1986年から90年まで、レバノンで人質になっていた「ブライアン・キーナン」と、本稿で扱う「ブライアン・キーナン」は同姓同名のまったくの別人です。ご注意ください。
日本時間で21日深夜、ブライアン・キーナンが死んだというニュースを見た。66歳。かねてから癌で闘病中だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Brian_Keenan_%28Irish_republican%29
「死亡」を報じる記事のうち、私が見たなかで最も充実していたのは、やはりベルファスト・テレグラフだった。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article3723205.ece
APの記事も充実していた(APは、北アイルランド関係の記事はいつもいい)。
http://ap.google.com/article/ALeqM5h6pHR_eCgjoCY0AWK_hBsQfICDywD90PVI1O0
ベル・テレさんから、要旨:
キーナンは西ベルファストに拠点を置くリパブリカンで、(1990年代後半からの)「和平プロセス」においてIRAのキーパーソンとなった人物だ。
1968年、ベルファストとデリーで(「プロテスタント系住民」と「カトリック系住民」の間での)暴力が発生したあとに、IRAに加入したとき、彼は見習いの電気工だった。やがてIRAのアーミーカウンシル(最高司令部)の一員となり、英国政府からは「英軍に対して最大の脅威となる人物」と見なされていた。トニー・ブレアの側近、ジョナサン・パウエルの回顧録にもそうあるのだが、パウエルは、彼なしではIRAが武装闘争路線から政治路線に転換することはなかった、ということも書いている。実際、IRAの武装解除(デコミッション)を実現させたのは、彼の力だった。
1970年代初め、彼はベルファストIRAの補給長としてIRAの武器を管理監督し、その後、イングランドでの爆弾作戦を指揮したとして法廷に立ち、1980年に爆発共謀罪(つまり「爆弾テロ」の実行犯ではなくそれを指示した者として、だが)で懲役18年の有罪判決を受けた。
25年間の逃亡生活を送り、イングランド各地の刑務所で16年を過ごした彼は、2005年にIRAのアーミーカウンシルを辞した。このとき既に健康状態は悪化していた。
前NI警視総監(RUC/PSNI)のサー・ロニー・フラナガンはかつて、キーナン個人はIRAそのものだということを述べている。今日取材に応じた情報筋有力者は、キーナンがIRAの指令系統の上から下までを説得したことで和平が実現されたのだと語っている。「問題の大きな部分を占めていたのは彼自身であったが、その彼が解決に大きな役割を果たした。彼なしでは問題は解決しなかったといってもいい。彼がYESと言わなかったら、今のようなことにはなっていなかった(IRAの武装闘争は継続していた)はずだ」
2007年5月、北アイルランド自治政府が再起動したときに、キーナンはストーモントのパブリックギャラリーにすわり、マーティン・マクギネスが率いるシン・フェインが、(DUPの)イアン・ペイズリーとともに行政府に入るのをじっと見守っていた。
シン・フェインのジェリー・アダムズ党首は、キーナンは、IRAが「和平プロセス」を支持したことに決定的な役割を果たした人物である、と述べた。アダムズ党首はその死はリパブリカン全体にショックを与えた、という声明を出した。
「死亡」直後の解説記事では、タイムズのAnalysisが、タイムズらしい視点のものだが、充実していた。
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article3976827.ece
ベルテレさんの記事にある「ストーモントのパブリックギャラリーで自治政府再起動を見守るキーナン」は、彼が公の場に姿を見せた最後だったそうだ。24日の葬儀についての記事などからも判断するに、そのときには病気は既にかなり進行しており、その後1年あまりはずっと病院で癌と闘っていた。
タイムズの分析・解説記事にあるように、1996年、つまりグッドフライデー合意の成立する前、彼は「絶対に負け(られ)ない戦いがそこにある」という演説を行なっていた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Brian_Keenan_(Irish_republican)
Keenan outlined the IRA's position in May 1996 at a ceremony in memory of hunger striker Seán McCaughey at Milltown Cemetery, where he stated "The IRA will not be defeated...Republicans will have our victory...Do not be confused about decommissioning. The only thing the Republican movement will accept is the decommissioning of the British state in this country". ...
