「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2017年12月16日

「はいはい陰謀論陰謀論」では終わらなくなったこの世界に――映画『 #否定と肯定 (Denial)』

ほぼ満席の映画館。大きなスクリーンに靴の山が映し出される。展示室の、ガラスの向こうの、くちゃくちゃになった古い汚い靴の山。この靴を履いていた人たちは、ほとんど口にすることもできないようなむごたらしい殺され方をした。アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所。スクリーンの中でその「聖地」を訪れている人々の目的は「巡礼」ではない。「実証」だ。しかしそれは否応なしに感情を揺さぶる。祈りの歌が口をついて出る。雪が舞い落ちるなか、デボラ・リップシュタットは祈りを声に出している。学者が、歴史学者が祈っている。

映画Denialを見てきた。邦題は『否定と肯定』。映画を見る前は、原題にない「と肯定」に「正直、それどうなの」と思っていた。議論にならないことを議論にする(何かを「否定」してみせることで、「何かを『肯定』している人々」を現前させ、それを「論敵」とする)のが連中の手口。Denialという原題の映画に、「否定論」の隆盛っぷりが、それこそ議論の余地もないほどになっている日本語圏で、原題にはない「と肯定」を付け加えて公開することで、連中の手口に乗ってしまっている(もっとはっきり言えば加担している)のではないか、と思ったのだ。が、映画を見て私は納得した(納得しない人もいると思う)。とても密度の高い、テンポの速いシーンで、セリフを聞くことでいっぱいいっぱいになってしまったのだが(字幕を追ってもいっぱいいっぱいになっていたと思う)、「と肯定」については、映画の中でリップシュタットと弁護団との議論のシーンで語られていた。確かにそれは、リップシュタットと彼女の弁護団があのばかばかしい、なおかつ戦いづらい裁判を、英国の法廷という戦いづらい場で戦う上で、必要とされた議論だった(何よりこの映画は「法廷ドラマ」だ)。

そしてそれは、映画館入り口脇に貼られていたポスターが言うような「ナチスによる大量虐殺は、真実か虚構か」という議論ではなかった。話をそこに持っていくこと――話をすりかえることが、否定論者(歴史修正主義者)の目的だ。

denial-poster.jpg

「大量虐殺(ホロコースト)は真実か、それとも虚構か」という《ことば》を現実世界に持ち込んでリアルなものにしようとするということを、彼らdenialists(否定論者たち)はやってきたし(映画冒頭で示されている通り)、今でもやっている。その二項対立自体が「虚構」である、というのがまっとうな態度だし、リップシュタットのような学者はそういう態度を当然取っているのだが(つまり否定論者のことは最初から相手にしていない。完全に無視する)、否定論者たちは、無視されること自体を「私たちは正しいということを示すもの」として喧伝し、そして多くの賛同者・支持者を獲得する。このあたりは、各種陰謀論やホメオパシーを含む疑似科学の論者がとる論法と同じパターンだ。

彼ら(映画の中では「ダヴィデとゴリアテ」の「ダヴィデ」に自分をなぞらえているデイヴィッド・アーヴィングひとりだけだが、アーヴィングの発言はツンデル、ロイヒターという否定論者の発言とつながっている。詳細はウィキペディア日本語版の「ロイヒター・レポート」の項を参照。何を見ても「日本は、日本は」と言わなければ気がすまない人はホロコースト否定論の原稿が掲載されたあとで廃刊された「マルコポーロ」に絡んで石田勇治先生が述べていることがウィキペディア日本語版に引用されているのでそれを参照すれば、ある程度気が済むと思う)が、なぜ「ガス室」に異様なこだわりを見せるのか、私は正確には知らない。ガス室があろうとなかろうと(←「なかった」と言っているわけでも、「なかった」という言い分をまっとうなものとして受け取っているわけでもない。念のため)、食事も乏しく伝染病が蔓延する劣悪な環境の中、強制労働に従事させられた人々が――それも当時の概念での「人種」や「思想信条」によりゲシュタポに逮捕されて連行されてきた人々が――何百万人という単位で命を奪われ、焼かれてきたのだ。「ガス室」だけを問題とするのは、ちょっと不適切なアナロジーかもしれないが、シリア内戦において政権側が自国民の上に使ったクラスター爆弾や樽爆弾のことを問わずに化学兵器だけ問題にするようなこと、広島・長崎に投下された原爆だけを問題とし、東京・大阪・名古屋はもちろん日本各地の大都市・都市に雨あられと投下された焼夷弾はスルーするようなことだ。つまり、お笑いのツッコミ的に言えば「そこかい!」、「否定するのなら、否定すべきはそれだけじゃないだろ」ということ。しかし、どうやら彼らにとって「ガス室」の《物語性》は、何か特別なものだ。彼らの考え方では、世界を思うがままにしようとする闇の勢力は、「ガス室などというとんでもない物語(フィクション、神話)」を真実として人々に信じさせることによって、人々を「思考停止」に追いやり、自身の支配を確実にしようとしている、ということになっているようだ。(そしてそのような情報操作にやられず、真相に気づいている自分たちはすごい、という《信念》もそういうところから生まれる。)

