「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2008年03月20日

Bloody Sunday事件をハイジャックしたIRA

ジョナサン・パウエル本の大宣伝週間@ガーディアンの19日付記事を見て、頭から血が引くほどの苛立ち。ひとつはメディアに対して。もうひとつはシン・フェインに対して、というかIRAに対して。

McGuinness: there was no need for Bloody Sunday inquiry
http://www.guardian.co.uk/politics/2008/mar/19/northernireland.northernireland3

まず記事の書き方に苛立ち。冒頭のパラグラフ:
The most expensive judicial inquiry in British history - to establish why paratroopers shot dead 13 unarmed protesters in Derry on Bloody Sunday in 1972 - is privately regarded by Sinn Féin as an unnecessary concession by the British government, according to Tony Blair's former chief of staff.


ブラッディ・サンデーのインクワイアリ(サヴィル・インクワイアリ)のこととなると、すぐに「巨額の費用を要している」という話ばかりだ。だから何なのだ。30年近くも放置していたのは誰だ。インクワイアリの最終報告書までこんなに手間取っている(したがってその分の費用もかさんでいる)のは何が根本的な原因なんだ。証言者の保護やらヴィデオリンクやら、通常のインクワイアリよりずっとカネのかかることになってしまったのは、何が原因なんだ。

で、「シン・フェインがそれを必要ないと考えていた」ということと、「史上空前の費用を要したインクワイアリ」を並べて書くことの意味は何なのだ。

そして、マーティン・マクギネス? 彼が何かをどのように考えていたからって、何なのだ。

マーティン・マクギネスは、1972年1月30日のあの事件のときは、デリーIRA(Provisional IRA)のコマンダーだった。だから、自分(たち)に都合の悪い話が出てくることは望んでいなかっただろうし、自分が証言席に立つことも望んでいなかっただろう。(結局証言席には立ったのだが、それはそれでいろいろあったなあ。)

だから、マクギネスが「インクワイアリなくってもいいんじゃね? とりあえず英国政府が謝罪すれば」と考えていたというのは、別に驚きではない。ニュースでもない。

しかしガーディアンは、ジョナサン・パウエルの本を紹介する大型連載で、いちいちそのことを本から抜粋してみせるのだ。アホか。(しかしこれでも、現在の英国のナショナル・ペーパーのなかでは、NIについてはガーディアンがまだまし。)

そしてガーディアンがいちいち抜粋を掲載しているとかいうこと以前に、マクギネス。

マクギネスは「シン・フェインの政治家」なのだが、このコンテクストでは「当時、デリーのIRAコマンダーだった人物」として見ざるを得ない。

あのときに射殺された13人は、IRAのメンバーではなかったのに、英軍に射殺され、「IRAのメンバーだった」ということにされた。死者の家族らが求めている「真相」とは、「軍は暴徒にまじっていたIRAから攻撃されたから反撃したのだ」という大本営発表が嘘であることを英国政府が事実として認めることであり、同時に、彼らは「IRAのテロリスト」ではなかったということが事実として公的に認められることだ。

そういうときに、「当時、デリーのIRAコマンダーだった人物」が「英国政府の謝罪が必要だ。しかしインクワイアリはなくてもよい」ということを、政治家として言うか。しかも英国政府の最上層部とサシで話し合える立場で。

マクギネスが「IRAのマウスピース」であることは驚きではない。しかし、マクギネスのこれは、ブラッディ・サンデーがIRAにハイジャックされてしまっていたことを明確に示していて、そのことが(もちろん知ってはいたけれども)、ものすごくいらだたしい。

さらにいえば、事件当時のデリーの「IRA」は、OfficialとProvisionalでガチガチやり合っていた。英軍からの発砲で何人かが倒れたあと、ロスヴィル・ストリートのハイライズから英軍を銃撃しようとしたガンマンは、Officialのメンバーだった(その「ガンマン」は、マーゴ・ハーキンの『デリー・ダイアリー』で、その現場に立って、ハーキンに直接「説明」をしていた)。

しかしProvisional IRAは、事件の影響で大幅に人員を増やした。デリーの公民権運動が最も望んでいなかった展開だが、PIRAにとっては悪い展開ではなかった。13人の犠牲で、大勢の「義勇兵」が獲得できた。それがPIRAにとっての「血の日曜日」だ。

あの日に殺された人たちの家族や友人たちにとっては、「英軍/英国政府」という壁と「IRA」という壁があった。それを崩してサヴィル・インクワイアリの実現にこぎつけたのは、IRAの「テロ/恐怖政治 terror」によって「事実」を諦めなかったデリーの人たちの功績だ。

彼らもまた、直接銃撃を受けていなかった人であっても、いろいろな形で「事件」と関わることを余儀なくされ、あの「事件」でいろいろなトラウマを背負った。撃たれて倒れた人を救出したくても銃弾が降り注いでいるのでどうしようもなかった(「見殺し」にした)人も、インクワイアリで証言席に立っている。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_depth/northern_ireland/2000/bloody_sunday_inquiry/752084.stm

ああ、このタイミングでマーゴ・ハーキンのドキュメンタリーをもう一度ちゃんと見たい。(展開が早すぎて、中身が濃すぎて、消化しきれなかったので。)

あと、ガーディアンの記事でデイヴィッド・トリンブルが「マクギネスの口からそういう発言があったとは、驚きだ (I am astonished that we have that comment from Martin McGuinness)」と述べているとあるけれども、白々しく見えてしょうがない。「ナショナリスト、リパブリカンの人たちが要求したインクワイアリに、シン・フェインのナンバー2からこのような発言があったとは、驚きですな」というトーンが。

同時に、ジョナサン・パウエルの暴露本に対しては反応しないとしているシン・フェインの白々しさ、パウエルのNI和平暴露本から抜粋されるのがシン・フェイン関連の部分ばかりであることの白々しさ(元々、パウエルの本がユニオニスト方面のことではなく、シン・フェインとのことばかりについて書かれているのかもしれないけれど)。

そろそろ、ヘソで沸かした茶が飲み頃だ。

※この記事は

2008年03月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 19:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