「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2018年06月03日

A Very English Scandal: ジェレミー・ソープという政治家の疑惑と、BBCの消していなかった調査報道テープ

英国で、1960年代から70年代に活躍した政治家に、ジェレミー・ソープという人がいる。1929年生まれで、最初に国会議員になったときはまだ30歳だった。イートン校からオックスフォード大というエリートコースを歩んできた彼は、名門の出で、父親と母方の祖父は保守党の国会議員だったが、自身は当時党勢を失っていた自由党(1988年以降は自由民主党: Liberal Democratic Party)に入った。1967年には自由党の党首に選出された。

1970年代、保守党と労働党の二大政党の人気が低落する中、自由党は「第三極」として選挙で成功を収めるようになった。保守党のテッド・ヒース首相が足場を固めようとして戦った1974年2月の総選挙で、労働党のハロルド・ウィルソンを相手に大苦戦というか37議席も減らすという体たらくに終わり(2017年のテリーザ・メイの愚かな総選挙によく似ている)、保守党が297議席、労働党が301議席のhung parliamentとなったときには、14議席を獲得していたソープの自由党が保守党の連立相手として交渉が行われた(サニングデール合意によってアルスター・ユニオニストが離反していたため、保守党にはほかに頼れる政党がない状態だった)。しかしこのとき、ソープが得票率と獲得議席の乖離を修正する選挙法改正を求めたことで連立交渉は決裂し(これは2010年の選挙とよく似てるけど、2010年は選挙法改正運動そのものがふにゃふにゃにされて終わってしまった)、保守党のヒースは辞任し、組閣は労働党のウィルソンが行うことになった(その後、同じ年の10月に改めて選挙が行われ、ウィルソンの労働党が単独過半数を取って、安定した労働党政権が発足した)。

1950年代、ソープは、大学を出て法律家(バリスター)の資格を得ていたが、それでは満足に暮らしていけなかったので、テレビのジャーナリズムで仕事をするようになった。元から植民地主義や人種隔離(アパルトヘイト)を改善しなければならない(でないと社会主義に対抗できなくなる)と考えて活動してきた彼は、1950年代の激動の世界情勢を伝えるジャーナリストとして存在感を示していたことだろう。

ジャーナリズムの道は政治家と両立できず、彼はテレビの仕事はやめてしまったようだが、その経験は「テレビ映え」という点で彼の中によい財産として残ったようだ。自由党党首となったソープの会見の様子(下にエンベッドするものの前半)や、TVでのインタビュー(音声なし)のBritish Patheの記録映像を見ると、「この政治家は人気があっただろうな」と思える。





しかもその主張が、「弱者」への思いに満ちている。下記はトラファルガー・スクエアでロンドンの労働者階級の劣悪な住環境を改善すべきと演説しているときのもの。どうでもいいけどハトがすごい。


しかし、このようにキラキラと輝いていた時期には既に、ジェレミー・ソープには隠蔽すべき秘密があった。

■ジェレミー・ソープのスキャンダル
1967年まで、英国(というかイングランド&ウェールズ)では、男性間の性行為は違法だった(67年の法改正で、21歳以上の男性同士がプライベートな場で行うのなら非合法ではないということになった。ちなみに女性同士については完全に無視されているというか、存在すらスルーされている)。そしてジェレミー・ソープは、男性を恋愛の対象としていた。大学時代は彼女がいないことについて「政治に熱中しているから、女は必要がない」と言っており、周りからは性的な関心が非常に低い性質の人(アセクシュアル)と受け取られていたようだ。結婚したのは1968年、30代終わりのことだった(上記British Patheの映像の1つ目の後半に結婚式の映像が入っている。このときに結婚したキャロラインさんは、1970年に車の事故で他界している。2人の間には1969年に生まれた息子がいる)。

ソープが同性愛者であることは、選挙区(ノース・デヴォン)では公然の秘密であり、黙認されていたというが、(今から見ればいかにおかしなことであるとはいえ)「同性愛行為は違法」という法律があった時代に男性と関係を結んでいたなどということが、全国区で知れ渡れば、政治家としては終わりだ。それも、彼個人では終わらず、自由党という政党の問題にもなりかねない。

