したのである)。さらに、ここ数年の間にアイルランド共和国は国民投票という形で婚姻の平等(同性結婚の合法化)を実現し、妊娠中絶を「非合法」から「条件付き合法」にした。カトリック教会の影響力が100パーセント消え去るということはないと思うが、かつてアイルランドで生活の隅々にまで及ぼされていたカトリック教会の影響力は、たいへんに弱まった。今のアイルランドで、映画『ローズの秘密の頁』のようなこと――若く美しい女が「お前は男の関心を引く。それは罪だ」と神父によって断罪され、彼女がプロテスタントの男と(プロテスタントの教会でひそかに)結婚したことは無視され、英軍に加わって戦争に行った夫は「カトリック系」の武装組織によってリンチされて殺され、彼女が夫との間になした子は神父によって取り上げられ、彼女は精神病院に隔離される、などということ――は、起こりえないことだと断言できるが、かつてはそんなようなことが実際に起きていたのだ(『ローズの秘密の頁』はフィクションではあるが、映画の原作となった小説は、作者が大叔父の忘れ去られた配偶者にどのようなことがありえたかを作家が思い描いて作品化したものである)。いや、もっとひどい。神父が力ずくで性の道具とした子供に向かって「お前は治療しなければならない」と言い、スティグマを与えるようなことが起きていた。そしてカトリック教会は見てみぬふりをしていた。

それが「とてもひどいこと」であると月曜日に公式の言葉にして認めた教皇が、土曜日にアイルランドの地を踏んだ。それを迎えるアイルランドの人々は、歓迎一色でもなければ抗議やボイコット一色でもない(関係ないが「ボイコット」はアイルランド由来の英語表現である)。歓迎する人々もいれば、抗議する人々もいる。

教皇の通る道の脇には大勢の人が並んでいるが、閑散としているところもあるし、歩道に黒いリボンをつけた赤ちゃんの靴をちりばめるなどして抗議行動を行っている人たちもいる。これらの赤ちゃんの靴は、教会によって踏みにじられた子供たちの尊厳と生命の象徴だという(死んだ赤ん坊の遺骨が汚水処理槽から大量に出てきたテュアムの母子保護施設で起きたことが示すように、幼い命がまともに埋葬されることもなかった、つまり教会によって人間扱いされることもなかったのが、「生命は何よりも大事だから、避妊も妊娠中絶もダメ」という政策を取ってきた宗教国家アイルランドの実態である)。






ダブリンのハーフペニー橋は教会による虐待被害者のための青いリボンと、「性」をめぐる硬直化・固定化された考え方を問い直す虹色に彩られている。






レインボーカラーは「これからの社会のあり方」についての(カトリックの信仰を持つLGBTQの人たちからの)要求だが、青リボンは「かつて行われたこと」についての真相究明・責任追及の要求だ。ご自身虐待被害者で責任追及運動を率いてきたコルム・オゴーマンさんのツイートで、ダブリンのGPOで行われている映像投影によるキャンペーンの写真を見た(このツイートには「お前はアイルランドのイメージを悪くしている」という方向で言いがかりをつけるリプライがついている)。


教会による虐待の責任追及をしている活動家たちの中には、教皇への「歓迎」の規模について「比較対照にならないものを比較する」(1979年の写真はミサに集まった群集の写真、2018年の写真は移動経路の写真であり、比較にならない)、「部分を全体として見せる」という古典的な印象操作を試みている人もいるが:


実際に人が少ないことは事実のようだ(下記はアイリッシュ・タイムズの記者のツイート)。




このセンティメントは、教皇フランシスコのアイルランド訪問直前に、フィンタン・オトゥールが書いていた文章に、最も端的に表されていたと思う。塀の上から落ちて粉々になったハンプティ・ダンプティは総力を尽くしても元に戻せない。アイルランドでカトリック教会が自身の行動で粉々にした人々の教会への信頼も、もう元のようにはならないだろう。


前回、1979年の教皇ヨハネ・パウロ2世の訪問は、アイルランドで「カトリシズムへの回帰」への機運を高めた。社会は保守化し、政治も保守化した。例えば、今年5月に国民投票で撤廃が決まった憲法第8修正(出生前胎児と母親の生存権の平等、つまり妊娠中絶の禁止)がなされたのが、そのような「回帰」ムードの中のことだ(1983年)。

