「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2008年02月11日

マイク・リー、『7月、ある4日間』(NI映画祭より)

「北アイルランド映画祭」見てきた映画について、「レビュー」ではなく、自分があとから参照するためのメモとして、少し書いておく。

※二度と見られないかもしれない作品について記憶のために書くものなので、「ネタバレ」とかは気にしていないから、内容をあまり細かく知りたくない人は「続きを読む」はクリックしないでください。

「7月、ある4日間」Four Days in July
1984年、マイク・リー監督・脚本
http://www.niff.jp/films-four.htm
http://us.imdb.com/title/tt0087286/

Four Days in July [1984] (REGION 1) (NTSC)

マイク・リー(1943年生まれ)が劇場用映画を撮るようになる前に制作したテレビ用ドラマで、IMDBによると、この作品は1985年1月29日に、英国のテレビで放映されている(answers.comによると、「マイク・リーがBBCで制作した最後のテレビドラマ」だそうだ)。

私はマイク・リーの作品が非常に好きで、VHSやDVDのパッケージしか見たことのなかったこの作品が日本語字幕つきで見られるとあってほんとに楽しみにしていたのだが、映画冒頭の濃密で効果的な描写に「くはー」となって、あとはもう、ただその「語り」に乗せてもらって(ほんっとに聞き取れねぇ、とか思いながら)運んでもらった感じ。100分ほどがあっという間に過ぎてしまった。

物語は、1980年代初頭のベルファストの、7月12日(プロテスタントのお祭りの日)をはさんだ4日間を描く。

冒頭、タイトル・クレジットが流れる背後で、「街角」が映像で描写される。煉瓦塀にはさまれた狭い路地を、これから遊びに行くのか、家に帰るところか、3人の子供たちが行くのを、据え置きのカメラがとらえる。2匹の犬がじゃれあっている。まさに「平和な日常」だ、と思っていると、子供たちが立ち止まっている向こうをオリーヴ色の軍用車両が通り過ぎる。その車両が行ってしまうと、子供たちは通りを渡ってゆく。

そしてカメラは「ベルファスト」の記号である軍用車両を追う。どう見ても「豊か」には見えない住宅街を進むその車両は、後部のドアが開けられていて、そこからごっつい武装の兵士たちが通りを監視している。

カメラが軍用車両の運転席に入る。車窓から見える街路に、一瞬、ユニオンフラッグが見える。7月10日。

兵士たちのベレー帽に「ハープ(竪琴)と王冠」のバッジがついている。UDR(Ulster Defence Regiment)だ。UDRは地元北アイルランドの人たちだけで構成される連隊である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ulster_Defence_Regiment

検問所を設けて検問の仕事をする彼らは、1台の赤いヴァンを停車させる。運転しているのは30歳くらいの男だ。兵士は車の車検証か何かをチェックする。

「マッケイさん?」
「マッコイだ、マッケイじゃない。発音に気をつけろ。お前ら読み方習ってるのか?」

このやり取りもおそらく「記号」だ。だが私はそれを読み取れない。読み取れる知識がない。「マッコイ」という男は、自分の車のナンバーもうろ覚えだ。明らかに怪しい。

UDRの兵士たちはこの「怪しい車両」の後部ドアを開けさせる。引っ越しでもするのか、家具類が積まれたなかに、紙でくるまれた「小包 parcel」がある。

「その小包を取り出してください」
「はぁ? 冗談じゃねぇ、あれを取り出したら荷物が崩れちまう」
「大丈夫ですよ」

マッコイは包みを取り出し、兵士に渡す。兵士は小包の重さを確認しているのだろう、一方でマッコイは「アルスターマン」の神話をまくし立てる。「知ってっか、アルスターマンは太古の昔、ここからスコットランドに移住して、また戻ってきたんだぜ」、「アルスターマンで米国大統領になったのは何人いるか知ってっか」。(ここのやり取りがものすごく可笑しい。)兵士たちはリラックスした態度になっていく。なぜか車の中にいるウサギについて軽口をたたいて、兵士たちはマッコイを行かせる。

「言葉」で表される「記号」。だがその「言葉」の「アクセント(訛り)」は、その人物が「どちらの者」であるかを語らない。その「言葉」で語られる「物語」が、その人物が「どちらの者」であるかを語る。

