「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2008年01月16日

1977年の北アイルランド(2007年末の機密資料開示時のまとめ)

さて、ずいぶん前のことになってしまったが、2007年末に「30年ルール」で開示された機密文書@北アイルランドのバックグラウンドについて、12月29日のエントリではURLだけで飛ばしてしまったことを。

歴史学者のDr Eamon Phoenixが1977年という年についてまとめたBBC記事:
Stormont secret papers released
Last Updated: Friday, 28 December 2007, 12:59 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7162727.stm

これが、読んだだけではもったいないくらいなので、ちょっといろいろ参照してみた。

1977年といえば、「紛争」はそれほど激しかったわけではなかったとのことだ(saw the reduction of violence to its lowest level since the outbreak of the Troubles)。確かに、BBCのOn This DayのNIトップページには、1977年の項目はひとつもない。それでもこの年は、「紛争」で110人が死亡している(うち一般市民は67人、英軍が15人、警察関係が28人)。

CAINデータベースで1977年の出来事一覧を見ると、1月1日にベルファスト近くでIRAの自動車爆弾で生後15ヶ月の赤ちゃんが殺されるという陰惨な事件で幕を開けた年だということがわかる。以降、リパブリカンとロイヤリストの「暴力の連鎖」(というより、「攻撃と報復」)が続いている。
http://cain.ulst.ac.uk/othelem/chron/ch77.htm

当時の英国は労働党政権(キャラハン)だったが、英国政府の政策は「パワー・シェアリングよりもUUPとの関係強化」に向いていた。

文脈としてこの前にどういうことがあったかというと、1972年ブラディ・サンデー事件とその後の自治停止、1973〜74年のサニングデール合意の失敗(自治議会でのユニオニストUUPとナショナリストSDLPのパワー・シェアリングが発足しかけたときに、ロイヤリスト武装組織が団結して抵抗、UUPで合意を推進したフォークナーが党首を辞し、UUPの主導権が合意反対派に移り、1974年5月にthe Ulster Workers' Councilのゼネストでトドメをさされた形)、1975年2月から76年1月のIRAの停戦とその破棄などを経て、76年にはメイズ刑務所でブランケット・プロテスト(囚人服着用拒否で毛布だけをまとう)が始まっていた。もちろん、それはずっと銃撃や爆弾というかたちでの「政治的暴力」と同時に起きていた。

こういう流れにある1977年、IRAはかなり激しい。BBC記事に引用されている1977年の新年ステートメントは、世が世なら「ベルファストがタリバン化している」と新聞が書き立てるのではないか、と思わせるほどのものだ。(<ちょっと不謹慎だけど)
In a New Year statement, the IRA declared that they would "remove the British presence even if it meant reducing Belfast to rubble".

「ベルファストを瓦礫の山にすることになろうとも、英軍を追い出す」

・・・(^^;)

実際、このころのIRAは、下手すればイングランドの都市の一角を瓦礫の山にしかねなかった。1977年1月29日にはロンドンのウエストエンドで7件の連続爆弾テロを行なっている(<CAIN参照)。ただ、この攻撃では死者は出なかったようだ(→1977年の犠牲者一覧)。

2月には、1975年12月のBalcombe Street siegeの立てこもり犯(ギネス・ブックを創設した右派政治活動家のRoss McWhirterを射殺したユニットでもある)に有罪判決が下され、ローデシアの人種差別主義政権のイアン・スミスがDUPのポータダウン支部に支持を感謝し……といった出来事もあったが、「紛争」の文脈でより大きな意味を持つのは、2月2日のデリーでのデュポン社取締役射殺事件だ。

デュポン社はデリー(ロンドンデリー)に大きな工場を有しており、取締役のJeffrey Agateはイングランド生まれの米国人だ。IRAは「英国のための経済を安定させておくために中心的な役割を果たしてきた」北アイルランドの財界人として、Agateのほか、Donald RobinsonとJames Nicholsonを、それぞれ3月に「処刑」(射殺)した。
http://cain.ulst.ac.uk/sutton/chron/1977.html

ロイヤリストの側も、カトリックに対する射殺や刺殺(さらに喉を切り裂くなど「それ」とわかる様式があったようだ)を繰り返し、4月10日にはイースター記念行事を狙って爆弾を仕掛け、10歳の男子を殺している。

