「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2018年05月05日

バスク武装組織ETAの解体(北アイルランド和平関係者が式典に出席)

バスクのETAが解体したということを、5月4日に日本語圏のニュースで知った。英語圏では月初には既に伝えられていたようだが、私は気づかなかった。英語圏の報道は相変わらずトランプがどうのこうのというゴシップめいた記事満載で(今月に入ってからは、大統領選前に「トランプはすっごい最高に健康、めっちゃ健康すげぇ」みたいな医師の診断書が出ていたが、それはトランプ自身が口述筆記させたものだった、新たに弁護士になったルディ・ジュリアーニが、ストーミー・ダニエルズへの口止め料についてトランプの説明と矛盾することを言っているとかいうので大騒ぎ。今日もまたNRAの集まりで「ロンドンはナイフ殺人がすごいですよ、まるで戦場」とか言ってるっていうのでトップニュース。ばかばかしい)、いきおい、ニュースチェックが雑になってしまう。さらに、こういうどうでもいいゴシップ(に見えるけど、トランプの方針の一部……「常にニュースになっていること」自体が目的だから)に、天変地異系ニュースなどに比べれば緊急性は劣るがニュースとしては比較的重要なトピックが、埋もれるか流されるかしているので、「報道機関のサイトのトップページを見て、その日のニュースをチェックする」というやり方では見落としが多くなってしまって困る。かといってTwitterではどうしてもアメリカのユーザーが多いから話題も「アメリカ」寄りになりすぎて、実際には「米国内では重大なニュースなのかもしれないけど、うーん……」というものを「普遍的重大ニュース」と誤認してしまうこともあり、いろいろと悩ましい。

ともあれ、ETAである。

テロ組織「バスク祖国と自由」解体宣言 800人超殺害
パリ=疋田多揚2018年5月4日21時25分
https://www.asahi.com/articles/ASL545GVQL54UHBI01M.html
 半世紀にわたりスペイン・バスク地方の分離独立を主張してテロを重ねてきた武装組織「バスク祖国と自由」(ETA)が3日、組織を完全に解体したという「最終声明」を出した。

 ……

 ETAは、スペイン北部からフランス南部に広がるバスク地方の独立を求める組織。1959年に結成され、68年からテロを始めた。政治家や警官、市民ら800人超の命を奪ったテロ組織だが、近年は当局による摘発強化で弱体化が進み、11年には武装闘争の最終的な停止を宣言。先月には地元紙に、これまでのテロの犠牲者に謝罪する声明を寄せ、解体は間近とみられていた。


50年も武装活動を行ってきたETAによる死者数が「800人超」というのを「案外少ない」と感じてしまうのは、昨今の所謂イスラム過激派の異様な殺戮が当たり前になってしまったせいではなく、北アイルランド紛争の約30年間にIRA (PIRA) が1705人も殺害していることと、無意識に比較してしまうからだ(ちなみにロイヤリスト側は諸組織合計して1027人を殺している。英当局と警察は、UDRも入れて361人)。当事者にとっては、そんなことはどうでもいいことで、私のような完全な部外者が「少ない」という馬鹿げた感想を漏らすことも、耐え難いことだろう。

だが、バスクの和平プロセスには、一足先に和平プロセスを開始した北アイルランドの当事者たちが深く関わってきたのであり、ここで北アイルランドと比較してしまうことは「無関係なものを持ち込んでいる」と非難されるべきことでもない。というか、和平プロセス以前にいわゆる「武装闘争」の時代から、IRAとETA(およびそれぞれの政治組織)は強く結びついてきた(「共闘」の関係にあった)。

両者の関係についてはウェブ上にも多くの解説や論考がある(例えばJohn Dorneyさんのこちら)。私もこれまでに、ネット上の北アイルランド経由でバスクの最新情勢を知ったことが何度かあるし、いくつかは「NAVERまとめ」を使うなどして記録したものもある(それらはまたあとで、このエントリの末尾にURLを貼るなどしておこう)。そして今回の「ETA解体」という大きな節目に際しても、北アイルランドの関係者たちが式典に赴くなどしている。




ETAは「バスク」の独立を武力で実現しようとした運動で、その「バスク」はスペインとフランスにまたがっている。そして、ここ数年の武装活動停止から武装解除という動きはフランスで行われており、スペイン政府は依然として「ETAとは話をしない」という方針を貫いている。ETAが(一方的に)武装活動停止を宣言したときも、(一方的に)武装解除したときも、スペインは無視しているというか、政府の代表者を式典に送るといったこともしていなかったはずだ(記憶に頼っているので要確認)。そして今回、「解体」ということになっても、スペイン政府はその方針をとっている。だから、「ETAの活動停止から解体」という大きな出来事に、ETAの暴力の最大の対象だったスペインは立ち会っていない。

それでもETAは、さっさと一方的に解体してしまった。個人的には、IRAより早くETAが「解体」するとは思っていなかったが(IRAは既に機能はしていないが、「解体」はしていない。解体したらその穴を埋めるのはディシデント・リパブリカンだろうから、解体はしないほうがよい)。

