「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2018年04月11日

20年前、北アイルランド和平プロセスが始まった(グッドフライデー合意の署名から20年)〜当時の日本の報道は

昨日、2018年4月10日に、北アイルランド紛争を終わらせた和平合意(グッドフライデー合意こと、ベルファスト合意: 以下、GFA)が、20歳のお誕生日を迎えた。

今から20年前の1998年4月10日、米国のジョージ・ミッチェル上院議員(元)が仕切り、英国のトニー・ブレア首相とアイルランド共和国のバーティー・アハーン首相が調整を行うなどして持たれていた北アイルランドの複数政党・政治団体間交渉の場で、合意文書が署名された(元々の期限は9日だったが、それを突破して翌日にずれ込んだ)。

「複数政党間交渉」といっても、この合意のベースに反対していた極端な人たちは関わっていない。彼らは交渉の場の外で「合意反対」のデモを行っていた……その強硬な反対派が、2003年以降北アイルランド自治議会・政府で第一党となり、2007年以降は別の合意をベースにして、GFAが決めていた権限分譲(パワー・シェアリング)の自治政府に参加してきたが、2017年にその自治政府が崩れて自治議会の再選挙が行われたあとは、GFAが決めていたアイルランド語の公用語化に対する抵抗を理由・口実として自治議会・政府の再起動を阻み、一方で、Brexitに向けて議会の意思統一を図るためという愚かな判断でばかげた総選挙をした結果、英国会下院での単独過半数を失った保守党が、議会運営に必要な数を確保するために非公式な(事実上の)パートナーとしているDUPである。(一文が長い。)

ともあれ、「GFAの20歳のお誕生日」を記念して、北アイルランドではいろいろな主催者がいろいろなイベントを行った。中でも目玉となったのが、ベルファストのクイーンズ大学が主催した、交渉と和平の当事者たちによるパネルディスカッションである。招待客オンリーのイベントだったが、イベント会場から何人かのジャーナリストや学者がライヴ・ツイートし、また冒頭のジョージ・ミッチェルによる基調講演と、ビル・クリントン、トニー・ブレア、バーティー・アハーンの当時の米英アイルランド3カ国首脳を迎えて行われた第3部(進行はミッチェル上院議員)はクイーンズ大学がFacebookの機能を使って生でネット配信していたので(アーカイヴもされているから、いつでも再生可能)、私もここ東京の自宅で生で見ることができた。それらのライヴ・ツイートや私のメモを中心に、2018年4月10日の北アイルランドのことを、Chirpstoryを使って記録してある(#GFA20 のハッシュタグは、このイベントに限らずもっと一般的な「GFA20周年」についての発言でも用いられていたので、それらも少し入っている)。このイベントについても何か書ければよいのだが、あいにくその時間が取れないかもしれない。書けたらまた改めて書きたい。

さて、私は私なりにGFAの20年を祝うために、1998年当時に日本の新聞が北アイルランド和平をどう伝えていたかを確認してみようと思い立った。とはいえ、入念な準備ができていわけではなく、何とか時間が取れた10日当日にダッシュで図書館に行って1998年4月の新聞縮刷版を書庫から持ってきてもらい、10日付(現地では9日の動き)から12日付の一面や国際面をざーっと見る程度のことしかできなかった。行った先の図書館に縮刷版があったのが、朝日新聞と毎日新聞と日本経済新聞だけで、讀賣新聞のはまだ確認できていない(讀賣縮刷版を所蔵している図書館に行くことがあれば、見てこようと思う)。

以下、それら当時の記事を見ていこう。

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本編に入る前に、まずは表紙を見よう。日経新聞の縮刷版の表紙は単なる空白だが、朝日新聞と毎日新聞は縮刷版の表紙に「この月の主なニュース」が羅列されていて、どちらも「北アイルランド和平」を入れている(左が朝日、右が毎日。以下、画像はクリックで原寸表示)。ちなみにこの時期、日本の首相はハシリュウこと橋本龍太郎で、「金融ビッグバン」とか「行政改革」とかが連日の大ニュースだった。

