※記憶のために書くものなので、「ネタバレ」とかは気にしていないから、内容をあまり細かく知りたくない人は「続きを読む」はクリックしないでください。この映画はドキュメンタリーなので「ネタバレ」も何もないと思いますが。
1972年1月30日、20歳でアートスクールの学生だったマーゴ・ハーキンはその場にいた。そして、帰宅して見たテレビで報道されていたことと、自分が自分の目で見たことのあまりの違いにショックを受け、映画制作の道に進むことを決意した――北アイルランド映画祭のために来日しているマーゴ・ハーキン監督は、9日の上映後の質疑応答のときにそう語った。
「デリー・ダイアリー ブラディ・サンデーのその後」 Bloody Sunday - A Derry Diary
2007年、マーゴ・ハーキン監督・制作
http://www.niff.jp/films-derry.htm
http://www.imdb.com/title/tt0938609/
えっと、このあとすごく長くなるので先に書いておきますが、この映画、音楽が、The UndertonesおよびThat Petrol EmotionのJohn O'Neillです(上映後の質疑応答で、監督は成り行きから「みなさんはご存知かどうかわかりませんが、彼はデリーのセレブ(笑)」って言ってましたが)。すごい、何と言うか感情がゆさぶられるような音楽で、音楽だけ単体で欲しいとすら思ったんですが。
JohnじゃなくてSean O'Neill名義でやってたバンド "Rare" の音源、まだ入手できるみたい・・・ちょっと高いけど。
Peoplefreak Rare Arctic 1997-11-17 by G-Tools |
というところで映画の話。
この映画は、事件から26年も経過した1998年に開始された「サヴィル・インクワイアリ」を追ったものだ。「サヴィル・インクワイアリ」とは、1997年に成立した労働党ブレア政権下で実現した「ブラディ・サンデー事件」の真相究明ための公式なインクワイアリ(調査)である。膨大な数の証人から聞き取りが6年間にわたって行なわれ、2004年に調査の段階は終了したが、当初確か2006年8月には出るとの予定だった最終報告書は遅れており、いまだに出ていない。
このインクワイアリを実現させるまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。80年代には北アイルランドばかりかイングランドでもIRAが暴れ、英国の政権は保守党(しかもサッチャー)で、「北アイルランド」といえば、当事者はIRAなど武装組織と英軍と、みたいなことになっていて、一般市民、それもナショナリスト(カトリック)の一般市民であるブラディ・サンデー事件の被害者遺族や目撃者は、何かを発言すれば報道してもらえるような立場ではなかった。
1972年から2004年までの「デリーの人々」を、サヴィル・インクワイアリの6年間を中心に追い、85分に圧縮したこの映画は、ぎゅっと中身が詰まった重たいお菓子のようで、できれば少しずつ削って食べたかったのを一気に食べたので、消化不良になっている、という感じだ。書いた断片がまとまらない。
ちょうど「北アイルランド映画祭」と同じ週に来日していたRATMに、次のような歌詞の曲がある。情報操作を行なう側が何度も何度も繰り返し流す《嘘》を、世間は鵜呑みにしている、ということを、RATMは「頭に被弾している」という比喩で表した。
No escape from the mass mind rape
Play it again jack and then rewind the tape
And then play it again and again and again
Until ya mind is locked in
Believin' all the lies that they're tellin' ya
Buyin' all the products that they're sellin' ya
They say jump and ya say how high
Ya brain-dead
Ya gotta fuckin' bullet in ya head
--- Rage Against the Machine, "BULLET IN THE HEAD" (1999)
http://www.ratm.net/lyrics/bul.html
