「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2019年03月25日

英国では怒りが大爆発した人々がすごい勢いでネット署名をし、デモを行うなどしているが、私は風邪で、東京は桜が咲き始めている。

風邪を引いた。単にだるいんだと思っていたら風邪だった。

その間に画面の向こうではいろんな動きがあった。英国では、Brexitについての政権・政府の仕切りの悪さに人々の怒りが爆発して、「Brexit反対、Article 50を撤回せよ」というネット署名が1日で300万を超える勢いで集まっていた(一方でフランスでは、政府に対する怒りを爆発させたのだという人々がまたパリの街で暴れていた)。署名が300万を超えた翌日には、ロンドンで「Brexit反対」(Article 50撤廃要求、および/または第二のレファレンダムことPeople's Vote要求)のデモが行われ、ざっくり100万人が集まった。あまりに人が多すぎて、「行進」にならなかったらしい。

そこまでは先週、風邪引く前に予想していた通りなのだが、土曜日・日曜日と様子がおかしい。テリーザ・メイに対する退陣要求が出ているというのだ(いずれはそうなるにせよ、まだちょっと早いだろう)。3月18〜22日の週に、EU27か国の側は英国に対し、「テリーザ・メイがEUとの間で取りまとめた合意(協定)案が議会下院で可決された場合は5月22日まで、可決されなかった場合は4月12日までの期限日の延期を認める」と伝えた(英国は6月末までの延期を求めていた。これが拒否された形。ようやく、Brexitの日程に関する主導権は英国ではなくEUが握っているということが英国のBrexit過激派にも伝わっただろうが、遅すぎる)。

これが英議会で受け入れられるかどうかはまだ確定はしていないが、受け入れられないと考える理由はなさそうだ。つまり、「3月29日の合意なき離脱」だけは回避された。そのあと? どうなるかわからない。「合意案の可決」が当面の関心事だが、これまで2度にわたってその「合意案」に不支持の票を投じてきた議員たちの何人かが、ことこの期に及んで「苦汁を飲んで支持する」などといったことを表明しているらしいし、修正もいろいろ提案されて、それぞれ採決されるだろう。だがもう私は集中力がとっくに切れている。今のこの状態についても「んなん、英議会で合意案が2度目に否決されたときにやっとけや」としか思わない。こんなんに振り回されっぱなしの人々がたくさんいるということが、気の毒でならない。

日本語圏見ると、「メイがかわいそう」的な安易な同情論を目にすることになり、心が濁って風邪が悪化する。何でこんなに同情論が多いのか、おかしいだろうと思うのは、私がヲチャだからで、日本語圏のコメント欄的なところで発言している人々の多くはBrexitの局面になるまでメイのことを知らなかったのだろう。私ははっきり言ってテリーザ・メイという政治家が嫌いだ。キャメロン政権で内務大臣をやってるときから、この人は相当めちゃくちゃだった。長期的な展望がなくて、目先の人気取りだけ(じゃなければ鎖国主義者か何か)という感じ。それでいて最後の責任は回避するタイプ(アンバー・ラッドが内務大臣をクビになった経緯を参照)。まあ、そんなことはもういい。テリーザ・メイの政治生命はもう長くない……ということは結構前から既定路線だったのだが、今週末、風雲急を告げるというか、閣僚の中から「メイ降ろし」の動きが出てきたとかいう報道もあって、いやもうほんとばったばたである。もちろん、そういう報道があった12時間後には「メイ降ろしなどない」という報道が出てきているわけで、そんなものに振り回されていたら風邪の悪化が止まらない。

だからしばし回線切って寝る。

外の空気を吸いに出てみると、ソメイヨシノが咲き始めている。

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大きな木の足元、幹・根から直接生えているつぼみはもう満開だ。

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近くでは、ケヤキの木の若芽が早くも出てきている。昨年10月のすさまじい台風のため、このケヤキ並木の大木の中には伐採を余儀なくされたものも何本もある(強風でぐらぐらとあおられたため、根本が浮いてしまって、倒れる危険性が高くなってしまっていた)。今、芽を吹いているのは、台風の生き残り、サバイバーたちだ。

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近くではユキヤナギが満開。

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ベニバナトキワマンサクも咲き始めている。この花、小さい子供が目の高さで見ているときの様子がとてもおもしろい。ぷしゅーっと噴き出してきているような花を、子供は目をまん丸くして見ていることが多い。子供はこういう放射状の形状にやられるのかもしれない(ヒガンバナもそう)。

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ハナニラ、ムスカリも咲き始めている。カラスノエンドウまでも。

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※カラスノエンドウはピントが合わなかった。初物ということでアップ。
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※以上、Flickrを使わなくなったので、こちらにアップした写真。このページの写真は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。画像をクリック/タップして表示されるフルサイズの画像をお手元にダウンロードしてご利用ください。使用カメラはRicoh CX5で、撮影モードはオート、ホワイトバランスとかもオート。レタッチもWindows 10についてるソフトでオート。

*Pictures taken by nofrills, CC BY-NC-SA 4.0. If you are not for profit, feel free to use full-size images that are available by clicking on each picture.

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス





「Brexit撤回」の署名は400万筆を超え、日曜のうちに500万筆も超えている。一方でこの署名を最初に登録した人は「ぶっころす」とかいう脅迫を受けて、Facebookの自分のページを閉鎖せざるを得なくなったという。署名があっという間に100万筆を集めたころには「イギリス人は暴れないwww この人たち、どんなことになってもmightとかcouldとかpossiblyと言ってる」と笑っていたのだが、そういう「イギリス人」とは違うタイプのイギリス人も無視できないくらい大勢いる。サッカーのフーリガンとかもそうだし、ネットで署名を立ち上げた人をネットで脅迫するような連中もそうだ。この「暴力的なイギリス人」を考えるとき、私の頭の中では象が撃たれている。

象を撃つ―オーウェル評論集〈1〉 (平凡社ライブラリー)
象を撃つ―オーウェル評論集〈1〉 (平凡社ライブラリー)

あるいはいっそここでは「ジョニー」を思い浮かべてもよいのかもしれない。

マイ・ビューティフル・ランドレット(字幕版)
マイ・ビューティフル・ランドレット(字幕版)



なお、ユリ・ゲラーの件はこちら(英語実例集積所)で、25日の昼過ぎ (12:30) にアップされる記事を参照:
https://hoarding-examples.hatenablog.jp/

※この記事は

2019年03月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 07:00 | flickr | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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