「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2008年02月18日

【訃報】ブレンダン・ヒューズ(1980年IRAハンスト時のリーダー)

ブレンダン・ヒューズが59歳で亡くなった。ヒューズは2000年ごろから「武装闘争に反対、グッド・フライデー合意体制に反対」の立場を鮮明にしてきた元IRA闘士にして、1980年のハンストのリーダーだ。

Former hunger striker Hughes dies
Last Updated: Sunday, 17 February 2008, 09:42 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7249225.stm

Former IRA hunger striker Hughes dies
Last Updated: 17/02/2008 14:48
http://www.ireland.com/newspaper/breaking/2008/0217/breaking12.html

RIP Brendan Hughes
Saturday February 16, 2008 22:39
http://www.indymedia.ie/article/86287

Brendan Hughes Dies.
http://www.politics.ie/viewtopic.php?t=31864

BBC記事にあるジェリー・アダムズの「お悔やみのことば」よりも、indymedia.ieやpolitics.ieに投稿されている一般の人々のことばを読んだ方が、この人がどういう「存在」だったかがはっきりとわかるだろう。

ブレンダン・ヒューズは、1980年10月、北アイルランドのメイズ刑務所(ロング・ケッシュ)で、「政治犯」としての待遇(一般犯罪者と同じ「囚人服」ではなく私私服の着用)を求めて、リパブリカン(Provisional IRAとINLA)が行なったハンガーストライキ(第一次ハンスト)のときの、メイズのIRAの司令官(Officer Commanding: OC)だった。

第一次ハンストは、サッチャー政権側からの条件提示があったことと、ハンガーストライカーのひとりが昏睡状態に陥ったことで、53日目に打ち切られた。その打ち切りの判断をしたのもヒューズだった。(なお、このときの政権側からの「条件提示」は相手のことば尻を取ったような形で一見相手の要求を飲んだかのように思わせるものだった。)

後にヒューズはこのハンストの経験を次のように回想している。
You lose the fat first. Then your muscles start to go and your mind eats off the muscles, the glucose in your muscles and you can feel yourself going. You can actually smell yourself rotting away. That was one of the most memorable things for me: the smell, the smell of almost death from your own body... Your body starts to eat itself. I mean that's basically what happens during the hunger strike, until the point where there's no fat left, no muscles left, your body then starts to eat off your brain. And that's when your senses start to go. Your eyesight goes, your hearing goes, all your senses start to go when the body starts to eat off the brain.

大意:
まず脂肪が落ちる。それから筋肉が落ち始める。精神活動が筋肉を食う。筋肉内のブドウ糖が頭に回される。そして自分が死ぬということが感じられる。実際に、自分の身体が朽ちていくのがにおいでわかる。最も強く記憶に残っていることのひとつが、そのにおいだ。自分の身体から立ち上る、死とすれすれのにおい。自分の身体が自分の身体を食い始める。ハンストをすればそういうことになる。脂肪が完全になくなり、筋肉もすっかり落ちてしまうと、それからは身体が頭脳を食うようになる。そうなると知覚が失われてくる。目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、五感が失われる。

-- Brendan Hughes, 'Dying for Ireland', Insight, UTV, 27 February 2001 (from Justin O'Brien, "Killing Finucane", Gill and Macmillan, Dublin, 2005, p.39)


ヒューズが指揮した第一次ハンストから半年ほど後、ボビー・サンズが指揮官となって第二次ハンストが開始され(ヒューズは第二次ハンストに強く反対していた)、サンズを含む10人が獄中で餓死した。

ヒューズは1948年(1949年との説も)にベルファスト西部のロウアー・フォールズ・ロード地区の「祖父も父も母もリパブリカン」の家に生まれた。「子供のころの友達はみんなプロテスタントだった」が、1969年にアイリッシュ・ナショナリズムの立場でいう「ポグロム」(プロテスタントの多い地域でカトリック住民に対する焼き討ちが起こり、B-スペシャルズがDivis Streetでカトリックに対して銃撃を行なうなどした)が始まったころにIRAに入り(Official IRAとProvisional IRAの分裂後はProvosに)、1970年には既に当局に手配されていた。1971年にはリパブリカン同士の争いで、いとこをOfficial IRAに射殺されている。まさに「北アイルランド紛争」の最初から、リパブリカンのファイターとして関わってきた人のひとりだ。

