「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2008年05月26日

【速報】カンヌ映画祭でHungerがカメラ・ドール獲得

HungerCannes prize for Bobby Sands film
Page last updated at 20:38 GMT, Sunday, 25 May 2008 21:38 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/7419643.stm

というわけで、スティーヴ・マックイーン監督(あの超有名俳優と同姓同名ですが、英国のアーティストで、俳優とは無縁)の初の作品、Hungerが、カンヌでカメラ・ドール(新人監督賞:これまでジム・ジャームッシュとかミーラ・ナーイルとかジャファール・パナヒとかが受賞している)を受賞しました。

上のBBC記事にはこの映画についてのBBCのレポート(2分ほど)がエンベッドされているので、「この映画は、1981年のハンストで死んだボビー・サンズが主人公の映画だ」ということだけは念頭に置いて、ご覧になってみてください。たぶん、一番きついところはこのクリップには入っていないと思います。

このクリップは、前にも別の記事にエンベッドされてて、それを見て私は「うは・・・」としか言いようのない気持ちになったのですが、今見直してわかりました。1:09くらいのタイミングで、治安当局の人の顔がアップになります。

そしてその直後に、「ブランケット・プロテスト」を実行中で衣服を身につけていない囚人が、刑務所の廊下で看守に囲まれて殴打され、押さえつけられて髪を切られています。(「ブランケット・プロテスト blanket protest」とか「ダーティ・プロテスト dirty protest」については前にもこのブログで書いたと思うので、検索してみてください。)

1:09のタイミングでアップになった「人間」の顔は、「暴力の行使者」の顔なのです。

徹頭徹尾政治的なストーリーテラーであるケン・ローチの例の映画とは違って、「彼は実はIRAのシンパで彼らを助けるのです」――などという展開は、この映画ではありえないということを私は知っているので(何しろサンズら4人は、1981年の5月、偶然ですが、ちょうどカンヌ国際映画祭が開催されていたころに、次々と死んでいたのですから)、この「顔」が2008年のこの映画の一部として撮影され、カットされずに本編に残され、BBCのクリップに入れられた意図やら意味やらを、いろいろと考えてしまうのです。アップになった治安当局者の若々しい顔の肌と、ブランケット・マンたちの痩せこけた身体、プロテスト中で汚れた髪や肌をストリームのプレイヤーで見ながら。

そして、実際のボビー・サンズの「イメージ」(ミュラルになった写真など)とはまるで違う、短髪の「主人公、ボビー・サンズ」。

監督は、この映画は「英雄、ボビー・サンズ」を讃えるものではなく、極限状態にある人間を描いたものだと語っています。

でも極限状態にあったのは、ブランケット・プロテスト、ダーティ・プロテスト、ハンストをやったIRAとINLAの彼らだけではなかったはずです。それが1:09のあの「顔」なのではないか、と。

そしてそれはほんの一瞬しか出てこないのだけれど、IRAの「武装闘争」を描いた映像作品でああいう顔を見るのはどちらかというと珍しいことで(テリー・ジョージのSome Mother's Sonにも一瞬、ああいう「顔」になる看守が出てくるのですが……顔のアップで)、それゆえに、BBCのストリームのFlashプレイヤーの画面の大きさと画質でも、がしっと来てしまったのだろうと思います。

アブ・グレイブ刑務所で被収容者を裸にしてもてあそんでヒマつぶしをしていた(とされる)米兵たちも、「根っからの異常者」ではなかった。でもああいうことができてしまった。そういうことを私はけっこういろいろと読んで知っています。

ときどき「根っからの異常者」もいるのかもしれませんが――でもあのシャンキル・ブッチャーズのリーダーのレニー・マーフィー(「紛争」のどさくさに紛れた、ただの快楽殺人鬼)でさえ、地元の人は「いい人だった」と回想しています(Peter Taylorの本より)。そしてその回想の言葉に、何らかの正当化の欲望などは見て取れない。その人にとってはそうだったのでしょう。

シャンキル・ブッチャーズは、自身が属するコミュニティでは、「凶悪すぎる快楽殺人鬼」の顔は見せなかったのでしょう。(実際、レニー・マーフィーの顔写真も特に「異常」を表すような記号的なものはない。当たり前すぎるかもしれないけど。)

では、あのような暴力を行使できる治安当局者の「あの顔」は、誰が見たものだったのか。

治安当局者だけではなく、爆弾やら銃撃やらでさんざん殺しまくった「テロリスト」たちも、その暴力を行使するときに、ああいう「顔」をしたのか。

hunger-cap.jpg

IRAとかUDAとかUVFとかの人たちがよく言う、「我々は兵士であり、相手も兵士である」という言説が、成立し得ないような「暴力」(一般市民に対する銃撃、爆弾攻撃など)において、彼らはどんな「顔」をしていたのか。




※この話題についてはろくに言葉も出せないのが現状なので、とりあえずコメント欄なしで。何かおありの方は、こちらへどうぞ




しかし81年のカンヌ、パルムドールがアンジェイ・ワイダの『鉄の男』か・・・ポーランドの「連帯」の映画だよね(見たことはあるはずなのだけど、全然はっきりと思い出せない)。「連帯 solidarity」という言葉がNIでどう使われてたかとかも自動的に連想してしまう。




BBC記事にちょっとツッコミ:
An earlier film on Sands' life, Some Mother's Son, caused controversy when it screened in Cannes in 1996.


Some Mother's Sonは、「サンズの人生」についての映画じゃありません。「ハンストに参加したサンズの友人(架空の人物)の人生」についての映画で、サンズは脇役です。

で、96年カンヌでのcontroversyというのは
http://www.imdb.com/title/tt0117690/board/nest/97817338
でRiceとかいう人がいろいろ言ってるようなことでしょう。といっても大したことは何も言っていない。「テロリストをグロリファイするとは」というだけの話。

ランボーみたいに、テロリストはただ出てきて主人公を襲い、主人公に殺される、という映画なら満足なのかもね、こういうことをこの映画についていえる人は。

あるいは映画を見てもいないという可能性も(つまり、「映画が作られた」ということだけで過剰反応するの。ケン・ローチの例の映画のときもいろいろひどい反応があったけど)。私この映画見て、「テリー・ジョージってシン・フェインが嫌いなんだな」っていう感想しか出てこなかったけどね、最初は。全然「擁護」も「グロリファイ」もしてない。この「ヒューマンドラマ」では、彼らにとって一番大事だったはずの「主義主張」ですら、添え物的に出てくるだけ。それはそれで全然悪いことではないけれど。

(そういえば、今回はこういう過剰反応はタイムズやテレグラフでも出ていないところを見ると、ケン・ローチのあれに対する「批判」が全然的外れだったことを悟っておとなしくなったか、「いいアイルランド人は貧乏で無知なアイルランド人だけだ」的な意識下のレイシズムを自覚して自重するようになったか、それとも映画がほんとにすごくよかったか、あるいは「頭のいかれたゲージュツカが作ったアート映画などどうでもいい」ということでスルーしているか、……etc, etc)

※この記事は

2008年05月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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