RATMのライヴに行った方のブログ記事などを読みつつ(自分は行けなかったんですが)、比喩ではなく本当に頭に被弾して倒れているBernard McGuiganさんの写真を思い出し、Eyewitness Bloody Sundayの口絵ページでその写真を見て(→YouTubeのこのビデオの1:40の写真と同じ犠牲者を撮影したもの:ビデオの音楽はWolfe Tonesの "Bloody Sunday")、ブラディ・サンデーの被害者や目撃者になってしまった人たちがひっくり返さなければならなかった《嘘》の大きさを、ちょっとだけでも、ちゃんと見てみようと思った。
1972年1月30日、デモに参加して事件を目撃した20歳の美大生に、ファインアートではなく映画の道を選ばせた報道とはどのようなものだったのか。
私は事件をリアルタイムで知らない。事件から軽く10年以上経って、80年代にラジオで流れていたU2の曲で "Bloody Sunday" というフレーズを知って、それからその曲の解説として、「アイルランド」でそう呼ばれる事件があったのだということを知った(当時は「アイルランド」も「北アイルランド」もわかってなかった)。そのときには既に、「非武装のデモ隊への発砲」として伝えられていたはずだ――私は最初から、この事件を「非武装のデモ隊への発砲」として認識している(その意味で、U2の功績は小さなものではないと思う。ナショナリストの間では複雑な受け取られ方をしているのかもしれないけれども)。
しかし1972年の事件直後はそうではなく、「過激派の暴動の鎮圧」として伝えられた。
デリーでのあの銃撃の翌日(1月31日)、翌々日(2月1日)には、調査も為されていないというのに、英軍の「大本営発表」(<日本語には便利な表現方法があるもんだ)が《事実》として世界中に伝えられたということは、ブラディ・サンデー事件を扱った多くの本などに書かれているが、今回、「北アイルランド映画祭」のために来日したマーゴ・ハーキンさんが「家に帰って見たテレビが言ってることと、自分が目撃したこととは、まるで違っていた」と語るのを聞いて、発砲からわずか数時間後(発砲は午後4時ごろ)の時点で早々と《嘘》が始まっていたという事実に、わかってはいたことなのだけれどもそれを経験した人の口から直接語られるそのことに、心底寒々しい思いをした。
まず、BBCの――デリーの人たちの間には、BBCに対する根本的な不信があるようだけれど――過去のニュースのアーカイヴ、On This Dayでの1972年1月30日、ブラディ・サンデー事件についてのページ:
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/january/30/newsid_2452000/2452145.stm
ここに当日の様子を記録した11分21秒の映像がある(Play Videoをクリック)。この11分以上の映像にはアナウンサーなりレポーターなりの解説が一切入っておらず、当日の放送用に編集されたものは別に存在しているだろうが、この映像がこういうふうに自由に見られることはすごいことだ。
あのデモ行進がそもそもは「お祭りムード」だったことがよくわかる映像だ。最初は遊具で遊ぶ子供たち(一瞬だけ)。それからデモ行進が始まって、デモ隊が坂を下ってくる様子があって、道路を封鎖する英軍との対峙の様子があり、それから発砲(人が撃たれるところはうつっていない)、倒れた人の搬送(全体が英軍サイドから撮影されている)。8:00くらいから、「事件」後のインタビューでFather Daly(「デモ隊からの挑発、発砲は一切なかった」など)。9:20くらいから、軍人(Major General Robert Ford)のインタビュー(「デモ隊からの発砲があり、応戦した」、「兵士2人がアシッドボムにやられた」など。インタビュアーはかなり激しい口調)。
この11分以上の映像の中から、デモ隊が投石している場面と軍からの放水の場面、発砲する兵士の姿と、フォード准将の「デモ隊からの発砲があり」云々という部分をつなぎ合わせ、現場の記者のレポートが入ったものが、おそらく、当日夜のニュースだろう。デイリー神父の「デモ隊からの挑発はなかった」というインタビューは、入っていたとしても申し訳程度にだっただろう。
1998年から開始されたサヴィル・インクワイアリでは、当時BBCの記者だったPeter Stewartが、次のように証言している(2001年5月)。マーゴ・ハーキンさんが見たのは、ここで語られているニュースかもしれない。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/1333821.stm
Mr Stewart reported on the 1800 news that night that Army Paratroopers met a "fusillade of terrorists' fire" on entering Derry's Bogside.
