「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年08月12日

【訃報】エドワード・デイリー神父(後に司教)〜ブラディ・サンデー事件で白いハンカチを掲げ、負傷者を搬送した神父

edwarddalyrip.png「エドワード・デイリー司教が非常に重篤な容態である」というBBCの報道が流れてきていたのに気づいたのは、日本時間で8月8日の午後4時台、7日夜(現地時間)に北ベルファストでUDAの「著名なメンバー」が射殺されたというニュースをTwitter上で追っているときのことだった。ベルファストのBBC Newsは「重篤な容態である」と言い、一方デリーのBBC Radioは、それに加えて病院名も書き、「親族が病室に集まっている」と伝えていた(ちなみに病院は、デリーの周辺地域の基幹病院で、ベッド数は500床だそうだ)。

政治家など、名の知られている人について、このような「ニュース」が流れることはときどきある。高齢であったり、「かねてより病気療養中」であることが知られていたりする場合だ。明示されることはないが、そのような報道がなされる目的は、「死にゆく者への祈り」の呼びかけである。時には「容態が安定し、家族が感謝の意」といった続報があることもあるが、多くの場合は、24時間もしないうちに訃報が流れる。なので「重篤な容態」の報道が流れてきたときに、「ああ……」と言葉にならない気持ちになりながら、次の報道の内容を、言葉は大げさだが「覚悟」していた。

デイリー神父の訃報は、思いのほか早くやってきた。「重篤な容態」の報道に私が気づいてから1時間ほどあとのことだった。

それまでの間に、私はデイリー神父についてTwitterに少し書いていた。"ブラディ・サンデー事件、現場で取材に応じるエドワード・デイリー神父の映像。(当日は、公民権要求デモの取材のために多くのカメラと記者が現場にいた。その目の前で、英軍は13人を撃ち殺し、「攻撃されたので反撃した」との虚偽をばら撒いた)" として、下記のビデオをツイートした。

※デイリー神父の「証言」は、エンベッドした映像の最初の1分くらいです。その後は英軍側の証言(ウィルフォード大佐)、現場の様子の映像と、解説のナレーション。

それから、"負傷者を運ぶ人々を先導するときにデイリー神父が掲げていたハンカチについて、7年前に書いています" として、2009年1月の「記念日」の拙ブログのエントリをリンクした。

2009年01月31日 Free DerryがFree Gazaになり、あのハンカチがMuseum of Free Derryに
http://nofrills.seesaa.net/article/113444195.html


信仰を抱かぬ私ではあるが、かろうじて、デイリー神父を見送ることができたと思う。

先ほどから「デイリー神父」と書いているが、その後司教になられているので、肩書きとしては「デイリー司祭」と書くのが正確だ。しかし、デリーの教区の信徒でなければ、この方を認識する人は「あの神父さん」として認識していることがほとんどだろう。私もそうだ。なのでついつい「デイリー神父」と書いてしまう。それがご本人のお気持ちに反するような失礼な間違いにはならないことを願いつつ、本稿では「あの神父さん」を悼みたい。

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この写真は、Don Mullan, Eyewitness Bloody Sunday, 2002, Merlin Publishing, Dublin, p. 137 の一部である。Fr (Father) Edward Dalyは「あの事件」の目撃者として、ほかの大勢の目撃者同様、正式な証言を残していた。だがその証言の記録は当局による「公式の報告書」のベースになることもなくただ放置されていた。それを90年代に発掘したのが、当時少年としてデモに参加し、証言を行なっていたドン・マランで、彼がこの本をまとめたことで、ポール・グリーングラス監督が「あの日」を再現したドラマ、『ブラディ・サンデー』が制作された。

1903582164Eyewitness Bloody Sunday
Don Mullan John Scally
Merlin Pub 2002-09

by G-Tools

B0098X0VAYブラディ・サンデー スペシャル・エディション [DVD]
ポール・グリーングラス
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2012-11-22

by G-Tools


この映画にも、デイリー神父は出てくる。「あのシーン」が再現されているからだ。

Bloody_Sunday_mural,_Bogside_-_geograph.org.uk_-_1159255.jpg
By Kenneth Allen, CC BY-SA 2.0


本エントリの上の方にエンベッドしたYouTubeの映像は、このミューラルに描かれた「負傷者の搬出」のあとに撮影されたものである。生気を失った少年の血が染み込んだ真っ白いハンカチを「白旗」として掲げながら、少年を運ぶ地域の人々(みな、互いの名前を知っているような間柄)を先導した神父は、少年にラスト・ライツをほどこしもした。

