「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2007年12月09日

この多事なる世界――漱石忌に

12月9日は漱石忌である。

夏目金之助がロンドン留学中、明治34年(1901年)に正岡子規に宛てて書いた書簡が、『ロンドン消息』として伝わっている。近況報告なのだか病床の友人への元気付けなのだか愚痴なのだか、「五目鮨司のような感じ」の文章だが、これが滅法おもしろい。(ただし非常に暗い。)

『倫敦消息』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/779_14973.html

どこで切ったらよいものやらさっぱり見当もつかないから、長々と引用する。改段落がないのは原文ママである。四月九日付けの書簡から。
……なるほどこの妹はごく内気なおとなしいしかも非常に堅固な宗教家で、我輩はこの女と家を共にするのは毫も不愉快を感じないが、姉の方たる少々御転(おてん)だ。この姉の経歴談も聞(きい)たが長くなるから抜きにして、ちょっと小生の気に入らない点を列挙するならば、第一生意気だ、第二知ったかぶりをする、第三つまらない英語を使ってあなたはこの字を知っておいでですかと聞く事がある。一々勘定すれば際限がない。せんだってトンネルと云う字を知っているかと聞た。それから straw すなわち藁という字を知っているかと聞た。英文学専門の留学生もこうなると怒る張合もない。近頃は少々見当がついたと見えてそんな失敬な事も言わない。また一般の挙動も大に叮嚀になった。これは漱石が一言の争もせず冥々(めいめい)の裡にこの御転婆を屈伏せしめたのである。――そんな得意談はどうでも善いとして、この国の女ことに婆さんとくると、いわゆる老婆親切と云う訳かも知れんが、自分の使う英語に頼みもせぬ註解を加えたり、この字は分りますかなどという事がたくさんある。この間さる処へ呼ばれてそこの奥さんと談(はな)しをした。するとその人が大の耶蘇(ヤソ)信者だからたまらない。滔々と神徳を述べ立てた。まことに品の善い、しとやかな御婆さんだ。しかる処 evolution と云う字を御承知ですかと聞かれた。「世の中の事は乱雑で法則がないようですがよく御覧になると皆進化の道理に支配されております……進化……分りますか」。まるで赤ん坊に説教するようだ。向(むこう)は親切に言ってくれるんだから、へーへーと云っているより仕方がない。それはこの婆さんのようにベラベラしゃべる事はできない。挨拶などもただ咽喉の処へせり上って来た字を使ってほっと一息つくくらいの仕儀なんだから向うでこっちを見くびるのは無理はないが、離れ離れの言語の数から云えばあなたよりも我輩の方が余計知っておりますよといってやりたいくらいだ。それからよく御婆さんを引合に出すが、もう一人御婆さんがある。この御婆さんがせんだって手紙をよこしてその中に folk という字を使っている。ただ使っているばかりなら不思議はないが、その字に foot note が付いている。これは英国古代の字なりとあった。「ノート」を自分の手紙へつけるのも面白いが、そのノートの文句がなおさら面白い。この御婆さんと船へ合乗をした時に、何か文章を書け、直してやるというから、日記の一節を出してよろしくおたのもうす事にした。すると大変感心したといって二三所一二字添削して返した。見ると直さなくってもけっして差支のない所を直している。そしてとんでもない間違った事が例のノート的で書いてある。この御婆さんはけっして下等な人でない。相応な身分のある中流の人である。かくのごとき人間に邂逅する英国だから、我下宿の妻君が生意気な事を云うのも別段相手にする必要はないが、……四月九日夜。

このとき、夏目金之助は30歳を過ぎていた。すでに英語教師としての経験もあった。しかも能力は抜きん出ていた。それがいちいち「あなた、この単語はご存知?」とやられていたんではたまったもんではなかろう。しかも相手はネイティブ英語話者だというだけで口を出すことを当然の権利であるかのように、つまり親切心からふるまっている。しかるに、実際に口から出てくる言葉数は少ない(「ベラベラしゃべることはできない」)にせよ、頭の中には、日常会話の必要の範囲内でしかことばを使わないネイティヴ英語話者より大きな(あるいはそれとは違った)言葉の世界を彼は有していた。そう憤って彼は親しい友人にその不満を書き連ねて送った。