兵士たちの車両は、橋(これもまた「記号」のひとつだろう)を渡り、兵舎へ戻る。兵舎で彼らは、「英軍」について話をする――ベルファスト・アクセントで。「ベトナムと同じだ。ベトナムの米兵は敵の見分けがつかない。ブリテンからここに来る英兵も同じだ。誰が何者なのか、わからない」。

彼らだって、その人と話をしなければ「誰が何者なのか」わからないのに。

そして彼ら、3人のUDR兵士たちは、3人とも「ビリー」という名前だ。「キング・ビリー」ことウィリアム3世、つまり「オレンジ公ウィリアム」、「カトリックを打ち負かしたプロテスタントの王」にちなんだ名前。

7月11日。カメラはある家の中。その家の壁には教皇の肖像写真がかけられている。後のシーンで映る別の壁面にはイエス・キリストの絵姿がかけられている。「カトリック」の「記号」。

ソファでひとりの女が居眠りをしていて、背後の階段を男が降りてくる。男は松葉杖を使っている。

窓の外に、通りをパトロールしていると思われる兵士の姿が見える。汚れた窓の向こうのその姿ははっきりとは見えないが、インド系の人であるようにも見える。帽子の色はえんじ色。UDRは緑色。この兵士はブリテン本土から来た英兵だ。

家の中では、男と女が「日常」の会話をする。外のこと(兵士)はまったく話題にもならない。そのくらいにありふれているのだ。女は出産予定日間近の妊婦で初めてのお産だ。夫と「だれだれさんのところは大家族」といったとりとめもない話をする。「そういえばあの家は24人だったよな……サッカーの試合ができる」。(「サッカー・チーム」は子供の人数を数える単位になりうる!)

家の外、ひどくすさんだ通りで深い緑色のシャッターを下ろした建物に、Falls Road Post Officeの看板。彼らはフォールズ地区の住人だ。

カメラは別の家の内部に切り替わる。大きなおなかをした女と、UDR兵士のビリー(のひとり)。ビリーの妻もまた出産予定日まで2週間とかいう段階だ。寝室の壁には「アルスターの旗 (the Ulster Banner)」。

Four Days in July [1984] (REGION 1) (NTSC)ビリーは家の横の路地で、見事な「バトン芸」を見せる。バトンは赤と白と青のテープで彩られている。つまり「ユニオンフラッグ」の色、「ユニオニスト」の記号。ビリーのバトン芸を感嘆して見つめる10歳くらいの子供たちは、ユニオンフラッグの意匠のTシャツ("No Surrender" と書かれている)や、アルスターの旗の意匠のTシャツ("Proud to be" と書かれている)を着ている。彼らもバトンを空に放り投げ、華麗に操る。

カトリックの夫婦(ユージーンとコレット)の家の「教皇の写真」と、プロテスタントの夫婦(ビリーとロレーン)の家の「アルスターの旗」のような「記号」は、この映画にいくつも出てくる。同じ街なのに、カトリック/ナショナリストのコミュニティと、プロテスタント/ユニオニストのコミュニティとでは、「家にあるもの」が違う。

ユージーンの家にある新聞は「アイリッシュ・ニュース」だ。ビリーの家では新聞は出てこなかったが、彼らが読んでいる新聞は「ニューズレター」か「ベルファスト・テレグラフ」かもしれない。

男たちの飲む缶ビールも違う。カトリックのユージーンは、向かいに住む配管工のブレンダンや、窓拭きのディクシーに「ギネス」(スタウト)を勧める。プロテスタントのビリーは、同僚のビリーとビリーと一緒に「HARP」という青い缶のビール(ラガー)を飲む。(このビールは「アイリッシュ・ラガー」として有名なあの「ハープ」のようだ。ボーダーのすぐ南のDundalkにある醸造所で作られているものだそうだが、このことは、ビリーたちプロテスタントが「アイルランドのもの」を嫌っていたわけではないということを語っているのだろうか。英兵の回想録にも、入院中のUDRの兵士を見舞いに来た女性がこのビールを差し入れたというエピソードがある。)

台詞のない「もの」が、雄弁に語る分断の物語。あるいは、特に何も語っていないのに何か分断の物語を読もうとし、物語を読んでしまう観客。私が読み取っているものは、はたして「正しい」のか?

