「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2017年06月11日

英総選挙、開票中にささやかれていた「10月の選挙」の意味

octoberelection.png今回の英国の総選挙、開票が終わる前から、「次の選挙は10月」という文言が、ジャーナリストのアカウントから飛んできていた(右の画像参照)。

明らかにジョークというか「故事成語」の類だが、その「10月の選挙」の意味が私にはわからなかった。開票が終わっていろいろ少し落ち着いたところで、Googleに "october election" と打ち込んでみた。直結する答えはでてこなかったが、検索結果を少し眺めていたらわかった。1974年だ。2010年の総選挙でどこも過半数を制さないhung parliamentという結果が出たときに、各メディアが解説記事などで参照していた1974年だ。

1973年1月、英国はEC(現在のEU)に加盟した。当時、国内情勢は不安定だった。労組のストライキは続き、北アイルランドは燃えていた。保守党のテッド・ヒース首相は1970年の選挙で全630議席のうち330議席を得ていたが、危機打開を目して、1974年2月に解散総選挙に踏み切った。投票日は2月28日。誰もが保守党の圧勝を予想していた。

しかし結果は、どこも過半数を取らないハング・パーラメント。その年に5議席増えて全635議席となっていた下院で最大議席数を獲得したのは、ヒースの保守党(297議席)ではなくハロルド・ウィルソンの労働党(301議席)だった。

わずか4議席の差だ。第2党の保守党だが、14議席を有する第3党の自由党(現在のLibDems)と連立すれば埋めることができる。ヒースはその道をさぐったが、自由党が連立条件を飲まなかった。3月4日にヒースは組閣を断念し、これにより、第1党となっていたウィルソンの労働党が議会の過半数を持たずに政権を担うこととなった(マイノリティ・ガヴァメント)。こうして3月6日には第46次国会が召集され、第2次ウィルソン政権(ウィルソンは1964年から70年に首相をつとめていたので、1974年の政権は第2次)が発足した。

マイノリティ・ガヴァメントでは政権運営は心もとない。ウィルソンは7ヶ月ほどで議会を解散し、総選挙に打って出た。それが「(1974年)10月の選挙」である。

この選挙の結果、ウィルソン労働党は18議席を増やし、かろうじて下院の過半数を獲得。ウィルソンはその後1976年に60歳で引退するが、その後を受ける労働党党首に選出されたジェイムズ・キャラハンのもと、労働党は1979年までの5年間(英国の国会議員の任期は、慣習法でだが、5年である)、議会的に「安定した」政権運営を行なうことができた。

そして1979年に何が起こったかは、説明は不要だろう。その後、労働党が政権をとることができるまで、18年かかった。

ちなみにこの1974年の選挙では、当時北アイルランド紛争で燃えに燃えていたリパブリカニズム(アイリッシュ・ナショナリズム)と響き合っていたウェールズとスコットランドのナショナリズムがそれなりの結果を出していたりもして、その点も注目に値する。

そのような「10月の選挙」が、今回、ジャーナリストのような人たちの間で、冗談半分で(もちろん「真顔」で)連想されていたのである。

開票が進み、保守党が過半数割れすることが確実になって、メイの続投はあるのかということに関心が向いたとき、「10月の選挙」と言っていた人たちがどのようなことを考えていたのかは大体察することができよう。

今回は、LibDems(1974年時点のLiberals)はかなり早い段階で、(かろうじて当選した)ティム・ファロン党首が「どの党とも連立する気はない」と言い切っていた。

他の政党で、保守党と連立を組む可能性があるのはどこか、と誰もが考えただろう。

DUPについては、私個人的には「正常性バイアス」が強く働いたのだろう、「保守党といえばUUPとのつながりがあるわけで、DUPとはつるめるはずがない」と考えていた。

実際には、政治は権謀術数、「〜はずがない」ことは「〜しない」ことを意味しない。

そして11日(日)の現在、「交渉」が……あはははは、ぎゃははははは。







北アイルランドでポップコーンが売り切れても誰も驚かないだろう。議会の安定運営(過半数制覇)のため、「DUPに協力をあおぐ(DUPと非公式な形で連立する)」などという数合わせの苦肉の策に打って出たメイは、おそらく、北アイルランドの特殊な事情のことを知らない。




この点は月曜以降、要ウォッチである。

でも北アイルランド和平について特に知らない人がここらへんの話を把握するのは、正直、とても大変だと思う。ましてや日本語圏では「IRAによる北アイルランドの独立闘争」などという不正確情報が横行しまくっている(そのことについては、3年ほど前に長文を書いているので、そちらをご参照いただきたい)。

正確な情報をお探しの方は、立命館大学の南野泰義教授のご著書や論文(オンラインでPDFで読めるものがある)を探してみてください。

北アイルランド政治論: 政治的暴力とナショナリズム -
北アイルランド政治論: 政治的暴力とナショナリズム -

※この記事は

2017年06月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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