このころのことを彼は後に次のように語っている――「秘密の集会所があり、午前中は銀行を襲い、午後には街を車で流して英兵の居場所を把握し、爆弾を仕掛け、夜には銃撃戦、というようなことがあってもおかしくなかった」。

1973年7月19日、フォールズ地区での一斉拘留(インターンメント)のときだと思うが、ヒューズはジェリー・アダムズ、トム・カーヒルといった人たちと一緒に当局に身柄を拘束され、警察(RUC)で「苛烈な尋問」(「拷問」のユーフェミズム、もしくは法的に「拷問」と定義されない「拷問」)を受け、ロング・ケッシュへ送られた。

同年12月8日、ヒューズは丸められたマットレスの中に入って(クレオパトラのように)ロング・ケッシュから脱走、南北のボーダーを越えてダブリンに入り、そこで新しい身分証を得て「おもちゃのセールスマン」としてベルファストに戻り、新たな名前で生活を始めた。だが1974年5月にはタレコミのために逮捕、当時住んでいた住居からサブマシンガンだのライフルだの拳銃だの弾薬だのが発見され、(当時の非常に「簡略化」された法的手続きを経て)懲役15年を言い渡される(その後、看守への暴行が原因で刑期に5年上乗せ)。そして1976年3月にはロング・ケッシュのH-ブロックに身柄を送られた。

1976年3月というと、1972年にIRA側との交渉の末に保守党政権で打ち出されたテロ組織メンバーに対する「特別カテゴリ (Special Category Status)」が終わって、「政治犯」(北アイルランド紛争においては事実上の「戦争捕虜」)も一般の犯罪者と同じ待遇を受けることになったときである。

このあたりのことは、テリー・ジョージ監督(『ホテル・ルワンダ』など)のフィクション映画、"Some Mother's Son" (日本未公開、DVDなし、VHSは中古のアメリカ版が入手できなくはない。このエントリの最下部参照)が、長い話をかなりはしょってわかりやすく描いてくれている。

「囚人服を着せられるくらいなら裸で毛布をかぶっているほうがましだ」というわけで、「囚人服」への抗議として1976年9月に開始された「ブランケット・プロテスト」に、ヒューズも参加した。「参加した」というか、このときヒューズはPIRAのOCになっていたのだから(ロング・ケッシュに入ってほどなくOCになったのだそうだ)、「プロテストを指揮した」と書くべきかもしれない。

1978年3月には、シャワーやトイレを使うために房を出ると看守(念のため書き添えておくが、当時の警察や刑務所のスタッフはほとんど全員が「プロテスタント」だった)に殴られたり蹴られたりするため、PIRAとINLAのリパブリカンの囚人たちは、シャワーにも行かずトイレにも行かず、排泄物は壁に塗りたくるという「ダーティ・プロテスト」が開始されるが、このいわば「うんこによる抗議行動」の開始を命令したのは、ブレンダン・ヒューズだった。「ダーティ・プロテスト」が開始された後に新たにロング・ケッシュに入れられた囚人(そのほとんどがリパブリカンである)のうち、「10人に9人」はこの「プロテスト」に参加し、規模は拡大の一途をたどった。1980年2月には女性だけの刑務所でも行なわれるようになり、そちらは排泄物だけでなく経血も壁に塗りたくられて、まさにすさまじいことになっていたという。

刑務所側は房に囚人がいるまま、壁にホースで水をかけて清掃を行なうなどしたが、すぐにまたもとの状態となり、刑務所内の衛生状態は「最悪」。

ヒューズは最終的に、このような最悪の状態をみんなで続けてもどうにもならないと判断し、開始から3年ほどで「ダーティ・プロテスト」の打ち切りを命じ、続いて7人のメンバーによるハンガーストライキに移行した(「7人」というのは、1916年イースター蜂起のときの「共和国宣言」の署名者の人数である)。

