「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年06月17日

EU残留派の労働党所属議員、ジョー・コックスが暗殺された。

英国で国会議員が刺され、銃撃された。現職国会議員の殺害は1990年以来初(2016年6月16日)
http://matome.naver.jp/odai/2146609084847235601

詳しいことは上記の「NAVERまとめ」に書いてある。

英国にいる「過激派」は、「イスラム過激派」だけではなかった――それを改めて思い知らせる事件だ。

米国の極右が「人種戦争 (race war) を始める」っつって黒人を襲撃した事件があったが(チャールストン教会襲撃事件)、あの事件があったときには英国では既に同様の動機で行われた「異人種」に対する襲撃事件が起きていた。ただし加害者が英国人ではなく、政府間交換留学プログラムみたいなので渡英したばかりのウクライナ人で、「外部から来たテロリスト」だった。

今回は違う。「ホーム・グロウン」だ。

「ホーム・グロウン・テロリスト」というのは、「自分が(生まれ)育った国を攻撃するテロリスト」という意味で、「外部からテロの思想を持ってやってきた人物」ではないということを表す。

このような「ホーム・グロウン」の概念が示す通り、「テロ」というのは「外部からやってくるもの」と認識されてきた(英国の場合、やや曖昧になるのは、英国の一部であるはずの北アイルランドから英国の政治・経済に攻撃を加えるためにやってきた「アイリッシュ・ナショナリズム」の思想を持つテロリストは、英国のパスポートを持ち英国に自由に出入りできる英国人だったという点だが……ただし、当人たちは「英国人」性を拒否しているかもしれないが)。「ホーム・グロウン・テロリスト」は「ただのテロリスト(=外部から英国を攻撃しに来るテロリスト)」ではない。だから特別な用語が必要とされた。

しかし、「ホーム・グロウン」という言葉が想定していたのは、ジョー・コックス議員を殺した男のような「極右活動家」ではない。もしそうだったとしたら、1999年SOHOパブ(アドミラル・ダンカン)爆弾事件のデイヴィッド・コープランドのような者も、パキスタン人の店を襲撃していたナショナル・フロントの活動家のような者も、そう呼ばれていただろう。

近年の英国が特に警戒していた「ホーム・グロウン・テロリスト」は、ルーツは英国外にあるが、子供のころに英国に来て英国で育ち、英国の市民権・国籍を有する者や、英国で生まれ育った者を指している。「パキスタン系英国人」や「ソマリア系英国人」のような人々だ。2005年7月7日のロンドン公共交通機関爆破テロの4人のうち3人は親が英国に移住・亡命して英国で生まれた「パキスタン系英国人」だったし(1人はジャマイカ系でイスラム教には改宗して入った)、イスイス団の処刑人として知られた「ジハーディ・ジョン」ことモハメド・エムワジは、クウェートでビドゥーン(無国籍者)の家に生まれ、湾岸戦争後にクウェート政府による迫害が激しくなったことで、家族ごと英国に亡命してきたため、小学校以降はずっとロンドンで育っていた。ポーツマスからシリアに渡り、イスイス団戦闘員となった数人の青年たちは、ポーツマスのバングラデシュ系英国人のコミュニティの子たちだった。ブライトンからはリビア系英国人の兄弟がシリアに行っている。

個人的にも、民族的にも、ルーツが英国外にあるわけでもない「テロリスト」は、「ホーム・グロウン」という扱いは受けない。

ジョー・コックス議員を襲撃したテロリストは、そういうテロリストだ。

現時点では「テロリスト」という扱いすら、受けていないかもしれないが。

こういうときだけ「推定無罪の原則」を振りかざし、「私たちは関係ありませんよ?」と顔真っ赤で主張している極右過激派がきぃきぃ言ってる声ばかりが響いている中に、「テロリストだ」という言葉がぽつりぽつりと流れてくるが、基本的には、あまりの事態に、人々は言葉を失っている。形式的なお悔やみの言葉、殺された人を悼む心のこもった言葉のようなものは別として、「分析」や「意見」のための言葉は、基本的に、出てこない状態だ。

政治家が、暗殺されたのだ。しかも、自分の選挙区で有権者と会って話をするという仕事をしようと、会場に入ろうとしたところで。

※書きかけ



以上、書きかけのまま6月からずっと放置していたものを、11月15日に事件の裁判が始まった(下記Tweetのリンク先)ことに合わせ、アップロードした。というか、6月にジョー・コックス殺害事件についてブログに書いたはずなのに……と自分のブログを検索して、記事がないことに気づいて、そういえば書きかけでいっぱいいっぱいになってしまって放置していたのだ、と思い出し、下書きフォルダを掘って、上記を発掘した次第。


※この記事は

2016年06月17日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:00 | TrackBack(1) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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ジョー・コックス議員殺害事件で起訴されたネオナチ共感者の裁判が開始された。
Excerpt: 報道記事に出ている顔写真は「普通の人」に見える。凶悪そうな雰囲気は特にない。むしろ、「テレビドラマでよく知られた脇役俳優」と説明されたら疑わないだろうなと思わせる風貌だ。だが、実際には、この人物はネオ..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2016-11-15 22:54

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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