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※写真はIbid, p. 140


この人がいなかったら、10代のころの私は「北アイルランド紛争」というものについて、何となくであっても知っているということにはならなかったかもしれない。ラジオから流れてきて、切り込むような鋭さで頭の中にひっかかりを作ったあの曲は、この人の「証言」が映像に残されていなかったら、つまり英軍の「公式」の物語(後にデタラメであると証明され、撤回された)とは一致しない「証言」が存在しなかったら、ひょっとしたら書かれることはなかったかもしれない。「あの流血」のことは、確かに不幸ではあるが、いちいち気にするまでもないような、「紛争/戦争」にはよくある出来事ではないか、と流されていたかもしれない。北アイルランド紛争での殺し合いを正当化するために「これは戦争だ」と言う武装勢力が、人員補給のために「活用」するだけ活用するだけで終わっていたかもしれない。



2015年11月のベルファストでの公演(→それについては当時書いた)をバンド側が記録したこの映像で、フロントマンがまだ前の曲の終わりを歌っているときからカメラがずっと追っているドラマーは、この曲について、レコーディング(1982年7月)の翌年にこう語っている。

Drummer Mullen said of the song in 1983:

"We're into the politics of people, we're not into politics. Like you talk about Northern Ireland, 'Sunday Bloody Sunday,' people sort of think, 'Oh, that time when 13 Catholics were shot by British soldiers'; that's not what the song is about. That's an incident, the most famous incident in Northern Ireland and it's the strongest way of saying, 'How long? How long do we have to put up with this?' I don't care who's who - Catholics, Protestants, whatever. You know people are dying every single day through bitterness and hate, and we're saying why? What's the point? And you can move that into places like El Salvador and other similar situations - people dying. Let's forget the politics, let's stop shooting each other and sit around the table and talk about it... There are a lot of bands taking sides saying politics is crap, etc. Well, so what! The real battle is people dying, that's the real battle."

https://en.wikipedia.org/wiki/Sunday_Bloody_Sunday


この曲は「英軍がカトリックを殺したこと」への抗議の歌ではない。「英軍に対するアイルランドの抵抗の歌 rebel song」ではない。だが、「カトリック」側の武装勢力(IRA)への批判の歌でもない(日本語圏では、「IRAへの批判」と雑に解説されていることも少なくないのだが)。そういう「あれか、これか」の二項対立、「あなたはどちらを支持するんですか」という政治の歌ではない。そうではなく、「人間」全体を「カトリックか、プロテスタントか」で分断することを拒否し、「二項対立」そのものを否定し、「人間」が日々殺され、傷つけられ、憎悪し、憎悪されていることについての曲である。「人が死んでいること」についての歌である。「政治のことは忘れて、互いを銃撃しあうのはやめよう。同じテーブルにつき、話をしよう」。そして「人が死んでいること」を終わりにしよう。

1972年1月30日のデリーの出来事について、1980年代初めの時点で、このようにいわば「双方自重」、つまり「どっちもどっち」的な出発点から「戦いをやめて、話をしよう」と言い出されることは、当のデリーの人々にとっては心外なことだったに違いない。なぜなら、デリーの人々はただ「一方的に撃たれた」からだ。「一方的に、武装勢力だと決め付けられた」からだ。そのことが認められないという不正義が、問題の根 (root cause) だからだ。

U2のメンバーたちがこの曲の着想を得、歌詞を練り上げ、レコーディング・スタジオに入り、やがてレコードとしてリリースした時点では、デリーのブラディ・サンデーは「デモ隊の中に武装勢力(IRA)がいて、英軍を攻撃したので、英軍が反撃した」という《物語》(2010年になってようやく、虚偽であったことが立証された「当時のデタラメ」)が「真実」とされていたし、バンドもそれを信じていたか、少なくとも前提としていたことは確かだろう(→事件当時の報道を参照)。そして、その(虚偽の)《物語》の上につくられたこの曲が、極東の島国で試験勉強をしていた私のような平凡な、北アイルランドとは無縁の者にまで届けられ、「北アイルランド」や「ブラディ・サンデー」のイメージを固めたことは、デリーの人々にとっては、釈然としない思いを生じさせただろう(そのことを私は、2008年に東京・渋谷で開催された「北アイルランド映画祭」でのマーゴ・ハーキン監督のトークの際、客席からの質問とそれへの受け答えによって、つきつけられた。「あの曲」で「あの事件」を代弁させることは、当事者にはできないことなのだ)。