このような抗議行動のさなかの1980年1月、囚人たちは「5つの要求 (Five Demands)」を提出した。
1. The right not to wear a prison uniform;
(囚人服を着用しない権利)
2. The right not to do prison work;
(刑務所での作業をしない権利)
3. The right of free association with other prisoners, and to organise educational and recreational pursuits;
(囚人同士の自由な交流の権利、教育・娯楽目的での囚人の組織化の権利)
4. The right to one visit, one letter and one parcel per week;
(1週に1度の面会、1通の手紙、1つの小包の権利)
5. Full restoration of remission lost through the protest.
(この抗議行動で立ち消えとなった減刑措置の回復)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dirty_protest#Dirty_protest


この「5つの要求」を刑務所の外から支援したのが、デリーのブラディ・サンデー事件のときのデモを主催したひとりで、1980年ごろには「ロング・ケッシュのH-ブロック」に抗議する活動をしていたバーナデット・デヴリン・マカリスキーのthe National H-Block/Armagh Committeeで、彼女とその夫は1981年1月に自宅でロイヤリストに銃撃され重傷を負った。(このとき、バーナデットの家は英軍が警備していたのだが、ロイヤリストの実働部隊の侵入はなぜか止められなかった。)このほかにも、刑務所の外にいるリパブリカンが刑務所職員を狙撃・殺害したり、ロイヤリストが「リパブリカンの囚人支援」の活動をしている人たちを狙撃・殺害したり、といったことがあいついだ。英治安当局側がこの期間に発砲したプラスチック弾は29,695発で、ハンスト後の8年間で発砲されたプラスチック弾が約16,000発だったことと照らし合わせると、どれほど激しい状態だったかがわかるだろう(source)。

ブレンダン・ヒューズが指揮した1980年の第一次ハンストも、第一次よりも参加者を増やして実行されたボビー・サンズが指揮した1981年の第二次ハンストも、上記の「5つの要求」を求めての抗議行動だったが、10人もの死者を出した第二次ハンストのしばらく後、「要求」のうち「刑務所での作業」をめぐるものを除いてすべてが通った。最後まで残された「作業」の件も、1983年に刑務所の作業所がいろいろあって畳まれたことで「通った」形になった。

ヒューズは1986年にロング・ケッシュから釈放され、その後はベルファストで生活していた。1980年のハンストで損なわれた健康は完全に回復することはなかったという。

社会主義の立場をずっと貫いていたヒューズは、1998年のグッドフライデー合意(ベルファスト合意)後のシン・フェインにはかなり批判的で、「大義」のためにファイターとして戦い、投獄された獄中で健康を損ない、刑務所から出たあとも満足な仕事を得ることのできない「元ファイターたち」の視点から、「政治」を考えて、いくつか非常に考えさせられることばを残している。

コンテクストを無視してその「ことば」だけを見ると、全体像を見誤るかもしれないが、Slugger O'Tooleにブレンダン・ヒューズのことばがポストされている。
http://sluggerotoole.com/index.php/weblog/brendan-hughes-1949-2008/

ヒューズがなぜ「GFA後の政治体制」に強く反対していたかを語ることば:
"Stormont is still there, but it is a Stormont with Republicans in it. Stormont has not changed. The whole apparatus of the Stormont regime is still there, it is still controlled by the British, it is still unjust, it is still cruel. The RUC is still there. The whole civil service are still there, the same civil servants who controlled the shoot-to-kill policy, who controlled the plastic bullets, who controlled the H Blocks of Long Kesh, who took responsibility for ten men dying. It is all still there. But, saviour of saviours, we have two Sinn Féin ministers there, who happen to close hospitals. The sad thing about all this is that the British set this up. This is the British answer to the Republican problem in Ireland. It's a British solution, it's not an Irish solution. ..."

