「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2007年11月09日

エニスキレン爆弾事件から20年

1987年11月8日、日曜日。北アイルランドの西部、ファーマナ州最大の都市、エニスキレン。その日は英国の「戦没者追悼の日 (Remembrance Sunday: 第一次・第二次大戦の戦死者を追悼する)」で、エニスキレンでもほかの都市と同じように、街の戦没者慰霊碑のある広場で、追悼式典が執り行われようとしていた。エニスキレンは英陸軍の連隊が拠点としていた街で、その日、広場に集まっていたのは儀式のパレードを見るために出かけてきた一般市民で、その多くはプロテスタントの高齢者(戦中世代の人たち)だった。

午前10時45分、慰霊碑のすぐそばの建物が爆発した。建物の大きな壁が吹き飛び、一帯は瓦礫に覆われた。

爆弾を仕掛けたのはIRA (the Provisional IRA) だった。予告電話はなかった。

瓦礫の下に生き埋めになった人たちを、慰霊碑までパレードしてきていた軍人たちが救出するところが、追悼式典を取材にきた報道陣のカメラによって克明にとらえられている。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/november/8/newsid_2515000/2515113.stm
※Play Videoをクリックで映像が見られます。

BBCの当時の報道によると、ファーマナ州ではIRAの活動(「テロ」)が活発で、この日のパレードの経路は事前に丹念に調べられていた。しかし爆発した建物は調査されておらず、いつの間にか爆発物が仕掛けられていたのが気付かれなかったらしい。タイマーで爆発したこの爆発物は、その場で11人を殺し、60人以上を負傷させた。

アルスター大CAINデータベースのSutton Death Indexより、エニスキレン事件での犠牲者:
Armstrong, Edward (52) エドワード・アームストロングさん。RUC(警察官)で当日は非番。
Armstrong, Wesley (62) ウェズレイ・アームストロングさん。一般市民。
Armstrong, Bertha (53) バーサ・アームストロングさん。一般市民。ウェズレイさんと夫婦。
Gault, Samuel (49) サミュエル・ゴールトさん。一般市民。
Johnston, Kit (70) キット・ジョンストンさん。一般市民。
Johnston, Jessie (66) ジェシー・ジョンストンさん。一般市民。キットさんと夫婦。
Megaw, John (68) ジョン・ミーゴーさん。一般市民。
Mullan, William (72) ウィリアム・ミュランさん。一般市民。
Mullan, Agnes (70) アグネス・ミュランさん。一般市民。ウィリアムさんと夫婦。
Quinton, Georgina (72) ジョージアナ・クィントンさん。一般市民。
Wilson, Marie (20) マリー・ウィルソンさん。一般市民(看護婦)。
Hill, Ronnie (68) ロニー・ヒルさん。一般市民(元エニスキレン高校校長)。当日負傷し、その後昏睡状態のまま、2000年12月28日に死去。

エニスキレンは人口比でいえばカトリックの方が多数だが、英軍の式典に集まるのはプロテスタントであり、殺された人たちは全員がプロテスタントだった。

犠牲となった人々の中で際立って若いマリー・ウィルソンさんは看護婦で、事件当時、お父さんのゴードンさんと一緒に見物に来ていた。瓦礫の中に埋まってまったく動けない状態で、ゴードンさんが娘に「大丈夫か」と声をかけると、「うん」と返事が返ってきて、手をぎゅっと握り返してきた。ゴードンさんは4度「大丈夫か」と声をかけ、そのたびに「うん」という返事が返ってきていたが、5度目に声をかけたときの「パパ、愛している」ということばが、20歳の娘の最後のことばになった。6度目からあとの「大丈夫か」には、返事はなかった。

ゴードンさんは事件後、「(爆弾犯に対して)敵意は抱いていません。口汚く罵ったところで娘が生き返るわけではありません。娘は本当にいい子でした」と語った("I bear no ill will. Dirty sort of talk is not going to bring her back to life. She was a great wee lassie.")。そして犯人を許し、IRAと敵対するプロテスタント側武装勢力(ロイヤリスト)には報復などしないようにしてほしいと述べた。キリスト教(メソジスト)を深く信仰していた彼は、「復讐ではなく、許しと和解を」と訴えた。事件から5年ほど経った1993年、ゴードン・ウィルソンさんはアイルランド共和国のレイノルズ首相から直接、上院議員に任命された。北の人が南の上院議員になることは、そうやたらとあることではない。ゴードンさんはシン・フェインのメンバーと何度も会い、またIRAの代表団とも一度会っているが、結局、エニスキレン爆弾について満足のいく回答は得られなかった。一方でロイヤリストとも何度か会って話をし、暴力を捨てるようにと説得を重ねた。1995年、ゴードン・ウィルソンさんは心臓発作で亡くなった。67歳だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gordon_Wilson_%28peace_campaigner%29