1971年、ソープに対するある男性の申し立てを受け、党内調査が行われた。男性の名はノーマン・スコット。1961年、ソープの友人である裕福な家で馬番の仕事をしていたときにソープと知り合い、性的な関係を持つ間柄になったが、その後はひどい目に遭わされたというのが申し立ての内容だった。党内調査では、スコットの言い分は取り合わずという結論になったが、そこでは終わらなかった。なお、ソープ自身はスコットと知己であることは認めたが、性的関係にあるという事実はないとしていた。

スコットという人は、なかなか付き合いづらい人ではあったようだ。関係が終わったあと、ソープはそれで手を焼くようになっていった。そして……

そのあとは、まるでミステリー小説である。ソープとその周辺の人々は人脈をたどり、「友人の友人の友人の友人」くらいのつながりにある人物を雇い、スコットの口を封じることにした。ソープと親しい大金持ちが選挙活動費の名目でカネを出し、そのカネが党の金庫に入ることはなかった。

雇われたのはアンドルー・ニュートンという男だった。彼に呼び出されたスコットは、犬を連れて彼の車に乗って遠出したが、その帰途、「気分が悪いので運転を代わってくれ」と嘘をついたニュートンが、いったん車を降りて運転席の側に回りこんできたスコットの連れていた犬を撃ち殺し、それからスコットを撃ち殺そうとして失敗した(銃がジャムって使い物にならなかった)。(起きたことがあまりにひどい上に、この「犬が殺された」っていうところが英国人の心に響きまくってしまったようだ。)

ニュートンは逮捕され、他者に危害を加える目的での武器の不法所持で裁判にかけられたが、こういうことが起きたそもそもの原因であるジェレミー・ソープの同性愛については、報道機関は把握していたが報道はしなかった。

それは「自主規制」とかいうことではなく、端的に法的な問題だった。「名誉毀損で訴えられることを恐れていた」のだ。

■英国の名誉毀損法 (libel laws)
英国libel lawsは悪名高い。
https://en.wikipedia.org/wiki/English_defamation_law

つい最近、2013年に大掛かりな法改正が行われたのでもうそういうことはなくなっているはずだが、それまでは基本的に、名誉毀損の裁判では、訴えられた側が自身の発言の真実性を証明しなければならないという奇妙なことになっていた。そのおかしな制度については、映画『否定と肯定(原題はDenial)』でも中心的に取り上げられていたが、あのように実質的に外国人の発言を相手取った場合だけでなく、英国内の報道機関を相手取って大手企業や政治家などの有力者が名誉毀損の裁判を起こすということが大きな問題だった。

法改正のきっかけとなったのは、2000年代後半から開始されたサイモン・シンの裁判だ。ニセ科学を検証・論破する言論活動を行っているサイモン・シンが、カイロプラクティックの危険性についてガーディアンに書いたコラムによって、英カイロプラクティック協会から訴えられるということがあった。この裁判のことは、日本語圏のブログなどでもかなり話題になっていたが(例えば「忘却からの帰還」さん)、とんでもないことに一審でシンが負け、科学者をはじめまっとうな科学をまっとうに扱っている人々が「ニセ科学をニセ科学と言えないこんな世の中じゃ、ポイズン」と声を上げ、二審ではシンの主張が認められ、カイロプラクティック協会側が訴えを取り下げるという経緯をたどった。事実上のシンの勝利である。
https://en.wikipedia.org/wiki/British_Chiropractic_Association_v_Singh

「英国ニューズダイジェスト」に掲載されているこのときの論評(守屋光嗣さんによる)がわかりやすいので、引用しておこう。
http://www.news-digest.co.uk/news/news/in-depth/6276-simon-singn.html
勝利の翌日、シン氏は、「ガーディアン」紙への寄稿記事を通じて、裁判の結果を報告した。そして、「英国の名誉毀損法は、社会の利益となるはずの事柄を科学者やジャーナリストが報道することを妨げている」との国連人権委員会の見解に言及しながら、同法のあり方について再考を促したのである。

実際、名誉毀損法で訴えられた場合、ジャーナリストに強いられる負担の大きさは、計り知れない。まず、そのジャーナリストは、判決が下されるまでにかかる費用の大半を払わなければならない。これは、シン氏のようにフリーランスで働く作家やジャーナリストにとっては、死活問題となる。

