「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2008年02月06日

「ミュンヘンの悲劇」から50年

1958年2月6日(木)15:04 GMT、38人の乗客と6人の乗務員を乗せて西ドイツのミュンヘンの空港から離陸しようとした飛行機が、悪天候のため離陸に失敗、滑走路脇の民家に激突し、炎上した。飛行機はマンチェスター・ユナイテッドのチャーター機で、マンUのプレイヤーとクラブ関係者、チームと同行していたサポーターや、英国のジャーナリストも搭乗していた。乗っていた44人のうち23人が死亡、マンUは主将を含むプレイヤー8人とスタッフ3人を失い、マンチェスター・ガーディアン、マンチェスター・イヴニング・ニューズ、デイリー・メイルなどメディアは8人の記者を失った。サポーター1人と旅行会社のスタッフ1人、飛行機の副操縦士と客室乗務員も亡くなった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Munich_air_disaster
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/february/6/newsid_2535000/2535961.stm

マンUは、欧州カップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)の試合でユーゴスラヴィアのレッドスター・ベオグラードと対戦し、ホーム&アウェイの結果、次のラウンドへの進出を決定していた。「ミュンヘンの悲劇」はその帰路に起きた。

当時、マンUのチームは、実績のあるプレイヤーを「買う」という形ではなく、監督のマット・バスビーのプランに基づいてスカウトされ育成された若い選手たちで構成されており(それゆえ彼らには、"the Busby Babes" という愛称があった)、事故で命を落としたプレイヤーの平均年齢は24歳だった。(ガーディアンの50年目の写真特集の説明に、亡くなったプレイヤーの何人かに、まだ小さな子どもがいたり、亡くなって数ヵ月後に子どもが生まれたりしていると書かれている。)バスビー自身も事故で重傷を負い、危篤状態に陥り医師団も絶望視するほどだったが生還し、その後マンUの「黄金時代」を築き上げ、1994年に84歳で癌のため他界した。生還した9人のプレイヤーの中には、プロのフットボーラーとして続けられる者もいたが、この事故での負傷が原因で選手生命を絶たれた者もいた。

事故からちょうど50年となる今日、オールド・トラフォードでは事故の生存者も出席して追悼式典が行なわれ、ミュンヘンの事故現場でも、ちょうど事故がおきた時刻に、追悼の式典が予定されている。イングランド代表のスイスとの親善試合の開始前にも黙祷がささげられる。
http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/7228670.stm

事故の生存者であるサー・ボビー・チャールトンとアルバート・スカンロンが、事故のことを回想している記事がBBCに出ている。スカンロンは全身ギプスの状態でミュンヘンで入院していた間、「みんなは別の階にいる」と告げられていたと語っている。事故の直前まで機内で誰としゃべっていたということを思いながら、その状態で過ごすのはどういうものだろう。

Munich crash: Survivors' memories
Last Updated: Wednesday, 6 February 2008, 04:05 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/manchester/7226030.stm

さて、マンチェスターといえば、ユナイテッドのサポとシティのサポで激しくやり合っている都市だが、この事故のときは、被害状況がわかるにつれ、街全体が悲しみの中ひとつになっていた、という。

Manchester - a city 'United in grief'
By Paul Costello
BBC News, Manchester
Last Updated: Wednesday, 6 February 2008, 03:56 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/manchester/7217401.stm

上記のBBC記事で、現在70歳になるマンUきちがい(a United fanatic)のタウンゼンドさんが、当時のことを次のように回想している。単純に計算して、タウンゼンドさんは当時20歳だ。
「仕事が終わって、マーケット・ストリートを歩いてピカディリーの方に向かっていました。大勢の人で混雑していたのはいつものラッシュアワーと同じですが、バスが来ても誰も動いていかない。ただ何人かで固まって突っ立ってるだけでした。新聞売りの屋台には『ユナイテッドの飛行機が墜落』というポスターがありましたが、細かいことは何もなくてね、家に戻ってから確認しようと思ったんですが、生存者についてはまだ何のニュースもなく、ただただ呆然とするばかりでした。妹は泣いていました。」