「解体」に際する声明文の英語版が、BBCの記事に掲載されていた。

_101154413_75991073-811e-49b6-8f45-3d3f718d30ea.jpg



この声明をもって、ETAという組織はいかなる形でも消滅し、軍事的行動はもちろん政治的意見表明もすることはなくなる。以降は元メンバーや支持者はそれぞれ個人の判断で(引き続き)バスクの独立を目指して政治的に活動していくことになる。……というような内容だ。

ETAには「政治部門」があった(本人たちは「政治部門呼ばわりは不当」と主張している。IRAとシン・フェインと同様)。「バタスナ (Batasuna)」という政党だ。しかしバタスナは2003年にスペインにおいて非合法化され、活動を停止。
https://en.wikipedia.org/wiki/Batasuna

その後、2011年にSortuという政党が立ち上げられ、2012年にスペインの憲法裁判所で1票差で合法政党と判断された。現在、スペインの上下両院に1人ずつ、EU議会に1人の代表者を送っており、バスクの自治議会には定数75人のうち12人。バスクに隣接するナバレの自治議会(定数50人)にも4人の議員を出している。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sortu

ETAのメンバーや支持者がこの政党に参加するかどうかは、組織は指図せず、個々の判断に委ねられるという形をとったわけだ。

IRAが活動してなくても残っていて、影響力を行使していないはずがないじゃないという部分でもめた2000年代のいくつかの事例を思い浮かべつつ、完全に解体し、消滅し、過去の存在となるということの意味を、少し考えてみる。

そして「過去の存在となる」前に、組織がまだ存続しているうちに、なすべきこととは何かということも。

※書きかけ。このあとTwitterから貼り付け&ニュース記事リンク。





このように、ETAの声明はBBCとスペインのメディアに届けられたというのだが、BBCのサイトを見ていても気づかなかった。ETAが武装活動を停止したときはBBCでトップニュースになっていたのだけど……。


この記事に入っている声明の文面(画像)が、上の方に貼り付けた画像。

BBCの記事はこのくらいしか見当たらないのだが、一方、ガーディアンにジョナサン・パウエルのOpEdが出ていた。当ブログでは既に何度も言及しているが、パウエルはトニー・ブレアの右腕として北アイルランド和平にあたった人物(外務省の役人→ブレアの参謀長)で、グッドフライデー合意 (GFA) に際しても、GFA後の和平プロセスに際しても、北アイルランド国技「エクストリーム交渉」の現場を見てきた人だが、そもそもその「交渉」という競技問題解決の方法が北アイルランドに根付きすぎるほどに根付いたのは、この人の理念・信念と当事者全員のプラグマティズムゆえだろう。彼自身は軍人の家の子で、紛争においてはIRAに狙われる側でありこそすれ、IRAの共感者ではなかった。それでも「リパブリカン・ムーヴメントと対話すること」が絶対的に必要と考え、それを実行に移し、そして結果を出した。パウエルは政府の仕事を離れた後は Inter Mediate という団体を立ち上げ、世界各地の紛争解決と和解のための活動を行っている。そのテーマでの講演や著作も多い。
Great Hatred, Little Room: Making Peace in Northern IrelandGreat Hatred, Little Room: Making Peace in Northern Ireland
Jonathan Powell

Terrorists at the Table: Why Negotiating Is the Only Way to Peace Iqbal Cal Making Peace

by G-Tools

1250069882Terrorists at the Table: Why Negotiating Is the Only Way to Peace
Jonathan Powell
St Martins Pr 2015-06-30

by G-Tools


今回、ガーディアンに掲載されているOpEdは、この本↑(Terrorists at the Table)での議論を短く、バスクの紛争についてまとめたような感じで、逆に言えばこの本を読むとより広く、具体的なことがわかる。



(サニングデールがどうこうというのはバスクには直接は関係ないんだけど、おもしろいので。ちなみにこれはSDLPのシェイマス・マロンの言葉。)



さて、このパウエルが、4日(金)にフランスで行われたETAの解体の式典に参加したことは、上に埋め込んだBBC NIのマーク・デヴェンポートのツイートにある通り。



その式典についてのツイートをいくつか見ておこう。



「和平はセロサム・ゲームではない」。これ、本当に大事なことなんですよね。

式典に参加しているバーティー・アハーン元アイルランド首相について、式典前に出たアイリッシュ・インディペンデントの記事。北アイルランドについて英メディアで見ているとどうしてもアハーンは影が薄くなるのだけど(英メディアが称揚するのはブレアと米ミッチェル上院議員)、北アイルランド和平に関しては、熱意のある実務家としてもっと華々しく評価されていい人だ。政治の第一線を退いてから、バスクに関しても積極的に関わっていた(目立つことが好きなだけのブレアとは大違いで、地道に取り組んでいた)。


そしてIRA代表、もとい、シン・フェインのトップとしてバスク和平を外部から支援したジェリー・アダムズ。ついったらーとしても有名なアダムズは、現地入りする前から実況ツイートしていた。最初はアイルランドの田舎道だ。