さらには最終的にどんな判決が下されようと、無実が確定されるまでは、訴えられた側に罪があると見なされる現行法下においては、裁判が実施されている期間中、法的に灰色となったジャーナリストや作家に進んで仕事を依頼する会社は少ないだろう。大企業は、以上のような状況を利用して、名誉毀損法をちらつかせることで不利な報道を封じ込めようとしているとされている。


英国(というかイングランド)の名誉毀損法はこういうものだ。そして、大企業であれ大団体であれ政治家であれだれであれ、報道機関に報道されたくないネタをつかまれていていろいろとリソースを持っている人々が「名誉毀損法をちらつかせることで不利な報道を封じ込めようと」するのは、英国では一種の「お約束」だった。

(2010年という段階で――つまり2013年の法改正の前の段階で、ガーディアンがウィキリークスが入手した文書についての報道をやったのが、いかに思い切ったことだったか、いかに「闘うジャーナリズム」の姿勢を示すことであったかが、この文脈からはっきり見えてくるだろう。しかしそういう姿勢を示すメディアはほとんどないし、そういうメディアでも火中の栗を拾うようにしてそういう姿勢を示すことは、あまりしょっちゅうあることではない。ガーディアンはウィキリークスやスノーデンの前にトラフィギュラもやってるけど)

■自由党党首から被告人へ
ジェレミー・ソープについての「ネタ」を「つかんで」いた報道機関がそれを報じなかったのは、そういう背景があってのことである。別に「個人のプライバシーへの配慮」などではない。

そして、ノーマン・スコットを殺そうとしたアンドルー・ニュートンの裁判が1975年3月に行われ、検察側の努力にもかかわらずスコットがソープとの関係を発言することになり、それに関する報道がどっと出た(「法廷での発言」は名誉毀損法の対象外なので、訴えられることを恐れずに報道できる)。ジェレミー・ソープに男の愛人がいたということは(本人がいかに否認しようとも)広く知られることになった。たとえそんなことは問題にならないと考える人々がいたとしても(たとえ「違法」でも、人が気にしない行為というものはあるわけで……ただし実際には非常にスキャンダラスに書き立てられ、「ネタ」にされたようだが)、殺し屋を雇って口封じしようとしたという事態を問題だと考えない人はいないだろう。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thorpe_affair#Revelations

それでも党は自党の党首を守ろうとした。その風向きが変わったのは、ソープがいろいろ相談していた元議員のピーター・ベッセルが、ニュートンが武器の不法所持で有罪判決を受けたあとに立場を変えて、「私は友人を守るために嘘をついていた」とデイリー・メイルで語ったことによる。その4日後の1976年5月10日、ジェレミー・ソープは自由党党首の座を辞した。

党首辞任によってメディアの報道も落ち着いたかに見えたが、実は水面下で記者たちの調査は進められていた。同性愛者は外国の情報機関のかっこうのターゲットとなったが、ソープも南アフリカの情報機関のターゲットになっているのではないか(ソープは反アパルトヘイトの立場で活動していた)という点で調査を進めていたジャーナリストたちがベッセルに接触し、ベッセルがスコット殺害の共謀について語った。これが記事化される前に、1977年10月に刑期を終えた殺し屋のニュートンが、ロンドンのイヴニング・ニュースにネタをもちこみ、「スコットを殺すため、£5000の報酬を受け取った」ということを証拠つきで暴露した。

これを受けて警察が捜査を行い、ソープ本人と、殺しの依頼に関わったとされる3人の計4人が殺人の共謀の罪で起訴された。ソープ本人は殺人教唆でも起訴された。保釈されたソープは「私は無実潔白」と言い切った。

起訴されたとき、ソープは自由党党首の座は辞していたものの、国会議員は続けていた。ニュートンによる暴露がなされた翌年の8月、国会でローデシアの将来についての討論に参加していたそうだが、その後は国会での目立った活動はなかった。同じ年の自由党の党大会では俺様的な態度で堂々と入場してきてステージ上に着席し、党員たちの顰蹙を買った。

「スター」だった政治家が、あんなことをやったのなら当然とはいえ、ここまで落ちた。

■どうにも奇妙な裁判
ソープら4人の裁判は1978年11月に開始された。その後、1979年5月には労働党のウィルソン政権が不信任で倒れたため、総選挙が実施された(これがマーガレット・サッチャーの時代の始まりである)。この選挙で、ソープは昔からの選挙区(ノース・デヴォン)で立候補したが、保守党候補に8000票以上の差をつけられて落選した。

