「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2008年02月19日

NI映画祭で上映された『キングス』

「北アイルランド映画祭」で上映された作品のひとつ、『キングス』が、第五回アイリッシュ・フィルム&テレビ賞を5部門で最優秀賞を受賞した、というニュース:
BBC Newsline 'is best news show'
Last Updated: Monday, 18 February 2008, 17:52 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7250775.stm

↑はBBCの記事なので、「BBC NIのNewslineの北アイルランド自治特集がニュース部門で最優秀賞」ということに集中していますが、『キングス』については:
An Irish language movie with strong Northern Ireland links - Kings - picked up five awards, and the TV series The Tudors won a record seven awards.

んー、"strong Northern Ireland links" かなあ? いわゆるthe Irish problemとはかなり強いつながりがあったにせよ、NIは、登場人物の過ごしてきた時間が北アイルランド紛争の激しい時期と一致する、といったことがうかがわれるくらいでしかない(IRAもRUCもUDAもUVF etc etcも出てこない)。(ひょっとしたら、題名があまりによく似ているこの作品と混同しているのかも。)

アイリッシュ・フィルム&テレビ賞のサイトで見てみると、『キングズ』は最優秀映画賞、主演男優賞、脚本賞、衣装デザイン賞、撮影賞、などいくつもノミネートされていて(主演男優賞にはSunshineでのキリアン・マーフィーも)、受賞したのは:
- 最優秀助演男優賞(Gitを演じたBrendan Conroy: Japを演じた Donal O'Kelly@スラヴォイ・ジジェク似も同賞ノミネート)
- 最優秀編集賞
- 最優秀音楽賞
- 最優秀音響賞
- 最優秀アイルランド語映画賞

あと、「単発ドキュメンタリー部門 (Single Documentary) 」で、マーゴ・ハーキンの『デリー・ダイアリー』もノミネートされてます。

『キングス』(原題:Kings)は、Jimmy Murphyによる戯曲、"Kings of the Kilburn High Road"(キルバーン・ハイ・ロードの王様たち)を映画化した作品で(この戯曲はFlogging Mollyほとんど同名の曲のインスピレーションにもなったようです)、回想シーンを除いては舞台はロンドン(多くのシークエンスがキルバーン)、ほとんど全編がアイルランド語で(元から英語字幕つき)、今年2008年(2007年度)の米アカデミー賞では「外国語映画部門」で扱われたみたいOscar.comを見ると、ノミネートはされていませんが)。制作したNew Grange Picturesのサイトによると、アイルランド語と英語のバイリンガルの長編映画としては初めての作品だとのこと。

IMDBを見ると、英国ではまだいかなる形でも上映されていないようで、キルバーンが舞台の映画でロンドンより先に東京で見ることができた、というのも初なのでは。

この映画については、15日に少し書いたのですが、せっかくなのでもう少し書き留めておきます。

ジョー、ジャプ、ギット、シェイ、マーティン、ジャッキー(Joe, Jap, Git, Shay, Máirtín, Jackie)の6人は、アイルランドのコナマラ(コネマラ)の村を出てロンドンにやってきた。ロンドンは、農業や漁業にしか道のない故郷の村よりもずっと希望に満ちた都会のはずだった。そのロンドンで成功して、故郷に錦を飾るんだ――イングランドに向かう船の甲板で、"One for all, and all for one!" と声を合わせ肩を組んで記念写真におさまる彼ら。しかし、ほんのちょっとした運でジョーとほかのみんなの道は分かれてしまう。

そして30年近くが経過した後、ジャッキーがロンドンで突然死んだとき、ジョーは土建業の社長として成功し、シェイは露天の八百屋としてそこそこ順調、ジャプやギットはしがない労働者だった。すっかりおっさんになった彼らは、ジャッキーの遺体を故郷に送るために、久しぶりに集まる。だが、ひとりだけ成功したジョーは、教会に足を踏み入れることができない。用意した立派な花輪を運河に投げ入れて、遺体を引き取りに来たジャッキーの父親のミシル(Micil)と顔をあわせることもなく、ジョーは立ち去ってしまう。4人の友人たちと父親のミシル、教会のシスターや神父さんだけの淋しい告別式。