But he admitted to the Saville Inquiry on Wednesday that those words were not accurate and "an unguarded statement".
ステュワート記者は当日18:00のニュースで、英軍パラシュート連隊がデリーのボグサイド地区に入ったとたんに「テロリストからの一斉射撃」に遭った、と報じた。しかし彼はインクワイアリの場で、これらの言葉は正確なものではなく、「軽率な発言」だったと述べた。
ステュワート記者はロンドンのスタジオにいたのではなく、デリーの現場にいた、ということも書き添えておくべきだろう。インクワイアリの場で彼は、フォード准将とウィルフォード大佐の会話を聞いた、と証言している。記者がフォード准将に状況を聞いたあとにウィルフォード大佐が来て、「2人の遺体を発見しましたが、どちらも武器は所持しておりません。残念です (I'm sorry)」と告げたのだそうだ。そしてステュワート記者は現場を離れ、テレビ・ニュースで「死者は2〜3人」と述べた。ずっと時間が経ったあとのインクワイアリで彼は、「テロリストからの一斉射撃」の発言と「死者は2〜3人」との発言が、デリーの人々の「BBCは英軍の行為を隠蔽しようとしている」との疑念を買ったのだろうとも述べている。
テレビよりは慎重であっても不思議ではない活字メディアもひどかった。政治的に最も「左」だったはずのガーディアンで見てみよう。(ま、ガーディアンが「左」なんてのは、あくまで相対的で、テーマに依存したことなのですが。)なお、ガーディアンは、過去の重大事件についての記事の利用無料のアーカイヴが充実していて、こういうときに非常に利用しやすい。
まずは前菜的に、ウィキペディア英語版の「ガーディアン」のページから。どういう立場の人が書き込んだのかわからないが、「1959年(にマンチェスター・ガーディアンからガーディアンになった)以降」という項で、ブラディ・サンデー事件に際してのガーディアンの姿勢について、次のようにある。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Guardian#After_1959
When 13 Civil Rights demonstrators were killed Bloody Sunday, 30 January 1972, in northern Ireland, the Guardian blamed the protestors: 'The organisers of the demonstration, Miss Bernadette Devlin among them, deliberately challenged the ban on marches. They knew that stone throwing and sniping could not be prevented, and that the IRA might use the crowd as a shield.' (Guardian, 1 February 1972).
1972年1月30日の血の日曜日、13人の公民権デモ参加者が殺されたとき、ガーディアンはデモ隊を非難した。「ベルナデット・デヴリン氏らデモを組織した側は、故意に、デモ行進禁止令を無視したのである。彼らは投石や(デモ隊に紛れ込んだ武装勢力による)狙撃が避けられないものであるとわかっていたし、IRAがデモ隊を楯として利用するかもしれないということも認識していたのだ」(1972年2月1日、ガーディアン)
あの「左翼新聞」のガーディアンがこの調子だったということは、ブラディ・サンデー事件を「非武装のデモ隊への英軍の発砲」として最初から認識している人も、ちゃんと知っておくべきことだろう。
ウィキペディアからでも元記事をたどれるようにしといたのだが、ガーディアンは「ブラディ・サンデー」のアーカイヴで元記事を確認しよう。
現時点ではアーカイヴの14ページ目(最も古いページ)に、1972年当時の記事が上がっている。
http://www.guardian.co.uk/uk/bloodysunday?page=14
第一報は、当時北アイルランドでガーディアン記者をしていたサイモン・ウィンチェスター(1944年生まれ:今まで気付かなかったんだけど、博士と狂人のサイモン・ウィンチェスターだ!)の記事:
13 killed as paratroops break riot
Simon Winchester in Londonderry
Monday January 31 1972
http://www.guardian.co.uk/uk/1972/jan/31/bloodysunday.northernireland
3パラグラフ目に、一人称複数を使って(報道では珍しい)「軍の公式説明では、集合住宅の下に潜んでいた複数のガンマンから発砲を受けたから応戦したというが、デモにいた私たちは軍からの発砲の前に聞いた銃声は一発だけだった」とある。
The Army's official explanation for the killing was that their troops had fired in response to a number of snipers who had opened up on them from below the flats. But those of us at the meeting heard only one shot before the soldiers opened up with their high velocity rifles.