Wikipedia文中にあるSeán McCaugheyとは、1946年にハンストで死亡したIRA指導者のこと(1980年、81年のロングケッシュでのハンストは、このマッコーヒーのハンストなどの「伝統」の上にあるもので、それ自体がIRAという組織のドグマそのものだといえる)。キーナンのスピーチは、マッコーヒーの没後50年の追悼行事でなされたもので、このときIRAは、1994年の停戦を破棄し、「武装闘争」を行なっていた。(1996年2月のCanary Wharf bombingで停戦破棄を宣言、同年6月にはマンチェスター爆弾事件。最終的には、1997年7月に再度停戦が宣言され、そしてそのまま、PIRAは「武装闘争」から手を引いた。→資料はWikipediaの年表で)
で、1996年5月に、"The IRA will not be defeated." と演説していたキーナンは、1997年から98年にかけて交渉が行なわれたグッドフライデー合意(GFA)にも賛成した。なお、GFAに反対して分派した別のIRA(通称「リアルIRA」)は今なお「爆弾でどんじゃか」をやっている(→「各種IRA」についての解説)。規模としてはキーナンがIRAを指揮していた時代には到底及ばないが。
そしてキーナンがストーモントに姿を見せる2年前の2005年5月、IRAは「武装闘争の終結」を宣言、その後、9月には持っている武器の廃棄(decommission: 無能力化)が完了したことが確認され、2007年3月の自治議会選挙とアダムズ・ペイズリー会談を経て同年5月に自治政府再起動、7月には英軍の北アイルランド作戦(Operation Banner)も終結、英軍の治安部隊としてのNI駐留は終わった。
タイムズの分析・解説記事には、このことについて、次のように書かれている。
By then the Provisional IRA had declared its war over, had decommissioned and its political wing was administering British rule in a part of Ireland.
To talk of a life's work left in ruins is an understatement.
そのころ【注:2007年5月】にはIRAはその戦争が終わったことを宣言し、武器を無能力化し、その政治組織【注:シン・フェイン】は「アイルランドの一部」に英国の支配を受け入れていた【注:「北アイルランド自治」なるものを受け入れ、その「自治政府」に参加することをこう表現する】。
一生かけてやってきたことが瓦礫の山に埋もれてしまった、というのではまったく言葉が足らない。
……タイムズだからね。IRAもシン・フェインも絶対に「認める」ことのできないタイムズだから、こういうイヤミを書く。しかし表現の仕方は別として、書かれていることは間違っていない。
このあと、タイムズはキーナンの生涯を振り返る。「分析」と銘打ってはいるが、事実上「オビチュアリー」だ、この記事は。
1940年、カウンティ・ロンドンデリーの南部に生まれたキーナンは、60年代はじめにIRA (the republican movement) に加わった。当然、OfficialとProvisionalに分裂する前のIRAだ。つまり、基本的に社会主義の共和主義の統一アイルランド、という「運動」。思想的なルーツはジェイムズ・コノリー。『麦の穂をゆらす風』で、結局「自由国」を受諾し条約締結後は自由国の国軍となったIRAではなく、条約締結後も闘争を続けたデミアン・オドノヴァンやダンらのIRAからのつながりにある。
キーナンの父親はRAFの人で、つまり「反英主義者」ではなかった。この点、キーナンは「祖父の代からリパブリカン」という人たちとはちょっと違う。16歳で、電気工としての仕事を探しにイングランドに渡ったとも。(→シン・フェインの機関紙では、「当時のNIではカトリックに対する差別がひどくて仕事がなく、1958年にイングランドに渡った」ということが書かれている。)(ね? NIについて説明すること、語ることってめんどくさいでしょ。何が書かれているかだけでなく、何が書かれていないか、それを見ないと何も見えてこない。)
思想的には革命的マルクス主義者であったとされており、旧東欧諸国や中東と密な関係を有し、つまりそういうあたりからセムテックスやらライフルやらをどんどん入手していたのが彼なのだが、1969年のIRA分裂の際にガチのマルクス主義のOfficialのほうにつかず、Provisionalsの一員となったことで、その主義主張がどれほどのものだったかは不明だ、とタイムズは書いている。(くだらないなあ。)
後に刑務所内でのIRA機関紙(というものがあった)で彼は、中南米の植民地解放闘争に連帯を、という気持ちを表していたそうだ。
どこか別の記事で見かけたのだけれど、それを額面どおりに受け取れば、キーナンは南米の山の中でチェと一緒に闘っていたかったのではないか、というのもあった。世代的にもちょうどそうだが、チェ・ゲバラはアイリッシュでもあり(おばあさんの家系)、元々ジェイムズ・コノリーの思想を受け継いでいたアイルランドのリパブリカン運動に与えた衝撃は、ものすごいものだったという。
