「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年12月26日

【訃報】ジョージ・マイケル

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実はあまりちゃんと聞いたことがない。好きなタイプの音楽、積極的に聞く音楽、買って聞く音楽をやっている人ではなく、ラジオをつけてれば流れてくる音楽の人、街を歩いていると聞こえてくる音楽の人だった。Wham! のころからそうで、レコード/CDは1枚も持ってない。友達どうしで回ってくるカセットに入っていたという記憶もない。

逆にいえば、シングル曲に関しては、わざわざ聞かなくても耳に入ってくるほど、大物のポップスターだった。

彼の作品を大切に聞いてきたファンの方にとっては、このエントリは腹立たしいものになるかもしれない。「ろくに知りもしないくせに、書くな」と思われるかもしれない。それでも、見かけた言葉を書き付けておきたい。「引用」だけで構成すると「引用の要件を満たしていませんよ?」などと絡んでこられると思うので、ファンの方にはきっとうざったいだろうが地の文も書く。うざいと感じられる方は読まずにそっと閉じていただければと思う。あるいは、ここで記録しているツイートの多くはRTしているので、Twitterのログ(Twilog)を見ていただければと思う。

「ジョージ・マイケル」は本名ではない。お父さんはギリシャ系キプロス人で1950年代に英国に移住している。評伝などを読んでいるわけではないのではっきりとは知らないが、「キプロス難民」だろうと思う。キプロスの人々の一部が「難民」となり英国に移住した経緯については、キプロス紛争を参照。まったく、「帝国」意識を引きずっていた時代の英国というのはほんとにろくなことをしていない。
第二次世界大戦後、人口の8割を占めるギリシャ系の住民たちがギリシャへの併合を要求したが、イギリスはキプロスの統治権を手放す気はなかった。しかし、1950年1月、ギリシャ系であるラルナカ主教ミハイル・ムスコス(同年9月、キプロス正教会首座主教に選ばれマカリオス3世)がギリシャへの併合を問う住民投票を実施。95.7%の人々がギリシャとの統一に賛成した。これを受けたキプロス代表団はギリシャ政府へ国際連合へ提訴するよう訴えたが、イギリスがこれに否定的な立場をとっていたため、ギリシャは統一を拒否した。

1955年4月、キプロス生まれのギリシャ軍将校ゲオルギオス・グリヴァスは不服従運動を開始。これは後にキプロス解放民族組織(EOKA)の結成に発展し、マカリオスはこの動きを黙認した。これらの事態に対し、キプロス問題がギリシャへ有利に進む事を恐れたイギリスは、トルコに対してキプロスにおいて利害関係があるよう主張させるために働きかけた。1955年9月、ロンドンで英希土三国会議が開催されたが、この会議が行なわれている最中の9月6日から7日にかけてイスタンブールとイズミルで反ギリシャ人暴動が発生してしまう。暴動は希土両国に決定的な亀裂をもたらしロンドン会議は決裂した。

イギリスは、キプロスが軍事施設の設営に適し、地中海における戦略的重要地域となっていることに気づいていたが、第二次中東戦争(スエズ動乱)の敗北でキプロスの部分的放棄を認めざるを得なかった。各国の利害を収めるためにチューリッヒとロンドンで会議が持たれ、英希土3国政府に加え、キプロスのギリシャ人代表としてマカリオス、トルコ人代表としてファーズル・キュチュクらが参加した。

この当時、ニコシアで新聞社爆破事件が起きるなどEOKAやトルコ系キプロス人らの武装組織によるテロが激化し、手詰まり感が広がっていたことから、マカリオス大主教はキプロスの独立を選択した。その結果、チューリッヒ・ロンドン協定が成立し、1960年8月16日をもってキプロスはイギリス連邦に属する「キプロス共和国」として独立したが……