いや、そればかりではない。その「ガス室神話」を打ち砕くことによって、より大きな何かを成し遂げることができるという突破口的な存在なのだ。そこが崩せれば、すべてが崩せる、というようなシンボル。

なんでそういうふうになってるのか、私は知らない。私は「電波浴」は趣味ではないからだ。ていうか、誰が好き好んで否定論者の考えなど知ろうとするかっての。んなもん「はいはい陰謀論陰謀論」でスルーすればよいのだ。私はバカかもしれないが、スルーすべきものとまともに相対すべきものの区別がつかないほどではない。地球は平らではないし、エルヴィスは死んでいるのだ。(とか書くとまたわーっと来るんだろうな……来ても無視します。応答しません。しかし「スルーする」っていう日本語の発明はすばらしいね。)

しかしそういう無関心すら、否定論者にとってはよい土壌となる。「われわれは真実を語っている。その真実は連中には都合が悪い。だから連中はわれわれを無視するのだ」という謎の三段論法を展開し、さらに自身の立場を強固にするものとして状況を利用する。無視しなくても連中のエサにされるし(無視しなかったとき、まともに相手にしたときに何が起きるかは、映画『否定と肯定』で描写されている。リップシュタットの弁護団はそういうことを起こすまいとし、熟考の末、彼女もそれに賛成した)、無視しても連中のエサにされるのだ。挙句、ああいう連中は「ガリレオ・ガリレイだって云々」とかいうことを言い出し、自分たちをガリレオ・ガリレイのような人と同一視する……とかいうのは、まあ、いろいろとありふれてますよね。

そういうのが、あろうことか米国の大統領やその側近の口からこぼれ出る「フェイクニュース」とか「オルタナティヴ・ファクト」とかいう言葉によって、もはや雑誌『ムー』読者界隈的な「巣」の中だけのものではないということが現実として示されるようになった2017年。

その文脈の中で、1990年代から2000年にかけてのデイヴィッド・アーヴィングの「否定論」のありようを見つめた人たち(彼と目を見交わすことなく)と同じ側に立って《物語》として見つめるということは、見た人ひとりひとりの中に何かを呼び起こさずにはいられない。

この映画を見て「日本が、日本が」と言う気には絶対になれない私がこの映画について何かもっともらしいことが書けるのは、この映画を少なくとももう一度見たあとだろう。

そして、テクストをもっと読み込んだあと。

しかしアーヴィングって、あんなゆるーい感じで否定論構築して、それをあんなに激烈に語ってたんっすなあ。アーヴィングのことは知ってても、さすがにアーヴィング自身の言葉にはほとんど接していないので(上述した通り、電波浴は趣味ではない)そこらへんは知らなかった。今後も正確に知ることはないと思う……とか書いてると「読みもせずに批判ですかwwwwww」とかいうのが寄ってきそう。

だからね、地球は平らではないし、エルヴィスは死んでるんです。そこに議論の余地などない。ホロコーストはあった。南京事件もあった。原爆投下もあった。東京などの都市空襲もあった(ドレスデンでも、もちろんゲルニカでも)。従軍慰安婦は強制性と切り離せない。9-11では乗っ取られた旅客機が武器として使われた。そういったことは、ディベートのテーマにはなりえない。「否定」も「肯定」もない。議論の余地などない。それが事実であり、真実なんですよ。

それを「議論すべきもの」であるかのように提示してくるのは、議論そのもの以外に何かやりたいことがある人です。

映画は「濃密な法廷ドラマ」で、すべてが「言葉」で構築されている世界で、ハリウッド映画流の「見せ場! カメラここでズームッ! バーン」みたいなわかりやすい世界を提示してくれる「勧善懲悪もの」のつくりではない。何というか、すべてが真顔の中で、感情はとことんまで抑制されて進行する。舞台は英国だから。

