「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2017年03月24日

マーティン・マクギネスの棺はデリーのボグサイドを巡り、葬儀は北アイルランド紛争と和平のプロセスをたどった。

Googleマップを開き、"derry ireland" を検索する。Googleが送り返してくるのは、"Londonderry, UK" だ。

googlemap-derrylondonderry1.png

私の検索ワードも間違っていないし、Googleの検索結果も間違っていない。この町は、そういう町だ。

この町がDerryと呼ばれるべきか、Londonderryと呼ばれるべきかという話になるとやたらとややこしいことになるし、それは「べき」論を超えたもので、この町のことをDerryと呼ぶ人の政治理念・政治思想は「緑」で、宗教はまず「カトリック」だ(稀に「プロテスタント」の人もいるが)。彼らはこの町のことをDoireと書くこともあるが、それは英語ではなくアイルランド語の綴りだ。Londonderryと呼ぶ人は「オレンジ」の側で、「プロテスタント」だ。「緑」の側の新聞はDerry Journalで、「オレンジ」の側の新聞はLondonderry Sentinelだ。私はDerryの人としか話をしたことがないが、Londonderryの人は、そんな機微をとらえていそうもない極東の島国の微妙なロンドン・アクセントのあるジャパニーズ・イングリッシュの使い手が自分の町をDerryと呼んでいるのを聞いたら、とても悲しがるかもしれない。

ああ、都市名だけでこれだけの文字数を楽々と費やせる町。

こういうややこしい町なので、都市名が「両論併記」されることがある。Googleマップでは "Londonderry, Derry" という語順になっているが、一般には "Derry/Londonderry" だ。こういうふうに書くにも、どっちを前にするとかいったことでもめるので、機械的に「アルファベット順」にしてあるのだ。「デリー/ロンドンデリー」は読むにも適しているのでよく用いられるが、書き言葉では "(London)derry" という表現もある。

さて、Googleマップの画面でピンが立っているのは、フォイル川の東岸だ。こちら側は「ウォーターサイド」と呼ばれ、住民の大多数は「Londonderry市民」である。市庁舎だとかメインのショッピングセンターだとかいったものがあるのはウォーターサイドの側ではなく、川の西岸で、そちら側は「シティサイド」と呼ばれる。シティサイドは「Derry市民」と「Londonderry市民」が暮らしていて、前者が多数派だ。このシティサイドの側、マップのキャプチャ画面でLの文字あたりを中心に、マップを拡大してみよう。

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Bloody Sunday Monumentと、Derry City Walls(城壁)の印が現れた。その東側から川にかけて色がついている部分が市街地(城壁の中、旧市街)である。

マップをさらに拡大すると、「レッキー・ロード」や「ビショップ・ストリート」といった地名が現れる。ブラディ・サンデー事件の証言集や事件についての資料を読んだ人なら記憶しているに違いない地名だ。

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デリーの城壁の外側、この辺りが「ボグサイド」と呼ばれる地域で、決して広くはないこの地域は「北アイルランド紛争」について一度でもまともに調べるなどした人なら必ず知っている出来事がいくつも起きた地域である。

さらに拡大すると、Bloody Sunday Monumentに代わり、Free Derry Museumが表示され、その下側にまた何かアイコンが出てくる。

googlemap-derrylondonderry4.png


そのアイコンにカーソルを合わせてみると、それがFree Derry Cornerであることがわかる。

googlemap-derrylondonderry5.png


Free Derry MuseumやBloody Sunday MonumentからFree Derry Cornerを経てさらにまっすぐ進む道を道なりに行くと、進行方向左(方角としては東)に感覚的に90度カーブしているところがある。ここにあるのが「ロング・タワーの聖コルンバ・チャーチ」である。カトリックの教会(チャーチ)だ。