そして「保守」のやることはえげつない。憲法第8修正を撤廃しようとする運動は、今年のレファレンダムでの結果だけをニュースで見れば爽やかに、スムーズに行ったように見えるかもしれないが、実際、撤廃を阻止しようとする宗教保守勢力の言動およびロジックや、彼らの採用したヴィジュアルなどは、「グロテスク」としか言いようのないもので、ちらっと見るだけで病みそうになった。ああいった「保守」勢力の醜悪さと直接対峙しなければならなかった撤廃運動の活動家は、精神的に非常に大きな負担があったことだろう(今もトラウマとして残っているかもしれない)。

今回の教皇訪問では、その79年のような「回帰」ムードは引き起こされないだろう。"No going back" というのは北アイルランドで「もう紛争の時代には戻らない」という決意の言葉として耳になじんだものだが、アイルランド共和国の文脈で「もう宗教が異様に強い影響力を行使する時代には戻らない」という今の状況にも使えるフレーズだな、とふと思った。

19世紀の「アイルランド自治法 the Home Rule」要求運動の時代、反対派(ユニオニスト)は "Home Rule is Rome Rule" という標語を掲げた。アイルランド自治法云々の時代が過ぎ去り、北部6州が「北アイルランド」として成立したあとも、この言葉の精神はユニオニストの間にずっと受け継がれてきた。「ダブリンの支配はローマ(ヴァチカン)の支配」という認識、「北アイルランドが北アイルランドでなくなり、南の一部になれば、カトリックの信仰を強要される」という認識だ(事実、アイルランド自由国/アイルランド共和国の中では少数派となったプロテスタントは窮屈な思いをしてきたわけで、この認識は事実無根の思い込みというわけではない)。しかしこの先、教会の影響力が薄まるなり、ゆるいものになるなりしたら、こういう認識も変わってくるのではなかろうか――と思いついてはみたものの、思いついたはしから脳内にDUPの面々が出てきて「Never3唱」をしてくれる。うん、わかった。大丈夫。私なんかが何か書いたって、現実を変えるような力はないから。だから頼むから、そのNever連呼をやめて。

今回の教皇のアイルランド訪問については、実に、読みきれないほどのテクストが目の前にあって、私はこれらのタブをどう処理するつもりなのだろうと苦笑している。この訪問でなされた発言などについて書くならば、その前にこれらを読まねばならない。またもや40度近くになっているかんかん照りの日に。

その作業にはまだ時間がかかると思うが、とりあえず、BBC Northern Irelandのマーク・シンプソン記者のツイートをまとめて見ていて、「北アイルランド」の見地から、これはぜひ書きとめておかねばならないと思ったことがあったので、以下はその件。

アイルランド島のカトリック教会で最も上位に位置するのはアーマー大司教である(アーマーは北アイルランドに位置する)。今回の教皇訪問の予定が確定したとき、一瞬だけ「北アイルランドに来るかどうか」(つまり「アーマーの大聖堂でミサを行うかどうか」)が話題になったのを見たが、本当に一瞬だけで、あとはもう誰も「教皇が北アイルランドに来るかどうか」など気にしなくなったようだった。「プロテスタント」の北アイルランドにはかかわりのないことだ、とでも言わんばかりに。(ただし実際には、北アイルランドでのプロテスタントとカトリックの比率は、ほぼ五分五分といってよい状態にある。約100年前に「アルスター」全体ではなく「北部6州」が切り出されたのはプロテスタントの数的優位を維持することが目的だったのだが)

だから北アイルランド・ウォッチャーたる私もそっち方面は特に気にしていなかったのだが、今回の教皇訪問では水面下でかなりドラスティックなことが行われていたようだ。それを含めて、シンプソン記者のツイートより。




アイルランドにおけるカトリック教会による虐待の被害者と教皇の直接の対面の機会は、訪問直前まで「ない」とされていた。月曜日(20日)に教皇が "複数の国で聖職者による性的虐待問題が起きている事態を受け、全カトリック信者に宛てた異例の書簡を発表した" のは、その機会を持たないことをいわば埋め合わせるためではないかと言われていた。「書簡」の内容は次の通りだ。
ローマ法王庁(バチカン)によると、ローマ法王が全世界12億人の信者に当ててこの問題に関する書簡を発表するのは初のケース。これまでの書簡は、司教や、個々の国の熱心な信者に宛てられていた。