5月3日の総選挙からわずか5日後の8日、高等法院での審理が開始された。担当する判事は、このような著名人の裁判には不釣合いなほど目立たない判事。被告側の弁護士は、大きな裁判を担当するのはこれが初めてだったとはいえ、その後次々と実績を挙げていくやり手で、サンデー・テレグラフ紙から巨額の謝礼を受け取るピーター・ベッセルは信頼できないということを立証することに成功した。判事の態度は目に見えて被告寄りだったと、法廷を取材したジャーナリスト(何と、イーヴリン・ウォーの息子)は述べている。

法廷の場で証言をしたのは4人の被告のうち1人だけで、ソープら3被告は沈黙を貫き、証人も呼ばなかった。弁護人は最終弁論で、ジェレミー・ソープのことだけは固く守ろうとした――「3人で殺人共謀したかもしれないが、それはソープのあずかり知らぬことだった」と述べたのだ。それを受けた最後のまとめで、判事は「被告人のソープ氏は立派な人物であります。しかるにベッセル氏のサンデー・テレグラフ紙との関係は唾棄すべきものでありますし、ノーマン・スコット氏に至ってはどうしようもないろくでなしであります」といったような方向付けをした。そして陪審団は「4人の被告は全員無罪」との判決を下した。

※以上、ソースは
https://en.wikipedia.org/wiki/Thorpe_affair

無罪判決を勝ち取ったソープであったが、世間は「はい、そうですか」と納得はしなかった。「うまくやりおおせたな」という印象だった。政界を去ったソープはテレビの世界に返り咲こうとするなどしたが、どうにもならなかった。1982年2月には、アムネスティ・インターナショナルの英国部門のトップになることが宣言されたが、会員の反対でこの人事は実現しなかった。1979年にはパーキンソン病の診断を受けており、85年にはそれがかなり進行していたため、公的な場には出なくなっていった。その後、自由党はSDPと合併してLDとなり、ソープが上院議員となることもなかった。

その後も自伝を書くなど文筆活動は続け、2005年の総選挙の際にはテレビでイラク戦争に関して労働党も保守党も批判していたが(当時のLDは党全体でイラク戦争に反対していた)、目立つ存在ではなかった。2000年代といえば私もネットでガーディアンやBBCを毎日見ていたが、彼の顔も名前も見た記憶はない。2009年、議会下院のGrimond Roomでの自身の胸像の除幕式が、ソープが公の場に姿を見せた最後となったそうだ。

1973年に再婚した妻のマリオン(ピアニスト)が運動障害をかかえながらパーキンソン病のソープの面倒を見ていたが、2014年3月に死去。その半年後の12月4日、ジェレミー・ソープも死去し、17日にウエストミンスターの聖マーガレット教会で葬儀が営まれた。

これがジェレミー・ソープのrise and fallの経緯だ。

■2018年5月
twittertrends-jeremythorpe.pngその「スキャンダラスな経緯で失墜した過去の政治家」の名前がTwitterのTrends (UK) に上がっていたのは、2018年6月2日(土)のことだ。

この5月後半から、BBCがジェレミー・ソープとノーマン・スコットのスキャンダルを題材に、A Very English Scandalというタイトルのミニ・シリーズのドラマを放送していた(ガーディアンで劇評を読んで「見たい」と思っていた)。ヒュー・グラントとベン・ウィショーという豪華キャストで、監督はスティーヴン・フリアーズだ(ヘレン・ミレンがエリザベス女王を演じた『クイーン』とか、ダニエル・デイ・ルイスがパキスタン系の青年と恋に落ちる極右青年を演じた『マイ・ビューティフル・ランドレット』とか)。

このドラマ、レビュー記事などを何度か見ていて好評であることは知っていたので、「今日が放映日なのかな。ドラマを見ている人が多いのだろうな」ということは想像がついた。




だから、ドラマの話題で盛り上がっているのだろうなと予想してリンクをクリックしてみたら、目が点になった (・・)

twittertrends-jeremythorpe2.png




つまり、容疑者の1人(えっ、容疑者は銃撃しようとして失敗したニュートン1人じゃないの?)が死亡したと警察が言っていたのは誤りであり、したがってソープのスキャンダルに関する警察の捜査が再開されるかもしれないという。それについての番組が、BBCで日曜の午後10時から放送されるという。

ちょっと待って、いろいろわかんない (・・)







