トピックは2つ。ひとつはイアン・ペイズリーの辞意表明をめぐるもの。ベルファスト・テレグラフ:
Trimble puts the boot into Paisley
Saturday, March 08, 2008
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article3497986.ece
もうひとつはヒラリー・クリントンが北アイルランド和平に果たした役割について。とりあえず、デイリー・テレグラフ:
Nobel winner: Hillary Clinton's 'silly' Irish peace claims
By Toby Harnden in Washington
Last Updated: 9:30am GMT 08/03/2008
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2008/03/08/wuspols108.xml
デイヴィッド・トリンブルは1944年生まれ。現在は英上院議員(一代貴族)だが、この間までUUP (Ulster Unionist Party) の党首で、2002年まではNI自治政府のファーストミニスターだった。出身は法律畑(バリスターの資格あり、クイーンズ大で商法・財産法の学部長だったこともある)。1974年のロイヤリスト武装組織が指示した(<事実上)ストライキでは法律顧問としてかかわった。政治との関わりは、1970年代に5年間だけ存在したthe Vanguard Progressive Unionist Party(これがまた、語順違いで同じ政党を表したりとややこしい)でのこと。つまり元々はアルスター・ヴァンガードで、ごりごりのユニオニスト、というかナショナリストとのパワー・シェアリングに反対、共和国との関係強化に反対、という立場だった。ただしその主義・主張はそのときどきによって多少変わり、VPUPがナショナリストのSDLPとのパワー・シェアリングをめぐって割れたときには、パワー・シェアリング支持の立場をとっている。
1978年にthe Vanguard Progressive Unionist Partyが解党してUUPに合流したことでUUP入りし、1990年の英下院補選で下院議員に。1995年、ポータダウンでのオレンジ・マーチの騒動のときにイアン・ペイズリー(DUP)と手に手を取ってマーチに参加し、その後、多くの人たちの予想を覆す形でUUPの党首に選ばれる。つまり、「対ナショナリスト強硬派」として支持されたのだろう。
1994年のIRAの停戦(と1996年の停戦破棄と97年の再停戦)で始まった「和平合意への道」の初期段階では、トリンブルは「合意に反対」の立場であったが、その後「和平」支持の立場で党内をまとめ、1998年のベルファスト合意(グッドフライデー合意:GFA)の成立に大きく貢献したとして同年のノーベル平和賞をSDLPのジョン・ヒュームとともに受賞した。
GFA後、1998年6月の北アイルランド議会(アセンブリー)選挙で当選し、選挙の結果、UUPが第一党となったため、トリンブルは北アイルランド自治政府のファーストミニスター(首相)となる(1999年)。しかしその後、IRAの武装放棄をめぐって議会はわけのわからないカオス状態となり、2002年にはいわゆる「ストーモントゲイト」事件(後にその事実はなかったことが判明したが、ストーモントにIRAがスパイを潜入させているとの疑惑があった)で議会が停止され英国の直轄統治が復活、トリンブルはファーストミニスターの座を降りた(2002年10月)。
2003年の北アイルランド議会選挙では、UUPは「GFAに反対、No Surrender」のDUPに獲得議席数で負け(DUPが30議席で第一党、UUPは27で第二党、シン・フェインが24で第三党、SDLPは18で第四党)、当時トニー・ブレアあたりでは「いいんですよ、両方の最も極端なのが直接対決することになれば問題は解決します」というような話になっていたらしいが、1998年のGFAを主導したUUPとSDLPがどっちも議席を減らしてそれぞれの陣営の第二党に転落したことは、北アイルランド紛争ってきっと100年経っても終わらないんだろうな、というムードを濃くするばかりだった。
というように政治家として屈辱を味わったトリンブルは、2005年の英総選挙でもDUPの候補に破れ、UUPの党首を辞任した。(2005年の総選挙では、UUPは議席の大半をDUPに取られ、1議席しか取れなかった。)
http://ch00917.kitaguni.tv/e143138.html
2006年6月にBaron Trimble, of Lisnagarvey in the County of Antrimとなり、以後は英上院議員。2007年4月には英保守党に加わることを表明しているが、今は保守党に所属しているという記述はトリンブルのサイトにもなく、よくわからない。
ガーディアンの政治ページには、次のような人物評が紹介されている。
http://politics.guardian.co.uk/person/0,9290,-5244,00.html
David Mckittrick, on his career: "A remarkable political journey from the hardline fringe of Unionism to the moderate centre ground; from involvement with Bill Craig's ultra-rightwing Vanguard to leadership of a government including the former IRA chief-of-staff Martin McGuinness."