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というところでまず、合意文書署名直前の交渉最終局面での記事、4月10日の紙面から。今でこそ、こういうことがあっても「はいはい、北アイルランド国技のエクストリーム交渉ですね」とゆったり構えてお茶(とポップコーン)片手に眺めていられるようになったが、1998年当時もし、ネットでリアルタイムに近い形でニュースをフォローすることができていたら、手に汗握ってF5連打して、何度もリロードを繰り返していただろうと思う。(私が最初にパソコンを購入してインターネットにつないだのが1998年の夏で、4月はまだネットは使えていなかった。勤め先に1台だけ、ネットにつながったPCがあったが、常に誰かが使っていて、私が使える機会はほとんどなかった。英語に関する調べものもまだ基本的にすべて辞書・文法書でやらねばならなかった時代だ。)

asahi-10april1998.jpg朝日新聞は第9面(国際面)で、ベルファストから橋本聡記者が、「北アイルランド和平交渉は土壇場まで綱渡りの連続となった」と書き始めている。交渉大詰めのこの局面で、アイルランドのバーティー・アハーン首相のお母さんが他界し、アハーン首相はお通夜(ウェイク)と葬儀の合間もこの交渉に尽力し、葬儀が終わるとすぐにヘリコプターでベルファストに飛んでいるのだが(そのことについて「バーティーは大変に大きな個人的貢献をした」といったように語られることが多い)、そのことについてもしっかり書かれている。記者団の前でトニー・ブレアが語った例のフレーズ、 "A day like today is not a day for, sort of, soundbites, really - we can leave those at home - but I feel the hand of history upon our shoulders, I really do." も「われわれの肩には歴史がかかっている」として紹介されており(ちなみにこのフレーズは、ブレアには珍しく予行演習や側近との打ち合わせなしで即興で口をついて出てきたものだとジョナサン・パウエルが著書のどれかで述べている)、このときに合意を危うくさせていたのが「プロテスタント側」の抵抗だということも一読すればわかるように書かれている。また、この和平交渉への流れの発端となった「円卓会議」の設置が、ブレアの前任者のジョン・メイジャー(保守党)によるものであることなども書かれているし、交渉時の英国政府の北アイルランド担当大臣、モー・モーラム(RIP)への言及もある。記事に添えられている写真はロイターの写真で、笑顔でピースサインを掲げる子供たちのものだ。

ちなみにブレアの例のあれはこれ。



モー・モーラムはとても人気のある政治家だった。1997年の、労働党がバカ勝ちした総選挙の前に脳腫瘍と診断されており、総選挙後に北アイルランド担当大臣となってGFAのためにたぶん英国人は誰も積極的には行きたがらないような現場で尽力した。北アイルランドのマッチョな社会で「女には無理だ」と思われていたことをいろいろと覆した。だが合意成立後の1999年に、ユニオニスト側が不満を言い出したときに「ナショナリスト寄り」と見られた彼女は解任された(後任はピーター・マンデルソンで、彼がNIについて何かを進展させたということはほとんどなかったよね)。モーラムはそのまま2001年の総選挙に立候補しないという形で政界を引退し、薬物乱用者の立ち直りのための活動を行い、2003年のイラク戦争には反対する論陣を張り、そして2005年にホスピスで亡くなった。55歳の若さだった。



mainichi-10april1998a.jpg毎日新聞(第7面)もベルファストからの報告で、笠原敏彦記者が「9日夕(日本時間深夜)段階でも協議は続けられており、期限延長の情報も流れている」と、そのエクストリーム交渉っぷりを伝えている。モー・モーラムがこのタイミングで、各政党が少しずつ譲歩することが重要だと記者団に語っていたこともわかる。この局面で「プロテスタント系最大政党のアルスター統一党(UUP)」が抵抗していた「南北評議会」の新設が、「将来的に『統一アイルランド』につながるとして拒否反応」をもたらしていたということも。記事の最後の方には「しかし、北アイルランドの英国残留を望むプロテスタント系と統一アイルランドを望むカトリック系の対立は根深い」という記述で、ユニオニズムとアイリッシュ・ナショナリズムのことを端的に説明している(が、それにもかかわらず「IRAが求めているのは北アイルランドの分離独立」という勘違いが広く行き渡ってしまっていたし、20年を経た今も残っている……というか、時間が経過したからこそ、曖昧になっているのかもしれないが)。