「マンUサポーターの "Stretford Enders" (オールド・トラフォードでいつも集まる場所にちなんでこう呼ばれている集団)の20人くらいが家に集まって、テレビやラジオをつけて耳を傾けていたんですが、そのとき、生存者と死者の名前が流れてきました。この街から熱い心が吹き消されたかのようでした。ベイブスがいなくなってしまって、マンチェスターの一部がなくなってしまったのです。」


この1月に "Manchester's Finest" という本でこの「悲劇」のことを書いたデイヴィッド・ホールさんは、当時11歳の小学生(グラマー・スクール)で、当時のことを「父が勝手口のドアを開けて『ユナイテッドが全滅だ』とだけ言ったんです。何を言っているのかわけがわからなかったですね。誰にとっても事実だと思えることではなく、何日か後までずっと、単に信じられないという感じでした」と回想している。事件の翌日は、学校でのサッカーの練習のときに黒い靴ひもを腕に巻いて喪章としたそうだ。

ホールさんの回想によると、オールド・トラフォードの周辺に住んでいるファンは、自転車や徒歩でスタジアムにやってくるプレイヤーと顔なじみで、同じカフェやパブなどに行ったりもしていたという。

週があけて月曜日、犠牲者の棺がマンチェスター空港に到着し、オールド・トラフォードへ向かうときには、2000人が沿道で出迎えた。このときの様子をホールさんは、「ユナイテッドのサポ(赤)であろうとシティのサポ(青)であろうと、特にどちらでもないという人であろうと、みなが悲しみのなか、ひとつにまとまっていました。あれはマンチェスターにとっての悲劇であり、フットボールにとっての悲劇でした」と回想している。「シティのファンもユナイテッドのファンと同じように悲しんでいました。犠牲者のひとり、ジャーナリストのフランク・スウィフトは、元々はシティのゴールキーパーでした。」

事故から13日後、FAカップ準決勝でリザーブとユースから11人をかき集めてシェフィールド・ウェンズデーと対戦したマンUは、3-0という劇的な勝利をおさめた。このときのことを、当時27歳だったノーマン・ウィリアムズさんは「ファンの気持ちがウェンズデーを圧倒した」と回想している。ウィリアムズさん自身、マンUとアーセナルの試合を見に行ったときに脚を骨折していて、ウェンズデーとの試合を見に行くのは無茶だったそうだが、「運良くチケットが手に入ったから、何としても行かなければと思って」観戦に行ったそうだ。

最後にもう1本、記事。生存者であるゴールキーパーのハリー・グレッグが機内から助け出したユーゴスラヴィア人女性と再会した、というもの。BBC NIで4日に放送された番組の紹介記事。

Gregg's 'greatest save' - Munich remembered
Last Updated: Monday, 4 February 2008, 13:12 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7226285.stm

グレッグは現在75歳。北アイルランド出身(デリー)なので記事はBBC NIにある。事故のとき、彼はそんなにひどい怪我をせず意識もあって、バスビー監督やボビー・チャールトンをはじめチームメイトらを機内から救出して「ミュンヘンの英雄」、「ゴールキーパーの最も偉大なセイヴ」と称えられた。

彼が救出した人々の中に、ひとりの女性と女の子がいた。ユーゴスラヴィアの外交官の夫人、ヴェーラさんと娘のヴェズナさんだった。グレッグは知らなかったが彼女は妊娠していた。後に女性は無事に男の子を出産した。

昨年、グレッグはベオグラードを訪れ、ヴェーラさんと再会し、この男の子、ゾランさんと初めて対面した。

ゾランさんは、「ずっとお会いしたいと思っていました。一言、『ありがとうございました』と直接申し上げたいと思っていました。当時はご存じなかったでしょうが、あなたは私を含め3人を助けてくださったのです」と述べた。グレッグは「私に感謝することなどありませんよ、ただ考えるより先に、自分のすべきことをしただけですから」と答えた。