「ストーモントはまだ存続しているが、このストーモントにはリパブリカンが入っている。しかしストーモントは変わっていない。ストーモント体制の機関は丸ごとそのまま存続している。今でも英国の支配を受け、不正で残酷である。RUCも(PSNIと名前は変えたが)存続している。(かつてカトリックに対して差別的な待遇を強いていた)民生部門もそのままだ。Shoot-to-kill(容疑者に対し、警告や負傷させて取り押さえることを目的として撃つのではなく、殺す目的で撃つこと)をコントロールしていた役人が、プラスチック弾を管理し、ロング・ケッシュのH-ブロックのことを取り仕切っていた役人が、(第二次ハンストで)死んだ10人のことに責任を負う役人が、まだそこにいる。何も変わってはいないのだ。けれども、何ともありがたいことには、今のストーモントにはシン・フェインの閣僚が2人もいてくださる。彼らはたまたま病院を閉鎖したというわけだ。こういった事態について情けないのは、すべて英国のプランだということだ。これが、アイルランドにおける共和主義/リパブリカンという問題に対する英国の回答なのだ。これは英国の解決策であり、アイルランドの解決策ではない。……」


"In 1969 we had a naive enthusiasm about what we wanted. Now in 1999 we have no enthusiasm. And it is not because people are war weary - they are politics weary. The same old lies regurgitated week in week out. ..."

「1969年には、自分たちの欲しているものについて、青臭いけれども熱い思いがあった。1999年には熱い思いなど何もなくなってしまっている。それは、人々が戦争に疲れたからではない。政治に疲れたからだ。毎週毎週、また同じ嘘が繰り返されている。……」


"I am not advocating dumb militarism or a return to war. Never in the history of republicanism was so much sacrificed and so little gained; too many left dead and too few achievements. ... I am simply questioning the wisdom of administering British rule in this part of Ireland. I am asking what happened to the struggle in all Ireland - what happened to the idea of a thirty-two county socialist republic. That, after all, is what it was all about. Not about participating in a northern administration that closes hospitals and attacks the teachers' unions. I am asking why we are not fighting for and defending the rights of ordinary working people, for better wages and working conditions. Does thirty years of struggle boil down to a big room at Stormont, ministerial cars, dark suits and the implementation of the British Patten Report?"

「私は武装闘争主義に返れと言っているのではない。リパブリカニズムがこれほど多くを犠牲にしたにも関わらずこれほど少ない成果しかあげられなかったことは歴史上なかったのだ。あまりに多くが死に、達成されたことはあまりに少ない。……私はただ、アイルランドのこの地域に英国による支配を認めることが果たしてよいことなのかどうかを問うているだけだ。アイルランド全域の闘争というものはいったいどうなってしまったのか――32州が一体となった社会主義共和国という理念はどうなってしまったのか。そのための闘争ではなかったのか。病院を閉鎖し、教員組合を攻撃する政府に参加することではなかったはずだ。なぜ一般の労働者の権利のために戦わないのか、よりよい報酬や労働環境のために戦わないのか、ということだ。30年間の闘争の末、ストーモントの大きな部屋と、閣僚用の立派な車と、しゅっとしたダークスーツと、英国の『パッテン報告書』の勧告の履行、このようなことのために30年間の闘争があったのか?」


90年代以降のアイルランド共和国の「好調な経済」(「ケルトの虎」ともいわれるほどの)、それからEUというコンテクストの中におけば、こういった声はほとんど聞こえないほど小さなものになるかもしれない。でも、1948年のではなく、1916年の「アイルランド共和国」の理念を受け継ぐ者として、今のシン・フェインのあり方はどうなのか、という疑問は、「暴力/戦火/テロの停止」をほかの何よりも優先して進められてきた peace process への疑問として、小さなものではない。

今のストーモントの「パワー・シェアリング」を前提とした体制では、「野党」という存在がない。ある意味「超民主主義」だが、それゆえに、ある党の方針に反することが、自治政府全体の方針として行なわれ、その党もそれに反対することはできない、ということが発生している。そして、それに対する「政治家たちの無力さ」が、人々の間での政治に対するアパシーを発生させる危険性はかなりあるのかもしれない。

それと、特に、シン・フェインが(というか、ジェリー・アダムズが)「政治路線」をとるようになったのは、1981年ハンスト指導者のボビー・サンズが獄中から英国下院議員に立候補して当選したときに、その方針に手ごたえと自信を得たからだったとかいうのを考えると、ダーディ・プロテストやハンストという形で「政治犯としてのステータスのための闘争」を指揮していたブレンダン・ヒューズに「今のストーモント」がどういうふうに見えていたのか、少し想像するだけでも息苦しくなってくる。ことばにしてしまうとありきたりだが、「こんなもののために彼らは死んだのか?」という思いがヒューズには常にあっただろう。