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デリーにはデリー教区をつかさどる聖ユージーン大聖堂(カシードラル)がある。城壁のある高台から見て下のほうに広がる平地にそびえるその尖塔は、デリーの町の風景を特徴付けるランドマークである。一方、ロング・タワーの教会はもっと目立たない、地味な、地元の人々が通う日常的な教会だ。(ちなみに城壁のほうにも聖コルンバにちなんだ豪華な教会があるが、そちらは聖公会=チャーチ・オヴ・アイルランドの教会である。)

マーティン・マクギネスの棺は、ボグサイドの自宅からほんの数百メートル先のその教会まで、ゆっくりゆっくりと時間をかけて、ご家族、およびIRAとシン・フェインの人々の肩に担われて、進んでいった。その道沿いには、地元の人たちにとってはシンボルであり、外部からの観光客を呼ぶ観光資源でもあるボグサイド・ミューラルが点在する。2017年3月23日(木)の夜10時半過ぎ(日本時間)から、デリーからネットで中継されてくるマーティン・マクギネスの葬儀の映像を見ているときに最初に指がPrint Screenキーに向かって動いたのは、ものすごい数の人々と、それらのミューラルの1枚をカメラがとらえたときだった。

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ミューラルに描かれている学校の制服を着た女の子は、アネット・マクガヴィガンという名で、1957年に生まれ、1971年9月6日に14歳で死んだ。ボグサイドで発生した英軍とIRAの「銃撃戦の巻き添い」だ。ブラディ・サンデー事件の約5ヶ月前のことで、アネットは北アイルランド紛争が始まってから100人目の民間人(一般市民)犠牲者で、子供の犠牲者としては一人目だった。

After the rioting had ceased at around 18:00, Annette, still wearing her school uniform, had gone with friends to collect the rubber bullets that littered the ground. She was shot in the back of the head while standing at the corner of Blucher Street and Westland Street. No one was charged with her death and no investigation carried out.

訳: 18時ごろに(ボグサイドの若者たちの)暴動がおさまり、まだ学校の制服を着たままのアネットは、何人かの友人たちと連れ立って、地面に転がっているラバー弾を拾い集めに行った。そして、Blucher StreetとWestland Streetの交差点に立っているときに、後頭部を撃たれた。彼女の死で起訴された者は誰もおらず、また捜査も行なわれていない。

https://en.wikipedia.org/wiki/Annette_McGavigan


IRAが自分たちの側の女子学生を銃撃することはまずありえないし、つまりどちら側が撃ったのかは察しがつくが、捜査が行なわれていないのでそこは何とも書くことができない。だが彼女の死は「無垢の死 the Death of Innocence」と題したミューラルとして記録され、記念された。このミューラルが完成し公開されたのは、1999年9月1日、関係各者がすさまじい協議と交渉の末、ようやく「グッドフライデー合意 (GFA)」に署名(1998年4月10日)してから、1年5ヶ月ほど後のことだ(合意はその後、1999年12月に発効した)。

関係者が署名したGFAの合意文書は、1998年5月22日に投票が行なわれた南北アイルランド(アイルランド共和国と北アイルランド)それぞれでのレファレンダムの結果、南(共和国)では94%、北では71%の「賛成」票を得て成立した。共和国では圧倒的な支持を得たが、北アイルランドでは3割近くが「反対」していた。その「北アイルランドの反GFA陣営」の中心で怒りを叫んでいたのがあのイアン・ペイズリーで、そのペイズリーの腹心として冷徹な働きぶりを見せていたのがピーター・ロビンソンだ。