英国にはこういう状況から脱出してきたキプロス難民が多くいる。北ロンドン、ちょうどアーセナルとトッテナムの間にあるハリンゲイ区の一角が、それらのギリシャ系キプロス人のエリアで、個人的に偶然のめぐり合わせでそこに住んでたことはかつて書いた通りだ。そこでも述べているのだが、難民として移住して小さな商売を始めるなどして成功した人々は、ほどなく、がさつな土地柄の一角を出て、落ち着いた住宅街(裕福な人々のエリア)に家を買うことが多かった。ジョージ・マイケルのお父さんもおそらくそうしたのではないかと思う。

ウィキペディア(英語版)によると、後にジョージ・マイケルと名乗ることになるGeorgios Kyriacos Panayiotouは、生まれたのは北ロンドンのイースト・フィンチリーで(ここはロンドンで最も裕福な住宅街もあるが、カウンシル・フラットも多い)、育ったのは西ロンドンのキングズベリー(裕福な住宅街)。彼が10代になると一家はロンドンのすぐ外にあるハードフォードシャーのラドレットという、富裕層しか住んでないようなところに家を持って引っ越したようだ。ここで隣町の学校(パブリック・スクールなどではない普通の学校)に通っているときに、後に Wham! としてやっていく相棒のアンドルー・リッジリーと知り合う。そして20歳になったころにはポップスターになっていて、それからは遠く地球の反対側で試験勉強をしながらラジオをかけっぱなしにしているだけの私でも耳になじんだ声の持ち主となっていった。

bbcnews26dec2016b.png正直、個人的には、何かを書けるほどこのミュージシャンについて知っているわけではない。メディアは(ゴシップ紙だけでなく「クオリティ」メディアも含めて)「ただのお騒がせセレブ」の扱いをすることが多かった。芸能人が「お騒がせ」キャラとしてあちこちで取り上げられることは「マーケティング」の一環として行なわれる場合があり(例えばエイミー・ワインハウスのようにそれが明らかに行き過ぎることもある)、「お騒がせ」系のニュース記事の見出しを見れば見るほど、人々はゴシップ記事の見出しだけでオナカイッパイになり、その人の「芸」(俳優なら映画や舞台、作家なら小説、音楽家なら楽曲)から遠ざかるということがある。個人的にも「ゴシップ記事」の見出しで彼の名前を見ても、音楽は聞いてもいないという状態が、軽く10年以上続いているのだが、それは私個人の話ではないだろう。何しろ、BBCのオビチュアリでさえ "Flamboyant singer whose private life often eclipsed his music" とでかでかと書き立てているのだ。

His talents as a singer, songwriter and music producer made George Michael one of the world's biggest-selling artists.

Blessed with good looks and a fine singing voice, his stage presence made him a favourite on the live concert circuit as he matured from teen idol to long term stardom.

After early success in the duo Wham! he went on to build a solo career that brought him a string of awards and made him a multi-millionaire.
But there were times when his battle with drugs and encounters with the police made lurid headlines that threatened to eclipse his musical talents.

http://www.bbc.com/news/entertainment-arts-15925376


「お騒がせ」扱いばかりのようになったのは、レコード会社上層部のご機嫌を損ねたから(売れるはずのアルバムのプロモ活動を拒否したことで)かもしれない。Wham! の解散後、ソロになったあとのマイケルは、ライヴをすると観客は黄色い声を上げてばかりで曲なんか聞いていないということですっかり消耗してしまい(ビートルズか)、ソロとしての2作目のアルバムのプロモ活動を拒否したという。

Heaven knows I was just a young boy
Didn't know what I wanted to be
I was every little hungry schoolgirl's pride and joy
And I guess it was enough for me
To win the race? A prettier face!
Brand new clothes and a big fat place
On your rock and roll TV
But today the way I play the game is not the same
No way
Think I'm gonna get myself happy

http://www.azlyrics.com/lyrics/georgemichael/freedom90.html


その結果、アメリカではこのアルバムは前作ほどは売れなかった。BBCのオビチュアリは、「アメリカとは対照的にイギリスでは前作をしのぐヒット作となった」ということを書いているが。

A 1988 world tour cemented Michael's status as a pop superstar although the constant touring and the adulation of thousands of screaming teenage girls left him feeling exhausted and only exacerbated the periods of depression that he was now beginning to experience on a regular basis.

