ダディさんは地元デリーで大変に成功した実業家だったが政治家ではないし、「著名人」のカテゴリーには入らない。しかし、その死に際しては北アイルランド自治政府トップのアーリーン・フォスター(DUP)もシン・フェイン党首のジェリー・アダムズも、アイルランド共和国のチャーリー・フラナガン外相も、またアイルランドのカトリック教会のトップであるマーティン大司教も哀悼の意を表明したし、15日に営まれた葬儀にはアイルランド共和国のヒギンズ大統領も参列していた。なぜか。それは、ダディさんが、すぐに結果など出ないようなことに、20年以上の時間をかけて取り組んだ結果が、現在の北アイルランドだからだ。
北アイルランド紛争が終結に向かう段階、つまり1994年の停戦と1998年の和平合意(ベルファスト合意、またはグッドフライデー合意)に至る段階での「和平の立役者」は何人もいる。ノーベル平和賞を受けたジョン・ヒューム(SDLP)とデイヴィッド・トリンブル(UUP)、シン・フェインを交渉の場に至らしめた故アレック・リード神父をはじめとする宗教家たちなどなど、ニュースになるような交渉の現場で指導的な役割を果たし、peacemakerと呼ばれうる人々だけでも十指に余るだろう。だが、ダディさんはそういう人々とも少し違う。
権利の平等(「1人1票」)を要求するカトリックの公民権運動と、それを支援する学生運動が合わさって大きなうねりとなり、それに対しプロテスタントの側(の過激派)が暴力を行使したことが、北アイルランド紛争の発端だ(「IRAが独立を求めて立ち上がった」のではない。1968年のデリーとベルファストで起きたことは、1916年のダブリンでのイースター蜂起と同じではないのだ)。当時の北アイルランド自治政府(「北アイルランド」の成立以後ずっとプロテスタントが権力を独占していた)と警察は、プロテスタントの側にいた。公民権運動の学生たちに襲い掛かるプロテスタントの暴徒を、警察はただ見ていた。「カトリック」のコミュニティには自衛の必要性が生じた。そこに、思想的に1920年代で時間が止まっているような武装組織の居場所ができた。はじめは、いわば「少数の変人たちの集団」でしかなかった武装組織は、一般の人々の間に根を張って拡大していった。
自治政府に任せておいても何もしないし、逆にますます悪化するだけだったので、プロテスタント側でもカトリック側でもない「中立」の仲裁者として英軍が派遣された。プロテスタントの襲撃から町を守ってくれる兵士たちを、カトリックの住宅街の人々はお茶とお菓子で歓迎した。このとき、英国政府は「北アイルランドの『トラブル』は、すぐに解決する」と見ていた。しかしそうはならなかった。
「トラブル」が、差別(「二級市民」扱い)という現実の中で、単なる「カトリックとプロテスタントの間のいさかい」ではなく、「アイリッシュ・ナショナリズムと、ブリテン/UKのユニオニズムの対立」であった以上、英軍(というか英国政府)がどのような立場をとるかは自明だ。「トラブル」は、「カトリック(ナショナリスト/リパブリカン)とプロテスタント(ユニオニスト/ロイヤリスト)と英軍」という構図になっていった。1971年8月には、ベルファストで一般市民11人が英軍によって殺された(バリーマーフィー事件)。だが、そのような構図を誰の目にもわかるような形で決定付けたのは、1972年1月30日にデリーで起きたこと、いわゆる「ブラディ・サンデー事件」だった。非武装の一般市民を撃ち殺したという事実を当時の英軍は認めていなかったが、殺された市民たちを知っているデリーの人々には英軍の嘘は見え透いていたし、デリーのみならずアイリッシュ・ナショナリストのコミュニティでもそうだった。「英国は、こちらが何をしようと聞く耳は持っていない。行動あるのみ、武力あるのみだ」という武装組織のプロパガンダは、きわめてリアルな説得力を持って人々の中に浸透していった。
英国政府は、そのように「事態が泥沼化」していくのを手をこまねいて見ていたわけではない。最初は「すぐに終わる」と思っていた軍の介入が長期化するにつれ、打開策を見つけるために「現地とのパイプ」を作ろうとした。ブラディ・サンデー事件の前、1970年代初めのことだ。白羽の矢が当たったのが、ボグサイドでフィッシュ&チップスの店を経営していたブレンダン・ダディさんだった。1936年生まれのダディさんは、このころ30代。公民権運動で熱くなっていた学生たちの一回り年上だ。
ダディさんの店にハンバーガーを納品していた肉屋の配達員は学生たちと同じ年頃だった。彼自身は教育をあまり受けていなかったが(日本で言う「中卒」だった)、配達の際、ダディさんの店で議論にふけっている学生たちに耳を傾けていた。ブラディ・サンデー事件の1972年1月には、彼はわずか21歳にして、デリーのProvisional IRA (PIRA) のナンバー2となっていた。マーティン・マクギネスである。