この子がロイヤリストの爆弾で殺された日に、この子の親戚で49歳の男性が、リパブリカンの内紛(OIRAとPIRAの争い)で撃ち殺されている。陰惨すぎる。

そういった「紛争の毎日」の1977年で最も大きな出来事のひとつが、5月のthe United Ulster Action Council (UUAC) のストライキだ。

UUACの前身であるUUUC(<まったく、ものすごいアルファベット・スープだ)は、サニングデール合意反対のユニオニストを結集した組織で、1974年1月にUUPとDUPとVUPP (the Vanguard Unionist Progressive Party: ウィリアム・クレイグが党首) により立ち上げられた。彼らは同年5月のUlster Workers Council (UWC) のスト(サニングデール合意の息の根を止めたゼネスト)を全面的に支持し(UUUCが支持したことで、このストは「武装組織がやっているもの」ではなくなったのだが)、同年10月の英議会選挙ではNIの12議席のうち11議席をとるという勢いだったが、1976年には既に瓦解しつつあり(VUPPのクレイグが方向転換してSDLPとのパワー・シェアリングに前向きの姿勢を示したため)、1977年にはthe United Unionist Action Council (UUAC) という名称の集団になった。77年5月のストはこのUUACが関わったのだが、UUACもスト終結後に潰れてしまうので、UUAC = UUUCとして扱われていることも多い。
http://cain.ulst.ac.uk/othelem/organ/uorgan.htm

1977年のUUACのストは、DUPのイアン・ペイズリー(現ファーストミニスター)とErnest Bairdによって開始され、武装組織UDAが支持した。このストの要求は、待遇改善とかではなく、「IRAに対する攻勢を強めること」と、「ストーモント(北アイルランド自治議会)での多数派の支持を回復すること(反パワー・シェアリング)」だった。ペイズリーは「このストが失敗したらわたしは政治から足を洗う」と宣言してストに臨んだ。ペイズリーらの頭の中には1974年のストの成功があったのだろう。

5月3日に開始されたストは、しかし、当時のNI大臣、Roy Masonの断固たる態度の前に、事態は彼らの思うようには進まなかった。1974年は発電所など重要な施設をストライキ実行側が押さえ、NIが麻痺状態に陥ったが、77年には発電所は英軍がいち早く押さえており、UDAが「ストに参加しない奴はどうなるかわかってんだろうな」みたいに脅したりバス運転手を殺したりしても、人々は仕事に通い続けた。

このとき、Masonらがイアン・ペイズリーがロイヤリスト武装勢力と関係があるとして逮捕を検討していたということが、「30年ルール」による資料開示で明らかになっている。(このとき逮捕・起訴されていたらどうなっていただろう。)

結局ストは失敗し(経緯はCAINに詳しい)13日後に終結、イアン・ペイズリーはバリミナにある拠点に退却した。Mason大臣は、「ペイズリーは臆病者だ。バリミナに逃げ込んでバリケードで街を封鎖とは。あの日、私はストーモント城(NI大臣の居場所)からヘリに乗って移動したのだが、道中、 "Don't Cry For Me, Ballymena" を歌っていた」とコメントしている。(おそらく、1977年2月にチャート1位になったDon't Cry for me, Argentinaの替え歌だろう。)

NI大臣といえば豪腕でなければつとまらないポストであるが、それにしても強すぎる。Masonは、元々はサウスヨークシャーの炭鉱労働者で、14歳のときから炭鉱で働いてきた人だそうだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Roy_Mason

スト終結から4日後の地方選挙では、UUPとSDLPが議席数を積み上げる一方で、DUPはわずか12.7パーセントの得票率と不振に終わった。その20年後の2007年5月に、イアン・ペイズリーはファーストミニスターとしてストーモントにやってくるのだから、事の成り行きというものはおもしろい。

これとほぼ同時期――スト終結の翌日、5月14日に、今なお未解決のある事件が起きた。当時、Bandit Countryと呼ばれていたサウス・アーマーで、英軍人がIRAによって拉致された。Robert Nairacというこの29歳の将校はそれっきり見つかっていない。77年11月には、彼の殺害を自白した24歳(当時)のIRAメンバーが有罪判決を受け(終身刑、1990年に釈放)、翌78年にはさらに5人が逮捕・起訴された。しかし3名の容疑者はいまだ逃走中である。(これがいわゆる on-the-runs 問題の一角。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Nairac

