「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年07月16日

ニースの大量殺戮事件とソーシャル・ネット、および誤情報・デマ

すさまじい勢いで次から次へと大変なことが起きていて、何一つ追いついていないのだが(今日はトルコでクーデターがあって、失敗した)、7月14日(フランスの革命記念日、バスティーユ・デイ)に南仏ニースで発生した、毎年恒例で行なわれる花火大会の群集を標的にしたトラックによる無差別殺戮については、主に「ソーシャル・メディアでの情報」という観点から下記に「まとめ」てある。

ニースでの無差別攻撃と、ソーシャルメディア(Twitterがすばやく問題アカウントを凍結)
http://matome.naver.jp/odai/2146854765250800301


84人もの人が殺されたあの攻撃では、今日(16日)になってからイスイス団の(実質的)犯行声明が出て、それについても上記に書き加えてあるのだが、発生当初から、ソーシャル・ネットではイスイス団支持者が盛り上がっていた。

いまどきのジハディ支持者は、TwitterやFacebookよりむしろ、Telegramを好んで使っているのだが、今回は、発生当初の「恐怖のばらまき」の段階でTwitterがよく使われたようだ。Twitterは今回いつになく迅速に対応し、それらのアカウントはすばやくサスペンドされていたという。上記「まとめ」には、過激派に対抗する英語圏のアカウントがTwitterにメンションを飛ばしながら、発見した過激派のアカウントについて注意を喚起しているときのログもとってある。

この@FightExtremismというアカウントは、米国の非営利団体、The Counter Extremism Project (CEP) のもので、アメリカの対テロ系のプロジェクトによく見られる偏り(偏向)はあるが、ソーシャル・メディアというものをよく見ている(「アノニマス」とはまったく異なる)大人の集団のアカウントとして、フォローするなりリストに入れておくなりするとよさそうだ。

団体の幹部・役員一覧を見ると、顧問の中にデイヴィッド・トリンブルがいる。北アイルランドのユニオニスト政党UUPの党首として、1998年のグッド・フライデー合意(ベルファスト合意)の交渉に当たった政治家だ。その功績で、SDLP党首のジョン・ヒュームと共同で、ノーベル平和賞を受賞している。

ただ、CEPのサイトでのトリンブルの紹介の文章は、NIヲチャ的には、(^^;) であるが。
Lord Trimble was largely successful in the decommissioning of weapons held by the Provisional Irish Republican Army (PIRA).


"Largely" ですよ、ポイントは。

と、昨年夏の「いやだぁ、まだIRAが活動しているなんてぇ」騒動と、「フレッシュ・スタート」という笑える名前の合意(「合意」って言うと物言いがつくのかもしれないけど)のことを思い出して、微笑を浮かべるのが、NIに関する記述の楽しみ方。

※この記事は

2016年07月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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