GFA発効後、何とか動き出したストーモント体制が、いろいろあって崩壊したりし(その後、何があったかを思うと、なぜあのとき崩壊したのか、実に謎だ……その謎の鍵を持ってる人が死に絶える前に、何かが白日の下にさらされることがあるんだろうか)、ユニオニストの側でGFAを推進したUUPが支持を失い、代わってペイズリーら反GFAのDUPが第一党となったのが2003年のアイルランド自治議会選挙のときだった。この選挙ではナショナリストの側でもSDLPが第一党から転落し、シン・フェインが第一党となった。うちら、外部のヲチャは「ぎゃ〜〜〜」と絶叫していたが、当時英国首相だったトニー・ブレア(北アイルランド和平プロセスの最大の推進者)は「それぞれの最過激派がそれぞれの側の第一党になることで、和平は本物になる」的なことを言っていた。そのときは「おいおい、マジかよ」と思ったが、結果的には、ブレアは正しかった(ブレアが正しかったと言える数少ないことのひとつがこれだ)。その後もイアン・ペイズリーは「シン・フェインとのパワーシェアリング(権限分譲による行政権の担当)など論外」、「GFAは死んでいるので、お葬式をしてあげなくては」などという発言を繰り返していたが、どういうわけか軟化して、2006年10月にセント・アンドルーズ合意でシン・フェインとのパワーシェアリングに同意したのだ。その1ヵ月後には自治議会が再起動されるはずだったのだが、その再起動当日に、1988年3月16日にベルファストのミルタウン墓地で行なわれていたIRAメンバーの葬儀を拳銃と手榴弾で襲撃したロイヤリストのマイケル・ストーンが、火薬というか花火を詰めたバックパックを背負って「アダムズとマクギネスをぶち○す!」と叫んでストーモントの議場に乱入しようとして取り押さえられるという騒ぎが発生したため、自治議会の再起動は延期された。ちなみに、起訴されたストーンは法廷で「すべてはアート・パフォーマンスだった」とわけのわからない主張をして、そして認められず、その後また獄中に戻っている(ストーンは「紛争」中の殺人での刑期が、GFAによる特例で短縮されて出所していたのだが、要するに「仮釈放」の状態なので、条件に違反したら刑務所に戻されることになっていた)。

1988年にストーンがミルタウン墓地を襲撃したときの標的はジェリー・アダムズとマーティン・マクギネスで、葬儀を取材に来ていたはずが襲撃を目撃することになってしまった報道のフォトグラファーやカメラマンたちが、ストーンからの攻撃を受けたリパブリカンたちの姿をとらえている。今回、マーティン・マクギネスが亡くなったときに各メディアが組んだ写真特集にはほぼ必ず、そのミルタウン墓地襲撃時の写真が入っていた。ベルファスト・テレグラフの特集では1枚目だ。マーティン・マクギネスは、彼自身、何度も殺されかけたことがある人物だ。「紛争」において、武装勢力に参加していて、一方的に誰かを殺す側だった者などいない(一方的に殺される側だった人たちはいる。「民間人」である)。

……こうして、どんどんどんどん話がつながっていく。「意識の流れ」に任せていたら、いつまでたっても書き終わらない。

そんなこんなで、途切れていそうで途切れていないつながりの中で、2006年にマイケル・ストーンに再度襲撃されかけたマクギネスだが、もちろん「テロリストが花火を背負って議事堂に突入(未遂)」したくらいでは本質的には何の影響もなく、2007年5月8日、ストーモントはファーストミニスターにイアン・ペイズリー、副ファーストミニスターにマーティン・マクギネスという顔ぶれで再起動した。トニー・ブレアやバーティ・アハーンといったゲストを迎えて行なわれた希望に満ちたセレモニーはBBCのサイトなどで中継され、私もそれを東京で見ていたのだ。大口を開けてガハハ、ガハハと笑うイアン・ペイズリーと、その隣で同じように笑っているマーティン・マクギネスを、「何ですか、これは」という気持ちで見ていたのだ。

それから10年を待たずして、マーティン・マクギネスは逝ってしまった。イアン・ペイズリーも既にないが、ペイズリーは元から高齢だったので亡くなったときは「ついに」という言葉で語ることができた。マクギネスは今年まだ66歳だ。引退して、本でも書いてから逝ってもよいだろうに、ほぼ最後まで政治の第一線で戦って、最後までファイターとして去っていった。

