「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2008年02月25日

1988年、IRA対SAS → 2008年、シン・フェイン対DUP

「あれは戦争ではありません」のDUP対「あれは戦争です」のシン・フェインの論戦は、「どっちの言ってることも変」の声もありつつ、形としてはDUPの勝利に終わったが、次の対戦は既に始まっている。

数日前、アイルランドの国営メディアで、"Anger at IRA celebration in Stormont" などという記事を見たのだが、今度はBBCに、DUP is planning an event to celebrate the role of the SAS during the Troubles という内容の記事が出た。

つまり、ストーモントの議場のあるあの壮麗な建物で、シン・フェインはIRA義勇兵マレード・ファレルを記念するイベントを行なうといい、DUPは北アイルランド紛争でのSASの役割を記念するイベントを行なうという。

ちなみに、マレード・ファレルを殺したのはSASである。彼女が殺されてもの3月6日で20年になる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mair%C3%A9ad_Farrell

マレード・ファレルは1988年3月6日、ジブラルタル(英領)で、ショーン・サヴェージ、ダニー・マッカンとともにSASによって射殺された。3人ともIRAのメンバーで、射殺されたのは「まさにリモートコントローラで爆発物を爆発させようとしていたので」との説明だったが、死体は起爆装置のリモートコントローラなどは持っておらず、彼らの車には爆薬などもなかった。まあ要するに、スパイ小説じみたshoot-to-killだったのだろう。リパブリカンというかナショナリスト地域には彼女を描いた「戦争捕虜」の壁画がある(今もあるのかどうかは調べていない)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Flavius

彼ら3人のIRA義勇兵は、IRAによって戦死者として扱われた。3人はベルファストのミルタウン墓地に埋葬されたが、埋葬のときに数千人という参列者の中にいたジェリー・アダムズらシン・フェイン指導部を狙って、悪い意味で頭がおかしいロイヤリストが手榴弾やらピストルやらで単独襲撃をぶちかまし、シン・フェイン指導部やIRA指導部は無傷で、一般の参列者3人が死んだ。この頭がおかしいロイヤリストがマイケル・ストーンなのだが、それは前に書いたのでここでは略。

で、Operation Flaviusことジブラルタルでのshoot to killから20年となる今年、シン・フェインがストーモントの建物の「ロング・ギャラリー」でマレード・ファレルを記念するという提案をし(3月7日は国際女性デーであるが、ファレルは女性闘士の鑑と賞讃された人物であり、それがシン・フェインのこの提案の背後にあるらしい)、これにファースト&副ファーストミニスターのオフィス(いわば「首相官邸」)をウォッチするアセンブリ議会の委員会の委員長であるUUPのダニー・ケネディが嫌悪感を示し、ファレル追悼イベントを阻止しようとしている、というのがRTEの報道。
http://www.rte.ie/news/2008/0223/northpolitics.html

で、シン・フェインに対抗するつもりなのだろうが(限りなく不毛だ)、DUPはジェフリー・ドナルドソンを立てて、「SASのやってくれたことを記念するイベント」をストーモントでやろうとしているが、ストーモントの管理者側としては困惑というか、そういう状況にあるらしいというのがBBCの報道。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7262313.stm

これでどっちかのイベントにゴーサインが出たら、あっという間に元の木阿弥になる危険性すらあることなので笑っていられないのかもしれないけれど、正直、あまりの不毛さに笑うしか反応ができないので困る。

最も不毛な部分をBBC記事から:
Assembly member Jeffrey Donaldson is making the DUP application. He said Sinn Fein's plan should not go ahead.

"I believe we should celebrate the lives of role models but who in their right mind could view a terrorist who was prepared to kill innocent men, women and children as a role model?

"That is not the image we want to portray to our children as we build a peaceful and prosperous Northern Ireland," Mr Donaldson said.

"However, it is right and proper that we should celebrate and commemorate our armed forces who stood against terrorists such as Farrell."


そんなに「国際女性デー」の記念で女性を讃えたいのなら、そして「ロールモデル」を讃えたいのなら、北アイルランドに「平和」をもたらし、北アイルランドをpeaceful and prosperousな場所に転換していく上で非常に大きな役割を果たした故モー・モーラムを讃えておけばいいのに。

彼女の語録より:
http://politics.guardian.co.uk/politicsobituaries/story/0,1441,1552395,00.html
"You bloody well get on and do it. Otherwise I'll head-butt you."
To Gerry Adams

"Fuck off."
To Ian Paisley in 1997


この笑いのセンス、すてきなロールモデルじゃないか。

※この記事は

2008年02月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この件についてのスラオさん:
http://sluggerotoole.com/index.php/weblog/comments/mccann-donaldson-farrell-and-the-sas/

結局は「売り言葉に買い言葉 tit for tat」で「どっちもどっち tit for tat」でファレルの記念もSASの記念も行なわれないだろうというのだけれど、コメント欄がかなりスゴいことになっている。というか、私はこれまでに何度、こういうコメント欄をスラオさんで見ただろう……2004年とか2005年に。

私としては、「どっちもどっち」というか、「IRA義勇兵を記念します」に対抗して出されたのが「SASを記念します」であった、という時点でもう涙目。紛争、終わってないじゃん。。。という意味で。
Posted by nofrills at 2008年02月28日 05:05

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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