ジャッキーの住まい(荒んだカウンシルフラット)に残されていた「荷物」は、ダンボール箱2つ分程度しかない。ギットとジャプが引き取ってきたこの荷物を見て、ミシルは「大の男が生きてきて残したものがたったのこれだけか」とつぶやき、「それは皆で分けてくれ」と言う。ジャッキーの遺品のなかにはトロフィーがある。実際、彼が死んだことは地域新聞で大きく記事になった――「ヨットの元チャンピオン、不慮の死」。

ジャッキーはコネマラの「海の男」だった。昔、海に落ちて溺死しかけたジョーを、自ら海に飛び込んで助けたこともある。ジャプやギットやシェイやマーティンが飛び込めなかった海に、迷うことなく飛び込んで友達を助けた。

棺を運ぶ車の運転手に、ミシルは何枚ものポンド紙幣を渡す。「これでは多すぎます」と言う運転手に「息子が送ってくれたものだが、アイルランドではポンドは使えない。使えないのだから持っていてもしょうがない」とミシルは強引に渡す。運転手はミシルがじっと見つめていた自分の数珠(キリスト教の)を渡す。(このシーン、私がもっと「キリスト教」を知っていたら、もっと多くのメッセージを受け取れたかもしれない。)

空港までミシルを送っていったジャプやギットたちが帰りに立ち寄ったパブは(シェイは仕事に戻ったんだっけな、細部失念)、ユニオン・フラッグが飾られ、戦没者慰霊の赤いポピーが飾られている(この店の客がまた、ごつくていかつくてスキンヘッド率高い。このパブには私は入れない気がする)。その中で、「このメンバーで会うときはアイルランド語」というかつての約束どおり、「うちの女房に色目を使った」とかいったことでアイルランド語で喧嘩を始めそうになるジャプとマーティン。(^^;) ほかの客が何ごとかと見つめる中、それを制止するギット。パブからつまみ出されるおっさん3人。

マーティンは酒が入ると暴力をふるうので、禁酒するか離婚されるかの瀬戸際にあり、この日も注文するのはレモネードでまだ一滴も飲んでいない。

ジャプは朝、教会に向かうときにギットと落ち合って、「アイルランドに戻ってふたりで土建業を始めよう。俺だって素人じゃないしバカでもない」という「夢」を語る。「故郷に錦」という気持ちを持ち続け、「アイルランド」へのこだわりの強い彼は、寄ったパブのジュークボックスに「抵抗歌 rebel song」がないと毒づく。

ギットはジャッキーが死んだ夜、彼が地下鉄の線路に転落して轢死する直前までいっしょにビリヤードをしていた。そのときにジャッキーの絶望の深さを知っていた。

ジャッキーはその晩、ひとりで地下鉄に乗る前に、ホームで「いいか、この街はアイルランド人が額に汗して建設した」という演説をぶつ。が、ホームの人々は「また変な人が」といったふうに彼を避ける。「成功」への道が開けているはずだったロンドンで。

断酒を宣言したばかりのマーティンは、ユニオンジャックの飾られたパブをつまみ出された後で、家に帰ってしまう。夜にやることになっているジャッキーのウェイク(飲んで歌って騒いで、の告別の集まり)にも出ない、という。

だが、彼の車に乗せてあるジャッキーの遺品には、アイリッシュ・ウィスキーの瓶が入ったままだ。ギットとジャプは「まずい!」と追いかけようとするが、間に合わない。ふたりはそのまま、キルバーンで飲んで飲んで飲んで……そのへんの路地裏で座り込んで飲んで、警官に「おじさん、こんなところで寝ないで、ほらほら」と追い立てられる。

そしてウェイクのため、キルバーンの「いつもの店」(アイリッシュ・パブ)でジャプとギットが飲んでいるところに、ようやくジョーが現れる。だがジョーは英語でしかしゃべらない。「成功」した彼は、もはやアイルランドへのこだわりを失っている。パブのおかみさんも「最近はいろいろなお客さんがいるから」と、アイルランド語によい顔をしない。彼らはそのアイリッシュ・パブの、日ごろは使われていない部屋に移る。シェイが来る。マーティンも何だかんだで結局来る。

こうして5人が揃い、いい感じに出来上がったおっさんたちは「電車ごっこ」のように肩に手を置いて列をなし、「反英の抵抗歌」を大声で歌いながら客で満員のパブをぐるりと一回りし(このシーン、かなり好きだ)、「ちょっといいかげんにして!」と怒鳴り込んできたパブのおかみに、お金持ちのジョーが「お詫びの印に、これでみなさんに一杯差し上げて」と札を何枚か渡す。

