kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年02月16日

アフガニスタンの「和解」の道を追放された専門家が語る。

昨年12月末に、国連の職員とEUの職員が、アフガニスタン政府から国外追放処分となった。国連職員はMervyn Pattersonさん(英国籍、北アイルランドの人)、EU職員はMichael Sempleさん(アイルランド共和国国籍)で、どちらもアフガニスタンでの経験豊富な専門家だ。国外追放の理由は、南部ヘルマンド州で「タリバン」と会って話をしていたからだということだったが、細かいところはよくわからない(よくわからない理由は、あまり詳しいことが大きくは報道されていないことと、私がニュースチェックをあまり細かくはしていないことによる)。

今回、追放されたうちのひとり、アイルランド人のマイケル・センプル氏が、追放後初めてメディアのインタビューに応じた。ガーディアン、16日付で同紙アイルランド部門のトップ、ヘンリー・マクドナルドが記事にしている。(ヘンリー・マクドナルドといえば北アイルランド紛争が専門であるが。)記事は、印刷された新聞では一面の下部に掲載されている。

We can persuade Taliban to be peaceful - expelled UN man
Henry McDonald, Ireland correspondent
The Guardian,
Saturday February 16 2008
http://www.guardian.co.uk/world/2008/feb/16/afghanistan.terrorism

センプル氏は、1980年代半ばに英国の新聞の求人広告に応募してアフガニスタンで仕事を開始し、2001年4月(「アフガニスタン」が全世界的な関心を集める前)にオーストラリアのABCがインタビューを行なった時点で既に、「アフガニスタンで最も経験を積み、尊敬されている職員」だったという人で、現地事情に通暁した専門家である。言語障壁の問題もない。

そのセンプル氏が、今回のガーディアンのインタビューで、「アフガニスタンでタリバンの配下にある戦士たちの3分の2は、説得すれば戦闘から手を引くだろう」と語っている。

なお、この記事は基本的な事実誤認があるようだ。記事にはセンプル氏について「国連職員 (a UN official)」とあるのだが、それは同時期に追放されたマーヴィン・パターソン氏のことで、センプル氏は「EUのアフガンミッションのトップ」である。ただし同時に、センプル氏はカブールの英国大使館のシニア・アドバイザーだったそうだ(a senior political adviser to the British embassy in Kabul)。それが本当だったら(マクドナルド記者の事実誤認でなければ)もう、わかりやすすぎるSIS (MI6) だなぁと思うのですが。(←この点、明日以降に記事訂正が出るかもしれません。)

インタビューでセンプル氏は、パターソン氏とともに「タリバンと関係のある人々 (elements linked to the Taliban)」と話をしたことを認め、それは正当なものであると説明している。

センプル氏は自身とパターソン氏の追放を「地域政治に巻き込まれた ([they] were victims of local politics)」のだと語り、ヘルマンド州のリーダーが2人の専門家を「絶対に折れない勢力と話をした」として断罪したことが原因だが、その非難は間違っている、と述べた。つまり、専門家2人は、アルカイダとつながっているタリバンとは交渉のチャンネルを開いていない、と。

ということはつまり、やはり「タリバン」には少なくとも2種類のシニフィエがある、ということだ。ひとつはアルカイダと直結している「ファナティックな」戦士たち、もうひとつは基本的に地域の自警団みたいな人たちで、資金や武器などはタリバンから流されてくるという立場の人たち。後者はタリバンに「協力」してはいるにせよ、主義主張でガチガチなわけではない、ということだろう。

ここでちょっと北アイルランドのUDA/UFFのこととかも頭に浮かんだのだけど、今はちょっと忘れて先に進む。もちろん、2004年のファルージャのこととかも頭に浮かんだのだけれども、とにかく先に進む。

ちょっと書き留めておきたい部分を引用:
"There is a critical difference between what is discreet and what is covert," Semple said. "What we were doing was simply discreet because that was what was required. But it was totally in line with official policy to bring people in from the cold."

"discreet" と "covert" の違い。どちらも「表から見えない」ということなのだが、discreet は「おおっぴらにしない」とかいう感じ、covert は「隠す(覆いをかける)」とかいう感じで、一般に「CIA(やSIS)の隠密作戦」といわれるものは後者だ。だが専門家2人がやっていたことはそっちではなく、単に discreet なものだった、とセンプル氏は説明している。つまり、「あまりおおっぴらにできることではなかったので、目立たないように動いていたのだ」。そしてそれは、「公式の方針と合致している」。

「公式の方針 (official policy)」とは、アフガニスタン政府がやっている/やろうとしていることで、人々が「タリバン」(ガチの方の)につかないようにするための取り組み。ガチのタリバンを武力で潰すだけでなく、そもそもタリバンについててもあまりうまみはないですよ、という方向の環境作りをしていく、というもの。

何かここでまた、「2007年1月、シン・フェインは党大会で警察へのサポートを圧倒的多数で可決した」とかいうのが頭にぼやーんと浮かんでくるのだけれども、無視して先に進む。

センプル氏はそういう「ガチでないタリバン」として、ヘルマンド州のあるリーダーの例を挙げている。ムッラー・マムーク(マクーク師)とうその指導者は、西側からは「テロリスト」として手配されているが、それは地域で彼と敵対する勢力が西側に流した情報に基づくものにすぎない、と。

ええと、イラクでも「反サダム・フセイン勢力」の個人によってころっと騙されたかたちの「西側の情報当局」が、アフガンでもやっぱり騙されてた、ということなんですかね。(イランなんて、イラクやアフガンよりもっと細いパイプしかないんだから、こういう「誰かの言っていることを鵜呑みにする」系の無謀なことで動かないでおいてもらいたいもんですね、ほんと。)