Indeed he refused to promote his second album, Listen Without Prejudice Vol. 1 and no videos were made to back up the single releases. A much more introspective work than Faith, the album was aimed at a more adult audience.

It failed to achieve the success of his previous work in the US although there were contrasting fortunes in the UK where it actually outsold Faith.

...

Plans for Listen Without Prejudice Vol 2 were scrapped amidst a legal dispute with his record company, Sony. In what proved to be a long and costly battle Michael finally severed his relationship with Sony.

http://www.bbc.com/news/entertainment-arts-15925376


先日『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』を読んだときにも感じたことだが、(ぶっ潰される前の)音楽産業というのは、「アメリカで売れないものはクズ」という見方をしていた。日本で売れてればいい(それだけで十分なカネを生み出す)日本の歌謡曲・J Popなどははじめから視界の外にあるのだが、「英語圏」というつながりゆえにことばの壁もなく、ずーっと以前から人の交流にも壁などなかった英国のアーティストは、米国にある本社の重役たちにしてみれば、「全米チャート」に入らないものはカス扱いだ。新たにカネをもたらす存在にならないのなら、とっくの昔に解散したバンドのほうが、投資を必要としない分だけ会社にとっては「よい」存在となる。売れるかどうかわからない新作を出すより、レッド・ツェッペリンが残したアルバムを、リマスターだとか限定ジャケだとかボックスセットだとかで手を変え品を変えして何度も売ったほうがカネになるのだから。

ジョージ・マイケルも、そういうところに飲み込まれた人なのかな、とオビチュアリを読んで思う。Twitterには、1990年にフランク・シナトラがジョージ・マイケルに宛てて書いた手紙というものもアップされている。ショービズ界の大先輩が、27歳で「やめたい」と言い出したスターを諭し励ます手紙だ。




それから、今回、訃報に際してものすごくたくさんのツイートがあったが、その中には「メディアのホモフォビア」を指摘するものがいくつもあった。メディアは口先でPrideという態度を擁護しているものの、ジョージ・マイケルのようなあからさまなホモセクシュアルに対しては、「お騒がせ」扱いをしたり、笑いものにしたりすることによって、「攻撃はしないが敵対的」な態度で臨んだということだろう。そういうメディアの態度についての本人の言葉も、過去のガーディアン掲載のインタビューのキャプチャとして回覧されている。















以下、Twitterからの記録。全部を見ることは到底できないほど多くのツイートがある。音楽界の反応だけでも大量にあるが、それらは音楽専門のメディアがまとめているのを探していただくのがよいだろう。普段「国際テロ」方面の分析をしているBBCのフランク・ガードナー記者のような人でも、この訃報には触れずにいられなかったということから即座に思い起こされたのが、マイケル・ジャクソンの急逝のときのことだ。2009年のイランでの選挙不正追及運動でTwitterが以前より「社会派」なSNSとして注目されていたときのあのニュースは、イランでもあのアメリカ人のスーパースターの音楽が(ひそかに)親しまれていたということを示していた。












































































そして、シリアから。





タグ:訃報

※この記事は

2016年12月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 17:00 | TrackBack(1) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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政治的なスタンスもブレなくはっきりさせてきたポップスターは、多くの人にとっての「あしながおじさん」だったことが、死後わかった。
Excerpt: クリスマスの時期は "season of goodwill" であり、英語圏では(というか私は個人的に英国の事情しか知らないようなものなので「英国では」と言うべきなのかもしれないが..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2016-12-29 23:00

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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