IRAは、エニスキレンの爆弾はパレードの軍人を標的としていたと説明している。ばかばかしい。建物の壁が崩壊したら、壁際にいる見物客が第一に巻き込まれるに決まっている。物理学者でなくてもそのくらいはわかるだろう。IRAのこういう頭の悪さ(視野が狭い)がどれだけの不要な犠牲を強いてきたことか。人の命という形でも、人の心の中のセクタリアニズムという形でも。

実際、このわけのわからない「爆弾テロ」は――一般市民を殺した、しかも戦没者追悼式典に集まった人々を殺した――「IRAはフリーダム・ファイター」だと信じていた人たちさえも呆れさせた。エニスキレン事件によって在米のサポート組織はかなり揺さぶられたそうだ。彼らサポーターの一部は、現在も、Real IRAをサポートしている。(その団体のサイトもあるのだけど、リンクするとセキュリティソフトが反応しちゃうかもしれないのでしません。興味がある方はご自身でお探しください。)

在米のサポートということでは、BonoのFuck the revolution演説に触れないわけにはいかない。

1987年11月8日、ちょうど米国ツアー中だったU2のBonoは、「虐殺が起きた後にIRAは『一緒に戦おう』と呼びかけてくるが、その声は自分を突き動かしはしない」という歌詞を含むSunday Bloody Sundayを演奏する前に、次のように述べた。(このツアーの模様は、1988年のビデオ作品、Rattle and Humに収録されている。)
U2 魂の叫びU2 魂の叫び
U2 B.B.キング フィル・ジョアノー


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

Here we are, the Irish in America. The Irish have been coming to America for years, going back to the Great Famine when the Irish were on the run from starvation and the British government that couldn't care less. Right up to today, you know, there are more Irish immigrants here in America today than ever, some illegal, some legal. A lot of them are just running from high unemployment. Some run from the Troubles in Northern Ireland, from the hatred of the H-Blocks, the torture; others from wild acts of terrorism, like we had today in a town called Enniskillen, where eleven people lie dead, many more injured, on a Sunday Bloody Sunday.

このバンドはアイルランドからアメリカに来ているわけですが、アイルランド人がアメリカに来るようになったのはずっと昔のことで、大飢饉(じゃがいも飢饉)のときには、英国政府は事態を放置で、アイルランド人は飢餓から脱出してきた。それから今日このときまで、アメリカに渡るアイルランド人はますます増える一方で、合法的に渡る人もいれば非合法の人もいる。多くは失業率があまりに高いのでたまらず逃げ出しているが、北アイルランドの「紛争」から、(メイズ刑務所の)Hブロックでの憎悪から、拷問から逃げ出した人も、あるいはひどいテロから逃げ出してきた人もいる――今日、エニスキレンという街でまたひどいテロがあって、11人がその場で亡くなった。怪我をした人はもっと多い……「血の日曜日」に。

ここで曲が始まる。I can't believe the news today. I can't close my eyes to make it go away. How long, how long must we sing this song... そして間奏の部分で、あの有名なFuck the revolution! 演説が入る。
And let me tell you something: I've had enough of Irish Americans who haven't been back to their country in twenty or thirty years come up to me and talk about the resistance, the revolution back home; and the glory of the revolution, and the glory of dying for the revolution - fuck the revolution! They don't talk about the glory of killing for the revolution. What's the glory in taking a man from his bed and gunning him down in front of his wife and his children? Where's the glory in that? Where's the glory in bombing a remembrance day parade of old-age pensioners, their medals taken out and polished up for the day? Where's the glory in that? To leave them dying, or crippled for life, or dead, under the rubble of the revolution that the majority of the people in my country don't want. No more! Sing, No more!
http://en.wikipedia.org/wiki/Remembrance_Day_bombing