そして「テロリスト」として手配書に載せられてしまったムッラー・マムークは、「身の安全を確保するために(ガチの)タリバンのところに行く」。そのときに「自分の配下にある人たちを連れて」いったと、こういう話だとセンプル氏は説明している。そのときに、自分が掲載されている手配ポスターを(ガチの)タリバン司令官に示して、「私もあなたたちと同じ立場にあるようです」と言った、と。

「敵の敵は味方」というか、アフガニスタンって本当はこういう「あれかこれか」で決まるような単純な社会ではないはずなのだけれども、この際そうするしかない、というのが感じ取れる。

かくしてムッラー・マムークは現在はヘルマンドで英軍を敵として戦っているのだが、センプル氏は「マムーク師のような地域のリーダーたちは、また(こちら側に)取り戻すことが可能な人たちだと考えている」と語る。

「マムーク師のように、簡単に陣営を変えることができる人たちは非常にたくさんいます。だからこそ私は、事態をしっかり管理すれば、反乱軍の3分の2は絶対に折れない勢力(=ガチのタリバン)から引き離すことができる、と考えているのです」とセンプル氏は語っている。そして、米軍の侵攻の初期にアフガンからグアンタナモに連行された人たちの一部が、カルザイ政権支持に立場を変えている、ということも付け加えた。その例として、センプル氏はハジ・ナイーム・コチ(←読み方適当。Haji Naeem Kochi)を挙げてこう述べたという。

「彼とは長いこと知り合いだったのですが、9.11後の侵攻でグアンタナモに連行されてしまいました。彼が戻ってきたときに会ったのですが、最初に私が尋ねたのは、英語は少しはできるようになったか、ということでした。彼は『ええ、でもアメリカ人の看守が寝るなとか座れとか言ってるのを覚えただけです』と答えました。そんなふうだったにもかかわらず、彼は今では、アフガニスタン人全員の和解を目指す平和委員会の一員となっているのです。」

知り合いがグアンタナモに送られて、それをどうすることもできなかったひとりの「西洋人専門家」というだけでも私は「くはー」となってしまうのだが、それ以上に、「カルザイ政権はアメリカの傀儡」といったことよりも、「人々の間に暴力が存在しなくなること(平和)」を優先しなければならない、という考えで、「アメリカ」にひどい目に遭わされたひとりのアフガニスタン人が動いている、というこの現実。Peace before justice――金曜日のテレビ番組で東京外語大の伊勢崎先生がシエラレオネ内戦について「人々を虐殺してきた反乱勢力の司令官が高位の閣僚として入閣」という米国の提案を受け入れてやっと暴力が停止した、ということを語っておられたけれども、何というかその、イラクの「現実」(「死の部隊」だったバドル旅団は今では公式に「イラク治安当局」の一部だし、宗教右派でマフディ軍を抱えるムクタダ・サドルは武装勢力を動かすぞと脅して自身の政治的地位を保持しているし)などとも重なって、何かもう、吐きそう。

先に進みます。

センプル氏は、自身の国外追放処分について、「タリバン側についていた地域リーダーたちが戻ってくると自分に与えられた分が減ると考えたある地域リーダーが、まったくのでっち上げを行なったためだ」と説明している。おそらく、その「地域リーダー」に与える飴があんまり甘くなかったのだろう。

センプル氏はまた、自身とパターソン氏がヘルマンドでやろうとしてきたことを、米軍がイラクのアンバールでやったことと並べて語っている。ファルージャやラマディを含むアンバールは、米軍が地域のスンニ派武装勢力との「対話」へと路線を転換したことで、アルカイダの締め出しに成功した(というのは公式の説明で、《事実》の一面しか伝えないのだが。あの、物理的にも人々の心という面でもがっちがちに要塞化された「都市」をどうするというのだろう、これから)。

センプル氏の説明によると、カルザイ政権の要職者にはタリバン政権で要職にあった人たちも多く、また、アフガンの社会全体として、タリバン政権にいた人たちを排除する方向には行っていない。元タリバン政権の人たちも、現状に批判的な場合もあるが、それでも平和のうちに暮らしている(living at peace)。

テレビで伊勢崎先生がおっしゃっていたのだけれど、「正義 justice」は人によって違う。でも「平和 peace」、つまり暴力の停止はそうではない。だからこそ "peace before justice" というあり方が、一種の標準になっているのだと思う。

前のタリバン政権での、例えば「女性の権利を弾圧」とかいった点を「不正義」として糾弾する動きも、ほんの何ヶ月かですっかり静かになってしまっている(そして、それでも「女性の教育」などは、本当に限定された範囲で少しずつではあるけれども、タリバン時代よりはよくなってきていると報告されている)。

「不正義」だから「何とかしなければいけない」のではなく、「暴力が常にそこにある」から「何とかしなければいけない」。正義かそうでないかは常に最優先されるものではない。

北アイルランドも基本的にそういうことだと私は思っている。

問題は、そういうことを踏まえているのかどうか怪しい主義主張が、英国政治のトップから出てくることだ。デイヴィッド・ミリバンドのことだが。(「正義の戦争 just war」なんてものはないのに、ミリバンドはどうやらそういうものを信じているらしい。)

最後に、記事から、センプル氏らがやろうとしていたことについて、「ことば」として書きとめておくために引用:
Semple advocated creating a "network of patronage" to lure men like Mamuk away from the Taliban.

"network of patronage"!! こりゃまたすごい概念が持ち出されてくるものだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Patronage

(一瞬、network of espionageを読み間違えたのかと思ったのはここだけの話だ。)

※この記事は

2008年02月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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