このあとは、デリー市民側からの証言をまじえながら事件の状況(5W1H的な)を説明しているのだが、途中から、何が軍の公式発表で何が記者本人が目撃したことなのかがわかりづらくなってきて、最後から5パラグラフ目には、今度は一人称単数で次のように書かれている。
There was certainly some firing from the IRA. I heard one submachine-gun open up from inside the flats and heard a number of small-calibre weapons being fired intermittently, but the sound which predominated was the heavy, hard banging of the British SLRs, and this continued for about 10 or 15 minutes.
結局これはサイモン・ウィンチェスターの誤認だったのだが、現場にいた彼が「一発目はIRAから」と書いたことは、《事実》として利用された。そしてその後、「一発目は誰が撃ったのか」が「問題の核心」となってゆく。本当は、問題の核心は、非武装の人たちが銃撃されたことだというのに。
2001年に彼がサヴィル・インクワイアリで「自分も軍の標的にされたように思う」などと証言したときに、彼自身が「後から考えれば軍のマウスピースとして利用された」ということを認めた。(BBCの記者といい、いろいろと工作活動があったんですなぁ。)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/1343128.stm
なお、ウィンチェスター記者は、事件の数ヵ月後にIRAに連れて行かれて「ああいうアホなことを書かれては困る」と言われたそうだ。彼は、北アイルランドで記者をしている以上、各武装組織ともパイプがあったのだが、IRA側で「この記者は変な奴ではない」との評価が確定していたそうで、じゃなかったらどうなっていたか…… (^^;)
閑話休題。
ウィンチェスターの記事の翌日、2月1日には、今度はサイモン・ホガートで、デリーの人たちの「こちらからの発砲はなかった」、「犠牲者は一人残らずイノセントだ」との証言を、事件翌日の街の様子とともに伝えている。両手を上げて白いハンカチを掲げて、武装しておらず敵意もないということを示していた人までが発砲された、といった証言もある(ブラディ・サンデーではこれは一件だけではなく、白いハンカチを掲げて倒れている人の救出に行って実際に撃たれた人もいる)。
Bogsiders insist that soldiers shot first
From Simon Hoggart in Londonderry
Tuesday February 1 1972
http://www.guardian.co.uk/uk/1972/feb/01/bloodysunday.northernireland
この記事の最後の方に、現場にいたパラシュート連隊司令官だったLieut. Col. Derek Wilfordによる事態の説明がある。この人はマーゴ・ハーキンのドキュメンタリーにも姿が出てくるが(サヴィル・インクワイアリーで証言した時期の、しゃきしゃきと歩いている姿)、軍側の《嘘》を担ったひとりである。
Lieutenant Colonel Derek Wilford, the paratroopers commanding officer, last night gave his own version: "We moved very quickly when the firing started. Their shots were highly inaccurate. I believe in fact they lost their nerve when they saw us coming in.
"Nail bombs were thrown and one man who was shot was seen to be lighting a bomb as he was shot. This is open to conjecture, but I personally saw a man with an M1 carbine rifle on the balcony of a flat. I don't believe people were shot in the back while they were running away. A lot of us do think that some of the people were shot by their own indiscriminate firing.