少し話をさせてほしい。アイルランド系アメリカ人がよく俺に、故郷の「革命」がどうのこうのという話をふってくる。自分自身は20年も30年もその故郷には帰っていないのに、「レジスタンス」の話をする。「革命のために命を捨てるという栄光」とか――「革命」ね、クソくらえだ。「革命のために人を殺すという栄光」を語ってみろって。寝ている人をたたき起こして、妻子の目の前で撃ち殺す、それのどこに「栄光」がある? 戦没者追悼の式典で、昔もらった勲章を取り出して磨いて集まってきたようなお年寄りを爆弾で攻撃することの、そのどこに「栄光」がある? 何が「栄光」だって? 人々を死なせて、あるいはこの先ずっと身体が不自由になるかもしれない、あるいは死体になって瓦礫の下に――「革命」の瓦礫の下に、アイルランドでは大多数が望んでもいない「革命」の瓦礫だ。もうたくさんだ!

# ただ、実際にアメリカのロマンチックな「革命」サポさんたちが「フリーダム・ファイター」に心底うんざりするには、2001年9月11日までかかったと言うべきなのだが。

エニスキレンでの陰惨な爆弾テロと、犠牲者の父親であり自身も負傷しながら「許し」を訴え続けたゴードン・ウィルソンさんの活動は、the Spirit of Enniskillen Trustという団体の活動を生んだ。彼らは、北アイルランドに限らずいろいろな場所で、子供たちを対象として、「違い」や「対話」、「変化」についての啓蒙活動を行なっている。
http://www.soetrust.co.uk/

ウィルソンさんが病死してから2年後、事件から10年となる1997年11月、シン・フェインのジェリー・アダムズ党首は事件について謝罪した。(このとき既に、PIRAは停戦していた。)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/25480.stm
"I hope there will be no more Enniskillen's and I am deeply sorry about what happened in Enniskillen," Mr Adams told the BBC.

"But I think we can only have a guarantee of a peaceful future when we tackle the root causes of the conflict and when we resolve them," said the leader of Sinn Fein, the political wing of the IRA.

「エニスキレンのようなことはもう二度と起こしてはならないと思います。エニスキレンで起きたことについては私は大変に申し訳なく/遺憾に思います(sorry)。しかし、平和な将来が確実にあると言えるのは、紛争の根本原因に真正面から取り組み、それを解決してからです」

「根本原因」を語る言葉の空虚さ。これが1997年のものであることを割り引いても、これがBBCの書き方であることを割り引いても、アダムズ自身はこのときには完全に「政治的手段」を追求する人になっていたということを考えても、この空虚さは本当に何というかもう、歴史的文書として、単なる「資料」として扱わないと、やってられない。

アイルランドで植民地主義に基づく不正義があったことは事実であるし、じゃがいも飢饉と呼ばれるあれはジェノサイドだっただろう。RUCや英軍は「アイルランド人」だというだけで見境なく拘束したり拷問したりしていたことも事実であるし、行政(NI旧自治政府、英国政府)がロイヤリストとべったりの関係にあったことも事実だ。80年代を通じて英国を牛耳った仕切ったマーガレット某首相のthere's no alternative路線は、事態をよい方向に導くことはなく(「テロリスト」を全滅させることなど不可能なのだ。人は「テロリスト」として生まれるのではなく、「テロリスト」になるのだから。まったく、同じメソジストなのにマギーとゴードン・ウィルソンさんはどうしてこうも違うのだろう)、逆に泥沼化させたというのが事実だ。マギーの前の歴代首相もそうとうひどかった、特にテッド・ヒースはひどかった、それも事実だ。

それでもしかし、その「根本原因」を解決できるものがあるとしたら、それは「革命」というラベルを貼り付けられた爆発物ではない。政治家であるジェリー・アダムズには、そのことは十二分にわかっているだろう。だからこそ今のNIがあるのだろう。第一、今は1997年ではない。1987年でもない。「覆面ガンマン」の時代ではなく、誰もがあっと驚く組み合わせでの「破顔一笑ブラザーズ(the Chuckle Brothers: ←の元ネタ)」の時代だ。UDAの武装解除もなされず、過去の幾多の事件の真相究明もなされなさそうな雰囲気の中で、あのツーショットが「はい、和平です」と言われると正直微妙なのだが。

事件から20年の2007年11月8日、事件現場で行なわれた追悼集会では、メソジスト教会のケネス・ロビンソン牧師が、爆弾犯への「自らの引き起こした苦痛を忘れずにいてもらいたい」とのことばを述べた上で、「爆弾を製造した者、運搬したもの、設置した者、起爆装置をつけた者」のために、祈りが唱えられた。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7084406.stm