(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/David_Trimble を大いに参考にした。)
というような感じで、デイヴィッド・トリンブルは、今は北アイルランドの政治とはそれほどの関係があるわけではない。北アイルランドについての報道で名前を見かけることも少ない(コメンタリー的な記事ではときどき名前を見るが)。なので、週末に立て続けに名前を見たのが印象に残った。
ベルファスト・テレグラフの記事は、ペイズリーの辞意表明後初めてのトリンブルのロング・インタビューだそうだ。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article3497986.ece
DUPは、「チャックル・ブラザーズ」に表象されるシン・フェインとのdealについても、「民意の選択」だというようなことを言ってきたけれども、トリンブルはここで、それはそうではない、ということを言っている、ように読める。
イアン・ペイズリーが任期満了を前に辞意を固めたのは(任期を全うすることをあきらめたのは)、自身の意思というより、「党内のプラグマティストたちによって」そうせざるを得なくされたのでは、というのがトリンブルの分析だ。
彼は「ペイズリーの辞意表明は意外なことではない。2005年の総選挙でDUPは党の方針をあまりはっきりさせていなかった。当時私は、イアン・ペイズリーはシン・フェインと手を打つつもりだと語っていたが、DUP支持者はまさかペイズリーがそのようなことをするはずがないと言った。しかし現実には私の言ったとおりになった。ペイズリーとマーティン・マクギネスは『チャックル・ブラザーズ』になった」などと語っている。2005年、自身が英下院の議席を失った選挙のときに「シン・フェインとは絶対にdealしない」と言っていたDUPが結局ああなったことを「私の言ったとおりでしょう」と言っているようだが、これをデイヴィッド・トリンブルが言うというのは最大の皮肉である。ドラムクリーのマーチに参加するような「強硬派」でありながらGFAを主導した、という点では、ペイズリーよりトリンブルのほうがそういうことを先にやっていたのだから。
「ガチの強硬派」として議席を得た人物が、議会では「中道」もしくは「ひよった」とでもいうべき態度をとり(あるいは、とるしかなくなり)、その結果有権者(および、「有権者の声を聞いている政治家」)から見放されて、というのも、「民主主義」の皮肉である。
ベルテレのインタビュアーが、ペイズリーは自分の関わった組織という組織すべてのトップに立ちたいだけなのだろうか、と質問すると、トリンブルは「そんなのわたしに聞かれても」と答え(まあ、そりゃそうだ)、その上で、「フリー・プレスビテリアンのモデレータの座も失い、DUP党首、ファーストミニスターの座もプラグマティストによって失ったということは、ペイズリーが自身のUターンについて説明をしていなかったということの現われではないだろうか」とコメントしている。そして、「年齢を考慮しても、与党的というより野党的な政治家であるということを考えても、そう長続きはしないだろうと思えた」とも述べている。
そして、DUPに大きな打撃を与えた先日のDromoreでの補選(DUPが議席を取れず、UUPが保持)では、DUPの方針に離反して離党し新党「伝統的アルスターの声」を立ち上げたジム・アリスターとUUPが、DUPの議席獲得を阻んだのだと分析し、「UUPは有権者に嘘をついてこなかった。DUPはベルファスト合意には反対だといいつつ、それにそっくりの現在のパワーシェアリングを行なった。有権者は馬鹿ではない。DUP内部のプラグマティストがそれをわかって、その結果、ペイズリーの辞任ということになった」と語る。
このあたりを読みながら、90年代前半のUUPの主張などについてあまりに何も知らないので何ともいえないのだけれども、何と言うか、やはり強烈な皮肉を感じざるを得なかった。
一方でトリンブルは、ジム・アリスターについてはあまり大きく見ていない。ノーを言うばかりで有効な代替案がないからだ、という。(これって、「ジム・アリスター」だけではなく、「イアン・ペイズリー」にもいえることだと思うけど、実際、記事の最後の方にはトリンブルの言葉でペイズリーの「ドクター・No」っぷりが語られてもいる。→ He concluded: "It has to be said that Ian Paisley has had quite an influence in Northern Ireland politics over the past four decades - from the 'O'Neill Must Go' phase to the 'Trimble Out' era. ... "It's one thing shouting from the political sideslines - it's quite another thing actually governing a country. ...)