大騒ぎの波が引いたとき、彼らとジャッキーの「失われた30年」がアイルランド語で語られる。事業を興して成功したジョーは、「おめぇはなんだ、アイルランド人を雇わずにロシア人ばっか雇いやがって」とジャプに絡まれる。彼とギットはかつて、マンチェスターの現場を仕切っていたジョーの事務所に仕事を求めていき、警備員に門前払いされたことがある。結局は、ジャプがあまりにしつこく絡んだことでウェイクはお開きとなるのだが、まだみな楽しく飲んでしゃべっているときに、ジョーが「会社のロシア人から教わった」と言って、小さなグラスに並々と注いだウォトカに火をつけて飲み干すシーンが美しすぎる。

15日に「ケン・ローチあたりが撮ってたら全然別の色の映画になっていただろう」と書いたのは、ジョーの生き方とそのほかのみんなの生き方の対比というか、社会的文脈という説明の点でのことだが、トム・コリンズによるこの映画は、「社会」についての作り手の説明を最小限にして、かなりの部分をひたすら「彼らの発することば」に任せている。で、その「ことば」がアイルランド語だもんで、こちらとしては字幕に頼るしか術がなく、どこまでちゃんと「見る」ことができたのかが覚束ないのだが(字幕に頼るしかないのはベルファスト訛りでもあまり違わないのだが、それがどんなに強いアクセントでも、英語であれば、字幕があれば台詞が何となく聞き取れる)。

しかしあのおっさんたち、一晩で何パイント飲んだのだろうと考えると、胃が悪くなってくる。

キャストは、ジョーを演じたコルム・ミーニー以外はまったく知らない俳優さんばかりでした。

で、自分にとってはコルム・ミーニーといえば『ザ・コミットメンツ』のおやじ@エルヴィス崇拝(家の壁、教皇の写真の上にエルヴィス・プレスリーの写真がかかっているのに爆笑したものだ)なので、週末に『ザ・コミットメンツ』のDVDをにやにやしながら鑑賞。(うは、何だこのタダみたいな値段。私も1500円くらいで買ってるけど。)
ザ・コミットメンツザ・コミットメンツ
ロバート・アーキンズ マイケル・アーニー アンジェリン・ポール


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それと、Gitを演じたBrendan Conroyが何かほかの作品に出ていないかとIMDBを見てみたら、日本ではいろいろと微妙な社会的なムードがあって劇場公開が流れたニール・ジョーダンのTHE BUTCHER BOY(中古のVHSでのみ入手可能)に出ている。あとで見直そうっと。

Jap役のDonal O'Kellyはテレビでの仕事が多いみたい。Shay役のDonncha Crowleyは、クライヴ・オーウェンがアーサー王、キーラ・ナイトレイがグネヴィアを演じた『キング・アーサー』などにクレジットされている。

Mairtin役のBarry Barnesは、『ヴェロニカ・ゲリン』に出ている。
ヴェロニカ・ゲリン 特別版ヴェロニカ・ゲリン 特別版
ケイト・ブランシェット ジェラルド・マクソーレイ シアラン・ハインズ


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そして、自室の隅に座ってJapをじっと眺める目の深い青が映像としてものすごく印象的だったJackie役のSeán Ó Tarpaighは、アイルランド語のテレビ作品がほんの少しあるだけ。父親のMicilを演じたPeadar O'Treasaighもテレビや短編の人だ。

・・・と、ここで思った。"Waking Ned" (邦題はwakeの意味をそっちで取ったかという「ウェイクアップ!ネッド」)も、実際のアイルランドのあの村(映画のための架空の村で、撮影はマン島だが)で村人が話をするときの言語はアイルランド語だったんじゃなかろうか。
B00005FXNNウェイクアップ!ネッド
イアン・バネン デヴィッド・ケリー フィオヌラ・フラナガン
東芝デジタルフロンティア 2000-02-25

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公式なのか何なのか判断できないけれども、kingsthefilmというアカウントでアップされている "Kings" の予告編:
http://www.youtube.com/watch?v=vMwvOHu3Gn0


原作の舞台劇がダブリンで上演されたときのレビュー:
http://www.culturevulture.net/Theater/KingsofKilburn.htm

原作の戯曲:
1840021845Two Plays: The Kings of the Kilburn High Road and Brothers of the Brush (Modern Playwrights)
Jimmy Murphy
Oberon Books Ltd 2001-04-01

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※この記事は

2008年02月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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