何を墓場まで持っていったことやら。

ともあれ、2007年5月のストーモント再起動の日にイアン・ペイズリーが演説の最後に引用した聖書の一節がある。キリスト教徒ではない私はそれを「The ByrdsのTurn! Turn! Turn! だ」としか認識できないのだが、The Byrdsのその曲はピート・シーガーが曲を書き、歌詞は旧約聖書のEcclesiastes(コヘレトの言葉)から取られている。Turn! Turn! Turn! の歌詞との若干の異同はあるかもしれないが、こういう言葉だ。

There is a time for everything,
and a season for every activity under the heavens:

a time to be born and a time to die,
a time to plant and a time to uproot,

a time to kill and a time to heal,
a time to tear down and a time to build,

a time to weep and a time to laugh,
a time to mourn and a time to dance,

a time to scatter stones and a time to gather them,
a time to embrace and a time to refrain from embracing,

a time to search and a time to give up,
a time to keep and a time to throw away,

a time to tear and a time to mend,
a time to be silent and a time to speak,

a time to love and a time to hate,
a time for war and a time for peace.

https://www.biblegateway.com/passage/?search=Ecclesiastes+3


マーティン・マクギネスの葬儀でも、この一節は繰り返された。

葬儀の日のNIのリストに流れてきたツイートは、下記に記録してある。ジャーナリストや報道機関のアカウント、政党のアカウント、個人のアカウント、など。ただし私の観測範囲なのでナショナリスト側に軸足がある。

Martin McGuinness: Funeral
https://chirpstory.com/li/351158

マーティン・マクギネスは言うまでもなくIRAの司令官だった人物で、本人は「1974年に辞めて、政治に専心した」と言っていたが(言い張っていたが)、そんなことはあるわけがなく、IRAの最高幹部としてあの事件やあの事件やあの事件やあの事件の実行決定・実行支持に関わっていたと思われる。それゆえに、彼を「テロリスト」と指弾する声は絶えない。死んだからといって「死者に鞭打つようなことはすべきではない」とはならない。逆に「墓場まで持っていきやがったな」となる。(あるいは、カトリックについては「偏見」すれすれのことがあるんだけどね……つまり……、ジャック・ヒギンズの『死にゆくものへの祈り』を読めばわかるよ)

上で述べた「反GFA」の人々(彼らが「反GFA」なのは、「そこにシン・フェインがいるから」だ。その中心にいたイアン・ペイズリーが変心しようと、彼らは変わらない。それが北アイルランドの「プロテスタント」だ。組織の上が右に動いたら自分も右に動くとかいうふうでは全然ない。1998年和平合意の前、トニー・ブレアもそれですごく苦労してる)は、特に、マーティン・マクギネスの死に際して「テロリストが謝罪もせず改悛の情も見せず、権力の座について『平和の人』気取りで振る舞っていた。彼はテロリストであった事実を隠蔽され、すばらしい人物だったと賞賛されている」というような憤りを抱えているし、その憤りを示すことをためらわない。マクギネスが死んでから数日のTwitterは、正直、見るのが苦痛だった(それ以前に、マクギネスについて書かれた、マクギネスについて書くべき人々の文章が多すぎて、全部読むこともできていないというのに、ノイズが多くて本当に……)。北アイルランドについて関心なんか抱いているかどうかわからないような人が、「ブレアがやったことは全部間違い」というような基準で(その気持ちはわかるけどね)、北アイルランド和平についても「ブレアはテロリストを無罪放免した」といった解釈にたって見ていて、その上でマクギネスを(たぶんわけもわからずに)断罪している。