2006年に目の手術を受けたときのIrish News記事(Allison Morrisによる)を紹介し、ヒューズについて書いているMick Hallの記事@The Blanket (8 October 2006)には、次のような文がある。
Brendan Hughes is one of those rare human beings whose first thought is for those around him and for the comrades he once had responsibility for, no matter that this was in the distant past. ...
ブレンダン・ヒューズは、何よりも先に自分の周囲の人たちのことを考え、それがいかに昔のことであろうとも、かつて自分が責任をもって指揮していた同志たちのことを考える人だった。こういう人はめったにいない。……

It is well worth reading what Brendan said to Allison Morris for it epitomizes why he is regarded in such a favorable light by not only his former comrades, but even amongst those he fought against so tenaciously. ...
Allison Morrisにブレンダンが何を語ったのかはぜひ読んでいただきたい。これを読めば、ブレンダンがなぜ元の同志たちばかりか、かつて執拗なまでに攻撃してきた相手からも好意的に見られているかがわかる。……


そのアリソン・モリスの記事はヒューズのインタビューだが、そこで語られていることの「率直さ」に打たれる。ヒューズは、自身が視力を失う瀬戸際で手術を受けたあとにこのインタビューに答え(医師の診断ではハンストが原因で視力に異状が生じた)、「あのころのことが原因で苦しんでいるのは私だけではない。何百人もいる。体がすぐれない者もいれば、精神的に問題を抱えている者も、アルコール依存や抑鬱状態に苦しんでいる者も大勢いる」と語り、「元囚人支援グループは、誰を支援するかを選んで支援を行なっている。本当の支援とはいえない。酒びたりの生活の挙句、孤独のうちにだんだんと弱って死んでいったブランケット・マンを偲ぶとして壁画を描いたところで、誰の役にも立たない。それどころか、あの時代のことを美化して若い人たちに伝えてしまうわけで、それは非常によくない。刑務所の中がどういうことになっていたのか、あの時代に何があったのか、それは美化されているイメージとはかけ離れたものだ。この私がその生きた証拠だ」と語っている。

「酒びたりの生活の挙句、孤独のうちにだんだんと弱って死んでいったブランケット・マン」は、The BlanketのMick Hall記事によれば、Kieran Nugent (1958-2000) のことだそうだ。彼は1973年、15歳のときに、友人と道を歩いていたときに道を尋ねるふりをして声をかけてきた車の中のロイヤリストに撃たれ、自身は重傷を負い友人はそれで死ぬという経験をして、IRAに入った。(このような、「そこらへんの民間人をいきなり襲う」ということのバックグラウンドについては、UVFのファイターだった「ビリー」という男性の話などをご参照ください。)その後、裁判なしでの投獄などを経験し、最終的に1976年(18歳のとき)にロング・ケッシュに投獄された際に囚人服を拒み、毛布に身体をくるんで「最初のブランケット・マン」となった。彼がなくなったときのAn Phoblacht(シン・フェイン機関紙)の記事には、「ごく普通の少年の英雄的闘争」については細かく書かれているけれども、その悲惨な死については何も書かれていない――アイリッシュ・リパブリカンの「闘争」が南アフリカにとっていかなる意味を持っていたかなどは書かれているのに。

ブレンダン・ヒューズの訃報を伝えるBBC記事には、ヒューズのこうした声などどこ吹く風とばかりに、「ジェリー・アダムズと肩を組んで笑っているブレンダン・ヒューズ」の写真(たぶん1970年代のもの)と、アダムズの「お悔やみのことば」が掲載されている。(おそらくはアダムズもここにあることばに表れていない何かを胸中に抱いているのだろうけれども。)



It's at the end of the rainbow (White noise in)
The happy ever after (a white room)
Dirt behind the daydream
Dirt behind the daydream
The happy ever after
It's at the end of the rainbow
Dig at the root of the problem (Fly the flag on foreign soil)
It breaks your new dreams daily (H-block Lock Kesh)

Gang Of Four, "Ether"
http://en.wikipedia.org/wiki/Entertainment!