ダディさんはこの町の「顔役」だった。彼の友人には警察のお偉いさんもいて、情勢が悪化していくなか、公民権運動が続くボグサイドから、武装組織の武器を持ち出させるよう組織と話をつけてほしいという依頼を受けたりもしていた。当時IRAはPIRAとOIRAの両勢力が活動中で、ダディさんはどちらとも話ができる人物だった。
ブラディ・サンデー事件後、PIRAが人員を増やし、彼らの「武装闘争」を激化させていこうとするとき、英国政府の情報機関、MI6がダディさんにアプローチしてきた。1973年3月、新たにベルファストに赴任してきた「英国政府の北アイルランド大臣の補佐官」が、情勢を見てすぐにPIRAと英国政府との対話をしていかねばならないと判断し、そのための窓口として「フィッシュ&チップス屋の経営者」に接触したのだ。実は数年前にもダディさんはMI6の接触を受けていたがそのときは断っていた。今回は話を受けた。
北アイルランド紛争が続いていた期間を通じて、英国政府がIRAと密かに交渉の窓口を保っていたことは、紛争終結後にかなり多く語られている。「テロリストとは話をしない」のではなく、「テロリストと水面下で交渉する」ことを、北アイルランド(英国内)で英国政府はやってきた。その「水面下での交渉の窓口」が、ほかならぬ、ブレンダン・ダディさんだった。MI6側のエージェントはマイケル・オートリー。北アイルランドのあと、1980年代には中東で、その後冷戦終結の時期にかけては欧州で仕事をした「対テロ」オペレーションのエージェントだ。ダディさんは「山登り the Mountain Climber」のコードネームを与えられたが、実際、その後、山に登るようなことを成し遂げたのだ。
英国政府=オートリー=ダディ=IRAの交渉で実現したのが、1975年から76年のIRAの停戦だったが、これはロイヤリスト武装組織の暴力のために破られた。1981年ロング・ケッシュ刑務所のリパブリカンのハンスト(ボビー・サンズが開始し、サンズが餓死した後も合計10人が餓死した壮絶なハンスト)を終結するとのリパブリカン運動の決定の背後にも、ダディの交渉ルートがあった。そして、1991年2月に、退職間際のMI6のオートリーとシン・フェインのマクギネスが会って話をしたことで、北アイルランドの和平プロセスが実現の方向に向かって動き出し、それが最終的には1998年の和平合意として結実した。(→この記述のソース)
このオートリーとマクギネスの「会談」のセッティングが、映画みたいですごいんだけど、そういうことはこの「水面下での交渉ルート」を詳しく取材してきたジャーナリストのピーター・テイラーによる下記の本に詳しい。
![]() | Talking to Terrorists: A Personal Journey from the IRA to Al Qaeda Peter Taylor HarperCollins Publishers 2011-09-01 by G-Tools |
テイラーがブレンダン・ダディさんについてまとまった報道を行なったのは、2008年のBBCのドキュメンタリーが最初だった。それまで10年間、テイラーは「水面下の交渉窓口」がどこの誰でどういう人なのかを十分に知っていて、報道しなかった。本人が名乗り出てよいと判断したのが、2008年(GFAから10年後)だったのだ。
BBCのこのドキュメンタリーの翌年、ダディさんは保管してきたメモなど文書類をまとめて、アイルランドの国立大学ゴールウェイ校に寄贈した。今はまだ非公開のものもあるはずだが(何しろ、「テロリストとの極秘交渉」の詳細だ)、オンラインで閲覧できる。
http://library.nuigalway.ie/collections/archives/depositedcollections/featuredcollections/brendanduddycollection/
ちなみにゴールウェイ校には、リパブリカン運動(IRA, Sinn Fein) のリーダーを長く務めてきたが、1987年に「アイルランド共和国議会」をめぐるシン・フェインの方針転換に反対して分派し、「リパブリカン・シン・フェイン」という組織(武装部門はCIRA)を立ち上げたロリー・オブレイディ(2013年没)の文書類も寄贈されている。
http://vmserver52.nuigalway.ie/cgi-bin/tabbedlist.cgi?POL28