そして1971年には既に、キーナンはベルファストIRAのクオーターマスター(補給・調達担当)となっており、73年には同最高責任者(quartermaster general)、つまりProvisional IRAの武器庫の責任者となった。そして、リビアのカダフィ大佐が「反英の大義のために」(<タイムズの表現のまま: to the anti-British cause)武器を提供したいと考えていることに気付いた最初のひとりで、リビアに飛んで武器入手の算段をつけた。
1977年にIRAはスパイの浸透への対策として、その古典的組織構造を改革(笑)し、セル (active service units) をいくつもつなぎ合わせるという組織構造になるのだが、このときにその改革の必要性を説いたジェリー・アダムズ(→「ん?」と思ってもスルーしてください)の「大使」としてアイルランド中を飛び回り、セル構造の必要性についてIRAメンバー(タイムズはmemberと書いているが、彼ら自身の言葉では「義勇兵volunteers」である)を説得したのがキーナンだった。
1976年7月、駐アイルランド英国大使のChristopher Ewart-Biggsの車の下に200ポンドの地雷を仕掛けられて大使が爆殺された。この事件を指揮したキーナンは、1977年にはIRAの作戦指揮官となり、ブリテン島(というかイングランド)と欧州(英軍基地などが標的となった)での作戦の責任者として活動、その後、1970年代のイングランドの各都市は、「IRAからのプレゼント」(爆弾と銃撃)の脅威にさらされることとなった。
1970年代の事件の一覧:
http://en.wikipedia.org/wiki/Chronology_of_Provisional_IRA_Actions#1970s
1975年12月、バルコム・ストリート事件(保守派のテレビ司会者を射殺したIRAのセルが立てこもり事件を起こし、全員が逮捕された事件)に関連した捜査で、何年も前にキーナンがロンドンを訪れたときに残していった指紋と筆跡が発見され、キーナンに対する逮捕状が出された。
4年間の逃亡の末逮捕されたキーナンは、1980年、IRAの爆弾作戦の責任者として、また8人の死に関係があるとして起訴され、裁判で有罪判決(懲役18年)を受けた。当時彼とマーティン・マクギネスが、IRAのトップ(統合参謀本部)だった。(……ってさらっと書くなよタイムズは。)
1993年、キーナンは出所し、1996年にはIRAのアーミーカウンシル(全部で7人)の一員となっていた。その後、GFA以後、つまり「和平プロセス」においてIRA側を「説得」する役割を担ったのだが、その意図について、タイムズは「わけがわからない」と書いている。(まあ、好きなようにお書きになればよろしくってよ。)
Keenan was released from prison in 1993 and by 1996 was one of the seven members of the Army Council. The following years were confusing, with uncertainty over the IRA's real intentions behind its ceasefire.
タイムズではこのあたりについての「疑念」が表面にじっとりとにじんだような書き方で、私はどうにも飲み込めないのだが、事実として、キーナンは、IICD(国際独立武装解除委員会)とIRAの間の仲介役となって、2005年9月に完了宣言が出された武器の処理(コンクリ漬けにするなどした)を進めた。この点については、タイムズなんか見ててもしょうがないので改めて別なものを参照することにする。
タイムズは、2001年にキーナンがコロンビアに飛んでいることを書いている。
Perhaps it was because of Keenan's sentimental attachment to left-wing Latin American causes, but his action in travelling to Colombia in 2001 to set up a training camp for FARC, the Marxist rebel group, was to be another nail in the IRA's coffin.
When the plan was uncovered the United States, which had invested so much in Sinn Fein's political development and which saw Colombia as its principal ally in the Andean region, made it clear that the IRA's adventures would no longer be tolerated.
