「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2020年01月13日

北アイルランド自治議会・政府(ストーモント)、3年ぶりに再起動

日本時間で10日(金)深夜から11日(土)未明にかけて(現地時間では10日の午後)、北アイルランドについてまたもや "historic" という言辞が飛び交うこととなった。

北アイルランドに関する "historic" は、この20年来、安売りされすぎていて、ことばの意味がどんどん失われてきているレベルなのだが(「政治家による、メディアとメディアの向こうにいる一般の人々に対する掛け声」みたいな感じになっている)、今回は、「昔、 "historic" ってもっと大きなことに使っていたよな……」という感覚がどうしてもぬぐえない。

それだけ、北アイルランドが(ここ20年の間に "historic" と形容された本当に「歴史的」な動きのいくつかによって)確実に前進してきたということだろう。紛争が終わって、いくつかの/いくつもの "historic" な動き(「停戦宣言」、「監視塔の撤去」、「武器のデコミッション」といった軍事的なものもあれば、「英国とアイルランド両国が北アイルランドにコミット」、「パワーシェアリングに同意」といった政治的なものもあった)によって「ポスト紛争」の社会と政治をどう構築するかという段階を超え、もうさほど派手なことは起こらない段階にさしかかっているとみるべきなのかもしれない。

今回、2020年1月に "historic" と呼ばれたのは、ストーモントの自治議会がようやく再起動するということだ。正確に言えば、自治議会に議席を持ち、自治政府(エグゼクティヴ)にポストを持っている各政党(北アイルランドでは「主要政党」と位置付けられる)が、英国政府とアイルランド共和国政府代表者が提示した自治議会・政府の再開の諸条件の文書に合意した。

Northern Ireland assembly to sit on Saturday after three years
https://www.theguardian.com/politics/2020/jan/10/pressure-mounts-northern-irish-parties-restore-power-sharing-sinn-fein-dup


金曜日に合意して、土曜日に議会が招集され、議長・副議長や閣僚が指名され、それぞれのスピーチが行われた。


閣僚の一覧は下記記事などを参照。議長がSDLPではなくシン・フェイン(アレックス・マスキー)なのは意外だったのと、「環境」のポストがキリスト教原理主義者のエドウィン・プーツでいいのかという気がするが……。あと、「財務」と「教育」は逆なのではと思ったが(今までそうだったよね)……。司法大臣のポストが、第一に掲げるのがユニオニズムでもナショナリズムでもないアライアンス党の党首に行くのは、今のストーモントの自治議会ではデフォになっている。
https://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-51077397

ストーモントの自治議会が機能を停止したのは、3年前の1月9日のことだ。北アイルランド自治政府は、よくある「閣僚を出す与党と、閣僚を出さない野党」の構造ではなく、議会の議席数に応じて各政党に閣僚ポストが分配されるD'Hondt方式をとっていて、自治政府トップのファースト・ミニスター(「首相」格)だけは最大政党と2番目の政党の代表者2人が正副ファースト・ミニスターとして勤めることになっている。最大政党と2番目の政党というのは、すなわち、「ユニオニスト/プロテスタント」側と、「ナショナリスト/カトリック」側それぞれの代表者ということである。このやり方が「パワー・シェアリング(権限分譲)」と呼ばれる。

約20年前のグッドフライデー合意(ベルファスト合意)のときは、この2つの政党は、UUP(デイヴィッド・トリンブル)とSDLP(ジョン・ヒューム)だった。しかし(非常にざっくり説明すると)この「穏健派」による自治は北アイルランドでは機能せず、2003年の自治議会選挙では、ユニオニスト側ではDUPがUUPをしのいで第一党となり、ナショナリスト側でもシン・フェインがSDLPより多くの議席を獲得した。そして、イアン・ペイズリーによるNOの連発と、笑うしかないカオスを経て、2006年のセント・アンドルーズ合意でDUPとシン・フェインがパワー・シェアリングに合意して、2007年5月にめっちゃ華々しい式典をともなって、自治議会が再起動された。ファースト・ミニスターにイアン・ペイズリー。副ファースト・ミニスターにマーティン・マクギネス。仇敵同士が満面の笑みで肩を並べて仕事をしていく。あれはまさに "historic" と呼ぶにふさわしい出来事だった。

その自治議会・自治政府は、その後も問題なく続いていた。高齢のペイズリーが引退したあと、DUPの党首&ファースト・ミニスターとなったピーター・ロビンソンは、昔は非情で冷徹な過激派のボスの二の腕という印象だったが、政治家としてはプラクティカルである程度の柔軟性を見せることができる人だった。ロビンソンとマクギネスの正副ファースト・ミニスターのペアは、いろいろありながらもわりとそつなく仕事をこなし、北アイルランドは「何があっても紛争の時代には戻らない」という軌道にうまく乗っていた。

そのロビンソンが第一線を退いたあとを受けたアーリーン・フォスターは、DUP初の女性党首だが、紛争の時代に壮年だったペイズリー、青年だったロビンソンよりさらに下の世代で、紛争がひどくなってきたころに生まれており、つまり生まれてこの方ずっと紛争の中にいることを余儀なくされた人だった。自身の乗っていたスクールバスがIRAのボムにやられそうになったり、父親がIRAに襲われたりといった経験を持っている。彼女と、2007年以降ずっと副ファースト・ミニスターの座にあったマーティン・マクギネスの間は、常にぎくしゃくしていた。