nikkei-10april1998.jpg日経新聞は第2面で(向かい側の第3面に「原発、廃炉より延命へ」という編集委員によるコラム記事が掲載されているのが味わい深い)、ロンドンから加藤秀央記者が、「北アイルランド紛争の全当事者が参加した(原文ママ: 実際にはDUPが入っていないので、厳密に『全当事者』とはいえない。ただし当時はDUPは『周縁的な過激派』でしかなかったことは確かだろう)和平交渉は、期限となっていた9日中に決着がつかなかった。……10日未明(日本時間同日午前)に入ってからも、なお競技協議を継続。交渉関係者は一様に合意への強い意志を表明しており……」と伝えている。北アイルランドがもめているそもそもの原因の部分は、「北アイルランドの英国からの分離を求めるカトリック系政党は……」といった記述で、ナラティヴの基礎が連合王国(英国)の「連合」を前提としたものになっている。

……ここまで書いたところでいったんアップロードしておきます。休憩(この調子だとこのエントリが書き終わらないかもしれないけど、ぼちぼちやっていきます)

建物内でエクストリーム交渉が続けられていたとき、その外でサミー・ウィルソンやイアン・ペイズリーは……という部分を含む当時のBBC報道番組のクリップ。疲れきった様子のデイヴィッド・アーヴァイン(ロイヤリスト武装組織UVFの政治部門PUPトップで自身も元UVFのテロリスト)の「子供たちやその子供たちのために」という言葉が際立って聞こえる。



この映像でもスタジオでしゃべっているStephen Grimason記者(BBC)の現在。1998年のあのとき、合意文書を手にした瞬間を再現(地味すぎて伝わらない系の何か)。



さて、「エクストリーム交渉」の内容(「南北評議会」をめぐるユニオニストの抵抗)が、時差8時間(夏時間でなければ9時間)の日本で伝えられたのが10日(金)の朝刊だったが、日本で仕事を終えて帰宅した人々が改めて中の方まで朝刊に目を通していたであろう頃、現地北アイルランドでは事態が大きく動いていた。10日、この年のグッド・フライデー(聖金曜日、キリスト受難の金曜日)に、合意文書に署名がなされた。

その結果は、「合意文書への署名って、こういうふうになされるものなのか? (・_・)」感あふれるものとなった。この「寄せ書き」化した文書原本は、現在はベルファストのアルスター・ミュージアムに所蔵されている。



別バージョンの署名原本もあり、複製だと思うが、ネット上でオークションに出されていることなどがある。
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アルスター・ミュージアムではThe Troubles and Beyondという展示がなされていて、GFAのこの原本も壁にかかっている。



同ミュージアムのTwitterアカウントは、この日の夕方に撮影された次のような写真もツイートしていた。画面右半分に並ぶ3人の中央、マッシュルーム・カットのような髪型の女性が、モー・モーラムである。このとき既にガンの治療中で髪の毛が抜けていたので、ウィッグを使っていたはずだ。そうやって力を振り絞るようにしてこの女性政治家は、メイズ刑務所内で好き放題やってるパラミリタリーの男たちを相手に、難しい交渉を行った。ロイヤリストの側で「女なんか……」とナメてかかっていた者たちがいかに彼女によって揺り動かされたかは、何人かの回想録で読むことができる。


さて、こうして合意文書に署名がなされたことは、日本でも翌11日(土)付で大きく報じられた。

asahi-11april1998.jpg朝日新聞はこのように、一面トップで大きく扱っている。前日と同じく、ベルファストから橋本記者が伝える記事の書き出しは「1969年からテロや暴力が続いてきた北アイルランド紛争の和平交渉は、10日、最終合意に達した」。