つまり、FARCとIRAといえばこれなんだが:
http://en.wikipedia.org/wiki/Colombia_Three
これもうやむやのうちに……。
で、ものすごい偶然の一致なのだが、キーナンの葬儀が行なわれた5月25日には、FARCのリーダー、Tirofijo (Sureshot) ことManuel Maralandaの死亡も報じられた(3月にはすでに他界していたらしいが)。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/7419420.stm
タイムズではコロンビアの件でウリベ政権と同盟関係にある米国が動いたことが、IRAの「武装闘争」路線の放棄(イコール、「NIの人々の多数が望んでいる民主的な道への屈服 submit」<タイムズの表現を要約)につながった、とまとめ、最後は「キーナンは健康問題を理由に2005年にACを退き、昨年のストーモントには偽名で入場した(ただしブレアのセキュリティは知っていただろうとのこと)が、彼の顔に笑みはなかった」、と結んでいる。
もうひとつ、「英国の保守系新聞」でテレグラフのオビチュアリー。タイムズの分析記事とかぶっている部分もいろいろあるけれど、一応、全体を見ておくことにする。
Brian Keenan
Last Updated: 8:52PM BST 21/05/2008
http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/2003366/Brian-Keenan.html
このテレグラフのオビチュアリーでは、キーナンは「IRAの基軸(linchpin)」、「IRA指導部の中でも最も冷酷で恐ろしい(ruthless and formidable)者のひとり」と位置付けられた上で、「しかし後には武装解除をめぐる交渉において中心的役割を果たした」人物だとまとめられている。
そして:
キーナンのバックグラウンドはリパブリカンのテロリスト (a republican terrorist) としてはあまり例のないものだ。父親は英空軍で勲章を受けた軍人であり、ブライアンがリパブリカンの過激主義 (republican extremism) にかかわるようになった背景に、代々続くアイリッシュネスとか、カトリシズムといったものはない。彼の場合、リパブリカン過激主義への傾倒は、革命的マルクス主義を信じ込んでいたことによるものだった。
1960年代に革命的マルクス主義に転じた彼は、非常に頭がよく、少なくとも4ヶ国語を自由に操り、組織をまとめる能力、技術的能力も卓越していた。
このように人物像を提示し、キーナンのことを「並外れた政治屋 (a formidable political animal)」だった、と述べる。
革命的マルクス主義であったにもかかわらず、Official IRAに行かなかったことについての説明はここにはないのだが(それ自体に「物語」があるはずだけど、ずーっと下の方で少し出てくるだけ、それも「推測」だけだ)、ともあれ、テレグラフのこの、何というか、「敵ながらあっぱれ」感すら漂う文章を見ながら、何とも複雑な気持ちになる。
キーナンが使えた言語のなかにはアラビア語がある。どうやってそれを身につけたのかはどこにも書かれていないからわからないけれど、その能力は、別な使われ方をしていてもらいたかった。彼は中東で訓練キャンプに参加し、武器・爆発物を買い付けた。直接のコンタクトを有していた組織にはPLOはもちろん、東ドイツのシュタージ(うは)もある。リビアとの関係は有名だが、最初にキーナンがリビアから武器類を購入しアイルランドに持ち込んだのは1972年。
1973年に、ブリテン島(イングランド)での作戦の責任者となり、クオーターマスター・ジェネラルに就任。そのころアイルランド共和国(南)で武装強盗や誘拐も指揮し、ジェリー・アダムズ(当時はシン・フェイン党の有力者、まだ党首ではない。IRAとの関係は訊くな)の腹心となった。
年表を見ると、この前年、1972年は動乱の年だ。1月にブラッディ・サンデー事件が起こり、それまでIRAに距離を置いてきたカトリックの一般の青年が次々とIRAに加入した。3月にはにストーモント自治政府(ユニオニストのアパルトヘイト政権)が停止され、英国(ウェストミンスター)の直轄統治が導入されている。そして、6月にIRAが一時停戦し、英国側と秘密会合、7月には英国のNI担当大臣とIRA代表団との秘密会合が行なわれている(→当時のBBC記事)。一方で同じ7月にはブラッディ・フライデー(ブラッディ・サンデーに対するIRAからの報復、という意味もあってこう呼ばれる爆弾テロ事件)があり、その10日後にはオペレーション・モーターマンでFree Derryが英軍によって突破された(今の、バグダードのサドルシティに対するイラク軍&米軍の掃討作戦みたいなものだ)。夏の秘密会談を行なったのは、当時のIRAの最高司令官(O/C)、Daithi O'Conaillとジェリー・アダムズだ(→「30年ルール」で資料が開示されたときのBBC記事)。