法王は、「われわれは、このような傷はけっして癒えないこと、またわれわれに対し、この残虐行為を糾弾し、この死の文化の撲滅のため力を合わせるよう求められていることを認識した」と述べた。また、「われわれは教会的共同体として 、目指すべき地点にいなかったこと、これほど多くの命に対してなされた被害の大きさと重さを認識して時宜に適った行動を取ってこなかったことを、恥と改悛とともに認める。われわれは小さな人々に注意を払わず、見捨ててきた」と述べた。

一方、犠牲者の人権擁護関係者らは失望を表明。世界の聖職者の性的虐待問題を追跡している団体の幹部は、「言葉を減らし、行動を増やすべき。(法王は)性的虐待を可能にしてきたことが知られている司教や上位宗教者に対する有効な修養プロセスを打ち出す必要がある」と述べた。

https://jp.reuters.com/article/pope-idJPKCN1L60J7


しかし他方では、アイルランドのカトリック教会のトップ(アーマー大司教)はその前、17日の時点でBBC記者に対し、「教皇は虐待被害者とお会いになるのではないか」と語っていた。また、北アイルランドに来ることはないが、北アイルランドの人々への直接のメッセージがあるのではないか、とも(これも、ダブリン城でのスピーチという形で実際に行われた)。




そして、「プロテスタント」と「カトリック」の対立、というか「プロテスタント」の側からの「カトリック」拒絶(これはアイルランドの伝統というか特色のひとつと言ってよいと、北アイルランド・ウォッチャーは思う)という点について、今回非常に大きな動きがあった。下記のクリップでアーマー大司教が「カトリック以外の教派の指導的立場の方々が進んで教皇を歓迎したいと言ってくださっており、大変嬉しく思っています」ということを述べている。


これについてシンプソン記者は、次のようなことを補足している――「2ヶ月前、アイルランドのプレスビテリアン(長老派)教会がスコットランドのプレスビテリアンとのつながりをゆるめ、史上初めて、ダブリンで教皇と対面することに合意したと発表しています」。


プレスビテリアンはカトリックの教会システムに強硬に反対している教派である。中でも過激派中の過激派で、自分の教会を作ってしまったような人だが、イアン・ペイズリーがカトリックについてどのようなことを言っていたかを少し見れば、だいたいのところはわかるだろう(ペイズリーが死去した際の「語録」的なものを探していただきたい。英メディアではどこもかしこもこぞって「過激語録」を作成していたから簡単に見つかるはず)。

その「反カトリック」の教派のアイルランド支部(「支部」という言い方が正しいのかどうかはわからないが、調べている余裕がないのでそう書いておく。間違ってたらごめんなさい)が、教派のいわば総本山であるスコットランドの教会とは別に判断を行ない、教皇と会うことにしたということは、教派としての一体性より「アイルランドのこれから」を優先したということになろう。

過激派のイアン・ペイズリーが創設したDUPという政党は、ペイズリーが創設したフリー・プレスビテリアン教会の信徒を支持母体の重要な部分として抱えている。ペイズリー自身が仇敵であるはずのマーティン・マクギネスとペアを組んでニコニコするようになっても、信徒たちの強硬さには影響はなかったようで、DUPはペイズリーが引退したあと「ますます過激」と言ってもよさそうな方向に傾いた。ペイズリーのあとを受けたピーター・ロビンソンがトップの間はまだそうでもなかったが(ロビンソンは実務家であり、宗教的信念の持ち主というよりプラグマティストで、「変化する必要性」をストレートに語り、「カトリックでも、政策を支持していれば投票できるDUP」という方向性を打ち出していた。北アイルランドのユニオニストでそういう「宥和的」な姿勢を見せる政治家は、支持を失って引退することになっているのだがロビンソンも例外ではなかった……デイヴィッド・トリンブルを見るのが一番わかりやすい)、ロビンソンのあとを受けたアーリーン・フォスターの代になってからは、もう何というか、半笑いで見ているよりない。何しろ影響力を持っているのがサミー・ウィルソンとかナイジェル・ドッズとかなのだ。(ちなみにロビンソンもフォスターも、信仰としてはフリー・プレスビテリアンではない。確か2人ともメソジストだったと思う。フリー・プレスビテリアンではカトリックの教会に足を踏み入れることすら御法度だというが、ロビンソンもフォスターもフリー・プレスビテリアンではないから、カトリックの政治家の葬儀に参列している。あのフォスターも、「何が何でもカトリックはダメ」というドグマのもとで生きているわけではないのだ。そこに何とか「希望」を見なければならないのかもしれない。「希望と歴史が韻を踏む」ためには)