ユージーンの妻、コレットは、向かいの家の奥さん(出産経験者)に何かとアドバイスを仰ぐ。彼女は出産に向けてナーヴァスになっているコレットを落ち着かせようと思うのだけれど、ついつい話が「そうよ、ものすごく痛いんだから」といった方向に行ってしまう。コレットは「えーー」とヘコむ。奥さん慌ててとりなす。ははは。

こういうことに「カトリック」も「プロテスタント」もないだろう。というか、「出産って痛いんでしょ?」という話に宗教は関係ない。「痛いけど大丈夫よ」と言うつもりで脅してしまう先輩ママ、なんてのも宗教に関係なくどこにでもいるだろう。(ロレーンのほうは、予定日までまだ10日ほどあるということだからか、「12日」を前に街全体がそわそわしている時期だからか、先輩ママと話す、というシークエンスはないのだが)

ユージーンの家の外からは、「12日」のリハーサルをする鼓笛隊の音楽が聞こえてくる。「7月12日」という「プロテスタントの祭り」でさえも、ユージーンたちが子供のころは「ただの祭り」であったらしい。「あの歌、何だっけなぁ、ほら、『父さんのサッシュ』ってやつ」。

ユージーンと、ユージーンの家のトイレの調子を見に来た配管工のブレンダンと、窓拭きのディクシーは、「子供のころはかがり火も見に行った。木を積むのを手伝いもした。でももう近づきもしない」と語り合う。

「北アイルランド紛争」は1969年に始まった。その前は、プロテスタントの一部過激派がカトリックを襲撃したり、IRA(分裂前)が地味に活動したりはしていたが、「プロテスタント」と「カトリック」の間の分断は、まだ決定的なものではなかった。そのことが、「カトリック」にとっての「トゥエルフスのボンファイア」の体験談として語られる。淡々と。

ユージーンの家で偶然会ったブレンダンとディクシーは、「何だお前か」という話になる。ふたりは同じ「学校」にいたから互いのことを知っている。「学校」、つまりLong Keshだ。そこでの思い出話――トイレの配水管を利用してウィスキーを密造していたディクシー、それを飲んで具合が悪くなったブレンダン。

ディクシーは1971年8月、インターンメントが始まった初日につかまって放り込まれた、と語る。彼はいつもの窓拭きが急病で代理で来ている。全部の家の窓拭きを今日中に終わらせないとと言いながら、なんだかんだユージーンの家に長居してしまう彼は、傷んでいるけれどこじゃれたパナマ帽をかぶり、襟付きのジャケットを着て、ブレンダンに「ビング・クロスビー」とか言われる。でも彼がジャケットの下に来ているTシャツは、有刺鉄線の絵柄だ。「どうだ、答えられねぇだろう」とばかりに出したクイズに、コレットが楽々と答えたりするので、ディクシーは少し憮然としたりする。(コレットは、物事を筋道立てて考える聡明な若い女性として描かれている。夫のユージーンはコレットよりかなり年上で、何と言うか、過去を引きずらざるを得ない人物として描かれているのだが、決して声高に何かを主張するわけでもない。)

缶のままのギネスを飲みながら、男たちは少しずつ「紛争と俺」を語り始める。ユージーンの松葉杖は、79年のフォールズ・ロードの銃撃戦に巻き込まれて撃たれてからずっとだ。「こんど補償金がおりる」、「銃弾がもう少しずれていたら車椅子だった」。ブレンダンの反応から、それが「いつもの話」らしいことがわかる。ユージーンはお構いなく「それからこっちは76年にUVFにやられて……」、「それからこっちは……」と続ける。そして「70年代ってのはそういう時代だった」。でもブレンダンもディクシーも、ユージーンの話を最後まで聞かず、引き上げてしまうのだが。

一方でUDRのビリーたちは、新兵として兵舎にいたときに夜中に脱け出して牛を仕留めたとかいった「思い出話」に花を咲かせる。といっても3人のビリーの1人はまだ若くてその時代を知らず、話の輪に加われなくてちょっと不機嫌そうな顔をしている。ビリーとビリーの「あんときの上官の顔ったらなかったよなァ、ケッサクだったぜ」的な話。