ブレンダン・ダディさんは、そのように、英国政府とIRAとの水面下での交渉窓口として尽力する一方で、本職のビジネスでも手腕を発揮した。家族経営のフィッシュ&チップス屋からスタートしたダディさんのビジネスは、今では小売店やホテルを擁し、かつては「紛争」の中心地だったデリーの町に雇用をもたらしている。
東京で長年継続的にニュースを追ってきて、特にここ10年ほどのデリーの変わりっぷりには驚かされてばかりだ。夏のパレードの季節になると、「揉め事が絶えないベルファスト、行事として淡々と終えるデリー」という対比が鮮やかになる(ここ2年ほどは、ベルファストも落ち着いてきた)。2013年にデリーがUK City of Cultureとしてさまざまな行事を行なって大成功をおさめたのも、ダディさんのような地元のビジネスマンの尽力が大きかったのだろうが、ダディさんはある意味、桁外れだ。カトリックであるにも関わらず、オレンジオーダーやアプレンティス・ボーイズのような「セクタリアン」な集団の信頼も勝ち得ていたというのだから。
Even after the IRA ceasefire was secured, and the peace process bedded in, Duddy continued to act as a go-between, bringing together old adversaries. He played a critical role in helping to reduce tensions between the Ulster loyalist marching orders and republican residents’ groups in Derry over contentious parades in the city. Duddy won the trust of Orangemen and members of the Apprentice Boys of Derry. He helped create a Derry experiment Mark II, in which dialogue between the loyal orders and republican residents led to a series of local agreements, with the city inspiring other parts of Northern Ireland to follow suit.
https://www.theguardian.com/uk-news/2017/may/15/brendan-duddy-obituary
ガーディアンのオビチュアリーで使われている写真(via kwout)は、オレンジオーダーのパレードのときのものだ。ネクタイなしで柄物のシャツにブレザーか背広の上着といういでたちで携帯電話を耳に当てているのがダディさん。
ほか、各報道記事・オビチュアリーを以下に羅列する。
Brendan Duddy, Northern Ireland peace negotiator – obituary
http://www.telegraph.co.uk/obituaries/2017/05/15/brendan-duddy-northern-ireland-peace-negotiator-obituary/
※要登録
Brendan Duddy: Secret peacemaker dies
http://www.bbc.com/news/uk-england-39902354
12 May 2017. ダディさんのコードネームがSoonだったとか(「山登り」だけじゃなかったのか)、2014年にコロンビア和平交渉に際して北アイルランドの経験を語るために現地を訪れたマーティン・マクギネスが、サントス大統領から「FARCとの交渉窓口を開いた。コードネームは『ブレンダン』だ」と言われたとか、歴史のディテールが興味深い。
Derry peacemaker Brendan Duddy dies aged 80
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/northern-ireland/derry-peacemaker-brendan-duddy-dies-aged-80-35709478.html
May 12 2017
※以下、追記予定
※この記事は
2017年05月21日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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