ああいう雑な論の根底にあるのは、「テロリストは悪人だ」、「悪人がテロリストになる」という決め付けだ。

事実は、そうではない。「テロリスト」ってのは、善人だってなる(なってしまう)ものなのだ。

マーティン・マクギネスはそれを体現していた。

驚くべきほどさらっとエキュメニカルな形式をとっていた葬儀でお話をしたメソジスト(プロテスタントの一派)のハロルド・グッド師は、和平プロセス(特にIRAの武装解除、武器デコミッション)でのマクギネスの実像を紹介しながら、マクギネスのキリスト教徒としての善良さを語っていた。プレスビテリアン(プロテスタントの一派)のデイヴィッド・ラティマー師は、マクギネスが「善人 a good man」であったことを語った。

そして、マクギネスが地上にあるときに最後にスピーチ(graveside oration)を行なった盟友、ジェリー・アダムズは、マクギネスが死んだあとに「テロリストだった」という言説が特にメディアにあふれていることについて「マーティン・マクギネスはテロリストではなかった。マーティン・マクギネスは、フリーダム・ファイターだった」と述べた。ここまでもろに、"One man's terrorist is another man's freedom fighter" そのままの発言がなされると面食らってしまうのだが、しかし実際にそうだったのだろう。

葬儀が終わってしばらくはビル・クリントンの華麗な弁舌(アメリカの大統領ってのは基本的に「スター」だね)がニュースのトップだったが、シティ墓地での埋葬が終わったときには、埋葬のときのアダムズの発言がニュースのトップになっていた。そして23日はそのまま日が暮れて夜になった。

mmc-funeralbbc.png


マーティン・マクギネスが生きている間はあまり目立つところには出なかった昔の映像が、没後、何度も流れてきていた。若き日の「政治家」(というより「政治活動家」)のマクギネスが、「英国は武力でしか追い出せない」、「アイルランドから英国を武力で追い出さねばならない」というリパブリカンの理念を語る映像だ。それはおそらく彼が北アイルランドという微妙な存在(結局のところ「英国の一部」である)の政治トップ(の片割れ)として全体を引っ張っていかねばならなかった間は、事実上封印されていた映像だ。その映像の中のマクギネスは、a young, angry manだ。カメラ映えした彼は、いい映像が撮れるからテレビに好まれていたということも聞いたことがあるし、まだまだ、このような(当時は放送されたが、今はまず表には出てこないような)映像はたくさんあるのだろう。そして、「紛争」の時代をリアルに生きた人々は、そういった映像でもマクギネスのことを認識しているのだろう。

bbcni-mp-24mar2017.pngマクギネスを、いまだに(それらの映像から軽く30年経過した今になっても)「そういう発言をする人物」とみなしてきた人々(上述した「反GFA」の人々)は、21日に死去が発表されてから23日の葬儀まで、なるべく無視しようと努力していたことだろう。BBC News NIの「この1週間、毎日最もよく読まれた記事」の一覧に、マーティン・マクギネス死去の記事が入っていないことに、葬儀のあとに気づいた。月曜日はデリー・シティFCの主将ライアン・マクブライドが急逝したニュースが一番読まれているが、マクギネス死去の報道があった火曜日は「レアなので高額になっている5ポンド札を手にした匿名女性が、その紙幣を寄付した」という「地域ネタ」が一番になっている。その次、水曜日はまたディシデンツがボムってたのでそのニュース(それがトップに来るのは当然だ)、そして木曜日の葬儀の記事は「記事」ではなく「ライヴ・ストリームのページ」だが、このページには世界中からアクセスが集まっていたはずだから(他のライヴ・ストリームがつながらなくなってたので、BBCやRTEのような大手に人が流れた)、北アイルランドの人々が注目していたことでのランク入りかどうかはわからない。

でも、あの葬儀は、「反GFA」の人たちも見ていてくれていたらな、と思っている。あそこにこそ、未来の形があったと思うから。


mmc-funeral09.png


「政治家」としてマーティン・マクギネスが作ったのは、14歳の子供が銃撃される心配のないボグサイドだ。そして、最も激しかった地域のひとつであるボグサイドがそう変わったということは、北アイルランド(アイルランド北部)が全体的に、そのように変わったということだ。英軍の「オペレーション・バナー」」は終結し、北アイルランドの地で作戦を行なうことを目的とした英軍部隊は撤収し、軍施設は縮小され監視塔などは取り壊された。