エドワード・デイリー神父は、隣にいた少年が撃たれるのを目撃していた。そして、その日の午後を通して、「ネイルボムの爆発する音は一度も聞かなかった」(Ibid., p. 139)。少年たちが英軍によって撃たれ、倒れたあとで、「挙動不審な男」を見たということも証言している。「男はポケットから拳銃を取り出したが、兵士たちの使うライフルにはとても対抗できないものだった」(Ibid., p. 141)。

そうやって、自分が見たもの、聞いたものを「時系列ははっきりとは思い出せません」とも言いながら、神父は証言に残していた。

そして、その証言が日の目を見ることなく、英軍が主張する虚偽の物語が「公式報告書」として世間で信じられていくのを見ながら、神父として、デリーの人々のために働いた。結婚も葬儀も、日々の相談事も「ざんげ」も、毎週のミサも、紛争の中だろうと何だろうと、人々の生活は続いていく。そうした日々を生きることは、人間が人間である以上は続いていく。



このあと、ツイートや各報道機関のObitをまとめたいが、知ってたこと、知らなかったこと、初めて知ったこと、書くべきこと、書きたいこと、などなどがごちゃごちゃになっていて、まだ時間がかかる。それが何とかなるのを待っていたら、きっと本稿もアップしないで塩漬けにしてしまうので、中途半端だが、ここでアップだけしておく。あとで更新する。

やっぱりごちゃごちゃになっているので、あまりごちゃごちゃな部分は別項に回すことにして、以下、Twitterのログ(+アルファ)。各メディアで使っている写真にも注目されたい。

臨終の床にあることを最初に伝えたのは、報道機関ではデリー・ジャーナルだったようだ。現地時間で7日午後(日本時間で7日夜)のタイムスタンプでフィードがある。(デリー・ジャーナルは、デリー/ロンドンデリーの「ナショナリスト」側のメディア。)






このアイリッシュ・ニュースのフィードが使っている写真は、書斎のデイリー神父(司教)で、机の上には「あの日」に神父がラスト・ライツをほどこした少年、ジャッキー・ダディの写真が飾られている。彼はボクサーとして将来を嘱望されていて、この写真でもボクシングのかっこうをしている。








「とてもつらいお別れになるでしょう」。この気持ちを、どれほど多くの人々が共有したことか。

エドワード・デイリー神父は、教区の司教に叙せられて後、体調を崩し、1990年代の前半に引退した。その後は地域のために活動し、デリーのホスピスで終末医療に(「医学」とは別の角度から)携わった。多くの人々の人生最後の時間にかかわり、その人々の家族や友人たちにかかわってきた。















このとき、Twitterをさかのぼっていたら、デリー・ジャーナルのフィードがあってから、アイリッシュ・ニュースのフィードがあるまでの間に、ジェリー・アダムズがU2のSunday Bloody Sundayの演奏の映像をRTしていた。

sbsrtga.png


ビデオの中のボノの着ているシャツに、白旗があしらわれている。曲の途中(間奏のところ)でボノは白旗を持ってきて、ステージ前方に突き立てる。




"Amhrán atá ar fheabhas" は、Google翻訳にかけてみると、"Great song" という意味だそうだ

「白旗」の人が息を引き取ろうとする間際に、アダムズがこれをRTしていた。

何だかんだあるけれど、アダムズもまた彼なりに「平和の人」ではある。この人がIRAなのかそうでないのかはもう「IRAである」ということで話を進めていいのではないかと思うが(本人は断固否定している)、IRAというか「リパブリカン・ムーヴメント」の古い世代の「武装闘争至上主義」から、「投票箱とアーマライト・ライフル」への方針転換を実行したのは、1984年にシン・フェインのトップとなったアダムズである(アダムズ1人の業績ではないにせよ)。

ちなみに、SBSのビデオをRTしたあとは、アダムズはいつものような「意味のわからない能天気なツイート」(絶対に「暗号」だと思う)をひとつ投稿して:



そのあとがデイリー神父(司教)の訃報だった。




この週末は、1981年のハンガー・ストライキ(ロング・ケッシュ第二次ハンスト)から35年ということで>関連イベントが行なわれることになっていて(8月12日から14日)、リパブリカン界隈ではその話が盛んに行なわれている。そのさなかにデイリー神父(司教)が亡くなったのだが、当時既に司教となっていたデイリー神父は、ハンストを止めようと尽力していた(映画Hungerの「神父」のモデルの1人がデイリー司教だ)。ハンスト開始の翌日、1981年3月2日付けのアイリッシュ・タイムズ(ダブリンの新聞)は次のように報じている。
http://www.irishtimes.com/culture/books/from-the-archive-how-the-irish-times-reported-the-hunger-strike-1.2555662
Interviewed after condemning hunger-strikes yesterday, Bishop Daly of Derry said he did not want to see young people used. He went on: “And I don’t want to see myself used as I was by both sides last time.”