右側に大きく、「30年紛争和解へ自治権確立」と書かれているが、これは若干不正確というか誤解を呼ぶ表現である。北アイルランドは1921年の成立(「南」からの分離)以降、基本的に常に自治を行ってきたのだが、1972年に「紛争」が激化したこと、というより自治政府にやらせておいたら滅茶苦茶になると明らかになったことにより、英国政府が直轄統治を行うようになっていた(つまり、北アイルランドで自治がなかったのは1972年からの一時的なことにすぎない)。この点については以前書いているので、そちらを参照されたい。1998年のGFAでは、そのように、1972年から一時的に停止されていた自治権が、少数派の人権抑圧といった問題点について大幅に改められた上で、仕切りなおして再スタートすることになったのである。

橋本記者の報道の部分の横にある、百瀬和元ヨーロッパ総局長による解説の部分では、北アイルランド紛争が「帰属」をめぐるものであったことに注目し、「今回の和平構想は『領土』『国境』『主権』といった国家を形作る概念や枠組みを超えて、地域の運営を担う機構を設け、人々の共生を図ろうとしている。伝統的な国の形態や体裁の維持よりも、まず地域住民の意向に重きを置いている」、「人々の生活や意識から、『領土』『国境』の存在を影の薄いものに変え、帰属意識が元で起きている対立を解消する。北アイルランド和平構想は事実上、こんな試みだといってもよい」と解説している。

20年が経過して、現地で事実として伝えられていることを見る限り、この点はまさにその通りである。当ブログでも2012年にゴルファーのロリー・マキロイが自身を「ブリティッシュ」でも「アイリッシュ」でもなく「ノーザン・アイリッシュ」と見ていること(そのため、彼は「国」への帰属が前提とされるオリンピックへの出場はしないと宣言している。ゴルフは20年の東京大会で五輪種目になる)、2016年にベルファストのごりごりのロイヤリスト(プロテスタント系)地域出身のボクサー、カール・フランプトンの活躍をめぐる状況について書いているほか、近年のサッカー北アイルランド代表についても、「ボーダーレス化」というか、北アイルランド内部での「あの連中はあちら側」意識の解消は目覚しいものがある。「プロテスタント」のものだったはずのサッカーの代表だが、近年の躍進を率いているマイケル・オニール監督は「カトリック」の側の人だし、つい先日の国際親善試合で鮮烈な代表デビューを果たし大喝采を浴びた20歳の新星も「カトリック」だ。少し前までは、代表でプレイする「カトリック」のフットボーラーは、ロイヤリストからの脅迫を受けていたのが北アイルランドだ(ニール・レノンの事例を参照)。

百瀬総局長の解説は、「民主主義と社会秩序の確立した国だから、実行が可能な側面はある。だが、こうした方策で、8世紀にわたる歴史の『負の遺産』を克服できるとすれば、それは間違いなく、21世紀に向けた和平構築のモデルケースになるだろう」と結ばれている。これは、クイーンズ大学で行われたパネル・ディスカッションにおけるビル・クリントンのすばらしい(そして華麗な)言葉にも明らかだった――彼は、そして彼と一緒にことに当たったブレアやアハーン、それぞれのスタッフらは、「民主主義」を信じて、北アイルランド和平にあたった。




クリントンの発言をこのようにメモっているマーク・デヴェンポート記者(BBC NI: 20年前、寝ないで現場で待機していたジャーナリストたちのひとり)のTwitterのヘッダー画像は、今、こんなふうになっている。署名がなされたあとの、記念の集合写真だ。

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この集合写真の別カット。元PAのアイルランドのエディターだったヘンダーソンさん(少し前に勇退して今はコンサルタント)。


クイーンズ大学でのパネルディスカッションで、クリントンは「こんな白髪頭のじいさんたちの話じゃなくてね、若い人たち、若い世代にとっての話なんです」ということも言っていたが、この気持ちは、20年前にそこにいた人たちみなが共有しているだろう。当時20代前半で駆け出しの記者だったような人が40代前半、子供が学校に通っていたり大学に入ったりしている世代だ。