明らかに背後から撃たれている人がいるというのに、「あれは自分たちの側の発砲に被弾したのだ」とは、ツラの皮の厚さが5メートルくらいありそうだ。
そして、ウィキペディアでも取り上げられているのが、サイモン・ホガートの上記記事と同じ2月1日の社説だ。(関係ないけれど、この時点ではまだ "Bloody Sunday" という言葉は出てこない。"The Londonderry shootings" とかいう形で表されている。)
The division deepens
Leader
The Guardian,
Tuesday February 1 1972
http://www.guardian.co.uk/uk/1972/feb/01/bloodysunday.northernireland1
事件についての調査(ウィジャリー・トリビューナルのこと)が開かれると決定したのを受けて、「確かに事実は把握されねばならないが、そんなことをしても北アイルランド情勢はよい方向には向かわない」との意見を述べている。けっこうな「現実主義」でございますこと。あと、妙な美文調にイライラさせられるが、当時の「空気」や「情勢」を知る上ではかなり貴重な資料ではある(例えば、"unless some means can be found to bring about a dialogue between the Ulster Unionists and the Ulster Opposition [= Nationalists] Northern Ireland will end in civil war" とか、あと当時のアイルランド共和国のリンチ政権の関わり方への見方とか)。
この社説は「北アイルランドが内戦へと進んでいくことを思えば、日曜日の恐怖と悲劇でさえも色あせる」と書き(矮小化)、上にウィキペディアから引用の形で示したように、「デモのオーガナイザーの側はこうなることをわかっていてやったのだから」というような見当違いの批判がなされる。大前提となっている《事実》は「IRAがそこにいて、IRAが英軍に発砲したのだ」という大本営発表(と、サイモン・ウィンチェスターの第一報)。それを、"It may be the case, but ... " のレトリックで延々と書き続けている。
イラク戦争の直前もだったけど、ガーディアンの社説って突然、大本営発表をそのまま、クソおもしろくもない美文調に仕上げたようなのが出てくるよね。
で、この社説の真ん中からあとは、「直轄統治」の可能性についての話になるのだが(結局はこのあと1972年3月から、ストーモントのユニオニスト政府は停止、英国の直轄統治になるのだが)、それをしても事態は変わらないだろう、という論。それどころか、「ユニオニストは北アイルランドが英国政府によってアイルランド共和国に売り渡され (being sold out) 、セクタリアンな国家へと送られる (forced into a sectarian state) ことをおそれ、そうならないようにするために戦い抜くだろう」という観測。
私には、何でガーディアンの社説がイアン・ペイズリーのマウスピースになってるのかわかりません。「北アイルランド紛争」について、現在「イスラムのテロ」と言うのと同じような意味合いで、「カトリックのテロ」というとらえ方が(そういう言葉遣いをしていたかどうかは別として、とらえ方として)、範囲は限定的であるにせよ、あったことは確認できるのだけれども。
また、「英軍の撤退」については、ははは、まさに2003年から現在の、「イラクから撤退すべきではない」との主張のテンプレかと。
すごいのがこの社説の最後のパラグラフだ。
Bitter words after Sunday are understandable. They should not be treated as irrevocable. The Londonderry shootings are a severe setback to the hope of talks. But the choice is talks or civil war. Perhaps the situation can be held for a time at its present level, tense and unresolved. Eventually it must come to negotiations or worse fighting. To bring the Catholic Opposition to negotiations they must be assured that internment will soon end. That Irish unity is not ruled out for ever and that they will have a guaranteed role in Ulster's government. To bring the Protestants to negotiations they have to be assured that nobody will try to force them into a united Ireland. A formula for trying to start talks was outlined here yesterday. It offers one possible way ahead. Unless some such way is found the future prospect for all Ireland is intolerably bleak.
