「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2008年01月21日

バグダードの「ピースライン」

「ピースライン」というのは、北アイルランドのコンテクストで知ったことばだが、難民となってシリアに逃れたイラク人の「帰還」の体験談をBBCで読んだとき、まっさきに頭に浮かんだのはこのことばだった。

Iraqi refugees: "We can't return"
Last Updated: Friday, 18 January 2008, 12:16 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/talking_point/7179657.stm

イラクに戻ることにしたのは、自宅がどうなっているかを確認する必要があったからです。小さな店も2軒、やってましたし、それもどうなっているのか不安で。確認しなくてはというのは逼迫した話で、戻るのは怖いとか言っていられなかったんですね。

こう話す女性(仮名で「ウンム・アリ」)は、1年前にバグダードからシリアのダマスカスに逃れたイラク人だ。彼女は宗派としてはシーア派だが、居住区域はスンニ派が多いエリア(アル=アマリヤという地域)だった。

今ではメフディ軍(ムクタダ・アル=サドルの私設武装組織)がコントロールしているシーア派の地域から、アル=アマリヤに近づくと、臨時で設けられた検問所があり、イラク軍と米軍の兵士が警備についていました。

所持品検査を受けた私は、コンクリートの防壁の向こうのアル=アマリヤ地区に通してもらえました。


BBCの記事のページに資料写真的に掲示されているが、バグダードでは「スンニ派の地域」と「シーア派の地域」とを隔てる「壁」が建設されている。写真を見ると高さ1メートル50センチくらいだろうか、イスラエルが建設を強行している「壁」やら、北アイルランドの「ピースライン」ほど物体として威圧的なものではない。それでも、「宗派」に基づく「分断」が、こういう物体として可視化されたことの意味は、決して小さくはない。見た目は東京の住宅街の家屋のブロック塀に似ていなくはないかもしれないが、これはそういう塀とは違う意図で作られた物体である。

歩くには遠すぎましたし、自分で歩いていくのも怖かったので、自宅までタクシーで行きました。これを全部、私一人でやりました。息子たちは同行させませんでした。私一人のほうが安全だからです。両宗派のエリアの間を往来するには、女ひとりのほうが、若い男性よりもずっと安全なんです。

2004年、「戦闘年齢の男」を警戒していたのは、「侵略者」たる米軍だった。イラク人同士が警戒していたのは、特定の地域での話だったはずだ。それが、2007年には完全に、イラク人同士で、顔を知らない「戦闘年齢の男」を警戒するようになってしまっていた。

だからこの一家はバグダードにいられなくなったのだろう。

車の中から、通り沿いの家々の前に座っている人たちが知らない人ばかりだと思いました。様変わりしていた店もあり、店の経営者も変わっていました。

最初に、スンニ派の隣人の家に行くことにしました。その人はまだそこに暮らしているとわかっていたからです。隣人の家族は私を暖かく迎えてくれました。思わず涙がこみあげてきて――彼ら家族もそうでした。

それから彼らに、私の家に今住んでいる人たちについて尋ねました。シーア派の地域から逃げることを余儀なくされたスンニ派の家族だ、ということでした。

こう話すウンム・アリ自身は、「スンニ派の地域に暮らしていたシーア派」である。

隣人は、今の住人に、私の家と私の家財を大事にしてくれるようにと言っていたそうです。でも、いまの住民は気にしちゃいないようだとも言っていました。

隣人のところでしばらく過ごし、それから、深呼吸をして、私がかつて住んでいた家に向かおうと腰を上げました。

ドアをノックすると、女の人がこたえました。私はこの家の持ち主ですと名乗りました。欲しいものがあるわけではない、ただ、この場所がどうなっているかを見て、家財道具を確認したいだけだ、と伝えました。

女の人はいやそうな態度で私を中に招じ入れました。

私たちがここを出る前に1部屋にまとめておいた家具のおおかたが、この家族に使用されていました。しかも扱い方がぞんざいです。家も清潔ではなく、散らかっています。

ひどく残念な気持ちになりました。イランとの戦争の間、そして経済制裁の間、これらの家財を手放さずにいることはとても大変だったんです。なのに今は、赤の他人に、ぞんざいに扱われている。

イラン・イラク戦争は1980年から88年。1990年にクウェート侵略で(第一次)湾岸戦争になり、1991年から経済制裁(これは2003年のイラク戦争まで続く)。

「なぜ私の家具を使っていらっしゃるの? ご自分たちの家具は持っていらっしゃらなかったの?」と私はその女の人に訊きました。

女の人は、家を出てくるときに荷物を持ってこられなくて、しかたがなく、と答えました。

しばらくして、ご主人が帰宅なさいました。それで知ったのですが、このご主人が私のお店2軒を経営しているというのです。そして儲けも上々だと。

「で、何がお望みなんですか」とご主人は声を荒らげて私に言いました。私は、ただ家の様子と家財を見に来たのだと説明しました。彼はまた大声で返事をして返しました。「シーア派の連中のせいでうちら家族は家を出なければならなくなったんですよ。だからその見返りとしてシーア派の家をもらうのはこっちの権利です。」