つまりBBCは1970年代にソープのスキャンダルについてかなり深く調べていて、番組を制作していたが、そのテープの破棄を指示された。しかしそのテープは破棄しておらず(なんか、ガーディアンさんのスノーデン・ファイルの入ったラップトップ破壊を思い出させるじゃないですか)、今回、ミニ・シリーズのドラマの最終回のあとに放送される、と。番組を制作したジャーナリスト(Tome Mangold氏)の娘さんもその告知のツイートをしている。

ぱねぇ (・・)

以下、それについてのツイート。ここまで書いてきたことと多少ダブるがご容赦。










無罪判決を勝ち取ったあとのソープが、アムネスティ・インターナショナルの英国部門のトップになりそうになったときに反対した当時の職員の人のツイートもある。


Jeremy Thorpeの検索結果画面には、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったと思われるソープが、フォーマルないでたちをして、ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスの3人と仲良くはしゃいでいる写真(1967年かな)などもあるのだが、そういう「おもしろネタ」よりも話題になっていたのが、ある法律家がガーディアンに寄稿した記事だ。




記事を書いたジェフリー・ロバートソンQCについてはウィキペディアを参照。人権が専門の高名な弁護士で、2010年にスウェーデンへの身柄引き渡しに抵抗したジュリアン・アサンジの弁護士となっていたので、名前に聞き覚えのある方もいらっしゃるはず。

で、ロバートソンQCのこの記事は、まさにbone chillingというにふさわしいものだった。







どういう記事かというと、こういう記事だ。
Here’s another Jeremy Thorpe scandal – its chilling legacy in law |
Geoffrey Robertson

https://www.theguardian.com/commentisfree/2018/jun/02/thorpe-scandal-legacy-law-new-statesman-jury-service-secrecy
ジェレミー・ソープのスキャンダルをドラマ化したBBCのミニ・シリーズが今度の日曜日に最終回を迎えるが、これを見た数百万の人々が「いったいなぜ、ソープはノーマン・スコット殺害の共謀の裁判で無罪となったのだろう」と思うだろう。判事がソープに有利なように物事を見ていたからだろうか。ソープの弁護人となったジョージ・カーマンが凄腕だったからだろうか。あるいは、本当にソープは何も関与していなかったからだろうか。

そのいずれでもない。ソープが無罪を勝ち取ったのは、右派の新聞によるメディア史上最も汚い取り引きがあったからだ。

この取り引きの重大性は、「ニュー・ステイツマン」誌において、陪審団のひとりによって明らかにされたのだが、それを報じたことによりこの媒体はサッチャー政権によって法廷侮辱罪で起訴されることになった。同誌は言論の自由を勝ち取ったのだが、それは政府が法案を通したことで逆転された。その法律は現在もまだ唯一のソープ裁判のレガシーとして残っている。つまり、少なくとも陪審員の部屋では、違法行為を隠蔽することを拒むのを違法とするという、いかにも英国的なもの。今回のTVドラマの目立つところだけでなく、そういった側面が英国民の議論の中心になるべきである。

無罪判決が出た後、「いかにして」「なにゆえ」という問いが発された。陪審団の12人は答えを知っていたのだが、そのひとりが検察の不甲斐なさに感じ入るところがあり、ガーディアン紙にその話をもちかけた――情報提供料など請求せずに。かくして、デイヴィッド・リー記者とピーター・チッペンデール記者が、陪審員の一人によって、12人全員がスコット氏に対する脅迫の共謀があったことは事実と認めており、その罪では被告人は起訴されていなかったために、被告人を有罪にできなかったことで怒っている、と告げられた。それが殺害共謀であるかどうかはソープの国会での同僚であるピーター・ベッセルの証拠に依存しており、判事は陪審団に対し、ベッセルはサンデー・テレグラフと「ソープが有罪になれば情報提供料が2倍になる」との取り引きをしていたため、ベッセルの証拠に基づいて判断することはできないと告げていた。陪審団は、有罪の被告人たちを無罪にしばければならないということで、当惑していた。そして検察長官の無能を明らかにし、ベッセルがサンデー・テレグラフと結んだような取り引きを非合法化する法律を議会は整備すべきと要求しようとした。