画面にはスキンヘッドの極右活動家やAnti Nazi Leagueのプラカードを持った反ネオナチ活動家も、法廷(オールドベイリー)前にマイク持って立ってるTV記者やカメラマン、音声さんといった人も出てくるが、映画の中でセリフをもって物語を紡いでいく役割をふられているのは、原告のアーヴィング、訴えられて被告となったリップシュタットを除けば、ソリシター(事務弁護士、法廷戦術立案担当)とバリスター(法廷弁護士、法廷での弁論担当。かつらかぶる方の弁護士)と検証専門家の大学教授と、その補佐(法律事務所の見習いや大学院生)といった「英国のエリート」たち。真顔力最高レベル。(・_・)

そのど真ん中に放り込まれた「アメリカ人女性」の戸惑いも、静かに描かれている。デボラ・リップシュタットが弁護団の人々(ソリシター、つまり戦略担当のアンソニー・ジュリアス、バリスター、つまり弁論担当のリチャード・ランプトン)と信頼関係を築いていく過程が、映画のプロットの重要な部分だ。彼女が不安や疑問点をぶちまける相手として、アメリカでの大学の同僚(なのかな?)の友人(黒人女性)が出てくるが、その2人の「えー、そんな滅茶苦茶なことってありえなくない?」「でしょー」みたいなやり取りが、ホロコースト否定論という異様なものをめぐる真顔の世界の中で、ひときわ人間らしいものとして際立つ。

evilも凡庸なら、preciousnessもまた凡庸だ。

そう、悪は凡庸だ。というか、アイヒマン的な意味での「悪の凡庸さ」とは別に、私たち人間には「悪」を凡庸なものにしていく力と技術がある。それが「はいはい陰謀論陰謀論」という対処法。「相手にしない」という方法だ。

歴史学者であるデボラ・リップシュタットは、当然、このような方法は身につけている。しかしそこに絡んできては「都合の悪いことには応答しないんですね」などと粘着してくるのがいる。それが彼女の場合はデイヴィッド・アーヴィングだった。

当方、ホロコースト否定論など聞き飽きているので(「聞き飽きるほどたくさん接しているわけでもないのに、生意気だ」という批判はお受けします)、アーヴィングの言ってることややってることに吐き気を覚えるといった人として正常な反応は、残念ながら出てこない。せいぜいが「はいはい」「釣れますか」という冷笑的態度なのだが、今さら、それすら出てこない。アーヴィングの映像は少しは見たことがあるので(YouTubeで見ようと思えば見れるよ)、アーヴィング役の俳優について「ティモシー・スポールはすごいなあ。顔は似てないのにアーヴィングにしか見えないよ」と思ったりする方向に行くだけで、スクリーンの中でアーヴィング(を演じているスポール)が繰り広げる「自説の開陳」はすべて右から左へ抜けていく。

だから、私の反応は「平均的反応」なんかじゃないかもしれない。ひょっとしたら、ホロコースト否定論などというもののことは全く知らず(マルコポーロ廃刊だってもう約20年前の話だ)俳優陣に惹かれて新作映画を見に来ました的な人が、映画の中でのアーヴィングの主張にひきつけられてしまうかもしれない(映画では「取り合うべきでないもの、醜悪なもの」として描かれていたが、否定論のおそろしさは、それがどう扱われているかには関係なく、それが扱われているという一点のみが強力に作用するという点にある)。

いや、私だってもしいろんな経験がなければ、あちらの側にいたかもしれないのだ――ロンドンでジューイッシュの人たちのことを知らなければ、彼らと話をしたことがなければ、『夜と霧』をはじめ、大量に虐殺される側にいた人々の書いたものを読んだことがなければ、Anti Nazi Leagueのことを知らなければ。

anl-sticker.jpg私がロンドンという都市に恋をしていたころ、Anti Nazi Leagueは音楽メディアなどでもよく取り上げられていて、レコード屋にステッカーがあったりした。そういう中で入手した一枚を、私はコウビルド辞書の表紙の裏に貼っていた。単なるペーパーバックの作りでしかない辞書の表紙は、少し使っているだけですぐによれて折れて破れかかってしまい、それを裏側から補強するのにちょうどよいサイズだったのだ。それは今も辞書ごとうちにある。