いろいろと思うところはあるが(一般市民を一気に13人も殺した自国の軍隊を前に、「私たちは中立ですから」という態度を取れるって、とか)、ここに書かれていることは現在の「和平プロセス」の原型そのものだ。
ただ、1972年当時、選挙権ですら財産のないカトリックには与えられていなかったとき、カトリックだというだけでも「テロ容疑者」として無期限拘留される可能性が非常に高かったときに「対等な立場で交渉を、さもなければ内戦」みたいなことを言えちゃうのは、やはりツラの皮の厚さが数メートルという感じだ。
そしてそれ以前に、非武装の一般市民13人を英国の軍隊が殺したことについて、「残念なことではあるが」程度で流し、「そもそもデモを組織した方が悪い」と非難する、その神経のず太さ。
これが当時の見方だったのだろう。「北アイルランドがあんなふうになっているのは、英国政府には関係なく、北アイルランド自治政府(ストーモント政府)のせいだ。ストーモントはIRAをコントロールできない。ストーモントは何も改善できず、何もまとめられない。英軍は気の毒に、そんなことに巻き込まれてしまった」的な。
この次の記事は2月2日付だ。
英国政府、ストーモント政府、アイルランド共和国政府の反応をまとめた記事。記者名は残されていないようだ。
Talks, inquiry, and marches
guardian.co.uk,
Wednesday February 2 1972
http://www.guardian.co.uk/uk/1972/feb/02/bloodysunday.northernireland
そしてこの記事の最後の方で、バーナデット・デヴリンが「次の週末にはニューリーでデモ行進を行なう」と述べたことについて、彼女の「力強く感情のこもったスピーチ」からの引用ではなく記者の書いた地の文という形で、次のように書かれている。
This weekend, as Miss Devin reminded the House, there is to be another civil rights march in Newry. In a powerfully emotional speech she made clear that nothing would deter her from going ahead with that march.
Newry is only a few miles across the border from Dundalk, a centre of provisional IRA activity. Can there be any reasonable doubt that if there is a march in Newry this weekend, and if the army attempts to enforce the ban there, the Provisional army will shoot?
Everyone in the streets in Newry that day, soldier or civilian, Catholic or Protestant, innocent or on the army's wanted list, will be in peril. However tight the army discipline, however sane the civil rights stewards, that is a fact of life.
「軍がデモ禁止を徹底しようとしたとき、IRAはデリーで英軍を撃った。ニューリーでもありうるのではないか。ニューリーといえば、IRAの活動の中心のダンドークの目と鼻の先である」。「ニューリーの街にいる人は誰でも、兵士であろうと市民であろうと、一般人であろうと軍の手配者リストに載っている者であろうと、カトリックであろうとプロテスタントであろうと、危険にさらされるだろう。軍の規律がいかに厳しくても、デモの指示係がどれだけ正気であろうと、それが現実なのである」。・・・これはデイリー・メイルか?
それからアーカイヴの13ページ目に移り、さらに後日の記事。
http://www.guardian.co.uk/uk/bloodysunday?page=13
2月3日にダブリンで英国大使館が襲われたときのもの。アーカイヴの2番目の記事と同じくサイモン・ハガートだ。
Rioters and police clash after embassy burns
Simon Hoggart in Dublin
Thursday February 3 1972
http://www.guardian.co.uk/uk/1972/feb/03/northernireland.bloodysunday
これはデリーには直接関係はないのでちょっと飛ばして、次は12日付でジョン・コールが書いた記事。プロテスタント側のレポートだ。
Will Ulster fight?
John Cole
guardian.co.uk,
Saturday February 12 1972
http://www.guardian.co.uk/uk/1972/feb/12/bloodysunday.northernireland
うわ、これはひどい。
It is important first to try to establish why the IRA's long campaign of killing, maiming, and destruction has not produced a reaction from the Protestants. One precedent one might have expected a parallel campaign of urban guerrilla activity directed at Catholic areas, with incendiariasm as the traditional Protestant alternative to the IRA's bombing. But since the arrival of the British army in force, and particularly since its campaign against the IRA began to achieve some success, even Protestant militants have come to believe that they have more to lose than to gain by militant action.