この時期、IRAは、ターゲットを拉致・誘拐して何らかの情報を聞き出すなどして殺害し、遺体をどこかに埋める、ということをよくやっていた。被害者たちは、遺体が出てこないことから、the Disappeared(失踪者)と呼ばれている。CAINにドラフトだがリストがある。1980年代までの失踪者15人のうち、遺体が発見されているのは4人で、それも失踪から20年以上経ってからだ。
http://cain.ulst.ac.uk/issues/violence/disappeared.htm

Nairac事件については、2007年6月にBBCが取材している。逃亡中の身である容疑者のひとりがインタビューに応じた。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6769697.stm

そして、CAINの年表には掲載されていないのだが、1977年の6月にアイルランドの政治家、ショーン・マクブライドが仲介するかたちで、ロイヤリストとリパブリカンの秘密交渉が行なわれた。(昨年末この記事が出たときにそれを読んで「何じゃそりゃ」と思った次第。)

ショーン・マクブライドは「アムネスティ・インターナショナル」の創設メンバーのひとりで、1961年から74年まで会長をつとめた。これにより1974年のノーベル平和賞を受け、その後も人権問題の分野で国際的な活動を続けた人だが、77年はナミビア問題で国連事務総長補佐をし、その後UNESCOで仕事をしていた。

というだけではない。彼は1904年にパリで生まれているが、父親は1916年のイースター蜂起で処刑されたJohn MacBride、母親はリパブリカン活動家でウィリアム・バトラー・イエイツのミューズであったMaud Gonne、本人は15歳でthe Irish Volunteers (アイルランド語ではÓglaigh na hÉireann, つまり歴代のIRAと同じ名称) に入って1919年の独立戦争を戦い、1921年の内戦では反条約派としてアイルランド自由国正規軍と戦った側にいた(映画『麦の穂をゆらす風』のデミアン・オドノヴァンの側)。24歳でIRAのChief of Staffになり、一方で法律を学んで、1937年、アイルランド憲法が公布された年に弁護士資格を得てIRAを脱退し、以後はIRAの政治犯の弁護活動などを行なった。1946年には自身の社会主義・共和主義政党を立ち上げ下院に議席を得て政界入り、以後、政党としては規模拡大はならなかったが、自身の議席は保持し、政治家としての活動を続け、欧州人権条約(1950年)の草案策定時にはアイルランド共和国の外務大臣としてこれに関わった。アイルランド共和国がNATOに加盟しなかったのは、彼の力が大きかったという。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sean_MacBride

そういう、何と言うか、特異なバックグラウンドを持った人が、ロイヤリストとリパブリカンの間の話し合いを実現させようとしていたということだけでも、本が書けそうなことだ。

後にマクブライドは、北アイルランドでのカトリックに対する雇用などでの差別をなくすための「マクブライド原則」を提唱した(1984年)が、これは英国政府からもアイルランド政府からも受け入れられず、北アイルランドの政党のほとんどにも拒否された。SDLPですら「機能しない」として拒否していて、シン・フェインしか支持する者がなかった。「原則」の中身を見るとそれほど急進的であるようには見えないのだが、これでもNIにとっては「あまりにも急進的」だったのだろうか。(まあ、ユニオニスト側が支持したがらない理由は、どのような内容かのほかに、誰の案であるかということがあるだろうが。)
http://en.wikipedia.org/wiki/MacBride_Principles

ただマクブライド原則は、「北アイルランドで事業を行なうための指針」として米国(のアイリッシュ団体など)から強く支持され、全米で18の州と40の都市が採択しているほか、多くの個人や団体(アイリッシュの団体だけでなく、プロテスタント教会の組織、カトリック教会の司祭、ジェシー・ジャクソン師など)によってエンドースされている。って、リストを眺めていたら、ルドルフ・ジュリアーニの名前もあるじゃん。

もちろん、米国でこの「原則」が支持された、ということは、アイルランド島を離れたアイルランド人たちが、差別を受けている故国の同胞たちの置かれている状況を何とかしたい、英国ではあるまいし、米国の企業が北アイルランドのカトリックを差別することはあってはならない、と考えていることの現われであろう。