「反ナチ」なんて今でも必要なんだ、という事実をとても生々しく感じた。いわずもがなじゃないか、って思ってたのに、今でも必要なんだ、と。

「反差別」の活動や運動があると必ず、どこかから(というか多くの人々の口から)「反対すべき差別なんて、今どきあるはずがない」といった「疑念」が提示される。それもまた、「否定」のひとつの形だ。

映画を見ながら、アウシュヴィッツ訪問の場面のほかに涙が出てきたのは、オールド・ベイリー前で掲げられているAnti Nazi Leagueのプラカードが一瞬ちらっと映った場面だ。

私は、あれを知っている。



【映画公式サイト、映画館情報など】
映画公式サイトはこちら:
http://hitei-koutei.com/

Twitter:
https://twitter.com/denial_jp

上映劇場一覧:
http://hitei-koutei.com/theater/

東京では12月8日から、日比谷のTOHOシネマズシャンテ(旧シャンテシネ)でのみの単館ロードショー。東京以外の都市では2館公開のところが多いようだが、なぜか東京では単館だ。クリスマス〜年末年始の時期とはいえ、この映画が単館ですか、ってことにちょっと真顔にならざるを得ないものがある。

私が見に行ったのは14日で、毎月14日はTOHOシネマズでは鑑賞料金が安くなる(だれでも1100円)ということもあっただろうが、満席状態だった(空いてる座席は5席もなかっただろう)。ほか、毎週水曜日は性差別の日(別名レディース・デー)で女性は1100円など安く見られる日があるので、詳細は劇場サイトを参照。混みそうな日・時間帯は、事前にネットで座席の購入をしていったほうがよいと思う(劇場で現金で支払うようにしてクレジットカードなしでもOKのはず。名前とメールアドレス、発券時に暗証番号的に使う電話番号が必要)。なお、現在日比谷シャンテ前の広場っぽいところをいろいろ掘り起こして大規模な工事をしているし、シャンテのビル自体も1階が工事中で、ちょっと歩きづらいし、地下鉄から地上に出て「あれ、どこっ?」ってなるかもしれない(私はなった)。

パンフレットは700円(鑑賞料金が安くなった分で、パンフを買える計算)。日比谷のシャンテの映画館は小さな映画館で、売店が1つしかない。私が行ったときは激混雑で売店も長蛇の列、何やらややこしい工程を経てから客に渡すポップコーンなどを売ってるカウンターでポップコーンを買う人と一緒に並んでパンフを買うことになったため、買うのに20分くらいかかった。

denial01.jpg denial02.jpg

ていうか、あの映画館があんなに混雑してるの、初めて見た(私があそこに見に行く映画が、あまり混まない系の映画ばかりだというのもあるかもしれない)。

予告編(冒頭の字幕、派手な誤訳ですね。アーヴィングが言葉で直接的に否定しているのは「ガス室」であって「ホロコースト」ではない。そこが重要なポイントなんですけど、たぶん日本の配給会社はそこがイマイチわかってない)。


冒頭数分の映像もアップされている。




【資料】
この映画の元になった本。デボラ・リップシュタットがデイヴィッド・アーヴィングに訴えられた裁判について書いたもので、日本語版は文庫本だが、版元がハーパーコリンズの日本支部なので、地元の本屋さんでは「棚がない」ということもあるかもしれない。劇場での販売はなかった。私は入手はしたが、まだ読んでいないという段階。

4596550751否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)
デボラ・E リップシュタット 山本 やよい
ハーパーコリンズ・ ジャパン 2017-11-17

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その原著。「なか見検索」、電子書籍(Kindle)あり。映画化される前の版(表紙が俳優たちの写真ではないもの)も古書で探せば入手可能で、元々のタイトルはHistory on Trial(Denialではない)。

0062659650Denial: Holocaust History on Trial
Deborah Lipstadt
Ecco 2016-09-06

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アーヴィングはリップシュタットに侮辱されたとして裁判を起こしたのだが、その「侮辱」が書かれている本。日本語版は恒友出版という版元から出ているが、現在入手不可のよう(たぶん、版権が更新できないなどの理由じゃないかと思う……群像社が出していたアレクシェーヴィチの本がそういう事情のため、アレクシェーヴィチがノーベル文学賞を受賞したあとも増刷ができず、最終的に版権が岩波書店に行って岩波現代文庫から出たということもあったばかりだ)。古書でも出回っていないようなので、地元の公共図書館を当たるのがよいだろう(私は図書館で借りた。で私の後の予約が詰まっているので、早々に読み切って返却しますから、お次の方、もうしばらくお待ちください)。