私は彼に、店と家の賃貸料をもらいたいと言いました。私はシリアに住んでいて、収入がまったくないのですと説明しました。

取り付く島もありませんでした。自分がここに来る前にこの家に住んでいたスンニ派の人から店を買ったのだから、と。

ここで気付いたのですが、私たちがここを後にしてからの1年間でこの家に住んでいるのは、この人たちが2家族目だったのです。このとき、私は奥さんのほうをじっとみていました。恥ずかしそうな顔をしておられました。奥さんはご主人に、お気の毒な方なんですもの、少しくらい融通してもいいじゃないですか、と言いました。ご主人はいやいやながらそうしてくれました――当然払うべき分の1パーセントにも満たない金額をよこしました。そして二度と来るんじゃないぞと言いました。

2つの地域を結ぶ橋まで歩いて戻りました。考え事に一生懸命で、検問所で歩みを止めることもしませんでした。ふらっと歩いて通り過ぎようとしたとき、アメリカ人の兵士が、へたくそなアラビア語で「タフティシュ(所持品検査)だ」と声を張り上げました。

その兵士が所持品検査をし、それから私は歩いてシーア派の地域に戻りました。

何もかも、あまりに現実離れした感じでした。もうげんなりしていました。

# Translated from a piece by Huda Jabir for BBCArabic.com

※以上、日本語は要旨
http://news.bbc.co.uk/2/hi/talking_point/7179657.stm


同日付で同じ記事タイトルのBBC記事は、別のイラク人女性の体験談だ。ヌールという名の彼女もダマスカスに避難している。

Iraqi refugees: 'We can't return"
Last Updated: Friday, 18 January 2008, 13:29 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/talking_point/7187258.stm
バグダードを出たのは、マフディ軍に脅されたからです。すぐに立ち去らなければならなかったので、何も持ってくることができませんでした。20年もひとつところで暮らしていればそれなりにものがたまりますが、何も持ってこられませんでした。服も家具も、何も。

状況はどんどん悪化していました。なかでも一つの出来事が強く印象に残っています。

うちから3軒いったところの家に住んでいた人たちが、無理やり、家から追い出されたのです。彼らが姿を消して数日後のある朝、うちの娘の一人が通りを歩いているときに、その家の壁に、その人たちの首が並べられているのを見たのです。

娘は精神的ショックが大きく、何週間【英語でweeksは日本語で「何ヶ月」にも及ぶ範囲をも示す】のあいだも家から出られない状態でした。誰かがいなくなったら果たして戻ってくるのか、まったくわかりませんでした。だから私たちは、特定して脅迫されたということもありましたが、全体的に身の安全が心配で出てきたのです。

離れるのは悲しいことでした。自分たちの国を離れ、知らないところに、何も予定を立てず経済的な基盤もなく、向かうのです。あれがどういうものか、ことばで説明するのは難しいです。

ここシリアでは、建物の3階をフラットにして暮らしています。とても寒いところですが、燃料費が高くて。生活必需品にも事欠くありさまです。毛布も、料理のための燃料も、暖房の燃料も。

最も皮肉なのは、私たちがあとにしてきたのは産油国だということです。石油がふんだんにある国から、燃料費が高くて払えないようなところに逃げてくるなんて。

自分たちの状況を考えると寒気がします。シリアには私たちの仕事などありません。私は55歳になり、生きていくことは大変に厳しい。長い時間、仕事を探して、食べるものはようやく何とかなっていますが、これは生活ではなくサバイバルでしかありません。

何とか生存していく手段として、道義にもとる手段を選ばずにいられるのは、私たちに決意があるから、それだけです。それが何であるかをはっきりとことばにしたくはありません。それが文字として書かれるのが怖いのです。私たちはただ、恥ずかしくないように生きていく、それだけです。

ここではこういうふうなのです――命をつなぐため力を尽くし、悲しみと空腹を感じている。国際社会は私たちを見捨てています。食料の面でも金銭的にも、支援と呼べるようなものは何も受けていません。

最近、シリアではイラク人の居住権について法律が変わりました。学齢の子供がいる場合は――うちはそうですが――居住権は得られますが、簡単ではありません。子供がいない人たちは、シリアにはいられません。

