kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年05月03日

「アーティスト」にはアーティストらしい弁護を、ってことらしいのだが

2006年11月24日、北アイルランドのdevolutionの期限日に、北アイルランド・アセンブリー(ストーモント)に爆発物を背負って乱入し、あえなく取り押さえられ、98年グッドフライデー合意で得た「特赦」をフイにしたマイケル・ストーン(元UDA/UFF、そのうちに「フリーランスのガンマン」になって、1988年3月、ジブラルタルで射殺された3人のIRAメンバーの葬儀を銃と手榴弾で攻撃、3人の参列者を殺した人物)の「議会乱入事件」の裁判がそろそろ始まるらしいのだが、これがまた、お茶がいくらあっても足らないじゃない。え?なんですって?「お茶が足らないのならビールをふけばいいじゃない」? ええ、じゃそうしましょ。

Art experts aiding Stone defence
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7380262.stm

ストーンは、IRAメンバーの葬儀を襲撃したことで有罪となり、ロング・ケッシュ(メイズ)刑務所に入れられていたのだけど、そこで囚人の自主勉強活動で絵画を始め(子供のころから絵は好きだったと自伝に書いてあるけど)、98年のGFAで出所したあとは、「アーティスト」としてコミュニティ活動を行なっていた。10代の子供たちに「絵」という形でアウトプットすることを伝えたりもしていたらしい。で、肩書きは「アーティスト」ということになっていたのだが、一方でやっぱり「フリーランスのガンマン」で、ベルテレさんのなじみの記者に連絡して「だれそれの居場所を教えてくれたらスクープ記事書かせてやる。お前の目の前でブチ殺してやるよ」と言ってたとか、議事堂乱入事件の直後にはいろんな話が出たのですが、それの裁判がようやく始まるっぽい。

で、ストーン本人は議事堂乱入から1ヶ月くらいして、「すべてはパフォーマンス・アートでした」と言い始めた。持っていた爆発物はキッチンペーパーの厚紙の芯にろうそくの蝋と花火の火薬で作ったもので、殺傷能力のあるものではなく、はなっから殺傷を目的とはしていなかった、などと。
http://nofrills.seesaa.net/article/29907949.html

で、弁護士はそれを立証しなければならないわけで、パフォーマンス・アートの専門家にご意見を伺うということになったというのがBBCの記事なのだけど、これ、ご意見をって言われても困るよね……あの体でいけば、なんだって「芸術」になっちゃう。

やっぱり、UDAの人たちやベルテレさんの記者が言っていたように、精神に異常をきたしていた/いるんだろうか。

※この記事は

2008年05月03日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 03:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