話を元に戻して、1977年。

6月にはアイルランド共和国の総選挙でフィアンナ・フォイルが大勝し、ジャック・リンチが首相としいて返り咲いた。リンチは60年代からアイルランドの南北関係の改善に努力してきた政治家で、1966年から73年に首相をしていた。1969年8月に「紛争」状態となったときには北から南へと脱出するカトリックの人たちが続出したが、「アイルランド政府は、何の罪もない人たちが傷つけられることを、そしてこれ以上状況が悪化することを、ただ突っ立って見ていることはもうできない。RUCはもはやまともな警察とは見なされていない。英軍の派遣も受け入れられることではなく、また英軍の派遣で平和な状況が回復されるとも考えられない」と演説し、英国政府に対し、国連平和維持軍の派遣を即時に要請するように、と訴えた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jack_Lynch#Northern_Ireland

1977年にこのリンチが再び首相となったことは、NIのユニオニストの間では「またか」というように受け止められたかもしれない。

2年後、1979年にアイルランド共和国内でマウントバッテン卿の暗殺事件が起き、北アイルランドのDown州で英軍に対する待ち伏せ襲撃で18人の兵士が殺されると――このとき既に英国の首相は「鉄の女」になっていた――、ボーダーの警備をめぐってリンチの足元がぐらつき、同年末に彼は辞任することになる。

1977年8月は、戴冠25周年でエリザベス女王がNIを訪問したのだが、IRAが黙って見ているはずもなく、「来たら殺す」と脅した挙句、女王の立ち寄り先にほんとに爆弾を仕掛けたが、その爆弾は小さなもので、女王がその場所を離れたあとで爆発したから、まあ大丈夫だった。

この年の10月、Women for Peace(後にthe Community for the Peace People)という団体を立ち上げたMairead CorriganとBetty Williamsがノーベル平和賞に決まった。コリガンさんは、逃亡しているIRAメンバーの車に姪3人を轢き殺され、ウィリアムズさんはその事件を目撃し、それがきっかけでリパブリカンとロイヤリストとの間の和平を呼びかける署名活動や行進を行なった。このことは昨年4月にこのブログで書いている。コリガンさんがパレスチナの「隔離壁」で警官によって暴徒として鎮圧され、負傷した、というニュースがあったときに。
http://nofrills.seesaa.net/article/39646142.html

1977年の物故者としては、3月に落馬して亡くなったブライアン・フォークナー(前述)と、ベルファスト出身者として初めてアイルランド・カトリック教会のトップとなったウィリアム・コンウェイ枢機卿。枢機卿は事態が「紛争」へと落ちていくなかで、和平を呼びかけた宗教指導者だった。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/2594079.stm
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Cardinal_Conway

ウィキペディアには、コンウェイ枢機卿が1970年に発行した教育改革の必要性についてのパンフレットの全文が掲載されている。教育の世俗化(非宗教化)を中心とした、かなりラディカルな内容だと思う(拾い読みしただけだが)。

で、このBBC記事(Dr Eamon Phoenixのまとめ)にないのが、「SAS、ボーダーの南でごにょごにょしていてアイルランド警察に捕まる」事件である。

http://cain.ulst.ac.uk/othelem/chron/ch77.htm
Tuesday 8 March 1977
Eight members of the SAS were each fined £100 in a Dublin court for carrying guns without a certificate. The men had been found in the Republic of Ireland and were arrested.


これについては12月末のエントリで少し書いた。
http://nofrills.seesaa.net/article/75391141.html
"SAS incursion into Ireland" というのは、アイルランド島の北と南を隔てるボーダー地帯で、ボーダーの南側で「不審人物」が拘束された件だ。拘束された「不審人物」は実はSASで、対IRAの秘密作戦の真っ最中だった。誰の何という小説だったかは覚えていないが(<オレ様の脳みその役立たず……)、何かの小説の土台のひとつになっていたと思う。

で、その資料を個別ページから入手したのだが、本当に「そのまま」で公開されているから、あまりの生々しさに「読む」より前に「見る」だけでごちそうさまでしたという気分になる。CONFIDENCIALとハンコを押された、タイプライターで打たれた文書に、誰かの手書きのメモが書き込まれている、みたいなものが50点もあるのだ。


わりと平穏だったのではないでしょうかとされる1977年でこのありさまだ。

2008年の年末(1978年の資料開示)がどうなることやら。2009年はもっとすごいだろうし。

※この記事は

2008年01月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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