ブレンダン・ヒューズのことば:

The Quest for Justice: Continuing the Struggle (@ Ireland's Own)
http://irelandsown.net/brendanhughes.html
※2000年のインタビュー3本、2006年のベルテレさんのインタビュー記事1本、1980年のハンストを語る短い文章(エントリ本文でKilling Finucaneから引いたもの)、2000年に本人が書いたオブザーヴァー記事1本。

Radio Free Eireann Interview with Brendan Hughes
http://homepage.eircom.net/~repwrite/invdark.html
※何年のかがわからないのだけれど、John McDonaghによるヒューズのインタビュー。半生の回想、ロング・ケッシュでのこと、などとても詳しい。

Hunger striker in fight for sight
(Allison Morris, Irish News)
October 7, 2006
http://www.nuzhound.com/articles/irish_news/arts2006/oct6_Hunger-striker_sight.php
※エントリ本文でも言及したけど。

Wealthy Provo Leadership abandon Ex-Prisoners
April 20, 2006
the Sunday Tribune
http://www.indymedia.ie/article/75599
※インタビュー。ずっとファイターとして過ごしてきて、手に職もなく教育もなく資格もないヒューズが、出獄したあとに現場仕事で「日当£20」というひどい状況に抗議したときに、Republican Newsもろくな反応をしなかったことなど。すごい記事だ。



ブレンダン・ヒューズとともに、1980年10月のロングケッシュでのハンストを行なった人々について:

Tommy McKearneyは文筆活動を行なっている。ヒューズと同様、現在のシン・フェインには批判的。
http://www.tommymckearney.com/
http://en.wikipedia.org/wiki/Tommy_McKearney

Raymond McCartneyはシン・フェインに所属する政治家。2004年からFoyle選挙区選出MLA。
http://en.wikipedia.org/wiki/Raymond_McCartney

Tom McFeeley, Sean McKenna, Leo Greenと、INLAのJohn Nixonについてはネットでちょこっと検索した程度では特に何も情報がない。



エントリ本文で言及した本・映画:
0717135438Killing Finucane
Justin O'Brien
Gill & Macmillan Ltd 2005-06-01

by G-Tools


0790731142Some Mother's Son
Helen Mirren Fionnula Flanagan Aidan Gillen
Castle Rock 1998-06-02

by G-Tools


Etherが入ってるGang of Fourのアルバム:
B00003WG0MEntertainment!
Gang of Four
EMI 2001-04-24

by G-Tools




■追記@20日:
葬儀については下のコメント欄に。

それとは別に、IHTで見たAPの記事。これがかなりよい記事だ。「いろいろと複雑なのである」ということをはっきりと示しつつ、事情に詳しくない人が読んでもすっとわかる。事態に関係のある人たちのエクリチュールではこうは行かないかもしれない。

Former Irish Republican Army commander dies
The Associated Press
Published: February 19, 2008
http://www.iht.com/articles/ap/2008/02/19/europe/EU-GEN-NIreland-Obit-Hughes.php

DUBLIN, Ireland: Brendan "The Dark" Hughes, a one-time Irish Republican Army commander who broke with former comrades when they pursued peace in Northern Ireland, was cremated Tuesday after a funeral that briefly unified both sides of the split.

Hughes, 59, who died Saturday, spent his final years criticizing Sinn Fein leaders for accepting Northern Ireland's 1998 peace accord. He said that, while the IRA should not return to violence, its political leaders made people suffer needlessly for decades when the British government had offered similar peace terms as long ago as 1975.

Sinn Fein leader Gerry Adams, a longtime comrade of Hughes inside and outside prison, helped carry his coffin outside St. Peter's Cathedral in Catholic west Belfast, where both men joined the IRA as teenagers.

Adams declined to comment. He issued a statement after Hughes' death calling him "a very good friend and comrade over many years of struggle."

Veterans of the IRA and dissident groups were among more than 2,000 mourners.

Sinn Fein officials appealed successfully for no politically divisive comments during the funeral.

Hughes specified before dying that he wanted to be cremated rather than buried in the IRA's roll of honor section in Milltown Cemetery, west Belfast, where dozens of his comrades lie.

The cause of death was not disclosed. But his family said he had suffered illnesses associated with his failure to recover fully from the effects of a 1980 hunger strike.