1971年9月に撃ち殺された14歳のアネット・マクガヴィガンのミューラルは、1999年に最初に描かれたときは、画面の向かって左にライフルが銃口を下にして立てた形で描きこまれ、アネットの斜め上に浮かぶ蝶は色を持っていなかった。

そのミューラルを、2006年6月(だからまだDUPがセント・アンドルーズ合意でYesと言うなんて可能性も見えてなかった時期)に、ボグサイドのミューラル・アーティストたちが少し描き直した。アネットの横の銃は銃身が切られてデコミッションされ、斜め上に浮かぶ蝶には彩色がほどこされた――紫とオレンジという彩色が。

Death of Innocence - A Bogside Mural - geograph.org.uk - 309885.jpg
By Eric Jones, CC BY-SA 2.0, Link



Death of Innocence mural, Bogside - geograph.org.uk - 1159269.jpg
By Kenneth Allen, CC BY-SA 2.0, Link



2010年1月から2月にかけて、妻アイリス・ロビンソン自治議会議員(当時)が19歳の男性と深い仲になっていたうえに、政治家の立場を利用して彼のビジネスの便宜を図ったのではないかという疑惑の渦中で、政治家としてはファーストミニスター職を一時退くという決断を余儀なくされ、個人としては察するに余りあるつらい状況に陥ったピーター・ロビンソンは、あの大変な時期を乗り越えてから人間的な面を積極的に見せるようになり(それまでは「冷徹」キャラだった)、冗談も飛ばすようになった(その冗談がすこぶる可笑しいので、やはり北アイルランドはコメディランドだと思う)。その変容に、マーティン・マクギネスの与えた影響はきっと大きかったことだろう。

当時、DUPの人たちは、シン・フェインとは政治トップとしてのパートナーにはなれてもそれ以上にはなれないという態度を表に出していた。そのシンボリックな「境界線」が「握手をしない」ことだった。2007年3月26日にイアン・ペイズリーとジェリー・アダムズが初めて直接顔を合わして話をしたときも、マスコミは「握手はあるのか」に注目していたが、しなかった。その後も、DUPのトップとリパブリカン・リーダーシップが握手することはなかった。しかし、2010年1月、アイリス騒動で憔悴しきっていたときにマーティン・マクギネスから手を差し出されたピーター・ロビンソンは、「こういう場合、握り返すしかないと思ったのでそうした」。これがDUPとSFの「歴史的」な初握手になった。(ああ、今でも笑えるこの顛末。)

それから7年。その間にいろいろあった。アイリス騒動や不動産スキャンダルで火だるまになったピーター・ロビンソンは、英国会議員(MP)の座を失った。たいがいのことは切り抜けてきたジェリー・アダムズは、自分の弟のとんでもない悪行(娘に性暴力を加えていた)からは逃げ切れず、生まれ育ってずっと拠点としてきた西ベルファストを脱してアイルランド共和国の国会議員に転進した(よくわかんないですよね。私もよくわかんないです。たぶんアイルランドの人たちもよくわかんないんじゃないかな)。イアン・ペイズリーは死んだ。ピーター・ロビンソンは心臓を悪くしていて倒れ、緊急手術で一命を取り留めるという経験をして、政界を引退した。

ピーターの後継としてDUPが選んだのが、40代で女性のアーリーン・フォスターだった。しかしファーストミニスターとしての彼女は、副ファーストミニスターのマーティン・マクギネスとぎくしゃくしていた(フォスターは紛争の時代、父親がリパブリカンに殺されそうになるという経験をしていた)。そこに、フォスターが制度設計・運用に深く関わった再生エネ促進プログラムを利用して不正に補助金を受け取る業者が続発という「RHIスキャンダル」が起き、政治が機能停止に陥ることを避けるためにもフォスターは調査が終わるまでは身を引くべきと主張したマクギネスとフォスターの間はますます険悪になった。そしてついに起きたのが「マーティン・マクギネスの辞任、ストーモント自治議会解散」という大激震で、その10日ほどあとにはマーティン・マクギネスは健康問題を理由に政界引退を発表した。それからまだ2ヶ月ちょっとしか経っていない。