It is believed that Dr Daly and Cardinal O Fiaich recently met Northern Ireland Office representatives in an effort to avert the new strike.


アイリッシュ・タイムズのこのページ(「アーカイヴより」)には、さらに別の記事もある。同じく、1981年3月2日付けだ。
Bishop Daly intervenes as new Maze fast begins
By Patrick Nolan

THE BISHOP of Derry, said yesterday he did not believe a prison hunger-strike was morally justified “in present circumstances”.

His statement was made some hours after Bobby Sands, a leading, Provisional Republican prisoner in the Maze Prison, Long Kesh, went on hunger-strike in support of demands for political status. Demonstrations in Belfast, New York, London marked the start of the new prison fast.

A prison hunger strike was not morally justified in present circumstances said Dr Daly. Neither did he believe it was right to continue the ‘dirty protest’ in the Maze.

Cardinal O Fiaich and Dr Daly played a leading part last year in trying to settle the prolonged ‘dirty’ protest by Republican prisoners and later in trying to aver the hunger strike in which some of them engaged.

The bishop said he believed that prison conditions could and should be improved, and that all prisoners in Northern Ireland should be allowed to wear their own clothes at all times. Further, he believed that the inflexibility for which the British Government had been criticised by the European Court was still in evidence. More flexibility on both sides in late December and early January could have made a solution possible, he felt. Failure to reach a solution was not the fault of one side only.

“Having said that,” he continued, “I do not believe that it is morally justified to endanger health or life by hunger-strike in the present circumstances, nor do I believe that it is right to risk one’s mental and physical health by living in cells fouled by one’s own excrement. This, to my mind, degrades the dignity of the individual.”

Speaking at Thornhill College, Derry, Dr Daly said that protest activity in the prison, allied to activities going on outside- glorification and false justification of violence and of the most dreadfully degrading acts – was spawning and generating a frightening erosion of morality in society in Derry.

He warned 1,500 members of the Renewal, Action and Youth movement against involving themselves with violent groups. Some of them were being challenged to support groups which had a policy of guerrilla warfare, of bombing, murder, intimidation and cruelty of all kinds, he said.

They had grown up in a period dominated by violence and injustice. Some had experienced the humiliation of being searched by soldiers, of having their homes raided, of being questioned by the police and of being intimidated by paramilitaries of various kinds.

“You have heard the bigoted rantings of those who preach hatred and profess simultaneously to be followers of Jesus Christ,” he said.

It was wrong and sinful to be a member of a violent organisation, he stressed. The Pope’s appeal for the ending of violence had been rejected. The Cardinal and the Bishops had spoken against it, yet the violence continued.

Dr Daly advised members of the RAY movement, which is closely associated with the Pioneers’ Total Abstinence association, not to associate themselves with any group supporting a hunger-strike unless it publicly rejected violence.


こんにち、「イスラム過激派」の過激主義の浸透を阻止しようとしている人々がいるのと同様に、あの時代の北アイルランドにはリパブリカニズムの武装闘争至上主義・暴力賛美を食い止めようとしている人々がいた。

「北アイルランド紛争」というとどうしても武装勢力、というかとにかくIRAのことばかりが語られるのだが、それは「テロリズム」のジャーナリスティック、またアカデミックな分析という面もあるが、多くはIRA自身のプロパガンダであり、世界で最も過激な「アイリッシュ・ナショナリスト」の集団であるアメリカのアイリッシュの中の武装闘争支持者たち(U2の『ラトル&ハム』に記録されているライヴで、ボノが「お前らいいかげんにしろ、アイルランドに来たこともないくせに、外からめちゃくちゃに煽るだけ煽りやがって。革命だ? クソくらえ」ということを言ったのは、そういう「アメリカでIRAの政治的暴力を支援している人々」に対してである)のプロパガンダと、その燃え残りみたいなものである。

私自身、IRAのプロパガンダにさらされてきたクチだが、真に語られねばならないのはIRAではなくエドワード・デイリー司教や、2013年11月に亡くなった西ベルファストのアレック・リード神父のような人々であろう。

あの日、あの場所にいたマーティン・マクギネス。






"Hard being Bishop at a time of war."

デイリー神父は神父としての仕事上、いくつの「秘密」を聞き、それを「墓場まで持っていく」ことになったのだろう。



















































































訃報が流れたときのTwitter Trends (UK). ご本人の意思とはかかわりなく、この方が記憶されているのは、「ブラディ・サンデー」なのだ。





※この記事は

2016年08月12日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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