... 以下、ブレンダン・ヒューズについての説明の記述がたっぷり。


特に「ミルタウンのIRA戦士の墓地に埋葬するのではなく火葬を」と本人が言い残し、実際に火葬されたということは、ベルテレさんやブリテン島のメディアでは触れられていなかった。

また、政治的に見解が分かれるようなことはヒューズの葬儀では口にしないという取り決めがあったことも、触れられていなかった。(これがなければ、「友人」のジェリー・アダムズの参列は難しかったかもしれない。)

そしてこのIHT掲載のAP記事がすごいのは、記事末尾にThe Blanketへのリンクを提示している点だ。
On the Net:
Hughes interviews and articles,
http://lark.phoblacht.net/BH0208.html


英国の新聞社などではこのURLを掲示するという判断はできなかろう。

なお、文中にあるアダムズのステートメントは:
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article3442323.ece
... the west Belfast MP paid him tribute: "On behalf of myself and my family, and republicans everywhere, I want to extend my sincerest condolences to Brendan's family.

"Brendan was a very good friend and comrade over many years of struggle. As a republican activist in the 1970s he demonstrated enormous courage and integrity and spent over 14 years in prison, never fully recovering from the hunger strike he led.

"Although he disagreed with the direction taken in recent years, he was held in high esteem by all who knew him."


シン・フェインのサイトに全文が上がっています。
http://www.sinnfein.ie/news/detail/24499

※この記事は

2008年02月18日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:45 | Comment(1) | TrackBack(1) | northern ireland/people | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
葬儀の様子を報じるBBC記事。
Funeral of former hunger striker
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7252783.stm

教会までの沿道に2000人、棺を運ぶ故人の友人たちのなかにジェリー・アダムズ(写真あり)。棺にはアイリッシュ・トリコロールの旗がかけられています。

同じくベルテレさん記事。
Funeral of IRA man and hunger striker
Thousands mourn Brendan Hughes
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article3445568.ece

こちらでは人数は「約1500人」とあり(BBCで「2000」、ベルテレで「1500」で題材はナショナリストということは、実際には「3000人」くらいか)、写真は親族あるいは親戚かな、比較的若い男性たちと女性が棺を運んでいるところ。

[quote]
A lone piper played as the coffin, draped in an Irish tricolour, was carried by friends and family from his sister's house to St Peter's Cathedral in west Belfast.

During the requiem mass Father Brendan Smyth referred to Mr Hughes's nickname, The Dark.

He said it both invoked worry and commanded respect amongst the community.

Father Smyth said: "Today we come to lay that man, that name to rest."

...

Father Smyth told mourners that Mr Hughes had both his critics and those who supported him, but said the decision to stop the hunger strike in1980 saved one man's life.

Mr Hughes's lengthy fast, however, left him with a variety of heart and vision problems.

Father Smyth also said Mr Hughes had suffered from depression in the past.

He added Mr Hughes left prison with only the clothes on his back, but he didn't leave empty handed.

"He had baggage no-one could see," Father Smyth said.
[/quote]

ベルテレさんのオビチュアリ(ベルテレさんのユニオニスト新聞としてのスタンスが前提の記事だけれども):
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article3442371.ece
[quote]
A classic photograph from the 1970s shows him grinning arm-in-arm with Adams inside Long Kesh (which later became the Maze prison). Many disillusioned years later the picture still hung in Hughes's tiny flat in west Belfast: "The reason I keep that there is it reminds me what it used to be like," he explained. "I loved Gerry. I don't anymore, but I keep the photos to remind me of the good times."
[/quote]

にしても、ベルテレさんではsocialismという語は禁句なのだろうか。それを書かないとブレンダン・ヒューズのことは書けないと思うのだが。

合掌。
Posted by nofrills at 2008年02月20日 00:31

この記事へのトラックバック

【訃報】ある「元ハンガーストライカー」の死
Excerpt: 1980年10月にロング・ケッシュでハンストを行なった7人のひとり、ショーン・マッケンナが亡くなった。(今年はこのハンストのリーダーだったブレンダン・ヒューズも亡くなっている。)
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2008-12-22 18:19

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