「人は私を英雄だと言いますが、実際には私は英雄なんかではありません。英雄というのは、自分のしたことの結果をわかっていて、それで勇敢な行為をする人のことです。あの日私は、自分が何をしているのかわかっていなかったんですから。」

番組でグレッグは、50年目の黙祷の1分間が過ぎたら、事故前の、彼らとの楽しい思い出を回想したいと述べている。「トレーニング・グラウンドで一番いいジャージを求めて競ったこと、一番いいソックスは自分のものだと競ったことを思い出したいです。(事故の前のイングランドでの最後の試合となった)アーセナルとの試合(ハイベリーで、5-4でマンUの勝ち)を思い出したいです。そして、最後となった(レッドスター・ベオグラードとの)試合が終わった後の楽しく明るい雰囲気と、あの晩の祝杯を思い出したい。」

「滑走路で何が起きたか、などということを思い出して一生を過ごしたくはないのです。英雄としてふるまうなどということもしたくない。」

「とにかく若くて溌剌としたチームでした。記憶しておきたいのはそのことです。」

グレッグの家の壁には、マンU時代の写真がたくさん貼られていて、その中に墜落した飛行機の写真もあるというが、ほとんどは「若いチーム」の写真である。

事故当時は「マンチェスター・ガーディアン」だったガーディアンが、亡くなったプレイヤーたちの肖像写真をまとめて、50年目の記事としている。
http://www.guardian.co.uk/football/gallery/2008/feb/05/2?picture=332386499

1枚目はオールド・トラフォードに掲げられる「バズビー・ベイブズ」の肖像と彼らを讃える詩(たぶん、当時のサポーターの応援歌)。2枚目はBilly Whelan(アイルランド代表のストライカー、22歳)、3枚目はEddie Colman(Salford出身、21歳。特徴的動作から、ファンから「シェイクヒップ」という愛称で呼ばれていた)。4枚目はRoger Byrne(マンチェスター出身、28歳。事故の8ヶ月前に息子が生まれていた)、5枚目がGeoff Bent(Salford出身、25歳。控えメンバーで、Byrneが前の試合で打撲していたため帯同。ベオグラードでの試合出場はなし。幼い娘を残していった)、6枚目と7枚目がDuncan Edwards(ウエスト・ミッドランズのダドリー出身、21歳。10代からイングランド代表入りしたプレイヤーで、ガーディアンいわく「当時のロイ・キーン」。事故で内臓に重傷を負い、15日後に死去)、8枚目がDavid Pegg(ドンカスター出身、22歳。レアル・マドリが脅威に感じ、彼を封じるためだけにDFをいれたと言われたほどのプレイヤーで、なおかつ外見もよく、ガーディアンいわく「最初のアイドル的プレイヤーのひとり」)。9枚目がTommy Taylor(バーンズリー出身、26歳。53年にバーンズリーから移籍、クラブでもイングランド代表でも好成績をあげ、インテル・ミランから巨額の移籍金を提示された名フォワード)、最後の10枚目がMark Jones(バーンズリー近郊の出身、24歳。17歳でマンUと契約する前は煉瓦積みの職人だった。事故当時、夫人は2人目の子どもを身ごもっていた)。



本文中で名称を挙げた本:
0593059220Manchester's Finest
David Hall
Bantam Press 2008-01-28

by G-Tools

※この記事は

2008年02月06日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:49 | Comment(0) | TrackBack(1) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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記事紹介:「ミュンヘンの悲劇」から50年
Excerpt: すごくいい記事なので、紹介。 「ミュンヘンの悲劇」から50年(tnfuk) 19
Weblog: 逃避日記
Tracked: 2008-02-07 17:08

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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