「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2017年10月02日

警棒が振り下ろされる、投票しにきた人々の上に。

日本語圏では「暴徒鎮圧」という四字熟語や、「暴徒化したデモを警察が鎮圧」というフレーズがあらかじめセットしてしまうナラティヴが支配的になっていてもおかしくないので、がっつり防具で身を固めた警察官が人々の上に警棒を打ち下ろしているところやそのあとの状況をとらえた写真(静止した写真)が流れると、それを見た人の頭に真っ先に浮かぶのが「暴徒」なる熟語で、その連想が根拠のない思い込みにつながり、そのあとは何を見ても「これは暴徒である」という決め付けに基づいて判断されていくかもしれないと、私自身特にこの事例について明確な根拠を持っているわけでもないのに何となく思っているのだが、その点、映像は強いと思わされる映像が、カタルーニャ独立可否レファレンダム投票日の今日(10月1日)のTwitterには何本も流れてきている。

映像は、何か板状のものにあけられた四角い穴から撮影されている。最初はその穴がふさがれている。

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穴をふさいでいるものがすっと取り去られると、四角い穴の向こうに人々が立っているのが見える。

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20歳くらいの女性や白髪の男性など、多種多様な人々が立っているが、「暴徒化」でおなじみのブラック・ブロックのような黒ずくめは見当たらないし、覆面をしている人もいないし、手には何も持っていない。

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最前列の人たちが画面の右に向かって何かを言い、群集の3列目くらいから後ろのあたりで次々と何も持っていない手のひらが上がる。

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次の瞬間、四角い穴が左方向にパンして、群衆の3列目、4列目あたりの様子を映し出す。

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四角い穴が元の位置に戻ると、群集の中から「せーの」という掛け声のような雰囲気の声があがり、最前列の人々も何も持っていない手のひらを画面右に向かってかかげる。

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そしてさらに多くの手のひらがかかげられ、歌が始まる。

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次の瞬間(歌はまだ2小節も歌われていないくらい)、画面の右からライオット・ギアの警察官が助走をつけて踏み込んでくる。

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画面手前の人々の影になっているが、踏み込んできた警官は群集の最前列の人に警棒を振り下ろしている。

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そして次の瞬間には、画面手前でも右側から警官が突撃してくる。最前列に立っている女性が思わず手を下げて防御の体制をとる。

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勢いをつけて踏み込んできた警官は、思い切り突撃する。その盾でぶつかられているのは、最前列にいる若い女性だ。

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女の人の悲鳴と思われる声が手前でして、潰されそうになった女性は両手で盾を押し返す。

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そしてその一瞬後にはますます多くの警官が画面の中に、つまり群集の最前列に向かって雪崩れ込む。

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群集を散らすことを目的としたノン・リーサルの武器を持って雪崩れ込んできた警官が「バン」と何かを発射する。画面の中ほどでは別の警官が警棒を何かに打ち付けている。

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撮影者も押され、四角い穴のあいた板状のものから一歩下がり、穴の形状がどういうものかがはじめてわかる(真四角だ)。

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人々の悲鳴と、何かに物を打ち付ける重い音が響き、画面手前の人影が消える(撮影者の角度が変わる)。通りの向こう側にいる人たちが両手をあげている。やはり、何も持っていない。今日はデモではなく投票で、彼らは投票しに来た人々で、プラカードの類ですら持っていない。

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画面手前で警官たちの波が右に動き、画面の向こうのほうでも人の波が右に動く。

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警棒を振りかざした警官が、誰かの胸ぐらをつかんで振り回している。

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その警官が胸ぐらをつかんでいた人を小突いて画面の奥の方に消えると、画面手前にまた別の警官たちが入ってくる。

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そして四角い穴の左側に姿が消える。

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がさっ、どすっというような音がして、画面の左側から何人かの男の人たちが逃れ出てくる。30秒の映像はここで終わりだ。

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映像全体は下記。




カタロニア語もスペイン語も読めない・聞けない私だが(フランス語が一応は読めるので、スペイン語は見れば何となくわかるという範囲がけっこう大きいにせよ、そんな頼りないことで何とかなるような話ではない)、今日(日本では既に「昨日」だが)のカタルーニャ(カタロニア)での事態について英語圏を見ていて、最も共感をおぼえたのは、2014年に同趣旨のレファレンダムを(非常に平和的に)行ったスコットランドの自治政府トップ、ニコラ・スタージョン(SNP党首)のことばだ。






一方、バルセロナのど真ん中、観光客が多いことで知られるランブラス(先日、車暴走テロがあった大通り)は、まったくもって通常通りだそうだ。



こういうの見ると、シリアのダマスカスで、市内の一部区域や隣接する町などが戦場になっていたときにも、「うちの地域では何も起きてませんよ?」とかいう報告が市内から出てきて、「内戦状態だとかいうのはテロリストの情宣ですよ?」とかいうプロパガンダがなされたことを改めて思い出さずにはいられない。

そういえば、うちのあたり、最近古い家の建て替えが続いているなと思ってたら、今年はついに、いつも歩く通りから金木犀が消滅してしまった(玄関先に金木犀が植わっていたお宅があったのだが、それがいつの間にか取り壊されて更地になっているお宅だということに先日気づいた)。そのため、私は日常で金木犀を見ないから「金木犀が激減した」とか「金木犀が都市部から消滅した」と思っている。しかし、私がいつも歩かない通りには、外周部分に金木犀がずらりと植えられた築30年くらいのマンションがあって、そこでは小さなかわいらしい花をたくさんつけた金木犀が香っているし、そのマンションの住民の人や近隣の人々は「金木犀が消滅した」とは思っていないだろう。

何が見えているのかはほんと人による(その人のいる場所による)。

イラクの人トルコ出身のジャーナリストが「こんなことが欧州から伝えられるなんて」と驚愕しているのと同時に流れてくる「いつもと変わらぬランブラス通り」という報告に、そんなことをぼんやりと考えている。これ以上ひどいことにならないようにと願いながら。

事態は、現在進行中だ。

負傷者数は460人を超えているという。


※この記事は

2017年10月02日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 01:45 | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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