そして2016年秋、DUPの側に政治スキャンダルが起きる。再生エネ導入スキームを利用した助成金詐取みたいな、いってみればせこいスキャンダルだが、これが、いろいろあって自治議会・政府をストップさせることになった。2017年1月9日、副ファースト・ミニスターのマーティン・マクギネスが辞任し、ストーモントの自治議会・政府は崩壊した。そのときのことは下記に書いてある。
https://nofrills.seesaa.net/article/martin-mcguinness-retires-from-frontline-politics.html

マクギネスは辞任から10日ほど後には政界引退を宣言した。後任となったのは、IRA義勇兵の経験を持たない若い(30代の)女性、ミシェル・オニールだった。マクギネスは、実は、辞任したときには既に体調が相当悪くなっていたのだが、レアな疾患のために同年3月に他界した。デリーで行われた葬儀には、アーリーン・フォスターの姿もあり、式の終わりには教会の長椅子の向こうから伸ばされたオニールの手を、フォスターが握り返すという一幕もあり、このまま自治議会再起動するのかな……というムードも(ほんの少しは)あった。

だが、そうはいかなかった。自治議会・政府はそのまま停止したっきりだった。

2017年1月に停止した自治議会は、同年3月に改めて選挙が行われた。ここで大笑いの結果が出た。

北アイルランドの自治議会は、よく誤解されているように「トニー・ブレアのリーダーシップによる英国内の地方自治によって始まったもの」ではなく、20世紀初めにアイルランド自治法への抵抗から、アイルランドの北部6州だけを英国の一部として残留させ、残りの26州を英国とは切り離すという「アイルランド独立・北アイルランド成立」へと流れが変わったときに生じたシステムである。詳しくは以前書いたものを参照されたい。

というわけで、北アイルランド自治議会は元々「ユニオニスト/プロテスタント」の統治の道具だった(その時代のがNorthern Ireland Parliament)。そして北アイルランドでは政治はユニオニスト/プロテスタントが独占してきたのだが、1960年代にナショナリスト/カトリックの公民権運動が起こり、それが武力紛争となり、英軍の介入でぐだぐだになり……という過程でその自治のシステムが停止され、英国の直轄統治となった(1972年)。トニー・ブレアはグッドフライデー合意をとりつけて、その直轄統治を終わらせ、北アイルランドの自治議会・政府というシステムを再度スタートさせたのである(その時代のがNorthern Ireland Assembly)。

元々プロテスタントが多数になるように恣意的に境界線を設定して切り離された北部6州(北アイルランド)である。そういう歴史的経緯を有する北アイルランド自治議会・政府は、常にプロテスタントが多数だった。

しかし近年、プロテスタントとカトリックの人口比はほぼ1:1に近づいている。(日本語で読める解説はいまだに「多数派のプロテスタント」云々と書いているが、参照元の数値が古いか、数パーセントの差で「多数派と少数派」に二分することに疑問を持っていないかのどちらかだ。)

そしていつかは起こるべきことが起きたのが、2017年の自治議会選挙だった。プロテスタント側(ユニオニストの諸政党)とカトリック側(ナショナリストの諸政党)との主要政党の議席数のバランスが逆転したのである。具体的には、UUPが10議席とDUPが28議席で38議席、SDLPが12議席とシン・フェインが27議席で39議席だ。(実際には、「主要」に入らないTUVというユニオニスト過激派小政党が1議席を取っているので双方39議席ずつ)

今回、2020年1月に再起動となったストーモントの自治議会に出るのは、この2017年3月に選挙された議員たちである。

しかしその後、Brexitのぐだぐだなどもあり、有権者の投票行動はまた大きく変わっている。UUPは溶けたままだが、SDLPは大きく盛り返してきている(英下院では議席をすべて失っていたが、2019年12月の英総選挙では2議席を獲得した)。アライアンス党やグリーンズのような「ユニオニストか、ナショナリストか」の二元論の枠組みの外にある政党も支持を伸ばしている。

だから「自治議会選挙をやり直すべきだ」という意見もある。

けど、選挙のやり直しは当面なさそうだ。それより、自治議会が停止していた間にひどいことになっている分野(病院など)を何とかするのが当面の仕事となる。

んで、この再起動の過程では「再起動ありき」で語られていたので見過ごされているようだが、DUPの再生エネ関連スキャンダル(RHIスキャンダル)はまだ終わってない。そもそもそれが理由で2017年に自治議会が崩壊したのだが、そのまま何となくうやむやにされていて、北アイルランド・ウォッチャーとしては「ううむ。あるある」というか何というか……。

どうなるんだろうなあ。シン・フェイン的にはBrexitで潮目がUnited Irelandの方向に来てるから、RHIみたいなせこい話はおいといて……ってなってるのかもしれない。

今回、キーとなった(最大の注目を集めた)のは、英&アイルランド政府の提示した案をシン・フェインが受け入れたことで、それは、3年前に崩壊させたのがマーティン・マクギネスの辞任だったことを思えば当然である。

シン・フェインが合意受け入れを表明したとき、ストーモントの議事堂の大ホールに用意された演台でシン・フェイン党首のメアリ・ルー・マクドナルド(彼女はダブリンの人で、北アイルランドでの経験を持たない)と北部6州のシン・フェインのトップであるミシェル・オニールの後ろに、ものすごい大人数のシン・フェインの政治家たちが並んでいたが、その中には政治家を引退したジェリー・アダムズの姿もあった。ただし、政治家時代のパリっとしたスーツ姿ではなく、犬の散歩ですかみたいないでたちだったが。




※以上、Twitterの貼りこみやリンクの貼り付けなど手間ばかりかかる作業は後回しでとりあえずアップだけ。Twitterのログは下記:
https://twilog.org/nofrills/date-200111/asc

※この記事は

2020年01月13日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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