現地到着。Cambo-le-bainsというバスク/フランスの町だ。

ここは『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者ゆかりの地で、その博物館があり、アダムズは観光客と化している。アダムズのツイッターとしては通常運転。


一方で、シン・フェインのサイトにはちゃんとした記事が出ている。

式典に出席した外部オブザーバーの集合写真。

ジェリー・アダムズとアルナルド・オテギ(左側の笑顔の人。白髪が増えたね)。

式典でのアダムズのスピーチ。最初30秒くらい、アイルランド語で挨拶……と思ったけどアイルランド語とは響きが違うし、すっごいたどたどしい。バスク語でした。


アダムズのスピーチでも言及されているけれど、「この場にいない貢献者たち」。マーティン・マクギネスと、アレック・リード神父。アダムズのスピーチではほかにハロルド・グッド師(北アイルランドのプロテスタントの牧師で和平活動家。存命)にも言及。

"All the victims must be heard." のところで拍手が起きてますね。結びが「われらの復讐は、われらの子らの笑顔である」(ボビー・サンズ。1981年5月5日没)。

実際、5月上旬というのはアイリッシュ・リパブリカンにとっては歴史的に重要な意味を持つ時期だ。1916年蜂起(イースター蜂起。4月24〜29日)の鎮圧後、軍事裁判で死刑判決を言い渡された首謀者・反乱軍の主要メンバーの銃殺刑が行われたのが5月上旬。現代のリパブリカンにとっては、1981年のハンストの最初の死者、ボビー・サンズを思い起こし、このハンストの記念行事を行い、1916年蜂起から100余年の間の「闘争」を思い、何が達成されたか、アイルランドがどうなったかを噛み締めるときだ。今のアイルランドには、政治的な流血はない。Irish rebelというものに象徴される、「闘争こそ魂」という史観のあるアイルランドで。




※アダムズの2017年のツイートは、今のタイミングで自分でRTしているもの。


一方、アダムズのセルフィに笑顔でおさまっていたアルナルド・オテギ。アダムズと仲良く踊ってるみたいな写真を、バスク語とスペイン語でツイート。


スペイン語のを自動翻訳にかけると、"Yesterday I had occasion to convey to @GerryAdamsSF our gratitude for your work. We also had the opportunity to remember another great friend, Martin McGuinness #BasqueFuture Tiocfaidh ár lá " つまり「ジェリー・アダムズに感謝。マーティン・マクギネスにも感謝」で「われらの時代が来る」。

オテギとアダムズの間、後方に立ってこちらを見ているのは、ジョナサン・パウエルだ。

オテギのTwitterは私には読めない言葉(バスク語、スペイン語)がほとんどだが、英語でのツイート(バスク語からの翻訳と思われる)もある。





オテギは下記の、「慎重に歓迎 cautiously welcome」という態度のツイートをRTしている。


スペインの現政権は無視をしていても、スペイン全体がそうというわけではない。オテギのRTより:

機械翻訳にかけると、"🔴 Zapatero: "It all began with Jesús Eguiguren and Arnaldo Otegi. Nothing is understood without that relationship. That is the truth of the facts " http://atres.red/4ncii268 #ttps://t.co/N017LvUE6I " となる。この Jesús Eguigurenという人(バスク社会党の政治家)が政府を代表してETAとの交渉にあたった。(北アイルランド和平でいえばモー・モーラムのポジションか?)
https://en.wikipedia.org/wiki/Jes%C3%BAs_Eguiguren

この2人がカタルーニャ・ラジオとバスク・ラジオの番組で語ったようだ(写真にタグ付けされているので「この2人」であることがわかる)。


ジョナサン・パウエルのガーディアンOpEdにもあったが、今回のバスク和平は、近年急に深刻な展開を見せているカタルーニャ情勢という文脈からも参照されている。亡命政府状態にあるCarles Puigdemontのツイート。この人に対するスペイン政府の態度は到底「欧州」のものとは思えなくて、私などドン引きしているのだが(かわいこぶってるわけじゃなくて、ほんとにドン引きせざるを得ない)、事態を悪化させないようにこの混乱を収める方向に行ってほしいと心から願っている(しかしカタルーニャに関しては本当に、誰が何をやっているのか、めちゃくちゃ混乱してると思う。ロシア絡んでるっぽいし)。

機械翻訳で "Today is a historic day to start a future of peace in the Basque country and memory for all victims of the conflict. With revenge is not achieved nothing. Only with dialogue and mutual recognition can be resolved all conflicts. https://twitter.com/KofiAnnan/status/992358281292197889 …"

ETA解体の式典から、オテギのツイート。




"To build peace without victors" 「勝者なき和平の構築」。この理念が当たり前のものになれば、「紛争」というもの自体の性質が変わってくるだろう。







オテギのRTから。死者たちを思うバスクの法律家の言葉。ぎこちない英語が、彼らにとってこの日がどういう日なのかを物語る。


ポリティコ・ヨーロッパの記事。




※このあと、「バスク和平プロセス」のアカウントを見て、ニュース記事も少し見る予定。
https://twitter.com/basqueprocess








※この記事は

2018年05月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:31 | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