このあとオコネルは1975年に逮捕され、IRAのO/Cはパット・ドナヒーになるのだが、ドナヒーは現在はシン・フェイン所属の英下院議員でありNI自治議会議員、オコネルは1991年に急死したのだが、その5年前、1986年にジェリー・アダムズが党首となっていたシン・フェインの方針変更に反対し、Republican Sinn Feinという分派組織を立ち上げた。
閑話休題。
ブライアン・キーナンがクオーターマスター・ジェネラルとなったころ、ジェリー・アダムズはIRAの古典的な組織構造(軍隊と同じ)を変えるべきだと考えていた。これを実現させたのがキーナンの説得で、これはタイムズの分析記事にもあったのだが、なぜアダムズが直接説得に当たることができなかったのかはタイムズには書かれていなかった――アダムズは、「インターンメント(Internment)」、つまり一斉拘留でロング・ケッシュに放り込まれていた。彼らはそこでホワイトノイズやらスプレッドイーグルやら身体的に過酷な歓迎を受けるのだが、まあ、アダムズは別として、当時インターンメントでロングケッシュなどに放り込まれたカトリックの若者のなかには、ほんとに武装闘争とは関係のない人たちも少なくなく、そういった人たちが拷問を受け、ますます「反英感情」が高まるという事態が発生していた一方で、IRAのトップは塀の外で作戦会議をし、組織再編について話し合っていたわけだ。そしてそのとき塀の中にいたアダムズと、塀の外にいたキーナンが、30余年後に、「和平プロセス」と「IRAの武装解除」で大きな役割を果たした、と。
40年くらい経ったら、4時間を超える大作映画になるかもしれんね。
テレグラフに戻る。
キーナンは目立つことを極度に嫌っていた。だが1960年代のあるとき、ノーザンプトンシャーのパブで客同士で口論となったときにタバコの販売機に指紋を残してしまった。
1975年12月、イングランドではIRAの爆弾作戦が展開され、18件の事件で9人が死亡、100人以上が負傷していた。そしてバルコム・ストリート立てこもり事件が起き、立てこもり犯を逮捕したのちの家宅捜索で、キーナンの筆跡の残るクロスワードパズルと(ただのメモとかじゃなくクロスワードってのが来るね)、爆弾の部品に残された彼の指紋が発見された。(この指紋と、ノーザンプトンシャーのパブの自販機の指紋を照合したんだろうか……すげー。)すぐさま逮捕状が出された。
そして数年が経過した1979年、ベルファストからダブリンに向かう車がRUCの検問で止められ、キーナンは逮捕された。
逮捕状が出されてから逮捕されるまでの間に、キーナンは多くの事件にかかわっていた、と警察の情報屋のショーン・オキャラハン(1976年以降、IRAの中で警察に情報を流すようになった)は語っている。例えば1976年の「キングズミル事件」(にプロテスタントの労働者を乗せたマイクロバスが襲撃され、10人が射殺された事件。その前に起きたカトリック6人の無差別殺害事件の報復)などだ。「プロテスタントの連中にばかな考えを抱かせないようにするには、10倍も残虐なことをするしかなかった」とキーナンは言っていた、と伝えられている。
※このパラグラフ、テレグラフの記事の数字に間違いがあるのを修正して日本語化した。元記事ではKingsmill Massacreは「1975年」とあり、その前に発生したプロテスタントによる襲撃事件でのカトリック犠牲者の数は「5人」とある。ただのタイプミスか単純な記述ミスだろう。
キーナンが逮捕された直後、IRAはヘリコプターで彼を奪還しようとしたが失敗した。逮捕時にキーナンがポケットの中に入れていた手帳には、UK在住のパレスチナ人活動家など多くの連絡先が記載され、IRAの情報網の実態を解明する有力な情報も書かれていた。(よほど余裕ぶっこいてたのかな、そんなものを持ってボーダーを越えるなんて。)
1980年、キーナンは起訴された。このときの罪状がconspiracy to cause explosionsと、8人の殺害事件への(間接的)関与で、殺された8人のなかには右翼活動家のRoss McWhirter(ギネスブック創始者でもある。詳細はバルコム・ストリート事件を参照)のほか、癌の専門家だったGordon Hamilton-Fairley教授の名がある。教授は、犬を散歩させているときに、全然関係のない人物をターゲットとして車の下に設置されていた爆弾にやられて亡くなった。
この裁判でキーナンは有罪判決(懲役18年)を受けイングランドで服役する。キーナンの妥協を許さない武装闘争至上主義は、この間に、ジェリー・アダムズとマーティン・マクギネスのプラグマティックなナショナリズムに取って代わられる。
ブライアン・キーナンってのは結局、本人はアイリッシュ・ナショナリズムで動いていたわけではなく、革命的なんちゃらで動いていた、ということをテレグラフは書いているわけだが(だから、キャッチフレーズ的にいえば、「チェ・ゲバラになり損ねた革命家」だったのかもしれない)、IRAでややこしいのはまさにここだね。
1993年、キーナンは釈放され、強硬派が待ってましたとばかりに復活、キーナンはアダムズの「武装闘争の戦術的利用 (tactical use of armed struggle)」(これは、いつ見てもスゴい表現だと思う)を批判した(キーナンはアダムズとマクギネスのことを「あのカトリックのおぼっちゃんたち (those two fine f****** Catholic boys)」と呼んだそうだ)。