和平交渉前に武装組織は停戦しているので、紛争の暴力が停止してからはもう20年以上だ(停戦していない武装組織による暴力は90年代も続いていたし、今も完全に終わってはいないが)。少し上でロリー・マキロイやカール・フランプトン、サッカーの北アイルランド代表のことを書いたが、今の20代は北アイルランド紛争を知らない。20代前半なら物心つく前に和平プロセスが始まっていることになる。特にそのような世代で、自分を「ユニオニストか、ナショナリストか」つまり「英国帰属派か、統一アイルランド派か」で語ることをしないという人々を、Generation Neitherと呼ぶようになっているらしい。

だが、少し上の世代は、紛争(「英国帰属派か、統一アイルランド派か」がすべてを決定していた時代)を、直接経験している。DUP党首のアーリーン・フォスターは40代後半だが、父親(警官)がリパブリカンに殺されそうになっているし(銃撃されたが命に別状はなかった)、自身も学校のバスがボムの標的にされるという厳しい経験をしている。シン・フェインの北部(北アイルランド)のトップ、ミシェル・オニールは40代に入ったところで、彼女自身はIRAのメンバーだったことはないにせよ父親はIRAのメンバーとして投獄を経験している(後に地方議会議員をつとめた)。フォスターやオニールの上の世代の政治家たちの多くは紛争当事者である(ピーター・ロビンソンやジェリー・アダムズの世代)。

その世代の交替が進むにつれ、北アイルランドは「英国帰属派か、統一アイルランド派か」など気にしないという人々の社会になっていく。そのことは確実だ。だが、その人たちがどのような北アイルランドを上の世代から受け継ぐことになるのかはわからない。今の政治家たちは彼ら・彼女らに受け継がせたい北アイルランドを作ろうとしているわけだが、自治議会・自治政府を1年以上も再起動させないでおいている人々が何をしたがっているのかは、控えめに言っても「あまりよくわからない」。

……再度、ここまで書いたところでいったんアップロード。

mainichi-11april1998a.jpg同じく11日(土)付けの毎日新聞は、一面トップは日本国内のニュース(ハシリュウの減税)で、北アイルランド和平合意は少し下の方にある。前日と同じくベルファストから笠原記者が報告しており、「独自議会認め自治権付与」と大きく書かれている。この「自治権」については少し上で述べた通り、このときに新しくできたものではないという認識が改めて必要であるが、記事の記述は直轄統治は一時的なものだということがわかっている人が書いていて(「英政府の直轄統治にある北アイルランド」)、見出しをつける人が読み取ったことが少しずれていたという感じがする。

記事はとても正確で、紛争についても、「英国残留を望む多数派プロテスタント系勢力とアイルランドへの統合を望むカトリック系勢力の対立」とはっきり提示した上で、「帰属問題は住民自決を原則とし、……当面、英国にとどまることを前提としている」と説明。この合意への取り組みについては「70年代以降、紛争解決の試みは繰り返されてきたが、全政党に呼びかけ和平の枠組み作りを行ったのは今回が初めて」。

さらに、「和平に反対するプロテスタント、カトリック系武装組織の非主流派はテロ活動を強めており、合意が早急な情勢安定につながるかは微妙だ」と結んでおり、これも正確だ――(20年で「後世」というのは変かもしれないが)後世からみればGFAは間違いなく確実に、なおかつかなり早い段階で情勢安定をもたらしたと言えるが(「早い」をどう定義するかにもよるにせよ)、1998年の時間の中に身をおいてみれば、合意の署名が4月10日、(当初は結果が危ぶまれていた)レファレンダムでの圧倒的支持をうけての合意の承認が5月22日で、その間は誰もがオプティミズムの中で先行き不透明感を感じていただろう。そして、レファレンダム結果が出て3ヶ月もしないうちに起きたのが、オマー爆弾事件(1998年8月15日: 死者29人)。オマーで、本当に何の罪もないスペインからの修学旅行生までもが何人も命を奪われたことで、人々は本当にうんざりしきって和平/平和への決意を固めることとなったのだが、それまではリパブリカンの間ではジェリー・アダムズとマーティン・マクギネスについていってよいのかどうかという疑念はかなりの程度あった。そして、リパブリカンが「武装闘争」の時代に心理的な終止符を打つには、まだ数年を要した。2000年にロンドンに行ったとき、ちょうどIRAの武装解除問題が連日ニュースになっていたのだが、アダムズは和平だ平和だ政治的手段だといいつつ、IRAが武装解除するなどということはありえないことだと(言外に)言っているようで、本当に唖然とするほどわけがわからなかった(あの頃の私はまだナイーヴだった)。