そして今回、北アイルランドの政治家たちもダブリンでの教皇のスピーチ(ダブリン城)の場に招待されていて、実際に何人もが姿を見せていたのだが、アーリーン・フォスターは「家族で休暇に出ている」ことを理由に招待を断っているという。実際に休暇に出てはいるのだろうが、その理由は通りのよい理由で、実際はDUPの党首がカトリック教会のトップの招待を受けるわけにはいかないということだろう。


家族――訪問初日の土曜日、ダブリンのクローク・パークでの集会を主催したのはthe World Meeting of Familiesという団体だった。名前程度しかチェックしていないが、この団体がやっているのは「家族」の大切さを中心にした活動で、この日の催しは世界的なオペラ歌手の歌やリバーダンスのステージが楽しめ、メインが教皇のスピーチ、というイベントだったようだ(このイベントの前に、ダブリン城で政治家などを前にしたスピーチがあり、その前には大統領官邸でレセプションが行われている)。そのthe World Meeting of Familiesの前日までのイベントで、ジェイムズ・マーティン神父(イエズス会)が「LGBTの人々もその家族も、洗礼を受けたカトリックです。教皇が教会の一部であるのと同程度に、この人たちも教会の一部です」と述べている。


前回、1979年の教皇訪問で神父になることを決意したというアーマー大司教のエイモン・マーティンさんが「(結論を決めずに)オープンな気持ちで教皇訪問に接していただきたい」と述べているクリップ。最終的には、(教会がどうのこうのではなく)個人としてイエス・キリストへのfaithを確認していただきたい、と(この言葉が「教会のきれいごと」、「逃げを打っている」としか解釈されないこともあるだろう。大司教はそれをわかって発言しておられると思う)。


シンプソン記者が西ベルファストからダブリンに向かう人々に話を聞き、ダブリンに行かない人にも教皇訪問についての意見を聞いたクリップ。「プラスティック・ポープ」がイケメンすぎるのでみんな見て(笑)。


訪問2日目、日曜日に予定されているフェニックス・パークでのミサにボランティアとして行くことにしているというデリーのエリン・ハッチョンさんは、「教会によい感情を抱いていない人がいること、抗議している人がいることはもちろんわかっています。でも、教会は悪い人ばかりではない。私は背を向けることはできません」と述べている。


人は誰でも何らかのものを「支持」しているけれど、「100パーセント支持できる」ものなんかほとんどない。可愛い動物やきれいなお花くらいなものだ。私がサントリーの商品を買うのは、自販機の会社での「有給クイズ」を容認するからではない。私が扶桑社の本を買うのは、「つくる会」だの育鵬社だのを支援したいからではない。私がAmazonで英語の本を買うのは、Amazonという企業の活動を全面的によいものとみなしているからではない。私が選挙である候補に投票するのは、その候補の言っていることや行動を隅から隅まですべて把握して支持しているからではない。私がWindowsを使っているのはMS社を支持しているからではない。……

そして思う。「アイルランドにはすべてがある」ことを。死ぬことも生きることも、賛成も反対も、歓迎も抗議も、癒しも暴力も。

フランシスコさんは1980年にダブリンで学んでいたそうだ。だから今回の訪問のことを「アイルランドに戻る」と言っている。


「アイルランドに戻る」というフレーズは、人をぽわんとさせるフレーズだ。何でだろう。たぶん、アイルランドが可愛いからだろう。

Sheep at Croagh Patrick, Co. Mayo, Ireland

1979年、今の教皇がアイルランドに来る前にアイルランドを訪問した当時の教皇の映像。


2018年、アイルランドに「戻ってきた」教皇の映像。


空港にはプロテスタントの聖職者もいた。チャーチ・オヴ・アイルランド(アングリカン、つまり聖公会、すなわちイングランド国教会系)の大主教だ。



1979年の新聞一面:


2018年の新聞一面:


"Welcome to a new Ireland". アイリッシュ・インディがそう言ってる。 



私のTwより:















































※この記事は

2018年08月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 12:45 | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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