「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年03月09日

広川太一郎さんをば偲ぶ!とかなんとか言ってみちゃったりなんかして

な〜んたる! 3月8日、はてなブックマークのトップページを見ると、広川太一郎さんが亡くなったと報じる記事に既に多くのブックマークがついていた。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash/KFullFlash20080308008.html
 映画「007」シリーズの英俳優ロジャー・ムーアの吹き替えなどで知られる声優の広川太一郎(ひろかわ・たいちろう)氏が3日、がんのため東京都渋谷区の病院で死去していたことが8日、分かった。68歳。東京都出身。葬儀は近親者らで済ませた。……


長らく「伝説」でしかなかったモンティ・パイソンの日本語吹き替え版のソフトがやっと出て、それを手にいれたばかりだというのに! これを泣きながら見ろと、そういうことですね、このー。

B000X431A4「空飛ぶモンティ・パイソン」“日本語吹替復活”DVD BOX
エリック・アイドル(広川太一郎) マイケル・ペイリン(青野武) ジョン・クリーズ(納谷悟郎/近石真介)
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2008-02-20

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自分は世代的に、モンティ・パイソンの日本語吹き替え版を放映当時に実際にみていたわけではないのだが、「〜とか言ってみちゃったりなんかして」、「なんともはや」、「いいんでないかい」といった言い回しはものすごくよく知っている。自分でも使うのだが、それは子供のころにあの言い回しが身の回りに「ふつうに」あふれていたからじゃなかろうか。ドリフのちょーさんの「おいーっす」が、ドリフのちょーさんの「おいーっす」を知っている人の間でごく自然な日常の語彙として使われるのと少し似ているかもしれない。実際、日常生活のなかでこの人の「声」と「しゃべり」に接する機会は、自分が子供のころにはものすごくいっぱいあったと思う。

たぶん、最初に「広川節」を知ったのは、テレビまんが(と呼ばれていた時代の)『ムーミン』(正式には『新ムーミン』らしいが)のスノークだ。ムーミン谷に住んでいるあの人たち(「人」じゃないけど)のなかで、ひときわ異彩を放つあの登場人物(「人」じゃないけど)。当時まだ子供すぎて「いやみな」とか「気取った」とか「鼻持ちならない」いった語彙のなかった私は、「スノークのような」という価値基準の一種を自分のものとした。そしてその「スノークのような」が型となって、「いやみな」とか「鼻持ちならない」といった語彙を自分のものとしていった。

小学校の音楽室でバッハ(ヨハン・セバスチャン・バッハ)ヘンデルの肖像画のポスターを見て、「スノークだ!」と思い、私の頭の中ではバッハが勝手にあの口調であの声でしゃべっていた。習っていたピアノでバッハの曲を課題として与えられ、右手と左手が思うようには別々に動かないことに絶望するのはもう少しあとのことだ。頭の中でスノーク頭のヨハン・セバスチャンが「なーんたる!」と嘆いていた。

その後、中学くらいだろうか、テレビではじめて『お熱いのがお好き』を見て――日本語吹き替え版だった――、「この声はスノークだ!」→「その女装ムリ(げらげら)」→「気付けよ、そのゴツいの、男だよ、どう見ても」(リンク先の画像の一番←)、で「トニー・カーティス」という二枚目俳優を認識し、それからキューブリックの『スパルタカス』とかいろいろ見たんだった。テレビで。その後だな、ロジャー・ムーアは。確か、『死ぬのはやつらだ』のテレビ版

それと同じころに、学校の図書館で『ムーミン』の原作(トーベ・ヤンソンの)を借りて読んで、テレビまんがでの「スノーク」が原作とはまるで違う人格者(「人」じゃないけど)であることにちょっとびっくりした。でもそのころの私は既に、「スノークのような」を使わなくても、ああいう感じの奴をいうときに「嫌味な」とかいう言葉を使うことを覚えていた。

んな感じだと思うんだけども、広川さんは「ブラウン管」を通じて子供だった私にほんとうに多くのもの、多くのきっかけを与えてくれた人だった。

合掌。

最後に、訃報記事を広川太一郎節にしてみちゃったりなんかしちゃったりして……。

「広川太一郎変換フィルタ 変換しちゃったりして」
http://www.keddy.gr.jp/~eigamichi/dic/hiro.cgi

riphirokawasan.png
※画像、クリックで原寸表示。

再度、合掌。

タグ:映画 訃報

※この記事は

2008年03月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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