「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2019年02月28日

「国家テロ」の真相に光は当てられるのか――パット・フィヌケン殺害事件に関し、英最高裁判断

30年前の1989年2月12日、北アイルランドは「紛争」のさなかにあった。その日、北ベルファストの「カトリックの地域」のある家に銃を持った男2人が押し入り、一家の主を14回撃って殺した。日曜日の晩のことで、カトリックの一家は揃ってサンデー・ディナーのテーブルを囲んでいた。テーブルの下に隠れた子供たち3人は、父親が目の前で無残に撃ち殺されるのを目撃した。

殺害されたのはパット(パトリック)・フィヌケン。39歳で、職業は弁護士(ソリシター)。弁護士といっても紛争時のことだ。彼は多くのリパブリカンの弁護士を務めた。クライアントのなかには、ボビー・サンズをはじめ1981年のハンストで落命した者たちもいたし、警察に問答無用で撃ち殺された人の遺族もいた。パットの3人の兄たちはIRAのメンバーとして知られる存在だった。(ただしパットは、弁護士としてロイヤリストをクライアントにしたこともあり、ダブリンの大学で法律を学んでいるときに知り合ったプロテスタントの女性を妻としていた。)

というわけで、パット・フィヌケンの殺害はただの「殺害」ではなく「暗殺」だった。事件後、UDAが実働部隊UFFの名義で犯行声明を出し、「パット・フィヌケンはIRAの幹部だったので殺害した」と述べた。しかし、彼がIRAの一員だと裏付けるものはなかった(それでも今なお、ネット上ではロイヤリストたちがその主張を繰り返している)。

Killing Finucane: Murder in Defence of the Realm
Killing Finucane: Murder in Defence of the Realm




書いてると長くなって書き終わらないのではしょるが、この暗殺事件は警察(当時の北アイルランド警察、つまりRUC)とロイヤリスト武装組織との結託 (collusion) が背景にあった。1998年の和平合意(ベルファスト合意/グッドフライデー合意)のあとで紛争を「過去」として扱い始めたころ、英国政府とアイルランド共和国政府が「まったくの部外者」である引退したカナダの判事ピーター・コーリー氏を責任者とし、フィヌケン事件をはじめとする殺人事件について、警察と武装組織との結託に関する調査を開始した。コーリー氏は2004年に調査の結果を報告書にまとめ、フィヌケン事件など4件の殺人事件について、パブリック・インクワイアリーの実施による真相究明を勧告した。

しかし2005年、英国政府(当時は労働党ブレア政権)がパブリック・インクワイアリ実施法を改訂し、フィヌケン事件など4件についてパブリック・インクワイアリを行なうことが事実上できないようにしてしまった。その後、いろいろあったが3件についてはパブリック・インクワイアリという形を取らずに最終的な結論が出されたが、フィヌケン事件だけは、パット・フィヌケンの遺族(目の前で父親が殺されるのを見た息子は長じて父親と同じ弁護士となった)がパブリック・インクワイアリの実施を求めてきた。

その件でひとつ、大きな節目となることが、2019年2月27日にあった。以下、ちゃんと文章を書いている余力がないのでTwitterの貼り付けだけだが、リンク先も参照すれば話の内容はわかると思う。











※「今の保守党」に限らず、こういう面では「リベラル」だったデイヴィッド・キャメロンも、それどころかその前の労働党政権も、フィヌケン事件については「国家の犯罪」であることを認めようとする動きは阻止してきたわけで、だからこそ今のあの保守党に関しては悲観的にならざるをえない。これはおそらく保守党だの労働党だのというのとは別のレイヤーの問題で、今の保守党は絶対に、その「真相隠し」に抵抗しようなどとはしない。










この最高裁の判断については、「フィヌケン一家の敗訴」であり、同時に「一家の実質勝訴」である。メディアは「敗訴」と伝えているところが多い。





だが、ご遺族は「勝った」と述べている。息子のジョンさんの発言。



妻のジェラルディンさん:




どうしてこうなっているかというと:




ただし息子のマイケルさんは次のように述べている。メディアとの間で前提の共有が為されていないようだ。



パット・フィヌケン・センター:














アイルランド共和国から(ざっくり言えば、北アイルランドのことについてアイルランド共和国が当事者としてかかわることを可能にしているのが、グッドフライデー合意である)。まずFG:





FF:



見守ってきた人々:










タイミング的に同時に、1974年のバーミンガム爆弾事件についてのインクエストも始まっている。これも、遺族の粘り強い取り組みがようやく公的な動きとなって現れたものだ。当時、英警察はアイリッシュ6人を逮捕して強引に有罪に持っていったのだが、90年代に入って冤罪だったことが確定し(映画『父の祈りを』で描かれたギルフォード爆弾テロでの4人の冤罪と同時期で、構図もほとんど同じ)、以降、真相究明の取り組みは行なわれてこなかった。

Birmingham pub bombings inquest: tributes paid to victims
https://www.theguardian.com/uk-news/2019/feb/26/birmingham-pub-bombings-inquest-tributes-paid-to-victims

インクェストの初日は、殺された21人の人となりを確認し、伝えるということが行なわれたようだ。45年の時を経て語られる「私が生まれる前に、いつものパブに飲みに行って帰ってこなかった父」や、「いつも父と一緒にアストンヴィラのスタンドで観戦していた姉」。ごくごく短くまとめられた記述からでさえ、個々のディテールには圧倒される。

これがテロリズムの顔だ。

そして北アイルランドでは、このテロリズムはテロ組織だけでなく国家によっても行なわれていた。それもだらだらと長きに渡って。

※この記事は

2019年02月28日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 00:10 | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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