今回、アーリーン・フォスターは直前まで、葬儀に参列するかどうかを発表しなかった。あまり早くに発表すると党内がうるさくなるからだろうと私は思っていたが、どうなのかはもちろんわからない。イアン・ペイズリーが創設した教会(フリー・プレスビテリアン)の信徒ならば、「カトリックのミサに参列してはならない」という教義があるので (^^;) 「葬儀に参列しないのは信仰の問題だ」と言えるのだが(そして実際、マクギネスと個人的な親交を深めていたペイズリー家の人々は、葬儀には来ていない)、フォスターは確かメソジストで(要確認)、参列しないという決定をした場合、信仰を言い訳にすることはできない。そういう立場にあった。

結局、彼女はピーター・ロビンソンと一緒に「北アイルランド自治政府の前・現ファーストミニスター」として、「副ファーストミニスター」として共同で仕事に当たってきたマーティン・マクギネスを送る場にはやってきた(彼女が到着したとき、デリーの人々は万雷の拍手で迎えた。3月2日の選挙前にあれほど敵意あふれる罵詈雑言を口にしていた彼女を)。だが、それ以上のことをしようとしていたかどうかはわからない。ピーター・ロビンソンにしても同じことだ。

だが、実際にはこういうことが起きた。葬儀が終わり、棺が教会の外に運び出されたあと、BBCのネット実況が途絶えたあとのことだ。アダムズが、退出しようとする流れの中で、まだ自席に立ったまま人が途切れるのを待っていたロビンソンの方に歩みでた。




アダムズの隣にいる赤いネクタイはアイルランド共和国のエンダ・ケニー首相、反対側の隣の白髪の背の高い人はビル・クリントンである。クリントンと話をしている金髪の女性が、マクギネスの後継でSFの北部リーダーとなったミシェル・オニール。ロビンソンの後ろにいる男性は自治政府閣僚でDUPの政治家のハミルトンで、その後ろにフォスターが立っている。

その次に起きたのがこれだ。




History says, Don't hope
On this side of the grave,
But then, once in a lifetime
The longed-for tidal wave
Of justice can rise up
And hope and history rhyme.


中継の映像で、教会の外で葬儀に参列している数千人の人々の様子も何度か映し出されたが、そこにいる人たちを見ながら、「紛争」がもし続いていたら、この中の何人が銃を取り、戦っていただろうと思った。ドレッドヘアっぽい髪型のあの青年はどうだろう。ヒップスター的なひげを蓄えたあの青年は。いかにも筋骨隆々といった体つきのあの中年男性は。黒髪をお団子にして頭のてっぺんにのっけているあの若い女性は。

マーティン・マクギネスのやったことは、そういうことだ。






















棺が自宅を出るときは、フランシス・ブラックが「ラグラン・ロード」を歌い、埋葬の直前はクリスティー・ムーアがThe Time Has Comeを歌った。


via http://www.belfasttelegraph.co.uk/video-news/video-martin-mcguinness-funeral-christy-moore-sings-final-song-at-cemetery-35561507.html

歌い終わったところでカラスが鳴いてる。ヒバリじゃなかったね。

"Our revenge will be the laughter of our children" – Bobby Sands





ちなみに葬儀翌日、デリーの新聞とロンドンデリーの新聞のサイトはこんなふうだ(キャプチャ取得時刻は、日本時間で24日午後2時ごろ)。

derryjournal24march2017.png


londonderrysentinel24march2017.png

※この記事は

2017年03月24日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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