イラク政府は、治安が回復したので多くの人たちが戻ってきていると主張しています。それは本当ではありません。戻らざるを得ないのです。シリアには住めないから。

家と家財道具を取り戻すことができたら、私たちは戻ります。今すぐに戻ることは考えられません。私たちの家のあるエリアはまだ民兵とアメリカの占領者にコントロールされているからです。

こんなふうにただ時間が過ぎていくだけなんて、つらすぎます。子供たちがおなかをすかせたまま、あるいは病気になってもちゃんと手当てをしてもらえないまま眠りにつくのを見ると、特につらいです。私たちは、子供たちの知らない世界に子供たちをつれてきて、なじみのない社会に暮らしていくしかないのよと言っているのです。

息子のアリは18歳で、高校を卒業したばかりですが、ここシリアで大学に行くことはできません。もうひとり、学校に通っている子供がいますが、友達がいません。同年齢の子と関わったらいじめられるのではないかと恐れているのです。子供たちが息子に「自分の国から逃げてきた臆病者」と言うのです。

シリアにこんなにもたくさんのイラク人が来たことで、シリアの人たちも大変だろうとは思います。中には、私たちイラク人のことを、職や食料を盗みたがっている敵だと思っている人たちもいます。シリアは貧しい国で、イラク人が流入するようになってから、物価はうなぎのぼりです。イラク人は200万人にもなっていますから、一般のシリア人の方々は大変だろうと思います。

自営業のオーナーなどは、安価な労働力を歓迎しています。イラク人は、生存のためなら、どんな給料でもどんな仕事でもしますから。

教育のあるシリア人は、イラク人がどういう経験をしてきたかをわかっていてくださるので、まだお付き合いしやすいです。


もうひとつ、URLだけにするが、2007年12月はじめのBBC記事で、シリアに逃れたイラク人の若い女性(ティーンエイジャーから上)が、身体を売ることでしか食っていけない状況にある、というレポート。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7119473.stm

世界のどこにでもありそうな「それもんの組織が関わっている人身売買」なのかもしれない。でもこの女の子たちは「イラクに帰れる」ことになったときにどうなるだろう。宗教右派が強くなっているイラクで、生活の手段としてほんとうにそれ以外にどうすることもできなかったのであるにせよ、そのことが「問題」とならないとは私には思えない。強姦の被害者女性が名乗り出れば、「規律」というか「道徳」上、生命の安全が脅かされるために、名乗り出ることもできないという場所で。



「バグダードの暴力が激減した」などと米国などによって語られる、そのときそこで実際に何がどうなっているのか、これは米軍の公式発表などと同様に語られなければならないし、記録されねばならないことです。実際には「ニュース」として伝えられるのは、米軍の公式発表と、極めて単純化された「現状報告」のみ、ということが多いのですが、その背後にある個別の事例が、たとえ1つの例であっても、語られ/書かれ、記録されているときには、それを無視することはできません。

そして、それを語ること、記録することの目的は、誰かを非難することではありません。ただ、記録することが必要なのです。そして、記録するためには誰かがそれを語ってくれなければなりません。

これを語ってくれた「アリのお母さん」、記事をまとめてくれたBBC ArabicのHuda Jabirさんと、英訳してくれたBBCのどなたかに敬意を。

そして、こういうものを読むときには、「壁」に囲まれた「スンニ派エリア」と「シーア派エリア」は、2003年までのバグダードとはまるで違う「バグダード」なのだということをほんの5秒ほどでいい、無心に考えてみてほしいです。「攻撃は減った」と語るときに。「改善した」という「見解」を示す前に。

ニュースが、あらかじめ「スンニ派」と「シーア派」という枠組で説明している(時間の節約のためでもあり、「わかりやすさ」のためでもある)その世界は、実はそれほど分かたれたものではなかった、ということを、どうかほんの少しだけ。

1969年に北アイルランド紛争が始まったとき、北から南へと脱出せざるを得なくなった「カトリック系住民」はたくさんいました。(今のアイルランド共和国大統領のメアリー・マッカリースもそのひとりですが。)そして、南北のボーダーのあたりは混沌としたエリアとなり、映画『プルートで朝食を』(舞台はボーダーのすぐ南の一帯と思われる)にもあったように、アイルランド共和国側で「プロテスタント系」武装組織の爆弾が爆発し(<映画では誰の爆弾かは明示されないのだけれども、コンテクストからあまりに明らか)、人を殺したりしていました。

一見、「わかりやすい説明」の向こうに、「わかりづらい」事実がたくさんあるのだ、ということを。

BBCの記事にあったデータ。
【イラクの難民】
国内避難民 240万人
国外に逃げた人 200万人
イラクに戻る人にイラク政府が提示しているお金 800ドル
バグダードで上記の手続の登録をした家族数 3,650家族
上記の登録を希望している家族数 6,000家族
Source: International Organisation for Migration


※この記事は

2008年01月21日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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