そう、合意の成立の後が大変だったのだ。誰かの回想にあったのだが、エクストリーム交渉の果てにようやく文書に署名がなされた直後、全体を仕切ったジョージ・ミッチェルは「さて、一番楽なところが終わりましたね」と言ったという。「これからみなさんがこの合意を支持者たちに持ち帰った後、それに納得してもらうことが、非常に大変ですよ」と。そのあとも、ああだこうだと言いつつ、合意を破棄せずに合意で決められたことを実行すまいという動きは続いた。今もアイルランド語をめぐってそれが続いているともいえるが、今それに反対しているのは主にDUPだ(UUPの政治家も、アイルランド語に反対して声高に叫んでいるのだが……あんたら、20年前に合意したじゃん、っていう)。DUPはそもそもGFAに賛成していない。そういう勢力が第一党になったことが、ことをややこしくしている。

しかしそれは「民主主義」がもたらしたことだ。その多層性を前に、半笑いしつつ、「変化は変化をもたらす」と次の世代に目配せを送っているのが、GFAから20年という今の段階の動きなのではないか。

nikkei-11april1998.jpg同じく11日(土)付けの日経新聞も、トップニュースは国内の話で(ハシリュウの経済政策)、北アイルランド和平は少し下の方だ。前日と同じくロンドンから加藤記者の報告で、一面はごく短い記事である。「紛争30年、新議会を設置」という小見出しは、朝日や毎日に比べても驚くほど正確だ(そう、GFAで「設置」されたのは「自治議会」というより、「新たな自治議会」である)。記事の内容はやはりユニオニズムに立脚しており、「合意によると、北アイルランドが引き続き英国に帰属するが、カトリック系住民の主張に配慮して、アイルランドとの協議機関を設置する……」といった記述になっており、いくらロンドンから書いているからといっても、これではお母さんの葬儀もそこそこにベルファストと行ったり来たりしていたアハーン首相(アイルランド)の立場がないと思う。
(´・_・`)

とはいえ、これが英国でのデフォのナラティヴであるということは事実だ。GFAについて「われわれが配慮してやった」という立場だ。だからこそ、Brexitという自分たちの愚かな判断に関連して、GFAに照らして大問題が生じてしまったことについて、「アイルランドがわがままを言っている」という態度をとったり、果てはデイヴィッド・デイヴィスが「アイルランドの与党はシン・フェインに教唆されている」とかいう妄言としか言いようのない陰謀論を展開したりするということになっているのだろう。

ちなみに(Brexit前の)北アイルランドは、紛争がおさまりさえすれば工場などの立地として有望とみなされていて、実際に紛争後は日本企業の工場が置かれている(リョービとか。ピーター・ロビンソンとマーティン・マクギネスが訪日して企業誘致に取り組んでいたことをご記憶の方も多いだろう)。北アイルランドではないが、北に近いダンドークにある米資本企業の工場(企業がイベントなどで配るノベルティグッズを作っていて、クライアントには日本企業も多いという)に勤務する日本人男性が、今年1月、大変に悲劇的なことに、通り魔殺人事件の被害者になってしまったことも記憶に新しい。アイルランド(共和国)はバーティー・アハーン首相の時代に企業誘致を進め、それでかなり潤った(そしてバブルが起きて、そのバブルが2008年に崩壊したのだが)。そういうアイルランドとボーダーレスで車で行き来できて、なおかつ英国の一部という北アイルランドの強みは、Brexitでどうなるのかわからなくなっている。GFAから20年後、人々の不安のタネは紛争ではなく、英国の「民意」がもたらした不透明な将来だ。(クイーンズ大でのパネルディスカッションでは、3カ国の首脳の発言の中で、そのことについての言及がはしばしに入っていた。)

……再度、ここまで書いたところでいったんアップロード。

※この記事は

2018年04月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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