カトリックの男にも、プロテスタントの男にも、それぞれ「あの時は」という話のタネになる「武勇伝」がある。カトリックは「プロテスタントに撃たれた」話や「ロング・ケッシュでの生活」の話、プロテスタントは「軍隊での体験」の話。そして、どちらの場合も、女はそばに座って男たちのその話を聞いている。

ユージーンの家にはアイリッシュ・ハープの置物があり、いろいろと本もある。ビリーの家にもいろいろと本がある。背表紙の文字で私が読み取れたのは、ビリーの家にあった「The SAS」というものだけだったが。

その晩、プロテスタントのコミュニティではかがり火がたかれ、人々が「父さんのサッシュ」の歌を歌う。少し気分が悪くなったロレーンを、ビリーたちがいたわる。

ユージーンとコレットは寝付けない。「思い出した」といってコレットは歌を歌う――プロテスタントのボンファイアで歌われる「父さんのサッシュ」がどうたら、という歌だ。ユージーンは苦笑する。「じゃあ」といってコレットが次に歌い出したのが、ナショナリストの愛国歌であるPatriot Game。ユージーンはまた苦笑して、「もうずいぶんと歌っていないな」とつぶやく。コレットが歌い終える前に、彼は寝入ってしまう。

このシーンの美しさは何だろう。映像が凝っているわけでもないし、何かが起きるわけでもない。妻が歌を歌い、傍らの夫が寝てしまうだけのシーンなのに。

翌12日の朝、ビリーは車で出勤する。アディダスの靴をはいてアディダスのバッグを持った彼は、いかにもルーティーンといった様子で、車のドアを開ける前に車の前後から、車の下をチェックして回る。

家の中でラジオのニュース。「デリーの暴動で何人が怪我をしました。アメリカ人も負傷した模様です」の次が、「ビールの値上げです」。

ビリーの隊は、12日のオレンジ・パレードを警備する。住宅街を、子供と大人で編成された鼓笛隊が演奏をしながら進んでいく。このシーンのカメラがすごい。本当に、目の前をアルスターの鼓笛隊が進んでいくかのような。

そして勤務中のビリーに本部から連絡が入り、ビリーは現場から引き上げて病院に向かう。予定日までまだ少しあるが、ロレーンが急に産気づいた。

同じころ、コレットも破水して、ユージーンをたたき起こす。彼らは夏の旅行に出かけようとしていた向かいのブレンダンの車で病院に向かう。

病院の待合室には、The Sunを読んでいる中年の男がいる。ユージーンとこの男の間のやり取りが、また、「北アイルランド」を雄弁に語る。

IMDBのユーザーデビューでは、「このシーンのためだけにこの映画を見てもいいくらいだ」とある。私も同感だ。まさに「マイク・リー」らしい、すばらしいシーン。

顔を見ただけでその人が「どちら側」であるかはわからない。話をしてはじめて、段々とわかってくる。この「探り合い」の緊張感が、ユージーンの、またはビリーの家の中のリラックスした空気とはまるで違う。プロテスタントの祭りのゆったりした空気ともまるで違う。

中年の男はThe Sunを読んでいる。それで何となくわかるはずなのだが、男が「パレードがやかましい」と言うので、ユージーンも調子に乗って「まったくそうですね、困ったものです、idiotには」というようなことを言う。妙な間があって、男は「idiotとまでは言わん」と答える。

ユージーンは遠慮がちに「コーヒーでも飲みますか?」と声をかける。男は「あんな泥水は飲まん」と答える。(コーヒーではなく紅茶、という人なのだが、それが「意味」のあることだというのが「表象の国」だとつくづく思う。)

でも待合室のコーヒー販売機は故障していて、ユージーンの小銭を飲み込んだっきり何も出さない。(ありがち)

そこにビリーが入ってくる。自販機を使おうとするビリーに、ユージーンは「壊れてますよ」と声をかける。

「妻の出産を待つ夫たち」というだけではない緊張感が、狭い待合室に満ちる。タバコの銘柄でさえもカトリックとプロテスタントとでは違うのかもしれない。The Sunを読んでいる男は「こういうところは普通禁煙だろう」と言うが、現に待合室のテーブルには灰皿がある、といったことも、別の緊張感に簡単にとって代わられそうな空気。と思ったらThe Sunの男は助産婦さんに「ちょっとお話が」と呼ばれていく。「男の子か、女の子か?」という男の問いかけに、助産婦さんは無言のまま待合室を出ていく。