4765250989ホロコーストの真実〈上〉大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ (ノンフィクションブックス)
デボラ・E. リップシュタット Deborah E. Lipstadt
恒友出版 1995-10

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ホロコーストの真実〈下〉―大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ
ホロコーストの真実〈下〉―大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみデボラ・E. リップシュタット Deborah E. Lipstadt

恒友出版 1995-11
売り上げランキング : 621138


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※上下巻になっているが、アーヴィング批判がなされているのは下巻(第9章)。

英語が読める人なら(&英語だけでよい人は)、原著は今に至るまで20年以上版を重ねており、電子書籍化もされてて、いつでも安く手に入る。原著のタイトルはDenying the Holocaust: The Growing Assault On Truth And Memory(ホロコーストを否定すること: 真実と記憶に対する、激化しつつある攻撃)。

0141985518Denying the Holocaust: The Growing Assault On Truth And Memory
Deborah Lipstadt
Penguin 2016-12-08

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アーヴィングが起こした裁判については、英語版ウィキペディア(およびそのソース)を参照:
https://en.wikipedia.org/wiki/Irving_v_Penguin_Books_Ltd

BBCの関連のニュース映像やアーヴィングのインタビュー類も、YouTubeを掘れば見られる。https://www.youtube.com/results?search_query=david+irving+bbc

裁判当時のニュース記事はBBC Newsのサイトにもある……のだが、BBC Newsの検索機能がタコになってしまったので、細かい記事は探すのがちょっと大変。探してるとこのブログ記事がいつまでたってもアップできなさそうだから、そこは割愛。

判決の日のラジオ(BBC World)での報道。
14 April 2000
http://www.bbc.co.uk/programmes/p03m0j3d
The controversial historian David Irving is called a racist and anti-Semite by the judge.

Also on the programme: religious leaders in Kosovo unite for peace; the mobile phone gets a religious calling; South African cricket hero and born again Christian, Hansie Cronje, falls from grace in match fixing row.


映画は英国では今年初めに公開されており、そのときにスタッフやキャストのインタビューやレビューがたっぷり出ている。例えばBBCでは「怪演」を見せたティモシー・スポールに、アンドルー・マーがインタビューしている(映像3分ほど):
http://www.bbc.com/news/av/entertainment-arts-38627875/timothy-spall-on-playing-holocaust-denier-david-irving

ガーディアンのレビュー:
https://www.theguardian.com/film/2017/jan/26/denial-review-holocaust-rachel-weisz
Weisz plays the professional historian who is astonished to find that people expect her to debate on equal terms with sinister deniers – while no one would dream of asking Neil Armstrong or Buzz Aldrin to share a podium or TV studio with someone who believed the moon landings were faked. Irving, played with tremendous oleaginous complacency by Spall, disrupts her lectures and sues for libel in the British courts, which favour the plaintiff.


映画公開時に、「否定論」についてまとめた記事:
The true story behind denying the Holocaust
By Sanchia Berg
Today programme
http://www.bbc.com/news/entertainment-arts-38758249
Mr Irving's posture through the 32 days of court was that of the sceptical historian - always looking for the documentary proof.

It was only by establishing that his political views had directly affected his work, that Prof Lipstadt, Penguin and their lawyers could win the case.

And as Denial shows, that was neither simple, nor straightforward: it required tremendous effort, months of work from many researchers and a brilliant legal mind in Mr Rampton to marshal the argument.

In April 2000, Mr Justice Gray delivered his damning verdict.

...

In the film, that is where it ends - but today Holocaust denial is alive and well on the internet.




この映画についての当方のこれまでのツイート&リツイート:






































※Kindle本の価格について述べている部分は、その時点での価格に基づいています(何かのセールだったようで、今は価格が変わっています)。






















※レイチェル・ワイズが可憐だとか、んなことはこの文脈ではどーでもいい。「おっかない顔をしたおばちゃんじゃなくて美人でよかった」的な感想は、友人同士でやってろ。(私もレイチェル・ワイズのルックス、大好きですけどね。本当にきれい。あと、つらいお話では映画では演技力だけでなく顔を重視して配役するということも普通に踏まえてます。例えばキチジローは窪塚くんだったから観客の目を離さなかった、みたいな)
















この「華麗に」ってのが、難しいんですよね。「あなたとは話をしません」って言うのは簡単だけどね。




















※この記事は

2017年12月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 15:01 | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