大スクープだった。しかしガーディアンの編集長、ピーター・プレストンは、これを掲載してしまってよいものかどうか、道義的に頭を悩ませることになった。陪審裁判でソープは無罪と結論されており、陪審が本当にどう考えているかを明らかにすることで、無罪判決にけちをつけるというのは、あまりぞっとしないことだった。ほかの編集者たちは考えが違うかもしれないとプレストンは認めていたのだが、ニュー・ステイツマン誌ではブルース・ペイジ編集長が、ソープ裁判の陪審団室での秘密を公にすることの公益性は、議論の余地などない明々白々たるものだと考えていた。

当時、私(ジェフリー・ロバートソン)は同誌の弁護士をしていたが、編集長から、この記事を出したら法的にまずいことになるだろうかと質問された。私は記事は出すべきだと言った。そして記事が出てすぐ、サッチャー政権の司法長官が、ニュー・ステイツマンを「法廷侮辱罪」で起訴した。これは、定義がまずい、判事が書いた法律で、司法当局は司法の方向をゆがめる可能性のある行動を罰することができるというものだ。しかし、ソープ裁判において司法をゆがめた唯一の行動は、サンデー・テレグラフによるものだったのだ。

担当判事はウィジャリー卿、泣く子も黙る判事長だったが、1980年になるころには認知症の症状が出ていた。司法当局はこれもまた隠蔽した。

ウィジャリー卿が手にしていた本は上下さかさまで、審理が進んで数時間も経過したころに私に「で、ブルース・ペイジ氏というのは、どなたですかね」と尋ねるありさま(注:ペイジは被告のNew Statesmanの編集長)。幸いなことに、ウィジャリー卿をカバーした法律家は優れた法律家で、私の議論を受け入れてくれた。そしてニュー・ステイツマン誌は無罪となった。

当時、その判断は言論の自由にとって大きな勝利であるように見えた。しかし政府はその後、大急ぎで新たな刑法を通したのだ――1981年法廷侮辱法のセクション8である。これはまだ法律として有効なままだ。

この法律は、陪審の審議の過程での発言や意見、議論、投票について明かした場合は、最長で2年の禁固刑になりうるとして、陪審員やジャーナリストを脅すものだ。合理的な調査が行われたら、陪審制度は生き残れないのではないかというおそれがあったのだ。セクション8は以降、いくつもの誤審が明らかにされるのを妨げ、例えば複雑な詐欺事件が陪審裁判に適合しているかどうかについての調査を阻止してきた。

米国人には、英国人の秘密好きは理解できない。米国人にとっては陪審は公的な義務であり、陪審員室で起きたことは説明不要なほどの公益事項である。陪審員は自身の経験について本を書くこともできる。しかし英国では、作用しているのかしていないのかというシステムに日の光を当てることを恐れているかのように、実際に起きていたことを明らかにする人を投獄するのだ。

もしあなたが陪審員となり、他の陪審員たちが裁判の行方をコインを投げて決めたり、被告人について人種や性的指向に基づいた発言をしていたりしていたとき、それを報道機関に伝えたら、あなたは刑務所に送られることになる。陪審員の名前を公開してはならないとか、公益性が認められない場合はどの裁判なのかを特定することを避けるというのはまだ受け入れられるが、陪審員たるもの、一切の例外なく、陪審員室の中のことは明かしてはならないとか、ジャーナリストは誤審の詳細を伝えてはならないとするのは、英国人がどれほど粉骨砕身して、大事な大事な公的機関に関するスキャンダルの露見を阻止しようとするものかということを示しているのだ。


以上、ガーディアン記事には文中にリンクもたくさん入っているので、そちらも参照されたい。
https://www.theguardian.com/commentisfree/2018/jun/02/thorpe-scandal-legacy-law-new-statesman-jury-service-secrecy



ソープの訃報を受けた「ネットの反応」が下記にまとまっている。「画像フォルダが火を噴いた」状態で、風刺雑誌Private Eyeやタブロイドの紙面のスキャンなどがたくさん上がっている。
https://www.ukcolumn.org/oldforums/discussion/9945/jeremy-thorpe-dead

ソープが無罪となったことは、コメディアンのピーター・クックの「ネタ」となった。


これは、ちょっと真顔をキープできません。 (・_・)
ピーター・クックは真顔なんだけど。



6月4日追記:
英国でドラマの最終回の放映が終わり、お蔵入りとなったドキュメンタリーが放送されている間のTwitterより。

今回初めて日の目を見るBBCのドキュメンタリーは、BBCはテープの破棄を指示していたが、番組の制作したTom Mangold氏が自分の控えを保存していた。今回、ノーマン・スコット氏のインタビューが添えられている。