エニスキレン爆弾事件は未解決である。爆弾製造者、設置者など実行犯、また計画者たちは、誰一人として、起訴されていない。

20周年当日のBBCレポート:
Enniskillen 20 years on (BBC World News, November 08, 2007):
http://youtube.com/watch?v=a4PQxxtB8YQ



1984年10月のブライトン爆弾事件での、爆弾犯と犠牲者の娘との対話について、事件から20年のときの記事:
http://ch00917.kitaguni.tv/e85611.html
マッギー【=爆弾犯】は自分の為したことを否定しないと公に述べている。しかしベリー【=犠牲者の娘】はこう言う。「私的には,彼は私に謝罪しています。彼の立場は,当時は彼ら〔リパブリカン〕には暴力を行使する以外に選択肢がなかったのだというものです。彼らには政治的に声を上げる方法もなかった。彼は間違っていたとまでは言わないでしょう――私は間違っていたと言いますが。ですから,私たちの間には緊張はありますよ。でも,私たちは,人には選択肢が必要なんだということでは,意見が一致しています。」

「“赦し”という表現にはちょっと抵抗があります。キリスト教的な理想のように感じられるからです。キリスト教的理想というのは,ひとたび赦されれば,それでおしまい,怒りはかき消えて,平安が訪れる,というものです。私は,怒りの気持ちを感じることができることを望んでいます。もし私が赦すと言い,次の日にはあまり赦す気分じゃないとすれば,それは嘘ということになりませんか? ですから私は,(赦すではなく)理解すると言いたいのです。」




兵士を殺すつもりだった(らしい)エニスキレンで、事態に関係のない人たちを殺してしまったことで、IRAは内部的に動揺はしたらしい。その後、NIでのIRAの活動は、市街地のボムではなく、警察や軍への直接的狙撃・襲撃にシフトしている。

だが90年代に入ると、IRAは、今度はイングランドでボム攻撃を展開するようになった。最初は軍や政治家を標的としていたのだが(車に仕掛けて爆殺したり)、91年には交通機関を狙い(ヴィクトリア駅爆弾テロなど)、92年にはシティ地区を狙い(バルティック・エクスチェンジ爆破など)……以下略。そのへんのことは既に少し書いたので
http://en.wikipedia.org/wiki/Chronology_of_Provisional_IRA_Actions

エニスキレンの4ヵ月後の1988年3月、ジブラルタルで非武装のIRAメンバー3人が英国政府の命令を受けたSASに暗殺され(その暗殺作戦の正当化のため、英国政府は嘘に嘘を重ねた)、その3人の葬儀はマイケル・ストーンというロイヤリストに襲撃されて、参列者3人が殺された。ストーンは回想録で「エニスキレンの報復」のつもりでアダムズ、マクギネスを標的として襲撃したと語っている。ストーンの襲撃の3日後には、ストーンに殺された人の葬儀の葬列に不審な車が接近してきたことで参列者がパニック状態になり、男性2人(英軍人だった)が引きずり出され、最終的には射殺された。

ジェリー・アダムズは1984年に、乗っていた車に銃弾20発を撃ちこまれ、重傷を負っている。この暗殺作戦を実行したのはUFF(UDAの実働部隊)のガンマンだった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gerry_Adams

※この記事は

2007年11月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:37 | Comment(1) | TrackBack(1) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
もう信じられない。エニスキレンでRemembrance Sundayの式典でボムスケア。

Alert on 20th anniversary of bomb
Last Updated: Sunday, 11 November 2007, 10:47 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7089363.stm

記事には詳しいことは書かれていないのだけれども、戦没者慰霊碑に爆弾をしかけたという情報があり、警察が一時一帯を封鎖し捜索、結果何も見つからず、封鎖解除で式典は予定通り行なわれる、という次第。

誰かがいたずらで「爆弾を仕掛けた」と電話でもしたに違いないのだけれども。

BBC記事では、地元の議員さん(UUP所属)のコメントが紹介されている。「エニスキレン爆弾テロから20年というときにこういうことができる人がいるとは。何についてであっても、『丸○年』という日はつらいものだが、これはまったく、傷口に塩をかけるような行為だ」。
Posted by nofrills at 2007年11月11日 20:35

この記事へのトラックバック

エニスキレン爆弾事件から25年
Excerpt: 25 years ago today an IRA bomb ripped through my home town and the hearts of those you lost loved on..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2012-11-08 23:49

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