後年、『猫』で小説家・夏目漱石はこんなことを書いている。苦沙弥先生がむつかしそうな本を投げ出して、はなはだしくどうでもよさそうな、いちいち書き付けるまでもなさそうなことを日記帳に書き付けていることを、猫が論評する場面だ。
 人間の心理ほど解し難いものはない。この主人の今の心は怒っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道(いちどう)の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬ事に肝癪を起しているのか、物外(ぶつがい)に超然としているのだかさっぱり見当が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、行屎送尿(こうしそうにょう)ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数(てかず)をして、己れの真面目(しんめんもく)を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html

「倫敦消息」では、このあと、四月二十六日付けで、コックニーで早口で、I beg your pardon. が Bedge pardon. になってしまうために「ベッジ・パードン」と(密かに)あだ名をつけられた下宿先の住み込み家政婦、ベンのことが、「我輩がもっとも敬服しもっとも辟易するところの朋友」、「聖人」として、おもしろおかしく描写される。
……日本にいる人は英語なら誰の使う英語でも大概似たもんだと思っているかも知れないが、やはり日本と同じ事で、国々の方言があり身分の高下がありなどして、それはそれは千違万別である。しかし教育ある上等社会の言語はたいてい通ずるから差支ないが、この倫敦のコックネーと称する言語に至っては我輩にはとうてい分らない。これは当地の中流以下の用うる語(こと)ばで字引にないような発音をするのみならず、前の言ばと後の言ばの句切りが分らないことほどさよう早く饒舌(しゃべ)るのである。我輩はコックネーでは毎度閉口するが、ベッジパードンのコックネーに至っては閉口を通り過してもう一遍閉口するまで少々草臥るから開口一番ちょっと休まなければやり切れないくらいのものだ。我輩がここに下宿したてにはしばしばペンの襲撃を蒙って恐縮したのである。やむをえずこの旨を神(かみ)さんに届け出ると、可愛想にペンは大変御小言を頂戴した。御客様にそんなぶしつけな方(ほう)があるものか以後はたしなむが善かろうときめつけられた。それから従順なるペンはけっして我輩に口をきかない。ただし口をきかないのは妻君の内にいる時に限るので、山の神が外へ出た時には依然としてもとのペンである。もとのペンが無言の業をさせられた口惜しまぎれに折を見て元利共取返そうと云う勢でくるからたまらない。一週間無理に断食をした先生が八日目に御櫃(おひつ)を抱えて奮戦するの慨がある。……

明治時代、多くの英米人が「お雇い外国人」として日本で仕事をしていた。だが、コックニーを母語とする人たちはいなかっただろう。今はネットがあるのでサンプルも簡単に探し出せるが、何も知らずにいきなりあれでまくしたてられたら泣きたくなる。そしてそれを説明する「閉口を通り過してもう一遍閉口するまで少々草臥るから開口一番ちょっと休まなければやり切れない」という日本語のすばらしすぎることといったら、これだから江戸っ子は。

また、同じく四月二十六日付けでは、漱石が下宿の女主人の「いわゆる老婆親切」をはいはいと受け流しながら、内心あっかんべーしていた様が次のように描写される。

……「この左りにあるのが有名な孤児院でスパージョンの紀念のために作ったのです。「スパージョン」て云うのは有名な説教家ですよ」「スパージョン」ぐらい講釈しないだって知っていら、腹が立ったから黙っててやった。「だんだん木が青くなって好い心持ですね、二週間ぐらい前からズット景色が変って来ましたね」「さよう、時にあすこに並んでいるのは何んて云う樹ですか」「あれ? あれはポプラーでさあね」「ヘエーあれがポプラーですか、ナールほど」我輩は感嘆の辞を発した。神(かみ)さんはすぐツケ上る。「ポプラーはよく詩に咏じてありますよ、「テニソン」などにも出ています。どんな風の無い日でも枝が動く。アスペンとも云います。これもたしか「テニソン」にあったと思います」と「テニソン」専売だ。そのくせ何の詩にあるとも云わない。我輩は面倒臭いという風でウンウン云うのみである。……

