「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2016年07月19日

米ルイジアナ州バトンルージュの警官銃撃容疑者は、自分は「集団ストーカー」の被害者だと信じていたようだ。

「反撃だ」とか言ってた、なんてのは当たり前すぎてニュースにもならないと思うんだけど、それでいいらしい。

米ルイジアナ州バトンルージュで警官が銃撃を受けて3人が殺された事件で、現場で射殺された容疑者は、イラク帰りの、29歳の退役軍人だった。

先日のダラスでの警官銃撃事件も、アフガニスタン帰りの元軍人だった。どちらも「黒人」で、ブッシュ政権の推進した軍事行動を経験していて、さらに最近(ファーガソン以降)の米国での「人種問題」を、おそらく当事者として間近に見ている。何か共通する点があるのだろうか(そういう「物語」がこれから語られるのだろうか)と思いながら、バトンルージュの事件の容疑者、ギャヴィン・ロングについての報道記事を読んでいたのだが、読んでいるうちにとんでもないところまで連れて行かれてしまっていた。

それを記録したのが下記。

海兵隊を名誉除隊、大学進学、スピリチュアルな目覚め……バトンルージュで警官を銃撃した容疑者の人物像
http://matome.naver.jp/odai/2146881291849406101


「NAVERまとめ」の見出しは最大文字数が50字で、そこに入れようとするとあまりに「トンデモ」に見えてしまうと思ったので入れていないが、私が「とんでもないところまで連れて行かれてしまっていた」と感じているのは、この容疑者が、いわゆる「(政府による)集団ストーカー」論を信じており、自分がその被害者だと考えていたという点。

「ブラック・パワー」の武装主義とか、連邦政府への反対とかいった背景だけだったら、「やはり」と思いこそすれ、さほど驚きはしなかっただろう。しかし……である。


なお、ダラスの銃撃事件の容疑者は予備役で、アフガニスタンでも基地内の仕事をしていたようだが、バトンルージュの銃撃事件の容疑者は海兵隊員で、沖縄にもいたことがあるそうだ。2008年6月から、7ヶ月間の任務でイラクに派兵されているが、イラクでどういうことをしていたのかは私が見た記事には書かれていなかった(データ・ネットワーク・スペシャリストだったとのことではあるが)。海兵隊で何度も表彰されており、名誉除隊したギャヴィン・ロングは、その後、大学に行って学位を取得したりしている。だが、思っていたような就職ができず、その結果、「軍隊時代に上官と口論したことでブラックリストに載せられている」と考えるようになっていたようだ。

そのあたり、上記の「NAVERまとめ」ではまだ書きかけなので、これから補うつもりである。

なお、「陰謀論」云々とは別にはっきりさせておかねばならないのは、バトンルージュの銃撃者が、前項で言及していたようなニュー・ブラック・パンサー党などの黒人運動過激派組織とは関係なく、独自に行動を起こした、という点だ。

元海兵隊員といういわば「看板」を掲げたロングは、16歳のときに劇的なダイエットに成功したことで海兵隊に入るという道が開けたとしており、自分のことを、そのようなダイエットを成し遂げ、海兵隊という厳しい環境で5年間を過ごして名誉除隊した「アルファ・メイル(アルファな男)」だと考えていたようだ。そして、ダイエットの指南やパーソナル・コーチとして活動……ということだったら、元軍人にわりとよくあるパターンだったかもしれない。しかしロングの場合、そういうのとは少し違っていて、本人が自分のサイトのaboutのところに書いていたのだが、スピリチュアルな気づきを得て自身の民族的ルーツに目覚め、アフリカを旅して回り、現地の知恵者の教えを受けるなどしてスピリチュアルな本を3冊も書いて(AmazonのKindleで出している)、PodcastやYouTubeのビデオ(ブロマガ)を出し……という活動をしていた。

それに加えて、TwitterやInstagram、Facebookなどをたっぷり使っていたので、ジャーナリストが確認できる「デジタル・フットプリント」は十分すぎるほどにあった(Facebookは事件後にサイトが閲覧できなくなっているし、YouTubeはなぜか「著作権侵害の申し立て」が何件も寄せられて、ビデオが見られなくなっているが、Twitterは、私が調べものをしたときは閲覧できていた)。

ロングは「(黒人に対する暴力に)反撃しなければならない」としながら、「いかなる組織とも関係はない、俺は俺の考えで結論した」とビデオで宣言しており、いわば「思い込みの激しい人が暴走した」ようなことだったのではないかとは思う。

しかしロングの行為は、どんな「意味」でもつけられそうな行為である。

そして今、アメリカは、自分たちの語りたい「物語」のために、どっかの誰かの行為に対して自分たちのつけたい「意味」をつけようとするさまざまな立場の人々の声が、とても大きくなっている。

※この記事は

2016年07月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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