そして「ピーター・ロビンソンであれ誰であれ、ペイズリーの後任となる人物は、シン・フェインとの協力を続ける。私はかねがね、DUPとシン・フェインは多くの共通点を見つけるだろうと言ってきたのだが。しかし今の『チャックル・ブラザーズ』ではなく、情の入らない感じになるだろう」とコメントしている。
そりゃ、ピーター・ロビンソンが満面の笑みをたたえていたら変だ。イアン・ペイズリーのあれは、本人がどういうつもりであったのであれ、「紛争の終わり」を「イメージ」として広めるためには大きく貢献したけれど(特に対外的に、投資と観光客を呼び込むために)、DUPにはもう必要なくなったってことだろう。
トリンブルはこのあと、DUPに打撃=UUPにチャンス、ということを少し語っている。そして、GFAについて:
"The Good Friday Agreement removed the Constitution fears from the political process, and the violence has ended.
「GFAのおかげで、政治プロセスから北アイルランドの帰属問題が消え、暴力が終結した」
"The pity is that it took so long for the Good Friday Agreement - aka the St Andrews Agreement - to take hold.
「残念なのは、GFAが――あるいはセント・アンドリューズ合意が――確かに形となるまでに、こんなに長くかかったことだ」
"aka the St Andrews Agreement" というのはDUPに対する揶揄なのだろうけれど、結局はあれしかなかった、no alternativeということでもある。
さて、週末にトリンブルの名前を見ることになったトピックのもうひとつ、ヒラリー・クリントンの件だが、英保守党にべったりくっついているようなデイリー・テレグラフ:
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2008/03/08/wuspols108.xml
これによると、ヒラリー・クリントンは、自身の「外交」の経験をアピールするために、「北アイルランド和平」を持ち出しているらしい。ヒラリーがもはや「必死だな」としか言いようがない状況にあるのは明白なのだが、事実として、ビル・クリントンは「北アイルランド和平」に大きな役割を果たしている。ヒラリーはビルにとっては妻というより参謀だったのかもしれないが、例えばジェリー・アダムズに訪米のためのヴィザを出したのが実はヒラリーでした、なんてことになったら、「アメリカの民主主義」が危ないじゃんか(ヒラリーは当時選挙で選ばれた国民の代表ではなかったのだから)。
で、トリンブルはGFAの当事者であり、その前のことも当事者としてよく知っているのだが、彼は「ヒラリーがビルと一緒にいたことは確かにしても、彼女が何かしたということはない」と述べ、「事態が進行しているときにNIを訪れていたし、それを見てもいたのだから、『経験』として言うことはできるだろう。けれども、水を差したいわけではないが、チアリーダーだったことは、主要なプレイヤーだったこととは違う」とコメントしている。
そして、トリンブルとともにノーベル平和賞をうけたSDLPのジョン・ヒュームの側近も、「ビル・クリントンからは何度も電話をもらったが、ヒラリーからはなかった」と述べている。
ヒラリー・クリントンが「あたくしはNI和平に貢献したんざます」と述べている根拠は、NI訪問時にベルファストで女性たちのクロス・コミュニティの団体と交流したことにあるとテレグラフにある。実際に1月6日にはニューハンプシャーで「夫よりあたくしのほうがNIに行った回数は多い」と。「ベルファストの公民館で、カトリックとプロテスタントを初めて一堂に会させた」とかも。うはっ、微妙! っていうか「嘘」じゃないか、これ。仮に「嘘」でないにしても「大袈裟」というか、典型的サウンドバイトだ。ヒラリーいわく、カトリックの女性が「夫が仕事に出かけるたびに戻ってこないのではと心配になる」と言い、プロテスタントの女性が「息子が夜出かけるたびに帰ってこないのではと案じる」と言い、そうしておたがいが「人間」として認め合い、目と目をかわす……「物語」だ。
しかるに、そういう会合の記録はない、とテレグラフは書いている。うはは。ヒラリーは確かに1995年の11月、クリスマスツリーの点灯式でビルに同行し、このときに米領事館主催のイベントに出ており、上記の話はこのイベントを指しているのではないか、と。
これと同じ日にOrmeau Roadのカフェでの会合があり、これはベルファスト・テレグラフがその翌日に報じたところでは、「カフェは記者とカメラマン、シークレットサービスで満杯になっていた」、「会話は少し形式的で前もって用意されたもののように思えることもあった」。そしてヒラリーはティーポットを誉めた(<「話すネタがない」ときの反応としてありがち)。そして、集まっていたのはシングルマザーや結婚カウンセラー、ユースワーカーといった人たちで(つまり「紛争」そのものを問題とするわけではない――オレンジオーダーの奥様団体とか、IRAに身内を殺された人たちの団体とか、SASに身内を殺された人たちの団体というわけではない)、2003年のヒラリーの自伝でもその会合のことはさらっと流されている、と。
ここにきて、オバマに追い上げられるどころか水をあけられて必死なのでしょう。第一、USAにとってNI問題とは、「外国の」問題ではあっても言語は(一応は)同じ英語だし、文化的背景もそんなに著しく違うわけではなく、これから必要とされる「国際問題の経験」とはちょっと別なものなのでは、と私は思うのだがどうだろう。
実際、自伝には次のように書かれているというから、「分断を超えて初めて」云々は「嘘」だわね。
Rather than it being the first time the women had met, Mrs Clinton wrote: "Because they were willing to work across the religious divide, they had found common ground."