「ヘエーあれがポプラーですか、ナールほど」という日本語のかもす「面倒臭い」空気感は、是非とも来年の日めくりカレンダー(トイレ用)に入れたいくらいである。
ヘエーあれがポプラーですか... - みつを - はてなセリフ

そして、この二十六日付けの「消息」は次のように結ばれている。
 魯西亜(ロシア)と日本は争わんとしては争わざらんとしつつある。支那は天子蒙塵(てんしもうじん)の辱(はずかしめ)を受けつつある。英国はトランスヴァールの金剛石を掘り出して軍費の穴を填(う)めんとしつつある。この多事なる世界は日となく夜となく回転しつつ波瀾(はらん)を生じつつある間に我輩のすむ小天地にも小回転と小波瀾があって我下宿の主人公はその尨大(ぼうだい)なる身体を賭(と)してかの小冠者差配と雌雄(しゆう)を決せんとしつつある。しかして我輩は子規の病気を慰めんがためにこの日記をかきつつある。

# 引用元の青空文庫では、「トランスヴァール」の一部に外字が用いられているのを、引用にあたって改めた。

漱石がロンドンにいたのは1900年から1903年、第二次ボーア戦争(1899年から1902年)とほとんど重なっている。「トランスヴァール」はボーア戦争で英国が敵としたボーア人(南アフリカへの白人入植者)の国である。

トランスヴァールの金鉱でしこたま儲けたセシル・ローズが「自分のもの」扱いしたローデシアは、1960年代に「ローデシア共和国」となり、1980年には「ジンバブエ」となった。

ローデシア共和国で白人によるアパルトヘイト政権を強引に樹立したイアン・スミスは、11月に88歳で死去した。

白人の支配から黒人を「解放」したジンバブエのナショナル・ヒーローだったロバート・ムガベは、20年以上の間に「独裁者」としてしか扱われなくなった。つい先日の金曜日、英国のブラウン首相は、ムガベ大統領の出席を理由に、EUとアフリカのサミットをボイコットした。

この多事なる世界。

※この記事は

2007年12月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:40 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日本語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
うちの研究所にも英語をいちいち直してくれるおばあさんのイギリス人の秘書さんがいるので、おもわずそのおばあさんの話を漱石がしているような気分になりました。
私の場合漱石とちがって確かに間違いがおおいので、とてもありがたいです。一方でやっぱり漱石みたいに気分を害する人もいるとか。おばあさん自身がそういっていたので、気分を害されても注意するというのは、義務感なのだろうな、と思います。
Posted by kmiura at 2007年12月11日 08:50
> kmiuraさん
すべてがツボにはまりすぎて言葉で反応しがたいものがあります。すべて、「ヘエーあれがポプラーですか、ナールほど」のせいです。

> おばあさん自身がそういっていたので、気分を害されても注意するというのは、義務感なのだろうな、と思います。

そこまでできる「義務感」がむしろ不思議です。私はアイルランド人にアイルランド訛りを叩き込まれかけ、コックニーにコックニーを叩き込まれかけ、マンキュニアンにマンチェスター弁を叩き込まれかけ、などなどで、君らはなぜそんなに教えたがるのかねとジャパニーズ・イングリッシュで Why do I have to learn that? と涙目で訴えたことは記憶していますが、単にヒマだから (I've got nothing else to do) とか、損にはならない (You'll never lose anything) とか言っていました。

でも文法ミスの指摘は細かくしてもらえるのがありがたかったです。私はなぜか間接疑問文が会話では壊滅的で(書くときは問題ないのですが、会話では I don't know why did he went there. みたいにグダグダになる傾向があった:例はちょっと誇張してありますが)、そういうのは英会話のレッスンでやるより効率的に指摘してもらえました。
Posted by nofrills at 2007年12月12日 08:07

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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