「IRAがずっと人殺しと破壊を続けてきたのに、プロテスタントが反応していないのはなぜか」。「暴力の応酬が予想されたところだが、英軍が到着して、対IRA作戦がいくらかの成功をおさめるようになってからは、プロテスタントは武装勢力ですらも、軍事行動では得るものより失うもののほうが大きいと信じるようになってきた」。
「対IRA作戦」ってのはインターンメントのことだろう。いろいろと、嘘にもほどがあると思わされる記事だ。
でも興味深いことは興味深いので、あとで読む。
この記事のあと、2月14日には、ロード・ウィジャリーがトリビューナルのためにコルレインに到着し、事件についての調査が開始された。ウィジャリー卿は軍人、デリー市民、ジャーナリストらに聞き取りを行ない、「真相調査」を行なった。ウィジャリーの報告書は4月10日に内務大臣に提出され、18日に公表された。(報告書そのものがCAINで読める。)
端的に言えば、この報告書は軍の言い分をそのまま認めたようなものだった。たとえばマイケル・ケリーは「爆弾を投げているところを撃たれた」と結論付けられているし、バリケードのところで撃ち殺されたヤング、ナッシュ、マクデイドの3人については「(兵士の証言から)このうちの誰かが発砲を行なったと考えられる」と結論付けられた。この報告書をひっくり返すために、デリーの犠牲者家族や目撃者はその後長い長い闘いをしていくことになる。
なお、映画『ブラディ・サンデー』の元となった書籍、Eyewitness Bloody Sundayは、デモを組織したNICRA側がこのウィジャリー・トリビューナルに提出するために取りまとめた「デモ参加者と事件の目撃者の証言」を核とする本である。この「目撃者証言」は、もちろん「デモ隊から発砲があったので応戦した」との軍の話とまったく矛盾するものだったが、ウィジャリー卿によって検討された形跡もほとんどなく、90年代まで書類棚に放置されていた(15歳のときにデモに参加していたドン・マランが、「そういえばあの証言はどうなったのだろう」ということで発掘したから、本になったのである)。この書籍は、サヴィル・インクワイアリの実現に大きく寄与している。
再び閑話休題。
ウィジャリーの報告書が出された直後、1972年4月20日のガーディアンの社説。
To make history repeat itself
Leader
The Guardian,
Thursday April 20 1972
http://www.guardian.co.uk/uk/1972/apr/20/bloodysunday.northernireland
ウィキペディア英語版のガーディアンの項によると、「ウィジャリー報告書は真相を語らずごまかすだけのものだったと広く受け止められていたが、ガーディアンはそう考えなかった」。
社説はウィジャリー報告書に対するバーナデット・デヴリン、エディ・マカティア、アイヴァン・クーパーの厳しい批判の言葉を引用して始まっている。だがこの社説はそれをサポートするものではなく、「ロンドンデリーでの出来事は、英軍が懲罰として行なった虐殺であった――考え方が、北アイルランドの非プロテスタントの間では根強い」が、そうではないのだ、という論旨である。(アイヴァン・クーパーは、SDLP所属で公民権運動の旗手だったが、プロテスタントだというのに。)
社説は「ウィジャリー報告書を信じたくない人々もいるのだろう」的な、極めて悪質な冷笑的態度を見せながら、報告書を高く評価している。
最もひどいと思った記述は次の箇所、とりわけ太字にした箇所だ。
The extremity of their words demonstrates again the way feuds and hatreds in Ireland feed upon themselves - and the apparent hopelessness of any attempt to bring reconciliation between the two communities. If Lord Widgery's findings really were to be "the end of the Whitelaw mission" then all Ireland would be on the way to self-destruction. It would mean that closed minds were bound to prevent any progress. But that cannot be accepted. The search for reconciliation has to continue.
むろんこれは、1月30日の事件がきっかけでIRAが大量に人員を増やすことになった、ということを背景としているのだが、The extremity of their words の their は、デヴリン、マカティア、クーパーといった武装闘争とは関係のない公民権運動/アンチ・インターメント運動の人たちのことだ。ここに示されているのは、2001年にブッシュが "Either you are with us, or you are with the terrorists" と言ったのと同じ思考パターンだ。
それと、全体を通して「問題はアイルランドの問題であり、私たちには関係がない」という意識も透けて見えるような気がするのだが、それは気のせいかもしれない。「アイルランド人ってのは困ったもんだな、いつまでもああだ」という意識は、社説のタイトル(To make history repeat itself)にも現れているような気がする。
なお、ウィジャリー報告書そのものについてのガーディアンの報道記事は下記。さすがにエネルギーが尽きたのでちゃんと読んでない(読むだけのエネルギーがない)。
Widgery clears the army but blames some soldiers
David Fairhall, Defence Correspondent
guardian.co.uk,
Thursday April 20 1972
http://www.guardian.co.uk/uk/1972/apr/20/bloodysunday.northernireland1
この記事でようやく、Bloody Sundayというフレーズが、引用符つきで(つまり「いわゆる」の意味で)出てくる。
According to Lord Widgery, the facts of "Bloody Sunday" - when 13 civilians were shot dead in Londonderry - vindicate the army's operation in principle but imply serious criticism of the judgement with which some soldiers carried out their orders.