1996年のミルタウン墓地でのあの演説はそういう流れの中でなされたものだ。「我々は絶対に負けない、武器は渡さない、絶対に」というあの演説は、その後、"Not a bullet, not an ounce" というスローガン(「弾ひとつたりとも、爆薬1オンスたりとも渡さない」という意味)となって、あちこちの壁に書かれた。
私がイングランドで心底ウンザリさせられた「IRAの爆弾」は、キーナンが釈放される直前の作戦展開でのもので、ということは「ものすごい強硬派はあれらの連続爆弾事件を指揮していなかった」ということになるのだが、もしキーナンのような「何が何でも武装闘争」という考えの主が当時IRAを指揮していたら、私は今ここにおらず、「日本人が巻き添え」とかいうことで新聞記事になっていたかもしれない(なっていなかったかもしれない)。私だけでなく、同じ時期にイングランドにいた友人たちも、だ。
IRAは、キーナンが釈放された翌年の1994年に停戦を宣言したが、1996年2月のCanary Wharfのボムで停戦を破る(ドックランズ爆弾テロ事件)。この爆弾テロの許可を出したのがキーナンだといわれている、とテレグラフにはある。このときキーナンは、「リパブリカン・ムーヴメントが受け入れるのは、この国(アイルランド島)にいる英国が武器を捨てることだけだ」と述べた。("The only thing the republican movement will accept," Keenan declared at a public ceremony, "is the decommissioning of the British state in this country.")
1997年にIRAが再度停戦すると、シン・フェインは1998年の和平協定(GFA)を交渉する方向で動いた。この協定には、2000年半ばまでにIRAを完全に武装解除するとの条項があった。
1998年、キーナンはトマス・「スラブ」・マーフィ(Thomas "Slab" Murphy)に代わってIRAの参謀長となり、即座に武装解除の可能性を否定した。武装解除は、将来的に統一アイルランドができたときにはじめて実現するものだと彼は述べていた。
しかし1999年には、国際武装監視委員会のチャステラン将軍(カナダ人)と武装解除について秘密交渉をするためのIRA代表者に任命される。キーナンの態度の変化について、テレグラフには、「9-11後の米国の世論が変化したこと、2001年にIRAメンバーがコロンビアのFARCを訓練していると発覚したこと」を理由としてあげている。
キーナン自身は中東とか欧州の担当で、彼がリビアやらPLOやらに武器の代金をして支払ったお金を米国で集めたのはオコネルだったはずだが(記憶に頼っている)、いずれにせよ、IRAの活動資金の多くはアメリカから来ていた。
アメリカは、9-11で完全にフリークアウトするくらいに衝撃を受けたようだが、冗談じゃねぇよ、てめーらがIRAに資金を提供したんじゃねぇか、と怒っていた英国人を私は知っている。私もその怒りの一部は共有している。というかやるせない。
それに加えてFARCってのは……実際にネット検索すると「IRAがFARCとつながっているなんて、幻滅しました」みたいな投書みたいのもあったりするのだが、IRAが共産主義ゲリラの性格・傾向を帯びているなんてことは昔から周知の事実だったはずで、それを知らずにせっせとIrish causeのためのお金を集めていたなんて、どういうことだと苦笑するしかない。アメリカらしいといえばアメリカらしいのかな。きっとご先祖も使っていた「フィニアン」の名称で視野狭窄に陥っていたのだろう。
っていうか、「アイリッシュ・ナショナリズム」自体が、多くの部分、made in the USAなのだけどね。ただ made by the American people とは言い切れないにせよ(アイルランドから「新大陸」に渡るしかなかった人たちがどれだけいるか、その人たちがなぜ故郷を捨てなければならなかったのかを思えば)。
でもさ、シン・フェインが「資本主義」に否定的なことを言っていたりしたのに気付かないのもほんといかがなものかと。しかもそれで金出しておいて、最終的には「あなたたちが左翼だったなんて!」ってのは間が抜けすぎている。っていうかその前に、「武装闘争」を問い直せというのが大きいのだが。
ほんとに一般市民しかいないようなロンドンの商店街に爆発物を仕掛けるのが、なぜ反植民地闘争なのか、説明してみやがれ――と当時の私はアメリカ人に言いたかったし、今でも時制を過去に変えて、当時NORAIDでせっせと募金活動してたような人たちにそれを言いたい。ああ、この途方もない無知。頭が痛い。
閑話休題。
ともあれ、「FARCとつながっているような共産主義者」は「アメリカの敵」であり、このことで革命的マルクス主義であるキーナンは、リパブリカン・ムーヴメントにとってはあまりありがたくない存在となる。ちょうど癌がわかったころでもあり、2002年、彼はついにIRAのアーミーカウンシルからも引退した。
2005年、IRAは武装解除を行なった。しかしキーナンは、「武装解除」論は便宜的、一時的なもので、最終段階では覆されると考えていたようだ、とテレグラフは書いている。
