kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2008年01月31日

「武装闘争の終わり」を受け入れられない人のことば

1つ前の記事で「非主流派リパブリカン」が出てきたついでだ。

昨年11月にデリーで発生した警官銃撃事件で身柄を拘束され尋問を受けた「非主流派リパブリカン」のひとりで、Real IRAの政治組織である32CSMの主要メンバーであるガリー・ドネリーのインタビュー。「ある日曜紙」のインタビューの内容を、29日付でデリー・ジャーナルがまとめている。
http://www.derryjournal.com/politics/Provos-shouldnt-exist-anymore-.3720749.jp

しばらく前に私がふざけて書いた「ケータイ小説風」と合わせてどうぞ。

記事要旨:
Published Date: 29 January 2008
Location: Derry
Provos shouldn't exist anymore - Derry dissident
「Provisional IRAはもはや存在すべきではない」とデリーの非主流派リパブリカン語る

非主流派リパブリカンの主要人物であるガリー・ドネリーは、ある日曜紙のインタビューで、「もはやProvisional IRA(IRA暫定派、いわゆる『IRA』)はもはや存在すべきではない」と語った。

ドネリーは、クレガン出身で、2005年のデリー市議会選挙で無所属で立候補するも落選したことのある、32CSM【注:詳細は下に】の主要メンバー。

インタビューでドネリーは、アイルランドにおける英国の支配に「武装して抵抗する」ことを自分は支持している、「それは正当なもの(legitimate)だ」と述べた。

「もはや、PIRAは存在すべきではない。(今のPIRAは)何のための組織なのか。(P)IRAは、アイルランド内の英国と戦うために設立されたものである。IRAの設立の主旨を無視するのであれば、存在すべきではない(解散すべきである)。」

あー、ちょっと一息。

昨年7月末で、英軍は「オペレーション・バナー」を終結させ、兵員を撤退させた。つまり、仮に北アイルランドの英軍を「外国の占領軍」と位置付けるにせよ、「legitimateな抵抗」をするにも、もはや相手がいなくなっている。確かにPIRAは何のための組織なのかわからない。だが、Real IRAだって何のための組織なのかわからない。そして、Real IRAが何のための「武装闘争」をしているのかはわかると仮定しても(つまり、それが「統一アイルランド」のための闘争であると仮定しても)、誰に対する闘争をしているのか、私にはさっぱりわからない。いや、彼らが北アイルランド警察を「英国の勢力」と見なしていることは知っているが、だからといって警察官を銃撃するようなことが「正当な武装闘争」かというと、意味不明としか言いようがない。

というか、彼らのやりたいことは「アイルランドの統一」なのではなく、「武力によるアイルランドの統一」なのだ、というふうにしか読めない。「軍事的解決などというものは存在しない (There is no miitary solution.)」ということばは、イラクやアフガニスタン、パレスチナやレバノンだけでなく、北アイルランドについても言われてきたことばなのだが(何しろ英国防省の公式の報告書もそういう調子であったのだし)、このハードコア・リパブリカンの辞書には、「解決」というものは「軍事的」なものでなければならない、とでもあるのだろうか。

で、その「武装闘争」のターゲットが、最近では「大規模な小売店舗(IRAの定義では『経済的標的』になるのだろうが)」だったり(焼夷性爆発物による放火攻撃)、「カトリックのくせに北アイルランド警察の一員になった人物」だったりする。むろん、報道されるのは実行された攻撃だけで、実行されていない攻撃のなかにはもっといろいろなターゲットへの攻撃があるのだろうが。

……などということは、「紛争」とは直接関係のないよそ者が、こんなところで言うまでもないことだ。

続き。

ドネリーは、PIRAはシン・フェインの指導部によって「ぼろぼろにされてしまった」と語った。「昔は『銃弾1発たりとも、爆薬1オンスたりとも渡さない "not a bullet, not an ounce"』【注:IRAのスローガン。参考記事@2005年】と言っていたではないか。(しかし、シン・フェインの指導部の推進した「和平プロセス」で、PIRAは武器を放棄したのだから)多くのリパブリカンは騙されたということに気付いている。」

"not a bullet, not an ounce" というスローガンは、象徴的であるからこそスローガンになっていたはずだ。しかし彼にとっては、そのスローガンの言う内容が「目的」になっているようだ。

とすれば、もはや「政治的主義主張」ではない。Real IRAは、その意味で、「政治的暴力」の主体ではなく(つまり、「テロリスト」ではなく)、「爆弾魔」とか「銃火器不法所持」とか、そういうものに限りなく近づいている。

# というところであまり脈絡なく思い出したのだが、UDAから追放された元幹部が自宅で射殺されたときに、警察はそれを「テロリズム(政治的暴力)」としてではなく、「犯罪」として扱っていた。

ドネリーは、Real IRAとContinuity IRAは、武装闘争において「団結すべき」だと述べている。「そうするのが当然のことだ。団結することには強さがある。」

「リパブリカニズムがひとつにまとまるのを見たいと思っている。グループが2つあるよりも1つの方が効率的だ、その方が理にかなっている。」

なんかもう、読んでてムカムカするし、日本語にする価値もないという気が1文字ごとに増すばかりだったのだけれども、「ケータイ小説風」とかいうフザけたことをやっておいて、こういう直接のことばをスルーするのもいかがなものかと自分でも思ったので、デリー・ジャーナルという地域新聞のウェブサイトで紹介されていた機会に、一応、ということで。

なお、デリー・ジャーナルの記事には、ドネリーは "the 32 County Sovereignty Committee" の主要人物だとあるが、CommitteeではなくMovement、つまり "the 32 County Sovereignty Movement" のはず(Committeeは旧称)。これ、正直わけわからんのですが(デリーの新聞でも混乱している、というのは、むしろ「ああ、よかった」という感じだ)、politics.ieのwiki辞典の記事がクリア。(グッドフライデー合意のときにシン・フェイン内部で「合意反対派」として結集したのが "the 32 County Sovereignty Committee" で、後にシン・フェインから離脱して "the 32 County Sovereignty Movement" と改称した。)

ちなみに、32CSMであれ32CSCであれ、"32 County Sovereignty" というのは、「アイルランド島全体の32州はひとつの国である」という認識/主張を示す。もっと簡単にいえば「統一アイルランド」である。彼らはアイルランドの南北分断に反対する立場(「北アイルランドは英国の一部である」という立場の反対)の中でも最もハードコアな一派であるが、数でいえばシン・フェインとは比べ物にならないほど小さな勢力のはずだ(正確な人数などは発表されていないが)。

※この記事は

2008年01月31日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

この記事へのトラックバック





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