それを見守るユージーンとビリー。

彼らは「カトリック」でも「プロテスタント」でもなく、「うちの妻は大丈夫なのだろうか」という不安を密かに抱えさせられた新米パパである。

そしてそれに続くラストのシーンもすばらしい。

無事に出産を終えたコレットとロレーンは、病室でお隣さんとして初めて出会う。窓側のベッドのコレットは赤ちゃんを抱いてあやしている。隣のベッドのロレーンの赤ちゃんは、助産婦が抱いている。ロレーンは眠っていて、助産婦とコレットがまた取り留めのない話をするのだが、この助産婦が、悪意はないにせよとんでもなくおしゃべりで、自分の言っていることをコントロールしようという気があるのかないのか、「生まれたときはどういう人になるのか、まったくわからない」というところから出発して、なぜか「ヒトラーだって、生まれたときにはああなるとは誰も思っていなかった」という話になり(爆笑シーン)、「ヒトラーがああなったのは親の責任よね」と言い、「この子(ロレーンとビリーの子)もヒトラーみたいになるかも」と言う。ここでロレーンが起きて、助産婦から子供を受け取る。そりゃ、さっき生んだばっかりの我が子が「ヒトラーになるかも」とか言われたらたまらない。

助産婦が行ってしまうとふたりは初めて言葉を交わす。互いに初めて子供を生んだという喜びを共有し、腕の中に赤ん坊の重さを感じながら、それでも、言葉を交わすにつれて、ふたりの間の「分断」が如実にわかってくる。

コレットは娘を「マレード」と名づける、と言う。「アイルランド語で『マーガレット』という名前」だ、と。

ロレーンは息子を「ビリー」と名づける、と言う。代々男の子は「ビリー」だから、と。

父親たちが我が子と対面するシーンは観客の想像にゆだねて、映画は終わる。

7月13日、祭りの後の通りは紙くずやら何やらが散らかり、「1690 - 1912」と書かれたオレンジ色の横断幕が片付けられずに残っている。



兵舎では「英国から兵隊が来たって、誰がリパブリカンなのかわかりもしない」というようなことを同じ隊のビリーとしゃべっていたビリーは(全員「ビリー」でややこしくてたまらん)、家ではアルスター旗を壁に貼っているのだが、彼が属するコミュニティは「ブリティッシュネス」の表象を掲げている。兵舎での雑談で、ビリーたちは「独立国家」のことを口にしていたが(「英国かアイルランドかではなく、アルスターという独立国家を」という意見は、主にプロテスタントの間でかなり盛り上がったものだ)、それでもビリーの自宅は「ブリテン」の「記号」に満ちた地域にあって、彼自身「ブリテン」を拒むわけでもない。

ここで「ブリティッシュネス」とはどういう役割を果たし、どういう存在なのだろう。「アルスター」と「ブリテン」の関係は、単に「ユニオニストは英国の一部としての地位を望んでいる」と言う説明で足りるようなものなのだろうか。実は何か、一言ではいえない複雑なものがあるんじゃないだろうか。そのどこまでが「郷土意識」(部外者にはわからんよ、というような)と言えるもので、どこまでが「イズム」的なものなのだろう。

Pro-Britishであることは、この映画の舞台となった1980年代においては、anti-IRAを意味するのだけれども、それはanti-Irelandを意味していたのだろうか。

「アイルランド」なるものに頑固にノーと言っていたのは、イアン・ペイズリーのような少数の超過激派と、「アイルランド」をIRAと同一視した過激派武装組織だったのではないか。そこにブリテンの英軍が絡んで、話はややこしいことになってしまったのではないか――「ベトナムの米軍と同じ、敵が区別できない」のに、「IRAの戦争」に乗り込んでいった英軍が、事態をよけいにひどいものにしてしまった面はあったのではないか……というようにいろいろ思う。

ビリーたちが飲んでいたHARP Lagerはアイルランド(ボーダーの南)のビールだ。IRAは彼らUDRの「敵」だったけれど、「アイルランド」はどうだったのだろう。「ブリティッシュネス」ではなく「アイリッシュネス」で彼らが彼ら自身を語ることはあった/あるのだろうか。むろん、「アイリッシュ」という言葉にアレルギーのような反応を示す人たちのことではなく、「一般の」反IRA的プロテスタントの間で。