He wondered aloud whether the IRA could have broken British determination by employing greater levels of violence and in an interview with the Sinn Fein newspaper An Phoblacht earlier this year, said: "I would do it all again, but not make the same mistakes."
An Phoblachtはシンフェインの機関紙で、よりによってこれに出たインタビューを根拠に何かをいうとは、テレグラフのイヤミはさすがだ。
で、An Phoblachtは膨大な情報量を有するサイトなのに検索があまりに貧弱なので検索エンジンで inurl を使って探すと、これか。
21 February, 2008
Feature
Le ChÉile Ulster Honouree : Brian Keenan
A revolutionary strategist
http://www.anphoblacht.com/news/detail/24616
うわー、テレグラフがやってる、恣意的な、元の文脈をまったく無視した引用を!
An Phoblachtから該当箇所:
Brian's life in the Army would have been made much more difficult without the support he got from his wife, Chrissie, and his children on the outside but particularly while he was in jail.
"My family is well adjusted, socially conscious and involved in things that matter. I obviously regret not being with Chrissie and the kids when they were growing up. For many families and for my family it was a nightmare."
So is revolutionary life worth it in the long run, given its negative impact on family life?
"I would do it all again - but not make the same mistakes."
つまり、キーナンが闘士であったことで家族には大変な苦労をかけた、という話をしている部分で、「もういちど同じことをするだろうが、同じ過ちはおかさない」と語った、というのは「家族に迷惑はかけたくない」ということで、テレグラフ記事が示唆するように、「武装解除などしない」という意味ではない。
貧血を起こしそうだ。これではこのテレグラフのオビチュアリの信憑性がゆらぐ(むろん、経歴の部分はほかで確認できるのだが)。
で、キーナンは武装解除を決定したあと、ほんとにそれを寸止めにするつもりだったのだろうか。そのつもりならそもそもキーナンはProvisionalに留まりはしなかったはずだ。RealにせよContinuityにせよ、ほかに武装闘争継続派の「IRA」はあるのだから。
いや、テレグラフの匂わせていることはわかる。「放棄されたIRAの武器」はあれで全部じゃないだろう、いくらか別なところに溜め込んでいるか、RやCに渡しているだろう、という「疑念」は、ユニオニストの「包囲の心理」の分かちがたい一部だ。
万が一なにかあったときに、テレグラフは勝ち誇ったように「ほれ見たことか」と書き立てるだろう。ああいやだいやだ。
で、An Phoblachtの使えない検索でBrian Keenanを検索して出てきた今年3月の記事:
http://www.anphoblacht.com/news/detail/26384
2003年に、おそらくリパブリカンの内紛が原因で射殺された青年の命日の式典でのキーナンの発言が載っている。
"Those responsible for killing Keith were not the Brits nor loyalists but people who have the audacity to claim that they are republicans. They are not republicans. They may try to justify their cowardly act in whatever way they wish. The fact is that they murdered a soldier of the Republic. And that makes them no different from the Brits or the loyalists or other renegades in the past."