政界を去らざるを得なくなったジェレミー・ソープを雇おうとして職員の反対で断念したのはアムネスティ・インターナショナルだけではない。ITNがソープをTV記者としようとしたが、内部の抗議で断念している。



ソープの弁護士だったカーマンはDV夫。妊娠中の妻のおなかをなぐるとか、ナイフを2本突きつけて「どっちを先に突き立ててほしいか」と詰問するとか、かなりひどい。



ドラマを制作したのはBBCではない。「ブループリント」という外部のプロダクション(元々は独立プロダクションだったようだが2016年にSONY傘下に入っている。過去の作品を見るとThree Billboards Outside Ebbing, MisouriとかIn Brugesとかマーティン・マクドナの作品が多い)。(BBCは、ジミー・サヴィルの性犯罪の件の調査報道をなるべくオンエアしない方向で働きかけたり、サヴィルの真相を暴いた自社ジャーナリストを干したりということを平気でする組織。信頼しすぎるのはいかがなものかというのはあります。)



2014年にソープが死去したとき、オビチュアリーは「疑惑の人だったソープだが、彼のような立派な人物があのようなことをするはずがない」「スコットは信用できない」というトーンだった。ガーディアンでさえ。



ドラマは絶賛。スノーデン報道のときにガーディアンにいて、今はBuzzFeedにいるジャーナリストは目がハート状態らしい(?)。









主演、ヒュー・グラント。「ラブコメの帝王」とかいう薄っぺらい賛辞を塗り替える作品になりそう。



ほうほう。知ってて黙ってた世代の人ですね。(アンドルー・ニール氏はエスタブリッシュメント大好き系ジャーナリスト)



ドラマの中で殺され役だった犬は元気。



実際に法廷を取材していたジャーナリストのオーブロン・ウォーが、ソープを批判するためにやったことが最高。





2018年の「警察の捜査再開」の件。







ドラマのベースとなった本(「ノン・フィクション・ノベル」として2016年に出版。ソープ存命中は出せなかったということだろう)。


A Very English Scandal: Sex, Lies and a Murder Plot at the Heart of Establishment
A Very English Scandal: Sex, Lies and a Murder Plot at the Heart of Establishment
Kindle版あり。読んでみようかな……(いや、その前に積読の電子書籍をだな……)


そして、BBCのお蔵入りのドキュメンタリーが放送されて……うわ、すごい内容。内務関連の文書はソープ自身がどうとでもできる立場にあったとか、自由党だけじゃなかったとか。















このお蔵入りにされたドキュメンタリーを制作したジャーナリスト、Tom Mangoldの名前がTrendsに入っている。
twittertrends-jeremythorpe3.pnghttps://twitter.com/search?q=%22Tom%20Mangold%22&src=tren

https://en.wikipedia.org/wiki/Tom_Mangold によると、1934年ドイツのハンブルクに生まれ、子供の頃に英国に来た。どの学校にいったとかいう詳しいことはウィキペディアにはほとんど書かれていない。最初はサンデー・ミラーで記者の仕事をはじめ、続いてデイリー・エクスプレスに行って、プロフューモ事件の調査などを担当。続いて1964年に活字からテレビの世界に移り、BBCで戦争記者としてアデン、ベトナム、ナイジェリア(ビアフラですね)、北アイルランド、中東、アフガニスタンを取材。1971年にBBCの時事部門に移り、さまざまな番組を担当、BBCでの調査報道ドキュメンタリーの黎明期にかかわった。1976年にPanoramaに移り、以後26年間で100本以上のドキュメンタリーを制作。

今回初めて日の目を見たジェレミー・ソープについてのドキュメンタリーは、Panoramaで制作したもの。

現在もフリーランスのジャーナリスト、文筆家として活動中。

Splashed!: A Life from Print to Panorama
Splashed!: A Life from Print to Panorama
Cold Warrior: True Story of the West's Spyhunt Nightmare
Cold Warrior: True Story of the West's Spyhunt Nightmare
ロマノフ家の最期 (中公文庫)
ロマノフ家の最期 (中公文庫)

※この記事は

2018年06月03日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:01 | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。