この映画はもちろんフィクションであるけれども、フィクションの中に用いられている「記号」は、現実に即したものだ。



「父さんのサッシュ」の歌は、"The Sash My Father Wore" という。YouTubeで探せば曲が聞けるが、政治的主義主張が濃すぎてうむぅとなるものもある。下記は映像はひたすらユニオン・ジャックが風にたなびいているだけで、音がよくてききやすい。
http://www.youtube.com/watch?v=saK6KNDDn6Q
歌詞を一部抜粋:
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Sash
It is old but it is beautiful, and its colours they are fine
It was worn at Derry, Aughrim, Enniskillen and the Boyne.
My father wore it as a youth in bygone days of yore,
And on the Twelfth I love to wear the sash my father wore.

For those brave men who crossed the Boyne have not fought or died in vain
Our Unity, Religion, Laws, and Freedom to maintain,
If the call should come we'll follow the drum, and cross that river once more
That tomorrow's Ulsterman may wear the sash my father wore!


Patriot Gameは、トム・クランシーの小説の題名 "Patriot Games" にも使われ(邦題は『愛国者のゲーム』)、この小説を映画化したものでも使われている(邦題は『パトリオット・ゲーム』)が、YouTubeあたりで検索すれば「この歌のコンテクスト」を過剰なほど映像で示してくれているものがいろいろと出てくる。下記はその一例。個人的に、こっち側のプロパガンダにはすっかりなれてしまって「ただの歴史的資料映像」にしか見えなくなっているので、そういう映像つきのもののURL。
http://www.youtube.com/watch?v=izrygGt-6ZE

歌詞を一部抜粋:
http://www.geocities.com/ardrigh84/Music/irishee.html#pgm
My name is O'Hanlon, and I've just turned sixteen.
My home is in Monaghan, and where I was weaned
I learned all my life cruel England's to blame,
So now I am part of the patriot game.

This Ireland of ours has too long been half free.
Six counties lie under John Bull's tyranny.
I’ve thrown out my Bible to drill and to train
To take up my part in the Patriot game.

It's nearly two years since I went away
With the local battalion of the bold IRA,
For I read of our heroes, and wanted the same
To play out my part in the patriot game.




マイク・リーはマンチェスター近郊のSalford出身で、自身のバックグラウンドはジューイッシュで、つまり「アイルランド」や「北アイルランド」と直接のつながりはない。ただ、Salfordはアイリッシュの人たちも多く、その中には同じく1943年生まれのテリー・イーグルトンもいる。イーグルトンの自伝(下記)には、1950年代のSalfordの様子が描かれている箇所がある。

4272430637ゲートキーパー―イーグルトン半生を語る
テリー・イーグルトン 滝沢 正彦 滝沢 みち子
大月書店 2004-04

by G-Tools


マイク・リーは若いころにキブツに行って、そこでユダヤ人によるコロニアリズムを目の当たりにし、幻滅して英国に帰ってきた、ということをインタビュー記事で読んだことがある。たぶんこれ↓だ。
http://arts.guardian.co.uk/features/story/0,,1755767,00.html

※この記事は

2008年02月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:25 | Comment(1) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この映画でUDRのビリーたちが飲んでいたビールについて、content-free encyclopediaであるところのUncyclopediaで:
... Should a Northern Irelander take this attitude toward you, the proper response would be to simultaneously feel very witty and to duck quickly, as an amused Northern Irelander has excellent aim with a bottle of Harp Lager.
http://uncyclopedia.org/wiki/Northern_Ireland

「真に受ける」べき文章ではないのだけれど、笑いのポイントとなっている部分の背後に現実(もしくは真実)があるので、学問的な意味ではなく「参考」になる。

で、Uncyclopediaのこの記事さぁ、書いてるのたぶんNIの人なんだけど(「嘘ニュースサイト」のNewtのユーモアのセンスもこういう感じだった)、不謹慎にもほどがあるというか、これで「大丈夫」なんだから、基本的に(いい方向に)頭がおかしいんだよなあ英国は、と思う。

Uncyclopediaそのものが、「集合知によるモンティ・パイソン」だし。
これ↓とか。
http://uncyclopedia.org/wiki/Japan-France
Posted by nofrills at 2008年03月15日 06:34

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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