「彼を殺したのは英国人でもなければロイヤリストでもない。自らリパブリカンと名乗る連中だ。あの連中はリパブリカンではない。自身の卑劣な行為をなんとか正当化しようとするかもしれないが、連中が共和国の兵士を殺害したことは厳然たる事実だ。こんなことをした連中は、英国人やロイヤリストと何も違わない」
被害者はProvisional IRAの一員であることはIRAが認めている。そこで、殺害の実行犯がPIRAだったとしたら、2003年のあのムードのなかで(「IRAはやはり非合法の活動を続けている」という話はメディアががんがん書き立てていた時期)BBCであれベルテレであれ、ちょっとしたことでも大きく書きたてていただろう。でもメディアがこの事件を書きたてたことはなく、私も記事を見た記憶はなく(イラク戦争直前でNIどころじゃなかったのも事実だが)、そのほかの要素から考えても、この事件は「Real IRA,Continuity IRAなど非主流派リパブリカンが、PIRAのメンバーを殺した」という事件に違いない。
その事件で、キーナンがここまで強い調子で犯行を非難しているということは、彼は「PIRAの武器を受け取っていないとは証明できない」非主流派リパブリカン組織に、一切のシンパシーを持っていないということを意味する。
テレグラフの情報操作にはやられないぞ、ってやってると、今度はシンフェイン側からの情報操作にやられるかもしれないので北アイルランドは非常に難しいのだが、この件についてはテレグラフがおかしいという結論を下してよいだろう。
あーあ、くだらないなあ、まったく。
テレグラフのオビチュアリーはこのあとはキーナンの経歴。
1942年、カウンティ・ロンドンデリーのSawtraghで生まれ、ベルファストで育った。家族はカトリックだが、リパブリカンではなかった。ブライアンが生まれたとき、父親はRAF Packlington(イングランド)で軍人をしており、そこで離陸に失敗して炎上した戦闘機の乗組員を救出したことで勲章を受けた。父親は、NIに戻ると、地域政治と住宅問題にかかわるようになった(これは「公民権運動」の本格スタートのずっと前のことだけど、実質的に「公民権運動」だと思う)。
ブライアンは学校を卒業すると18歳でイングランドに渡り、兄と一緒にノーザンプトンシャーの例の「指紋発見場所」の町でテレビ修理工として仕事をしていた。そこで政治的急進主義が深まったのだが、その原因は一部には英国共産党の人たちと付き合いがあったからだと言われている……とまあ、テレグラフの記述の歯切れの悪いこと。(While in England his political radicalism developed partly, it was said, as a result of contacts with members of the British Communist Party.)
「不倶戴天の共産主義テロリスト」が赤化したのは、イングランドでの出来事で、しかも「英国人」に感化されたのだ、などという事実は、なるべく歯切れ悪く書きたくなることでしょうね、テレグラフ的には。でも書かないよりはまし。(これを書かずには済ませられないテレグラフ、嫌いじゃないよ。)
ブライアンは外国のテロ組織(特にPLO)について研究し、革命的なんちゃら系の書き物を読みまくった。IRAの間では、キーナンはすごい、どんなときでもバクーニンとかグラムシとかそこらへんの人たちの書いたものをばっちり引用できる、という話だった。(これはかっこいいかもしれない。)
1960年代末に「トラブルズ」が始まるとNIに戻り、ベルファストの工場で働いたが、ここで急進的な組合のショップの警備員となる。のちにIRAがProvisionalとOfficialに分裂したときに、キーナンがOfficial(よりマルクス主義的で、「カトリックとかプロテスタントとか言ってないで労働者で連帯して抑圧に立ち向かおう」というスタンス。PIRAはカトリックかプロテスタントかが第一、労働者の連帯はその次)に行かず、Provisional(がちがちのナショナリズム)に行ったことを「意外だ」という人もいるが、そのことについて、テレグラフは次のように書いている。
It seems that Keenan was astute enough to recognise that revolution would only be achieved if at all from working with the grain of sectarian hatreds.
キーナンは、革命が成し遂げられることがあるとすれば、宗派による憎悪という図式に逆らわないようにしなければならないのだということは認識していたようだ。
うーん。うーん。うーん。
※以下、ガーディアンなどは別項にて。
※この記事は
2008年05月25日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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