何か似たようなものを読んだ気がすると思ったら、それはたぶん、アブグレイブでの拷問事件での米軍の報告書だ。
ガーディアンのBloody Sundayのアーカイヴのうち、1972年のものは以上で全部。このあとは、1999年に飛ぶ。サヴィル・インクワイアリーが始まったあとのものだ。
1999年のガーディアンは、ブラディ・サンデーについて1972年とはまったく違うスタンスであるということを最後にメモしておきたい。(ガーディアンのサイトからは知ることはできないが、この期間にいろいろなことが明らかになったのだろう。ガーディアンのこの変化に代表されるような変化をもたらしたもののひとつが、デリーの犠牲者遺族や目撃者の取り組みだ。)
Unshrouding the truth
Dilemma for the Bloody Sunday inquiry
The Guardian,
Saturday May 29 1999
http://www.guardian.co.uk/uk/1999/may/29/bloodysunday.northernireland
(サヴィル卿が証言する兵士の匿名は許可しないとしていることについて)We support Lord Saville's efforts to unearth the facts, along with his shock that civilians were killed" by British army gunfire on the streets of a city in the UK". Nevertheless, we fear he might be showing unwise intransigence on this point. As the Liberal Democrat spokesman, Lembit Opik, has put it: "The purpose of the inquiry is to achieve the truth. Giving anonymity to the soldiers is a small price to pay for that." Since this is not a criminal trial, but an attempt to determine what happened that day, Saville should be prepared to show whatever flexibility is required to get at the truth.
For this is the only way the peace and reconciliation process of Northern Ireland can work: with all sides giving a little. Republicanism moved yesterday on the disappeared. It can move some more if it accepts something less than full disclosure from Saville. In return Unionism can show some desperately needed flexibility on the implementation of the Good Friday Agreement - a process which continues to be painfully stalled. Only that kind of willingness to compromise will allow the future to be a little bit brighter than the past.
# 言ってることはあんまり変わっていないかもしれないけれど、結局は。
Shooting the Irish
Jeremy Hardy
The Guardian,
Saturday September 18 1999
http://www.guardian.co.uk/uk/1999/sep/18/bloodysunday.northernireland
It is such a simple piece of distortion. We hear the words "Bloody Sunday" on the news and up pops that footage of rioting youths. The viewer is led to conclude either that soldiers fired in self-defence or that they panicked in the confusion. The second interpretation is over-generous in this instance but it is the more plausible. Clearly soldiers are wound up before going into combat. ...
Bloody Sunday truth 'was known 25 years ago'
Eamonn McCann examines evidence that the Government of the day were trying to defend the indefensible
guardian.co.uk,
Sunday September 19 1999
http://www.guardian.co.uk/uk/1999/sep/19/bloodysunday.northernireland
The Government knew more than 25 years ago that it could not defend the shooting of a number of the men killed by British soldiers in Derry on Bloody Sunday, 30 January 1972.
A year after the shootings, the Ministry of Defence was advised by the then Attorney-General, Sir Peter Rawlinson, that the Crown would have 'no prospect of a successful defence' if actions for damages by the families of four of the victims went to court.
# これは、マーゴ・ハーキンの映画にも出てきたエイモン・マッキャン(デリーの公民権運動リーダーのひとり)の書いた記事です。この件はハーキンの映画にも出てきたと思いますが、何しろ情報量の多い映画だったので、私が勘違いしているかもしれません。
※この記事は
2008年02月12日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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