会合にいた女性は「ヒラリーの訪問後にいろいろと変化があった。彼女が大統領になってくれるといい」と述べているが、SDLPのヒュームの側近は、「あの人たちはヒラリー訪問時には既につながっていた。ただ何らかのきっかけは必要としていたかもしれない。ヒラリーが来るから、というのはよいきっかけになった」と述べている。また、GFA後は女性の政治家を積極的にサポートし、NIから女性政治家が訪米するといつも会ってくれた、と。ただしそれらもNI和平に対してはサポートの役割であり、中心的なものではない、と。
あとはテレグラフの記事は、また別な人を引っ張り出してヒラリーをDisってるので読み飛ばします。テレグラフは、ヒラリーの十八番である「草の根からのなんちゃら」という要素をあまりに軽く見すぎているきらいはある。でもヒラリーの言い分が「誇張」であることは確かなように見える。
でもトリンブルにここまで言われたらヒラリー陣営も必死で反撃せざるをえないわけで、なんか、アイリッシュ・インディペンデント(英インディペンデント、ベルファスト・テレグラフと同系列)によると、ジョン・ヒュームの声明がヒラリー陣営から出されたというわけのわからないことになってるみたい。
http://www.independent.ie/national-news/hume-and-trimble-clash-over-clintons-peace-role-1311181.html
In a statement -- unusually issued by Mrs Clinton's headquarters -- former SDLP leader John Hume insisted Mrs Clinton had played an important role.
"I am quite surprised that anyone would suggest that Hillary Clinton did not perform important foreign policy work as first lady," Mr Hume said.
"I can state from first-hand experience that she played a positive role for over a decade in helping to bring peace to Northern Ireland. She visited Northern Ireland, met with very many people and gave very decisive support to the peace process.
"In private she made countless calls and contacts, speaking to leaders and opinion makers on all sides, urging them to keep moving forward."
ヒラリーが一定の役割をになっていた(「女性」であるということで、NIの女性たちを勇気付け元気付けた)ことは事実だ。しかし、ヒュームのいう positive role は、principal role と同じではない。仮に彼女がいなくたって、GFAは署名され、レファレンダムで支持されただろう。しかし、ヒラリーが現在、自分の役割を principal role だと印象付けようと奮戦しているとしたら、それは「嘘」だ。
「あたくしにはファーストレディとして外交の経験が」っていうときに、バルカンのことでも引き合いに出せればまだよかったのかもしれないがバルカンはバルカンでああだし、「あたくしの外交政策」でイラクやアフガンについて明確にアピールできる要素があればベストだったのだろうがヒラリー・クリントンの場合それはできないし、NIの他にないのだろうなあ、きっと。
で、今の「和平」のかたちが絶対的によいものだ、というのはヒラリーの頭の中に前提としてあるのだろうけれど、それ自体がうーん、である。当時は「とにもかくにも暴力がなくなる」ことがプライオリティだったけれど、GFAがまともに形になるまでに9年を要したのは、「平和と民主主義に反対する一部勢力が」という話ではない。武装組織の活動継続の問題、服役中の「政治犯/テロリスト」の釈放の問題、治安当局の隠蔽という問題、などなど、いろいろな問題があった(今もある)。
まあ、ベルファスト・テレグラフやデイリー・テレグラフに見られる(←私の幻覚かもしれないが)「アメリカ人がそれを言うか」と鼻白んでいるような雰囲気は、IRAの活動は米国の草の根サポートがあってこそのものだった、ということが大きいのだろうけれども。
なお、関係ないけど、ヒラリーをmonsterと呼んだとかで辞任したオバマの補佐官は、アイリッシュだそうだ。アイリッシュ・タイムズとかで大きく伝えていた。んなことで辞任しなければならないなんて、米国って大変なのだなあ。英国見てるとケン・リヴィングストンとかジョージ・ギャロウェイとかいるから、その程度のことで?とほんとに思う。(イアン・ペイズリーにいたってはもっとスゴいのだけど。)
タグ:北アイルランド
※この記事は
2008年03月11日
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1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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